忘れ得ぬことどもII

男の名前

 最近は、男の子の名前でも、漢字を見ただけではなんと読むのかわからないものが増えてきたようです。光宙(ぴかちゅう)くんなどをはじめて見た時は笑ってしまいましたが、これももう何年も前の話で、いまはもっとぶっ飛んでいるかもしれません。夏陽人(ぎらと)くんとか六面(だいす)くんなんてのもいるようです。キラキラネームのまとめサイトなどもあるので、興味のあるかたはご覧になってみてください。
 こういう子たち、大人になったらどうするんだろうかと思います。初対面の人に自分の名前を説明するだけでも気が重くなるのではないでしょうか。企業の人事などで、キラキラネームの人は採用しないと決めているところもあるようです。こういう名前をつける親はかなりの高確率で問題があり、従って育ってきた環境が悪く、採用しても問題を起こす可能性が高いだろうという判断だそうです。名前で差別するなんて、といきどおる人も多いでしょうが、人ひとり雇うというのは大変なことですから、一概に人事の担当者を批難もできないでしょう。
 もっとも、「読めない名前」ということであれば、必ずしも最近ばかりの話ではありません。日本の男名前は、昔から案外と読めないものがあったりします。

 「徳川慶喜」……これをなんと読むでしょうか?
 ほとんどの人はトクガワ・ヨシノブと読むと思います。事典にもそう出ていますし、幕末ものの本で他の読みかたをしているのはまず見ません。
 ところが、明治初年頃は、そうではなかったらしいのです。
 「慶喜」に、ノリヨシ、あるいはヨシヒサとふりがなをつけている文献が少なからずあるとのことです。そして一般には、ケーキ様ケーキ公と呼ばれるのが普通だったようです。この人が征夷大将軍だった頃は名前なんか呼ばれることはまずなかったでしょう。しかし、大政奉還して野に下ってから、やはり呼び名が無くては困ったわけですが、字がわかっても読みかたには諸説あったことがわかります。ヨシノブという読みかたがどういう根拠で定説化したのか、実はよくわかっていないようです。
 「慶」の字は12代将軍徳川家慶から貰った偏諱(へんき……偉い人から名前の一字を貰うことをそう言います)ですから、これをヨシと読むのはまず間違いはないと思われますが、「喜」のほうも、当時としてもヨシと読むのが普通で、それではヨシヨシとなってしまってこれは無理でしょう。ノリヨシ説は、「喜」をヨシとする観念にひっぱられて、なんとか「慶」を無理矢理読み下した観があります。
 「慶」はヨシとして、では「喜」をどう読むべきか、ヒサは無理ではないかと思われるかもしれませんが、私はノブというのもかなり無理のある読みかただと思います。

 日本の男の名前には、「名乗り(実名)系と、「通称」系があり、昔は両方持っていたりしました。西郷隆盛吉之助大久保利通一蔵、なんてのがよく知られています。「隆盛」「利通」が名乗り、「吉之助」「一蔵」が通称ですね。ちなみに坂本龍馬の名乗りは直柔と言いましたが、本人が使ったことは無さそうです。
 武士だけでなく、農民や町人でも堂々たる名乗りを持っている場合がありました。しかしたいていの場合、名乗りのほうは公的な文書に署名する時でもない限りは滅多に使うことが無く、人から呼ばれるのは圧倒的に通称が多いのでした。まあ、名乗りというのは現代の「実印」みたいなものだったと考えればイメージが湧きやすいと思います。
 滅多に使うことが無いものですから、どう読むのかというのもわかりづらいことになります。上記の龍馬の名乗り「直柔」など、なかなか読めないのではないでしょうか。一応事典ではナオナリと読むことになっていますが、タダナリでなかったという証拠もありませんし、ナオヤだったのかもしれません。
 名乗りというのは、基本的には訓読みすることになっているのですが、このように、どう読むのか判断に困ることが少なからずあるのでした。
 現在では文書などで署名にふりがなをつけさせられることが多く、また人から呼ばれることがしょっちゅうありますから、難読ということはあってもなんらかの方法で正しい読みかたを突き止めることはできます。しかし、昔は署名にふりがなをつける習慣はありませんでしたから、本当の読みかたは本人と親くらいしか知らない、などということも珍しくなかったのです。たまたまローマ字で署名していたりするとようやくわかるくらいで、榎本武揚などはその方法で読みかたが判明しました。

