34.厳冬青森旅行


 しばらくバタバタと忙しい日々が続き、その合間に体調を崩してしまったりして、気分がくさくさしていたもので、少しばかり休みがとれたのを幸い、出かけることにした。
 もっと若い頃は、7日、8日といった旅行にわりと気軽に出かけていたものだが、働き盛りの年代ということなのだろうか、ちっとも稼げている実感がないのにまとまった休みをとるのが難しい。今回も月曜日に仕事があり、金曜日にも仕事があったので、月曜の晩から出かけて木曜中に帰る程度の旅行しかできない。3泊3日ということで予定を組んだ。
 例によって飛行機など乗る気はないし、この日程では北海道や九州まで行って来るというわけにもゆかない。どこへ行こうかと迷っている時に、JR東日本のテレビCMが眼に止まった。鈴木京香が出ているシリーズである。いくつかヴァージョンがあるが、その中に東北の露天風呂に漬かっているフィルムがあって、これはいいなあと思った。雪中の露天風呂は格別である。よし、温泉にしよう。
 せっかく温泉に行くのなら、秘湯と呼ばれるようなところの方が面白い。私が眼をつけたのは、十和田湖に近い青森県温川(ぬるかわ)温泉である。奥羽本線弘前からローカル電車とバスを乗り継いで2時間近くかかる山奥である。インターネットで調べると、なかなかいい感じだ。
 行き方を考えてみたが、どうも予想以上に辺鄙なところらしく、バスは一日に4便あるだけである。私はこれまた例によって、そこだけではなくてあちこち列車を乗り廻したいと思っていたのだが、温川温泉に行くとなると列車の接続がきわめて悪いことがわかった。列車をとるか温泉をとるか。もう少し便の良い温泉に代えようかとも考えたが、やはりお見合いと同じで、最初にピンと来たところがいちばんいい。今回はあまりあちこち動き廻らず、温川温泉を中心に据えることにした。
 あまりあちこち動き廻らないと言っても、多少は廻りたい。だいたい青森県内を中心に動くことになりそうだ。そこで今回は、「青森・十和田周遊きっぷ」をあつらえることにした。
 ワイド周遊券が廃止され、「周遊きっぷ」に変わって以来、私は利用したことがなかった。どうも使い勝手が悪くて仕方がない気がしていた。だが、一県内を行ったり来たりするくらいの行動範囲であればわりと使える。往復の経路をあらかじめ決めてしまわなければならないという窮屈さはあるものの、今回のような短期の旅行ならば、経路上で寄り道することもないから、ちょうどよい。
 自宅の最寄り駅のびゅうプラザで作って貰ったが、やたらと手間がかかって、一時間くらい待たされた。発券機に「青森・十和田周遊きっぷ」が登録されていなかったとか。お粗末な話である。

 ゆき券・ゾーン券・かえり券と3枚組になった周遊きっぷを手に、2月3日(2003年)の節分の夜、私は家を出た。
 大宮から寝台特急「あけぼの」に乗るつもりだった。始発駅の上野から乗った方が旅行気分にひたれるのだが、最寄り駅から上野までの運賃が別にかかるのと、家を出るのが多少遅くても構わないのとで、今回は大宮からということにしていた。
 が、失敗だった。大宮までの京浜東北線電車は、帰宅する通勤客でラッシュ状態だったのである。私としたことがこんなことを失念していたとは。寒い地方に行くべく、防寒態勢を調えてきた私は、混み合う車内で防寒着を脱ぐわけにもゆかず、汗だくになって大宮に到着した。
 大宮駅の東北線プラットフォームも通勤客で混み合っていたが、普通列車が一本行ってしまうとだいぶ落ち着いた。そこへ、古式ゆかしいブルートレイン「あけぼの」が入線してきた。
 「あけぼの」には「ゴロンとシート」というのが連結されている。これは寝台券が要らず、指定席特急券だけで乗ることができる。今回そんなにお金を使いたくなかった私はこの「ゴロンとシート」に乗ることにしていた。
 どういうものかというと、なんのことはない普通の寝台車である。ただ、寝台があるだけで、シーツ、毛布、枕、浴衣などの寝具はまったく用意されていない。そのまんまゴロンと寝ころぶだけだからゴロンとシートという、即物的なネーミングだ。寝台料金のほとんどは寝具のクリーニング代に宛てられるわけなので、こういう条件で指定席料金だけというのは合理的である。
 車内は暖房が入っているから、別に毛布がなくても寒いわけではないし、このタイプの寝台車は今後もっと増やしてもよいのではあるまいか。今後の寝台車の方向性としては、個室化が望ましいが、従来のタイプの開放寝台はすべて「ゴロンとシート」スタイルにしてもよいとさえ思う。
 2月の平日という閑散期で、寝台列車も閑古鳥が啼いているのが多い中で、この「ゴロンとシート」車輌だけはかなり利用率が高かったようである。私も下段はとれず上段になってしまった。安ければ寝台列車を利用するという人はまだまだ居るのだ。
 上段では車窓を眺めるわけにもゆかない。さっさと寝ることにした。

