聖徳太子の復活

 今朝(2017年3月20日)の新聞の一面に
 「『聖徳太子』復活へ」
 という見出しがありました。
 なんのことかと思ったら、先月発表された中学校の次期学習指導要領改定案で、聖徳太子の名前を抹消し「厩戸王」に変更するということになっていたのを、差し戻したという話でした。
 聖徳太子が実在しなかったというような話は、しばらく前から出ていましたが、その実在しないという意味が、私にはよくわかりませんでした。
 生前にそう呼ばれていなかったなどというのは、なんの意味もありません。そんなことを言えば歴代天皇など、そのほとんどが歿後の諡(おくりな)であって、生前にそんな天皇号で呼ばれたことはありません。聖徳太子が生前そうは呼ばれなかったという理由で実在しないと言うのなら、歴代天皇も実在しなかったということになりかねません。
 皇太子の地位のまま、即位せずに亡くなった人物については、日本でも中国でも、「○○太子」として諡号が贈られるのが習いです。そして、その人物に関する記述は、生前のことであっても便宜上諡号によって表されるのが修史の常識です。生前に聖徳太子と呼ばれた形跡が無いことが、聖徳太子が実在しなかったということにならないのは当然の話です。

 それでは、のちに聖徳太子と呼ばれることになった厩戸王なる人物が実在しなかったという意味なのかと言うと、それはそうではないようなのでさらにわからなくなります。教科書に「聖徳太子」に替えて「厩戸王」の名前を出すからには、厩戸王は確かに実在していたというのが歴史学者たちの結論なのでしょう。

 ──厩戸王は実在した。
 ──彼は後世、聖徳太子という諡号を贈られた。
 ──しかし、聖徳太子は実在していなかった。

 というのでは、何を言いたいのか見当がつきません。聖徳太子の諡号を贈られたのが歿後だいぶ経ってからだったから、というのかもしれませんが、諡号に関して、歿後何十年以上経って贈られたものは無効、などという歴史学上の取り決めがあるなどという話は聞いたことがありません。そんなことを言えば、壬申の乱天武天皇(これもそのときは大海人皇子でしたが)に攻め殺された大友皇子弘文天皇の諡号が贈られたのは、なんと歿後1200年以上経った明治時代になってからでした。歴史学上では弘文天皇という名前はあまり用いられないと思いますが、だからと言って「弘文天皇は実在しなかった」などとは言えないはずです。
 厩戸王が実在なのに聖徳太子が非実在であると言い張るためには、

 ──聖徳太子とは厩戸王に贈られた諡号ではなく、後世の人間が適当に作り上げた架空の人物の名称である。

 ということを証明しなければならないと思います。そのあたり、どうなっているのでしょうか。

 聖徳太子の業績とされていることが、厩戸王だけでなく、他のいろんな人物の業績を寄せ集めたものなのではないか、ということもよく言われます。
 これは当然あり得ることです。いろいろな物事が、ひとりの偉人が成し遂げたこととして集約されるということは珍しくありません。弘法大師空海の業績など、各地の言い伝えを全部集めれば、ひとりの人間がその生涯のうちになし得る限界をはるかに超えるほどのすさまじい分量になってしまいます。神武天皇ヤマトタケルなども、複数の人物の事績をひとりの英雄に仮託していると言われ、おそらくそのとおりでしょう。
 しかし、神武天皇やヤマトタケルとは違い、聖徳太子が生きていたとされる時代から、その事績を記した日本書紀が成立した年代までは、わずかに100年ほどしかありません。ということは、実際に推古天皇とか蘇我馬子とか聖徳太子とかに会ったことのある人の、孫くらいならまだ充分に生きている頃です。あまりデタラメなことを書けばすぐに問題になったはずなのです。
 遣隋使の派遣、法隆寺四天王寺の建立、冠位十二階の制定、十七条憲法の発布など、確かに聖徳太子の事績には輝かしいものがたくさんあって、ひとりでこんなにできたとは思えないと考えるのもわからないではありません。しかし一方で、ひとりの人物に絶対にできない内容なのかと言えばそんなこともないような気もします。しかるべき協力者やスタッフが居れば不可能ではないでしょう。おそらく蘇我氏は全力でサポートしたことでしょうし、多くの皇族たちも協力したはずです。だからと言って、聖徳太子の業績が虚構だとは言えないでしょう。
 太子はいわば各事業のプロジェクトリーダーという立場だったのかもしれません。彼のスタッフが成し遂げた業績は、彼の業績と言って良いのです。歴史上の人物の業績というのはそういう評価であるのが普通ではないでしょうか。信玄堤は別に武田信玄みずからが設計し施工したものではなく、信玄の家臣の誰かが作ったものに違いありませんが、しかし歴史記述としては「武田信玄が作った(作らせた)」でなんの不都合もありません。
 太子の業績とされるものが、太子とは無関係だと主張するのであれば、まずその仕事をやった人物を特定して貰わないことには話になりません。そして、その人物が太子といかなる関係も無かったことを証明して貰いたいものです。「おそらく蘇我馬子であろう」程度では困るのです。年代が何十年もずれていたとかいうのであれば、さすがに疑問の余地は無くなりますが、いまのところそんな証拠も無さそうです。
 そういえば、太子が煬帝に送ったとされる国書、