 幕末・明治にかけてもそんな調子ですから、もっと前の戦国時代など、本当は人の名前の読みかたなど実はさっぱりわからないのです。いろいろな用例や他の人の名前などから、おそらくそうであろうという読みかたをしているに過ぎません。
 名乗りがあんまり使われなかったのは戦国時代だって同じで、織田信長のことをノブナガ様などと呼ぶ人は居ませんでした。考えてみれば「信」をノブと読むのも、どれほどの根拠があるのか微妙な気がします。太田牛一「信長公記」はシンチョウ公記であってノブナガ公記ではありません(ついでながら、その「牛一」もウシカズだかギュウイチだかわかりません。どちらのルビも見たことがあります)
 いまの山形あたりに割拠していた最上義光という戦国大名が居ます。伊達政宗の母方の伯父と言えばわかりやすいでしょうか。この人、姓のモガミは良いとして、名のほうはこのままだとヨシミツとしか読めないでしょう。しかし現在ではヨシアキが定説になっています。これは、「よしあき」とひらがなで署名した手紙が偶然見つかったからわかったことで、そうでなければ今でもヨシミツと呼ばれていたはずです。
 まるでわからないのは、備前宇喜多家の家臣であった明石全登です。大坂の陣で豊臣方に投じたキリシタン武将として知られていますが、「全登」につけられたルビは、もうほとんど本によってそれぞれ違うと言っても良いほどです。私が見かけただけでも、「たけのり」「あきのぶ」「てるずみ」などがあり、相互にちっとも似ていません。それぞれに何か根拠はあるのでしょうが、最上義光の場合のような決め手が無いので、どれかに統一するわけにもゆかないと思われます。
 全登の主君であったのは宇喜多秀家ですが、その父で戦国大名としての宇喜多家を創始したのが宇喜多直家です。ウキタ・ナオイエと読まれるのが普通です。
 しかし、「直」の字は、名前に使われた場合はむしろタダと読むことが多そうです。時代は少し遡りますが、足利尊氏の弟は直義でタダヨシ、尊氏の庶子で直義の養子となったのが直冬でタダフユです。宇喜多直家の場合は、弟に忠家というのが居り、こちらがタダイエとしか読めない以上、直家はナオイエであろう、ということになっているのではないかと思います。本当にナオイエであったのかは、実はわかりません。鍋島直茂はどうでしょうか。
 上に書いた「偏諱」の関係がある場合は、わりと読みかたの推測がしやすいかもしれません。足利13代将軍義輝(よしてる)から偏諱を貰った伊達輝宗(政宗の父)、上杉輝虎(謙信のこと)、毛利輝元などはあまり読みかたについて疑問の余地は無さそうです。将軍から偏諱を貰った場合、それなりの謝礼をするのが当然で、義輝の頃の足利幕府はほとんど領地も無く財政が破滅状態でしたから、あちこちの大名に偏諱を与えては謝礼を貰っていたのでしょう。