 寝ている間に高崎線・上越線・信越本線・羽越本線を走り抜け、起きてみると秋田県を走っている。寝台から身を乗り出して窓の上隅から眺めると、もちろん一面の銀世界だ。
 6時50分頃の秋田で、車内販売が乗り込んできた。前に上りの「あけぼの」に乗った時、青森から上野まで一度も車販がなかったので閉口し、今回も朝食用のサンドイッチを買ってきていたのだが、車販があるのなら弁当を買えばよかった。
 目指す温川温泉は、上述の通り弘前からローカル電車とバスを乗り継いで行く。このまま「あけぼの」に乗っていれば9時20分には弘前に着くのだが、私は7時50分の東能代で「あけぼの」を下りた。久しぶりに五能線に乗りたかったのと、冬の青森と来れば津軽鉄道ストーブ列車に乗らないわけにはゆかない。ちょうど7時58分という五能線の列車があり、これで五所川原まで行くと、やや待ち時間はあるもののストーブ列車にも乗ることができる。
 車内の暖気が残っていたせいだろう、東能代駅のプラットフォームに下り立ってもそんなに寒い気はしなかった。五能線の列車は反対側に停まっているからすぐ乗り換えられる。
 5輌編成という、五能線にあるまじき長大編成の列車だったので驚いた。その5輌全部が、高校生でいっぱいになっている。発車8分前にのこのこ乗り込んだ私などはとても坐ることができなかった。
 しかし、高校生のほとんど全員が、次の能代で下りてゆく。ここで列車は1輌を切り離して4輌になった。
 そのまた次の向能代(むかいのしろ)で、残った客も大半が下りた。ここで後方の2輌が締め切りとなり、客が乗ることができなくなった。2時間半後に到着する鰺ヶ沢(あじがさわ)まで、車輌回送のためだけに連結してゆくのである。だから実質的には2輌編成になってしまったのであった。五能線にはこの程度がふさわしい。向能代を過ぎ、2輌のディーゼルカーに乗っているのは私を含めて12人だけだった。
 これまで五能線にはいつも夕方に乗っており、朝に乗ったのははじめてだ。そのせいか、胸に迫る寂寥感はやや薄い。岩館を過ぎて青森県に入ると、乗ってくる客もぼちぼち増えてきたし、それ以上に「あきた白神」「白神岳登山口」さらに「ウェスパ椿山」と、妙に観光指向の新駅が増えたせいでもあろう(白神岳登山口は旧「陸奥黒崎」駅の改称だが)。カタカナの駅名などまったくもって五能線らしくないと思うのは私の偏見だろうか。
 まあ休日快速「リゾートしらかみ」の運転共々、これらの駅が五能線活性化に役立っているのならば何よりではあるが、なんだか茅葺きの民宿だと思って来たのがコンクリートのリゾートホテルに改築されていたみたいな気分ではある。

 3時間半ほどディーゼルカーに揺られ、11時23分、五所川原に到着。ストーブ列車は12時10分発だ。津軽鉄道に乗るだけならその前の11時30分というちょうどよいのがあるのだが、やはりストーブ列車に乗りたい。
 道路が凍結して滑るのに気を取られながら、漫然と街の中を歩き廻った。閉まっている店が多く、なんとなく活気がない。シーズンオフの地方都市を訪ねるとよくこういう寂れた雰囲気に出逢う。
 そのうち時間が経ったので津軽鉄道の駅舎へ。とは言っても改札を通るとJRのプラットフォームに出る。跨線橋を渡って、構内の片隅にある津軽鉄道のプラットフォームへ。おんなじ構内にあるのに、こちらの駅名は「津軽五所川原」となっている。この「津軽」は地域名ではなくて、「西武新宿」の「西武」のような社名だろう。五所川原などという地名が他にあるとは思えず、地域名を冠することで差別化を図る必要はないはずであり、差別化を図るとすればJR相手だけだろうから。
 ディーゼル機関車DD352に牽引された客車は2輌。ただし前方の1輌は団体用とかで、一般客は乗せてくれない。乗った客車は年代物のオハフ331、木の壁、木の床、木の椅子枠がレトロである。飴色になったニスもいい感じだ。2箇所の椅子が撤去されて、そこに1基ずつダルマストーブが据えられている。終点津軽中里まで45分ほどの間に、車掌が2回ばかり石炭を補給に来る。
 真っ昼間の列車なのに高校生でいっぱいだった。しかも途中で下りるどころか、2つ目の五農高前ではさらに乗ってきて、しかも大半が終点まで乗りっ放しだったから、どうも落ち着かない。ストーブに背を向けて坐らざるを得なかったし。
 うしろの方からスルメを焼く匂いが漂ってきた。誰かストーブで焼いているらしい。
 津軽中里に着いて、すぐそのまま折り返す。この先の津軽半島最奥部に、いつも行ってみたいと思うのだがバスの便が甚だ悪い。十三湖、それに中世交易で栄えた十三湊(とさみなと)遺跡など、見てみたいスポットもいくつもある。そのうち雪のない季節にレンタカーでも借りて行ってみるしかないか。
 帰りはのびのびとストーブの側に陣取った。同じようにとんぼ返りの夫婦者が居て、そのダンナの方がストーブでスルメを焼き出した。往路で焼いていたのもこのおっさんらしい。思わず唾が出る。