 ──日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、つつがなしや……

 というのも、九州あたりの豪族が大和朝廷とは関係無しに勝手に送ったものだと主張している歴史学者が居ましたっけ。どうも、大和朝廷の力をことさらに過小評価したがる一群の学者が居るようです。そんなあやしげなところからの手紙など、煬帝に取り次がれるわけがないとは思い及ばないらしい。
 煬帝はムッとして(「激怒した」わけではありません)、
 「このような無礼な書は、もう朕に見せなくてよろしい」
 と言い捨てたものの、ちゃんと裴世清という答礼の使者を送ってきたのは、不愉快な書きぶりではあってもいちおう正式な国書であったからこその話です。地方の一豪族の手紙に、誰がそんな手厚い答礼をおこなうでしょうか。
 つまるところ一群の学者たちが聖徳太子の事績であることを否定しようとしているさまざまな仕事は、いまのところ聖徳太子の事績であると考えておいても一向に不都合はないことばかりであるように思われるのです。
 確実に無関係な別人のやったことだと証明されるまでは、聖徳太子の事績にしておいて何がいけないのだろうかと不思議に感じざるを得ません。
 要するに、大和朝廷すなわち天皇家に、そんな天才的な偉人が居たとは認めたくない、というのが第一義なのではないかと疑いたくなります。

 それはまた、日本書紀の記述をどうとらえるかということにも関わってきます。
 日本書紀の記述を信用しないというのが戦後の歴史学の主流になっています。確かに上代の天皇の寿命など、あまり信用できないところも多々あるのは事実です。
 しかし、日本書紀全体が「天皇の権威を確立するために造作された政治文書である」という見かたには、到底同意できません。私の日本書紀に対する考えかたは前に書いたことがありますが、8世紀という時代において可能な限りの客観的な記述を志した「史書」であると思っています。その理由は第1ページめを読んだだけでも明らかです。何より大事なはずの「国産み」の記述において、5つも6つも「一書に曰く」として異論が併記されているのです。こんな「政治文書」がどこにあるものでしょうか。
 日本書紀を編纂するにあたっては、いろんな氏族に伝わる文書などを提出して貰って、それらを突き合わせながら執筆して行ったはずです。そうすると、同じ事件に対してもまったく違った見かたが記されたりしていたと考えるのが自然です。編纂者たちは、明らかにウソくさいのは却下し、ひとつながりの記述に含められそうなのは含め、前後とうまくつながらないけれども何分かの信憑性のあるものを「一書に曰く」として併記したと思われます。そうしないことには、資料を提出した氏族から文句が出たでしょう。
 中国の史書は、朝廷の史官が記録していた門外不出の「実録」のようなものを、次以後の王朝の歴史家が編集して作るというのがお約束になっていました。だから人々は、どんなことが史書に書かれるのか、リアルタイムで知ることはできなかったのです。
 しかし日本書紀はそうではありません。完成すると、誰でも(さすがに庶民は無理だったでしょうが、それなりの官人であれば)閲覧できました。つまり各氏族は、自分のところから提出した資料がどんな扱われかたをしているのか、すぐにわかったわけです。あまりにひどい改竄がなされていれば、当然クレームの嵐となったでしょう。
 日本書紀を「政治文書」と見れば、その中で100年ほど前に聖徳太子なる偉人が居てさまざまな業績を遺したという記述があっても、

 ──天皇家の威信を高めるために、こんな天才を「創り上げた」のだろう。

 ということになるのも不思議はありません。しかし「史書」として正当に見るならば、

 ──事実は全部が全部聖徳太子の業績ではなかったかもしれないが、少なくとも日本書紀が編まれた時代、これらは聖徳太子の偉業として一般に認識されていたのだろう。

 となるはずで、聖徳太子が偉人であったことには変わりがなくなります。
 いずれにしろ、聖徳太子の名前を教科書から消し去るほどの確乎とした根拠があるとはとても思えないのです。

 ──いろいろな学者の意見があるが、過度に影響されてはいけない。普遍的な価値を伝える歴史教育を考えなければならない。

 参院文教科学委員会無所属クラブ松沢成文氏が言ったという言葉は、まさに至当であると言わざるを得ません。そして、聖徳太子が教科書の記述の中に復活したことを心よりことほぎたいと思います。

 ところで鎌倉幕府の開基も、私たちが語呂合わせで覚えた「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」ではないということになったそうです。とはいえ、ではいつなのかということになるとまだ諸説あるようです。1185年という説が有力だそうで、これは平氏政権に壇ノ浦でとどめを刺した年であり、また文治の勅許により守護・地頭職の設置や任免が許されたというのが根拠になっています。しかし大倉御所が置かれた1180年説、朝廷から東国の支配権を公認された1183年説というのもあって、まだ決着がついていません。
 なお1192年というのは、源頼朝征夷大将軍に任命された年です。これはこれでひとつの根拠です。なぜなら、幕府というのは本来、皇帝に任命された将軍が、出先で一時的に軍政を敷くための機関を意味するからで、それ以前から私設の統治機関を作っていたにしても、将軍に任命されなければ幕府と呼ぶことはできないとも言えるからです。
 だから、80年か83年か85年か、歴史学界できちんと決着がつくまでは、92年も間違いとは言えず、教科書で否定するようなことではないと思います。
 聖徳太子にせよ鎌倉幕府にせよ、教科書が軽々しく新説に飛びつくのは考えものです。どうしても新説を紹介したいなら、それこそ日本の古来の史書の記述法に倣い、「一書に曰く」として先生用の本に書いておけば良いと考えるのでした。

(2017.3.20.)


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