呼び名と歴史記述

 少し前に「聖徳太子の復活」という文章を書きましたが、聖徳太子の名前は教科書から抹消されないことに、いちおう正式に決まった模様で、まず良かったと思います。しかし油断はできないのであって、いつまた同じような議が湧き上がってくるかわかったものではありません。
 聖徳太子の名に代えて掲載されるはずだった「厩戸王」という名前(カッコ付きでは併記されるようですが)も、実は少々議論のあるところだと言います。彼は用明天皇の実子ですから、もし厩戸の名前を用いるにしても、厩戸皇子と書くべきだというわけです。
 「王」というのは日本の皇室では、天皇からわりと系譜的に遠い皇族に与えられる称号で、有名なところでは例えば長屋王などが居ます。この人は天武天皇の孫にあたります。父は高市皇子で、天武の長子でしたが、母親の身分がそう高くなかったため、皇太子には建てられず、しかしなかなか有能であったために太政大臣の地位に就きました。このように、天皇の子(親王、内親王)のうち皇太子にならなかった者の子を呼ぶ称号が王または女王なのでした。従って、王・女王という称号は、当然、親王(皇子)・内親王(皇女)より下位ということになります。そういえば長屋王の旧宅から出土した木簡に、「長屋親王」と書いてあるものがあって、当時はただの王ではなく、親王級の扱いだったのではないかと話題になったこともありました。
 厩戸皇子と呼ばずに厩戸王と呼ぶのは、聖徳太子の地位をさらに落とそうとする意図によるものに違いない、とネット上で疑いが表明されていたのを見ました。
 まあ、皇族の称号がはっきり定まったのはたぶん天武朝か持統朝以後のことで、飛鳥時代にはまだそれほど明確ではなかったとも考えられます。実際、推古天皇の諱(いみな)も額田部女王であって、額田部皇女と書かれることは滅多にありません。推古天皇は敏達天皇の娘ですから、のちの世であれば皇女もしくは内親王と書かれるのが正しいはずですが。
 まあたぶん、「みこ」「ひめみこ」という和語にどういう漢字を宛てるかという問題なのであろうと思います。天皇が文字どおり「てんのう」と読まれるようになった頃に、「皇子」は「おうじ」、「王」は「おう」と読まれることが決まったのでしょう。天皇が「すめらみこと」であった頃は、のちに言う「皇子」も「王」も共に「みこ」であったと思われます。
 そうであってみれば「うまやどのみこ」を厩戸王と書くか厩戸皇子と書くかは、どちらでもお好きなように、しかし古来書かれてきた字を尊重すべきであろう、というところが妥当でしょう。もっとも、教科書には「うまやどのおう」とふりがなが振られているのかもしれず、だとするとちょっと悪意を感じぬでもありません。
 それはともあれ、一部の歴史学者が聖徳太子という名称を外したがっていたのは、やっぱり「生前そう呼ばれていなかったから」という理由が大きかったようです。前にも書いたとおり、それは教科書から名称を抹消する理由としてはこじつけに近いと思います。
 この理窟が通るなら、推古天皇も推古天皇と書いてはいけないことになってしまいます。では額田部女王と書けば良いのかというと、これまた生前「ヌカタベさま」などと呼ばれていた証拠は何ひとつないのでした。上に書いたように、これは諱であって、もしかすると死後つけられた名前かもしれず、いわゆる本名とは違うのです。もうひとつの名前「豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)というのも和風諡号というヤツで、歿後に贈られた名前、いわば戒名みたいなものです。
 ところで炊屋とは台所のことです。さらに「豊御食」なんて付けられているところを見ると、推古天皇という人はよく食べる、しかもとても美味しそうに食べる女性だったのかもしれません。そのおかげをもって、当時としては長命の74歳という齢まで生きることができました。
 これに対し、聖徳太子の厩戸というのは言うまでもなく馬小屋ですから、この叔母と甥は仲良く家の中の設備に由来する名前を持っていたことになります。釣り合いも甚だ良いと思います。そう考えると、厩戸王というのも実は和風諡号なのではあるまいかという疑問が浮かびます。諡号であれば、これもまた歿後につけられたもので、生前はそう呼ばれていなかったはずですから、聖徳太子抹消派の論理に従えば、厩戸王という名称もまた教科書に載せるには不適当ということになりそうです。