 ストーブ列車を満喫して五所川原に戻り、また時間があるのでバスターミナルのスタンドで昼食を食べる。「たちねぶたそば」というのがあったから注文したら、山菜とトロロと天ぷらと卵が入っていた。用意してある具を全部ぶち込んだものらしい。「たちねぶた」というのは五所川原に伝わるねぶた祭りで、大正時代に廃れていたのを最近になって復活させたそうだ。
 それでも時間があるので、また街へ出て喫茶店でコーヒーを飲む。
 14時45分、私が乗ったのは五能線の列車ではなく、弘前行きのバスであった。五能線で先へ行こうとすると16時11分まで待たなければならず、これを待っていると温川温泉にたどり着けない可能性があったのだった。
 周遊きっぷは、ゆき券及びかえり券が周遊ゾーンに接していなければならず、そのための出入口の駅が決まっている。「青森・十和田周遊きっぷ」の場合、北海道側から入る時の中小国、東北線側からの盛岡、奥羽線側からの大館、五能線側からの川部がそれに当たる。私はもちろん川部を入口駅にしたのだったが、実際には川部を経由せず、五所川原から直接弘前へ向かったのである。
 バスの終点である弘前バスターミナルへは、なぜか時刻表に記してある時刻よりも20分近く早く着いた。弘前からは弘南鉄道黒石へ向かうのだが、この電車は30分に1本である。予定より1本早い電車に乗れるかもしれないと期待した。
 ところが、弘前という街は交通体系が分散しており、JR及び弘南鉄道弘南線の弘前駅、弘前バスターミナル、弘南鉄道大鰐線の中央弘前駅がそれぞれだいぶ離れている。バスターミナルから弘前駅は直線距離ではそれほどないのだが、駅前ロータリーを迂回しなければならなかったりして、移動には10分近くかかった。わずかな差で電車は出てしまい、なんにもないプラットフォームで30分近く待たなければならなくなった。

 弘南線の終点黒石には、かつて国鉄黒石線が通じていた。五能線と奥羽本線の合流点である川部から分岐するローカル支線である。運転本数も少なく不便だったので、ご多聞に漏れず赤字ローカル線として廃止対象となった。
 幸い地元民鉄の弘南鉄道が引き受けることになり、線路としては存続することになったのだったが、それも束の間、弘南鉄道の経営を圧迫したので、1998年にとうとう廃止されてしまった。
 短い路線ではあり、いくら客が少なくてもそんなに経営を圧迫するほどの破壊力があったのかと不思議な気もするが、考えてみれば黒石線は非電化だったので、弘南線や大鰐線と共通の電車を使うわけにもゆかず、わざわざディーゼルカーを購入整備しなければならなかったわけだ。最初に国鉄から譲り受けたディーゼルカー(むろん中古)が更新時期に来て、わざわざ新しい車輌を買い替える資金を投入する価値があるかどうかということになると、どう考えても否定的な結論しか出なかったのだろう。
 川部から黒石まではバス転換されたが、バスの本数も非常に少ない。これが頻繁運転されていれば、五所川原で五能線を待ってもよかったのだろうが、それも無理だった。黒石へ行くには、事実上弘前から弘南線の電車に乗るしか手段がなくなったのである。
 黒石駅には二面のプラットフォームが並んでおり、片方が弘南線、もう片方が黒石線用であった。廃止以前に一度乗りに来たことがあって、両方のプラットフォームとお馴染みであったが、今は使われなくなった黒石線用のプラットフォームに、むなしく雪が降り積もっていた。