 このように、名前の読みかたというのは実に心許ないものがあります。
 そこで、「ケーキさん」のような呼びかたが出てくるわけです。
 日本人男性の名乗りは、実は遣唐使が始まった頃から起こりました。藤原氏初代は鎌足(かまたり)、二代目は不比等(ふひと)、その次は武智麻呂(むちまろ)だの房前(ふささき)だので、きわめて和風な名前なのですが、武智麻呂(藤原南家の祖)の子供になると、次男が仲麻呂、三男が乙麻呂、四男が巨勢麻呂というのに対し、長男はなぜか豊成(とよなり)と、急に名乗りっぽくなります。
 これは、へ行ったり、唐からの使者と接したりする際に、それまでのような純和風な名前ではどうも野暮ったいというので、中国人のようにも読める名前をつけはじめたという事情です。例えば上記の豊成は、本人は唐へは行っていませんが、使者を接見するくらいのことはしたのかもしれず、その時は「藤豊成(とう・ほうせい)」のように名乗ったに違いありません。
 同じことが、隣の新羅でもおこなわれました。新羅はもっと徹底していて、王様の金春秋以下、全国民の名前を唐風に変えさせてしまいました。それまでは「奈勿尼師今」とか「智証麻立干」とかいう名前(なんと読んでいたかは知りません)だったのですが、この頃から、姓は一文字、名は二文字という原則が貫かれるようになり、今の韓国北朝鮮に至っています。
 日本ではそこまではしませんでしたが、名は二文字、というのがその時代から流行りはじめ、対外的には音読み、国内では訓読みにするのが習慣になりました。そのうち、唐に行ったり唐の使者と接したりする可能性などこれっぽっちもない階層の人々にも、この習慣が普及しました。それがやがて名乗り(実名)ということになっていったわけです。道真、道長、将門、清盛、頼朝などみんなそうです。
 こういう事情ですから、名乗りはむしろ音読みにするほうが格が高い、カッコ良いイメージがあったのでした。
 また、訓読みは見当がつかなくとも、音読みであればそんなに種類はありません。漢音と呉音がありますが、唐と接することではじまった習慣ですから、まず唐での発音、すなわち漢音で読んでおけば問題はありません。
 そんなわけで、男性の名前の読みかたがわからない時は、音読みをする分には失礼ではない、という感覚が、少なくともつい最近までは残っていました。徳川慶喜を「ケーキさん」「ケーキ公」と呼ぶのは、かなりの敬意と、いくぶんかの親しみを込めてのことだったのです。明石全登に「ぜんとう」というルビが振られているのも見たことがありますが、実はそれがいちばん妥当な振りかただったかもしれません。
 戦後も、松本キヨハルさんのことをみんなセイチョウさんと呼び、結局それが筆名のようなことになった例があります。安部キミフサコウボウさんも同様ですね。
 私の領分だと、中田喜直さんのことをキチョクさんと呼んでいる人が、中田先生の同年代かもう少し下には少なからず居ました。こういうかたがたは、戦後のことでもあり、正しい読みかたがわからなかったわけではありませんが、やはり、そこそこの敬意といくぶんかの親しみを込めてそう呼ばれていたのだと思われます。まあ、間宮芳生さんがホウセイさんと読まれたのはヨシオかミチオか迷いやすかったからかもしれませんが(ミチオが正しい)。
 そうやって音読みで呼ばれるほうもさほど嫌がらないというか、むしろ多少得意な気がしていたものらしいのでした。菊池などは、ヒロシさんと正しい読みかたで呼ばれると不機嫌になったそうです。
 私の名前は道明で、もちろんミチアキと読みますが、名乗り系の名前ですから、ドウメイと音読みされることもあるかもしれません。されたとしたら、なるほどイヤな気はしないように思えます。諸葛孔明のコウメイにもちょっと似ていて何やらカッコ良いではありませんか。ただ本当にそう呼ばれたら、まあ、何かこそばゆいというか、
 「いや〜、アタシなんかそんな大物ではありませんから〜(^_^;;」
 と言いたくなるかもしれませんが。

 「男の名前はわからなければ音読み、それなら失礼にはならない」という感覚は、しかしもうかなり薄れているかもしれません。ひとつには、名乗り系の名前そのものがだいぶ減ってきたこともあります。「光宙」や「六面」が名乗り系とは言えないのはもちろんです。また、署名にふりがなをつけることが普通になったため、「読み通りに呼ばれるのが当然」という気持ちが一般的になったという事情もあるでしょう。
 しかし、誰もがふりがな付きで人の名前を見るわけではありません。現代日本では人名に使える漢字は制限されていますが、その読みかたはまったく自由ですから、時に思いもよらない訓読みを使われることがあります。「音読みならOK」は、千数百年の伝統ある「感覚」ですし、少しは残しておいても構わないのではないか、と私は思うのでした。

 なお、今回考えたのはあくまで男の名前です。女の名前にはまた別の面白さがありますので、次の機会に考えてみたいと思います。

(2012.6.16.)

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