 そもそも生前その人がどう呼ばれていたかなどということは、そうそう明確にわかるものではありません。
 これについては「男の名前」「女の名前」などのエントリーでも書いたことがありますが、私たちが歴史上の人物の名前として知っているのは、大半が諱(いみな)です。諱は「忌み名」であって、他人が軽々しく呼ぶことは許されないものでした。
 例えば織田信長にしても、家中の者から「信長さま」などと呼ばれたことは決してありません。小説などには平気でそういう呼びかたが出てきますが、これは読者がややこしくて困ることのないように便宜的にそうしているだけのことです。
 ではなんと呼ばれていたのかといえば、まあ面と向かっては「殿」ないし「お館さま」で事足りたはずです。現代の企業だって、社長に面と向かって名前を呼ぶような社員は稀で、たいていは「社長」としか呼ばないでしょう。
 対外的な場で信長のことを話す場合は、「上総介」とか「右大将」とか「右府右大臣とか、官名を用いるのが普通です。「さま」をつけたかどうかはわかりませんが、現代の企業で対外的に社長の名前を言うときに呼び捨てにするのが通例であることを考えると、信長の家来が例えば浅井家、あるいは徳川家、武田家などに使いに行ったときには、「上総介さま」とは言わず、普通に「上総介」と言っていたように思えます。
 信長は晩年、すべての官職を辞してしまいますが、そのあとは呼びようがなくて「上様」などと呼ばれたのかもしれません。天下人の呼称が最初から「上様」と決まっていたわけではなさそうです。
 そしてまた、信長のほうからも、家臣を呼ぶときには、官名があればそれで呼ぶのが礼儀というものでした。まあ信長はやや破格なところのある人物でしたので、あだ名や幼名で呼んだりすることもあったようですが、それはよほど気心の知れた子飼いの家臣などに限られたでしょう。だから秀吉のことを「猿」と呼ぶことはあったかもしれませんが、光秀のことを「キンカン頭」と面と向かって呼んだかどうかは微妙なところです。また正式な場ではちゃんと「筑前守」「日向守」などと呼んでいたはずです。
 丹羽長秀のように、信長の生前は官名を持たなかった家臣の場合はどうかというと、これもたぶん信長から「長秀」と呼ばれることはなく、通称のほうの「五郎左衛門」あるいはそれを略した「五郎左」で呼ばれていたものと思われます。主君といえども、諱を呼ぶよりは通称を呼ぶほうが穏当であると考えられていたのです。
 日本人の名前の諱と通称の関係は、中国人の「名」と「字(あざな)」の関係と、重なり合いながら若干異なっているようです。中国人の「名」も、面と向かって呼ぶのは大変非礼なことと考えられてきました。ただ、日本と違って中国では、主君とか師匠とかは名で呼ぶのが普通だったようです。また上表などをする場合は自分のことを「私」とか「吾」とか書くのはNGで、名、もしくは「臣」のあとに名をつけた形で書くのが正式でした。
 劉備を劉備もしくは備と呼んだのは、たぶん師匠である廬植と、献帝くらいなものでしょう。曹操袁紹劉表といった、規模の差はあってもいちおう同格くらいの連中からは字である玄徳で呼ばれたと思われます。義兄弟であった関羽張飛も同様でしょう。一方諸葛孔明は臣下ですから、「君(くん)」とか「主(しゅ)」、あるいは王位に就いたあとは「大王」などのように呼んでいたでしょう。臣下になる前の三顧の礼の頃は「将軍」でしょうか。劉備のほうからは、三顧の礼のときは「孔明どの」、そのあとで正式に家臣になったら本名の「亮」と呼んだと考えられます。また、張松とか魯粛などのような他家の家臣が劉備に呼びかける場合は官名の「予州どの」というような形であったでしょう。