 黒石のバスターミナルで、温川までの切符を買おうとしたら、
「明日ここに戻って来なさるのかね」
と訊かれた。
「そのつもりですが」
と答えると、往復乗車券を薦められた。片道1290円のところ、往復だと1930円で、相当な割引率である。復路が半額になっている計算だ。もちろんそれを求めた。
 ところでバスの終点である「ぬる川」までは1320円と時刻表には記されている。1290円というのはその手前の「温川山荘前」までの料金であるらしい。私が泊まるのはまさにその「温川山荘」なのだからそれでいいものの、窓口のおじさんがなんの確認もなしに「黒石駅から1290円」の往復切符を寄越したのが気になった。
 黒石駅発17時45分、もう陽は落ちて暗い。どういうところを通っているのかさっぱりわからなかったが、黒石の街中で、建物ごとに雪だるまが飾ってあるのがほほえましかった。やがて市街を抜けると、もう真っ暗である。
 バスは最初のうちけっこう客が乗っていたが、次々と下りてゆき、道程の3分の1も来ていないと思われる頃にはもう私を含めてふたりしか乗っていなかった。
 その頃になって、運転手が、私にどこまで行くのかという意味のことを(津軽弁なので)訊いてきた。私が温川までと答えると、もうひとこと何やら言ったが、これが全然聴き取れない。何度か問い返したがさっぱりである。後から考えると、
「それじゃあもう(案内)テープは切るから」
というようなことを言っていたようである。いくら津軽弁でも、これほどわからないものかと感心した。
 バスは国道102号線、いわゆる十和田道を走る。浅瀬石川に沿って十和田湖へ向かう道だが、沿線には多くの温泉が数珠のように連なっている。温湯(ぬるゆ)、板留(いたどめ)、落合青荷(あおに)、虹の湖(にじのこ)、昭和平(しょうわだい)などなど、その都度ちょっとした温泉街があったりするのだが、そのいちばん奥が温川なのである。
 ただひとりの相客も、小国(おぐに)で下り、あとは貸し切り状態だった。前照灯に照らされた路面しか見えないような山道をさらに蜿蜒と辿って、黒石から約1時間、温川山荘前に到着。バスはそのまま空気を乗せて先へ消えて行った。温川山荘は一軒宿のようであり、この先に何があるのだろうかと思った。十和田道そのものはこの先、十和田湖へ通じているが、冬季は滝ノ沢峠が通れず通行止めになっている。温川が正真正銘のどん詰まりなのだ。
 浅瀬石川はこのあたりではすでに温川沢と名を変えた細流になっている。その細流に吊り橋がかかっており、それを渡ると温川山荘の玄関が見える。風心橋と名付けられたこの吊り橋はけっこう揺れてこわかったりする。
 19時近くの到着とあって、部屋に案内されるとすでに布団の用意もされていた。石油ストーブが赤々と燃えている。片隅にガムテープが置かれていたから不思議に思って見ると、
 「カメムシが異常発生してご迷惑をおかけしております カメムシ駆除用のガムテープです」と紙に書かれていた。カメムシは悪臭を放つので異常発生しては確かに大迷惑だろうが、この冬のさなかに出現することもあるまいから問題はない。
 露天風呂もあるが、まずは内湯で疲れをほぐす。露天へは充分温まってから行かないと風邪をひくし。多少硫黄臭があるが澄明なたっぷりとしたお湯だった。
 風呂から上がると夕食の準備ができていた。キノコや山菜が主体で、あらずもがなのマグロの刺身などついていないのが嬉しい。酢の物も姫タケノコ、天ぷらも山菜ばかりだ。私はキノコも山菜も大好きなのでありがたい。
 特記すべきはニジマスの刺身で、川魚の刺身とは思えないほど癖がなくて美味だった。それにしてもニジマスが刺身にするとこんなにきれいなオレンジ色になるとは知らなかった。
 「今日は、他のお客さんは?」
給仕に来てくれたおかみさんに訊ねると、年配の夫婦者がひと組だけだとか。
 「冬の平日ったら大体そんなもんですねえ」
 食後、露天風呂へゆく。玄関の脇から、雪の積もった階段を下りてゆくと脱衣所があった。脱衣所は男女別だが風呂は混浴である。混浴はそれで良くても、脱衣とか着衣とかの行為は男女別にしたいという気持ち、わかるようなわからないような。
 今日一日、雪は降ったり止んだりしていたが、露天風呂に漬かって空を見ると、さえざえとした星がきらめいている。来て良かったと思う。
 昼間雪が降ることもあったせいか、湯温はいささかぬるかったが、しばらく漬かっていればだんだんからだの内側からポカポカしてきた。ちなみに、ぬる川という名だが、湧いている温泉は決してぬるくはない。「ぬるい」川ではなく本来「温(ぬく)い」川なのだろうと思う。

 火の用心のため石油ストーブを消して寝たら、明け方寒くて眼が醒めた。すぐにストーブを点け直し、また内湯に漬かりに行く。明るいところで見ると、露天風呂は道路からは目隠しされているが、部屋からは丸見えであることに気がついた。
 朝食後、もう一度露天に漬かろうと思って玄関に行ったら、そこにいたおじさんが
「あれ、言わなかったか。露天は掃除するんでもう湯ゥ抜いちまったべよ」
それは残念、私は内湯にさらにもう一度漬かった。
 バスは9時10分の発車である。8時45分頃にチェックアウトした。精算してくれた娘さんが
「バス来るまで、どうぞそこで休んでてください」
と言ってくれたが、
「ちょっとそこらを歩いてみたいんで」
と断って宿を出た。バスの終点まで行ってみたかったのである。たぶんそんなに遠くではあるまい。
 予想通り、5分ほど雪道を登ってゆくと、バスの転回所があった。ここが終点「ぬる川」である。時刻表にも、バスターミナルの路線図にも、「ぬる川」と仮名混じりで表記してあったが、バス停には「温川」となっていた。
 インターネットで調べた時、温川温泉にはもう一軒「ぬる川」という民宿があるということだった。バス終点の近くに、どうやらそれらしい建物が見えた。「ぬる川」の表記はこの民宿に合わせたのかもしれない。やはり橋を渡って向こう岸だが、その橋には雪が積もって、除雪された形跡すらない。おそらく冬季休業の民宿なのだろう。バスターミナルの窓口のおじさんが、こちらに訊きもせずに温川山荘前までの切符を寄越したのも当然だったのだ。終点まで来たところで、何もないのである。
 バスは転回所にすでに所在なげに停まっていたから、そのまま乗ってしまっても良かったのだが、30円余計にとられるのもばかばかしいので、山荘前のバス停に戻った。空は青く晴れ上がり、目の前の山の斜面いっぱいに連なった樹氷が、朝の光を浴びて神々しいほどに美しい。

 こんな道をやってきたのかと思いながら黒石まで引き返す。出発した時はあんなに晴れていたのに、黒石に着く頃には重苦しい雪雲から眼前がちらつくほどの雪が降りしきっていた。
 再び弘南電車に乗って弘前へ。ここでも私としたことが30分もの待ち時間を組まざるを得なかったのだが、温川からのバスが他にない以上仕方がない。それ以上に、奥羽本線ともあろう路線がこれほど列車本数が少ないというのが盲点だった。弘前から大館方面へ向かう列車は、朝7時56分の快速が出てしまうと次は10時28分の特急、その次が11時20分の鈍行で、温川から出てくると、どう乗り継いでもこの鈍行より早い列車に乗ることはできない。
 この列車は、史上最低の寒冷地用電車として悪評サクサクな700系であった。ドアがひとつ少ない3ドアである以外、ほとんど山手線と同じようなロングシート車輌で、これが大量投入されてからというもの鈍行旅行はすこぶる旅情を失った。さすがにJR東日本もあまりの悪評に驚いたか、最近では一部をボックスシートに改装したりしているが、まだそれも少数である。
 今回は弘前──大館という短区間だからいいようなものの、昔の客車列車時代のように青森──秋田を鈍行で旅するなどという気にはとてもなれない。
 それはともかく、この列車の運転士は研修中だったようで、
 「次は××× 無人 無人ヨシ」
「制限60」
「第四閉塞 進行」
「上り本線 場内 進行 ××× 停車 無人」
「ホーム左 ドア開き」
「1分半 延」
などといちいち大声で確認している。指導員というかお目付役が3人もついていた。
 ある駅で彼が
「乗降ヨシ」
と言うと、指導員のひとりが
「待て」
と声を掛けた。その駅で乗った客が、まだ整理券をとっていなかったのである。最近のローカル線はワンマン運転が普通になり、運転士はかつて車掌がやっていた作業も一緒にやらなければならなくなったから大変だ。

 大館には3分延(遅れ)。
 フリーゾーンに入っている花輪線に乗るために大館に来たが、ここではさらに不細工な1時間50分ほどの待ち合わせである。花輪線の運転本数が少ないんだから仕方がない。大館発10時59分の快速「八幡平」のあとは13時49分まで一本もないのである。ちょうど昼食時だし、まあよしとしよう。
 かつて大館からは同和鉱業なる会社の経営する私鉄線が出ていた。この会社は2本の路線を持っていて、1本は大館から小坂までの小坂線、もう1本はなんと岡山県にあった片上線で、もっとも離れたところに路線を持つ私鉄として有名だった。
 片上線が先に廃止され、小坂線はそのうち小坂製錬の経営となった。しかしその小坂線もしばらく前に旅客営業をやめてしまった。ただし貨物鉄道としてはまだ健在である。もともと貨物が主体で、旅客を乗せるのは片手間というところのある鉄道だった。
 旅客時代の大館駅の駅舎を、今でもそのまま使っているという話を聞いていたので、見に行った。一度だけ乗ったことがあるが、確かJR駅からは少し離れていた記憶がある。
 少し歩くと、それらしい線路と踏切があった。おぼろげな記憶によると、踏切を渡るとすぐ駅舎があったような気がするのだが、見当たらない。線路に沿う形の道をしばらく歩いてみたが、どうも駅舎らしいものはないようである。諦めて引き返し、また踏切の所に来てよく見ると、広い駐車場を持った小さな事務所風の建物の門の所に「小坂製錬 大館駅」と書かれたプレートが呈示してあった。なんのことはない、古い駅舎は取り壊されていたのだった。「今でもそのまま……」という「今でも」は、5年ほど前の記事だったような気もする。
 拍子抜けで大館駅前に戻り、「花善」で鶏めしを食べる。大館は比内鶏の産地で、比内鶏を使った花善の弁当は全国の駅弁の中でも常にトップクラスに数えられている。その本店が食堂になっている。なるほど美味であった。