 いずれにしろ、「名」というのは由々しき存在であって、そうそう使い散らすものでなかったことは日本も中国も同じです。現代では日中とも、ふたつの名前を持つようなことは無くなりましたので、感覚がつかみづらくなっていますが、歴史上の人物が生前にどう呼ばれていたかというのは、実のところ相当丹念に研究しないと、容易にわかるものではないのです。
 生前に呼ばれていた名でしか教科書に載せられないとなったら、ほとんどの人物が名無しになってしまうのがオチです。
 だからこそ従来、人名は諱や諡号で書き表すのが慣例になっていたわけで、それで困る人は居ませんでした。
 なぜ聖徳太子に限って「生前そう呼ばれていなかった」という理由で諡号を抹消したがるのか、わけがわかりません。「聖徳」という諡号が偉人っぽすぎて気に入らない、という程度の理由しか思いつかないのです。
 今回の抹消騒ぎとは別ですが、そういえばこんなことを言う人も居ました。
 「諡号に『徳』という文字を使われている人物は、恨みを呑んで死んだり、不幸な死を遂げている。孝徳天皇崇徳天皇安徳天皇などの例を見れば明らかである」
 だから聖徳太子という号も、一種の鎮魂の意味があったのではないかというのでした。自分の論旨に都合の良いところだけデータを切り取るとこういうことになります。仁徳天皇にどんな不幸な死が訪れたのか、称徳天皇道鏡に譲位できなかったのがそんなに恨みだったのかなど、疑問はすぐに挙げられます。この人も要するに、聖徳太子はそんな偉人というような人物ではなく、むしろ失意の人であったに違いない……ということを言いたかったようです。なんによらず聖徳太子を「下げ」たがる学者が多いのは、まったく腑に落ちません。
 物事をあんまりイデオロギッシュに見るのは私の好みではないのですが、歴史学界というところは、いまだにマルクス史観の影響を脱していないのではないかと思いたくなります。
 マルクスという人もまた、歴史のいいとこ取りというか、自分の論旨に都合の良いところだけつまみ食いして理論を創り上げているように思えるのですが、ともあれマルクス史観の立場から言えば、古代の支配階級にそんなに天才的な偉い人物が居ては困るわけです。
 いまさらマルクス史観でもあるまいとは思うのですが、大和朝廷の存在感をできるだけ小さく見せようと努力しているとしか思えない歴史学者たちを見ていると、マルクスの呪縛がいまだに解けていないのを感じざるを得ません。
 そういえば「大和朝廷」という言いかたも教科書では避けられているようで、最近は「大和政権」となっているそうです。当時の日本には、天皇家の他にも有力な勢力があったとか、北日本、東日本にはまだ大和朝廷の勢力が及んでいなかったからとか、そんな理由なのでしょうが、これも馬鹿な話です。
 「政権」というのは一時的な政治勢力であって、平氏政権、鎌倉政権、足利政権、織田政権などというのは構いませんが、現代まで一貫して続いている皇統に関して使える用語ではありません。たとえ版図がいまより小さくとも、朝廷は朝廷です。
 他の地方にあったかもしれない勢力は、現代に連なっていないというただ一点で、正統性(レジティマシー)を持っていないのです。だから大和朝廷と同列には見なせません。
 大和朝廷が一旦亡びて、他の家系が君主の座におさまったのであれば、大和政権という言いかたもおかしくはありませんが、そうではないのですから、無用の術語変更はやめて貰いたいものです。学界内での議論であれば、どんな術語を使ってもその学者の勝手ですが、子供に読ませる教科書の用語をむやみに書き換えることは、百害あって一利無しだと思います。
 今回はまあ、常識的な考えが勝ったというところですが、今後も気をつけるべきでしょう。
 教科書を執筆する学者に悪意があるとまでは思いませんが、親切心から「最新の学説を子供たちに教えてやろう」と余計な改変をすることは充分あり得ます。前にも書きましたが、そんなのは学説の評価が確立するまでは「一書に曰く」で充分なのです。理科系の学問の場合は、新しい説のほうがより正確であることが普通ですが、歴史などの文科系の学問では、新しい説がより正しいとは限りません。単なる奇説に過ぎないものを、専門家ばかりがありがたがる、という現象は、何も今回がはじめてではないのでした。

(2017.4.5.)


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