 花輪線の列車は昔懐かしキハ58、いわゆる「ディーゼル急行車」である。最近は旧型車輌でも塗色を改めたりすることが多くなったが、この列車は昔ながらの朱色とベージュのツートンのままで、なんだか旧友にばったり遇ったような嬉しさを覚えた。ただし中の壁の化粧板やシートの布は洒落たデザインのものになっていたが。
 大館で待っていた間は陽射しが熱いほどの晴天だったのに、走り出すとたちまち雪が舞い出した。しかし雪雲が切れたかと思うと青空が拡がり、実にめまぐるしく天気が変化する。
 花輪線は十和田湖の南麓側を通り、八幡平の登り口やスキー場の安比(あっぴ)を控えた路線だが、車窓自体はわりと平凡だ。峻険な渓谷や厳然たる山容が見られるわけでもなく、なんとなく県境を越えて岩手県へ入る。
 好摩(こうま)で東北本線と合流……したのは去年(2002年)暮れまで。東北新幹線八戸延長により、盛岡──八戸間の在来線は第三セクター鉄道となった。民間企業JRとしては、新幹線と在来線の両方の面倒など見られないというわけで、今後新幹線が新規開業したら在来線は手放すということにしている。すでに信越本線のの横川──篠ノ井間が長野新幹線の開業と共に手放され、うち軽井沢──篠ノ井間を第三セクターしなの鉄道が引き受けている。今度の東北新幹線延長にあたっても同じように在来線を放棄することにしたのだった。
 ところが長野新幹線の時と異なり、今度は放棄される区間が岩手県と青森県の両県にまたがるため、交渉が難航した。両県が出資してひとつの企業体を作るというのがいちばんよいのだが、結局出資額などで折り合わず、岩手県側はIGRいわて銀河鉄道、青森県側は青い森鉄道という別々の会社になってしまった。東北本線そのものが分断されるばかりか、その分断された途中がさらに分断されているのだからややこしい。
 好摩はこの放棄された区間に位置している。花輪線は全列車が盛岡発着なので、JR花輪線の列車がIGRに乗り入れるという妙なことになってしまった。
 この花輪線の問題があるためだろう、「青森・十和田周遊きっぷ」はIGRの盛岡──二戸間がフリーゾーンに含まれている。好摩から、盛岡もしくは二戸に出て、そこからは新幹線を使いなさいということらしい。
 私は新生第三セクターの様子を見たかったので、好摩で乗り換え、八戸まで行ってみることにした。二戸──八戸間は別料金となるがやむを得まい。本当は盛岡まで行って始発駅から乗りたかったが、好摩で乗り換えるとちょうど1日4往復しかない快速電車を捕捉できたのである。

 やってきた快速電車は青い森鉄道の所属だった。2社に分断されたとはいえ、運転は短距離の区間運転を除きすべて通しでおこなわれ、両社の境界点である目時(めとき)で乗り換える必要はない。だいたい目時など県境の辺鄙な駅であって、快速電車は停車すらしないのである。運賃と運行距離を見比べつつ、両社の所属車輌が相互に乗り入れて運行することになっている。車輌とて、ペイントされたロゴが異なるだけで、どちらももとはJR701系あたりの電車だ。ロングシートのままの車輌もあれば、片側をボックスシートに改造したものもある。
 快速電車はおそろしく速い。これがもっと頻繁運転したら、新幹線より便利なのではないかと思われるほどである。考えてみれば、東北新幹線開通以前の在来線最速列車と言えば、上野──青森間の特急「はつかり」だった。または仙台──青森間の急行「くりこま」はたいていの特急よりも速い最速急行だった。当時は上野──盛岡間の「やまびこ」(在来線)、上野──仙台間の「ひばり」なども走っていたことを考えると、「はつかり」や「くりこま」が最速であるべきスピードを稼いでいたのは、まさに盛岡以北、この快速電車が走っているあたりだったわけで、もともとスピードを出せる設備になっていたのである。
 好摩で乗った時はかなり客が乗っていたのに、二戸でがら空きになった。その先で県境を越え、三戸ではまた客が乗ってきた。どうも県境を越える移動需要というのはあんまりないものらしい。八戸付近はもともと南部領で、津軽領だった青森市や弘前附近よりも、むしろ岩手県側との結びつきが強いと言われているにもかかわらずこの有様だ。
 好摩から八戸までの1時間ちょっとの間、貨物列車と3回もすれ違った。この貨物列車がまたIGRと青い森鉄道に困難を惹き起こしている。
 貨物列車は言うまでもなくJR貨物が運行している。JR貨物はごく僅かな貨物専用線以外、ほとんど日本中すべて第二種鉄道業者、つまり線路や駅を所有せずに列車のみ所有して運行している業者として運営されている。第二種鉄道業者は、当然ながら線路や駅の所有者に対し、その使用料を払う。
 ところがJR同士だった場合、使用料がほとんどただ同然と言ってよいほどに安いのであった。
 東北本線は旅客にとっても重要な路線だったが、それ以上に貨物にとっての大動脈で、貨物運輸がトラックに押されている昨今でもなお相当な扱い量があった。JR貨物は、JR東日本からただ同然の使用料でこの大動脈を使わせて貰っていたわけである。
 ところがこれが第三セクターになった。こうなると、最大の受益者であるJR貨物から、今までのような安い使用料しか払って貰えないのでは、IGRも青い森鉄道もとてもやってゆけない。当然使用料値上げの話が出た。
 しかし、JR貨物にとってみれば、自分はまるで関知しない理由で路線がJRの手を離れ、勝手に使用料を値上げされてはこれまたたまったものではない。使用料が上がれば貨物の運賃も上げざるを得ず、いよいよトラックに顧客を奪われるだろう。JR貨物は使用料据え置きを強硬に主張した。
 意外な伏兵に、関係者一同愕然とし、喧々囂々の議論となった。IGRや青い森鉄道は、経費節減のため電化の廃止や単線化すら検討していたのに、貨物を考えるとそういうわけにもゆかない。結局どういう具合に決着したのか私はよく知らないのだが、ともかく貨物列車にとってこの路線が重要なのは、運転の頻繁さからもよくわかった。

 八戸着、17時40分。
 新幹線の終着駅となった八戸駅は大いに変貌していた。もともとこの駅は尻内という名前で、八戸市の中心部からはだいぶ離れ、地形の関係で分岐駅になっているに過ぎない立地だったのだが、今や堂々たるもので新しい中心を形成している。新幹線駅の誕生で駅周辺もさらに発展することだろう。
 新幹線延長で、それに接続する特急体系も大いに変化した。盛岡──青森・函館間特急「はつかり」は廃止され、新たに「白鳥」「スーパー白鳥」「つがる」が登場した。「白鳥」は長らく大阪──青森間の昼行最長特急として親しまれていたが、最近になって廃止されたものの、この列車名を惜しむ人も多く、短距離ながら八戸──函館間特急として復活した。「スーパー」がついた方は車輌が違うだけであって、停車駅その他にさしたる差はない。
 「つがる」はこれも廃止された最長急行「津軽」を復活させた感じだが、八戸──青森──弘前という面白い運転区間を設置された。ずっと昔は「上野発青森経由弘前行き」なんて急行が走っていたこともあるのだが、それ以来ずっと、青森県の交通体系は東北線側と奥羽線側、さらに言えば南部側と津軽側に分断されていたと言ってよい。新しい特急「つがる」は、その両地方を貫通するルートで、何か新しい人の動きを産み出しそうな気もする。
 その「つがる19号」に乗って野辺地へ。白とオレンジ色を主体にした斬新なデザインの車輌である。
 野辺地で下りたのは、大湊線に乗るためだ。マサカリの形の下北半島の柄の部分を突っ走る路線である。突っ走ると書いたのは、ローカル線にしては驚くほどスピード感があるからで、実際快速「しもきた」のうちいちばん速いものは表定速度70キロを超える。非電化単線でこれだけ速いのは珍しい。
 沿線の荒涼とした海岸線の風景も「さいはて」を思わせて旅情深い。この寂寥感は、北海道でもかなり奥へ行かないとなかなか味わえないほどである。
 もっとも、もうとっぷりと陽は暮れて、車窓などまるきり見えないし、1輌だけの車内はずいぶん混み合っていて、あんまりローカル線らしくない。スピードが速いがゆえに、並行するバス路線やマイカーよりも大湊線を利用する人が多いのである。ローカル線でも速く走りさえすれば充分クルマに対抗できる見本のような路線なのだ。
 夜になってからこんな線に乗ったのは、今夜は下北で泊まらなければならないからである。そしてそれは翌朝、マサカリの刃の下の端である脇野沢から船で青森に戻り、帰途につくためであった。脇野沢までのバスはJRバスで、フリーゾーンに含まれていたから、ぜひ乗ってみたかったのである。

 終点の大湊にはJR直営のホテル「フォルクローロ大湊」ができたから、そこに泊まりたかったのだが、あいにく(どういうわけか)満室で、ひとつ手前の下北駅近くのホテルしか予約できなかった。
 本州最北端の市・むつ市の中心に近いのはむしろ下北の方であり、さらに言えばすでに廃止された下北交通大畑線、かつての国鉄大畑線田名部(たなぶ)がいちばん中心に近かった。大畑線は下北から分岐し、下北半島北辺の大畑まで通じていたが、これまた国鉄改革にあたって廃止が決まったところ、地元のバス会社下北交通が引き受けたというあたり、黒石線と似た運命を持っている。下北交通もずいぶん頑張ったのだが、やはりおそらく車輌の更新時期が来てしまい、新規に購入するよりは廃止を選んだものと思われる。
 下北駅に下り立つと、大畑線に乗った時のことを思い出した。この駅は一面だけの島式プラットフォームを持っているが、列車の上下交換はできず、片面は大湊線、片面は大畑線が使用していた。今は大畑線側は使われなくなり、黒石駅の黒石線側のように、やはり雪が積もりっ放しになっている。
 一挙に廃止しないで、例えば田名部までの2駅間くらい残してもよかったのではあるまいか。恐山尻屋崎大間崎など下北半島各地へ行くための拠点であるむつバスターミナルは田名部駅近くにあり、今は大湊からも下北からも不便になってしまった。鉄道と連携を持った方が、下北交通にとっても良いことだと思うのだが。
 脇野沢まで行くJRバスはこれまた田名部始発で、なおいけないことに下北駅前を通らない。ただ「下北駅通」というバス停があるようだったから、ホテルに一旦落ち着き、食堂で遅い夕食を食べてから、偵察に出かけた。何しろ通過時刻が7時02分という早い時刻なので、うろうろしていると乗り損ねてしまう。
 5分ばかり歩いたところにバス停を発見して安心した。チェックアウトの手間などを考慮して、6時20分に目覚ましをかける。普段の私なら真夜中と言ってよい時刻だが、旅先ではなぜか早起きしてしまう。

 翌朝は大降りだった。ところが空の向こうをすかして見ると青空が出ているようでもある。雪雲というのはよくわからない。
 ホテルを少し早く出過ぎて、バス停で15分ばかりも待つはめになった。雪が激しく降りしきる中に立っていると、さすがにだんだん寒くなってきた。風がないのがまだしも救いである。
 バスは幸い時刻通りにやってきた。冬ダイヤらしいが、あちこちの停留所で時間調整をしている。積雪を見込んでのことか、えらく所要時間に余裕を持たせているようだ。
 立ち客もいるほどだったが、大湊の市街を抜けるとやはりどんどん下りてゆく。中学校や小学校があるとごそっと減る。宇曽利川を渡る前、「飛行場前」で私ひとりになった。
 バスはおおむね陸奥湾沿いの海岸を走る。時々集落があり、その周辺では乗客もあるが、ほどなく下りてゆきまた私ひとりになる、ということを繰り返した。それにしても下北半島がこれほど奥深い半島だったとは意外である。
 バスの終点は脇野沢であり、船が出るのも脇野沢となっていたから、当然終点まで行けば船着き場が近くにあるものだと思っていた。ところが、集落に入る手前に、「フェリー前」という停留所が案内されたからぎょっとした。あわてて運転手に、
 「あの、青森に行く船はここから出てるんですか」
と訊ねると、そうだとの答え。
 「じゃあここで下ります」
 時刻は8時25分。船は8時30分発である。バスの終点まで行っていたらえらいことになるところだった。この便を逃すと午後まで船はない。
 バス停の位置も、乗船券売り場から無意味に離れているようだった。雪を蹴立てながら乗船券売り場に駆け込み、
 「青森まで、ひとり」
と叫ぶと、窓口のお姉ちゃんは乗船名簿を書けと言う。やきもきしながら書いたが、まあ考えてみれば、切符売り場のお姉ちゃんが認めた以上、私が乗るまでは船は出ないだろう。実際にもそんなに時間をとったわけではなく、貰った乗船券を片手に小さな船に駆け込むと、船内のテレビがちょうど8時半の表示になったところだった。当然、私が乗り込むとすぐに動き出した。
 フェリーではなく、いわゆる高速船のたぐいで、しかも前部座席は閉鎖されていた。こんな船が出るだけなら「フェリー前」というバス停はおかしなことになるが、津軽半島側の蟹田まで冬季休業のカーフェリーが出ているのだった。
 所要時間は50分ほど。陸奥湾を突っ切って青森へ向かう。湾内のわりにけっこう波が高かった。乗客は6人で、これで元が取れるのかと心配になる。
 八甲田丸に対面するように桟橋に到着した。青函連絡船として活躍した八甲田丸は、今は青森港内に永久停泊され、船舶博物館のようになっている。「八甲田丸」というバス停もあるし、地図には「青い海公園 八甲田丸地区」と書かれているし、もうほとんど地名になってしまっている。私は青函連絡船にはずいぶんお世話になったから、こうして老後を送っている八甲田丸を見ると感慨深い。

 青森駅まではすぐである。特急「つがる12号」がすぐ出発となる。八戸からは「はやて12号」。「つがる」「白鳥」の番号は不揃いでわかりづらいのだが、実は接続する「はやて」の番号に揃えてある。12号なら12号同士、19号なら19号同士で接続するわけだ。
 盛岡までは周遊きっぷのフリーゾーンに含まれている。「はやて」は全席指定なのだが、周遊きっぷによる利用の場合は、空いている座席に坐ってよいことになっていた。だから座席指定は盛岡からとっていた。盛岡から指定された席に坐っていようと思ったら、塞がっていた。他の空いている席に坐ったが、その座席の指定を持っている人が乗ってきたらあけなければならない。停車駅ごとに気を遣う。
 意外にも、盛岡でだいぶ下り、乗ってくる方が少なかった。盛岡からわざわざ「はやて」を選んで乗る人も多くないのだろう。盛岡──八戸間の短距離利用が多いというのは、ある意味先行き明るい気もする。
 盛岡からは仙台・大宮・上野しか停まらない。「やまびこ」併走区間は思い切って停車駅を絞ったのである。見る見る車窓から雪景色が消える。
 13時42分には、旅の出発点だった大宮へ戻ってきていた。つい今朝方まで下北半島の先端あたりをうろうろしていたのが嘘のようである。まったく新幹線は速い。そして青森が「はやて」によってこんなに近くなったとは驚きであった。
 もう少しのんびりしてきたい気持ちもあったが、未練が残るくらいがちょうどよいのかもしれない。またそのうち、旅に出よう。

(2003.2.7.)


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