LAST EMPERORS

第9回 北朝ラストエンペラーの巻

 前回触れられなかった北朝の興亡を語ることにする。

★北魏(-534)★

 五胡十六国を終焉させた鮮卑(せんぴ)拓跋(たくばつ)部の政権だが、最初はという国号を名乗っていた。398年に、代王拓跋珪(たくばつけい)は、一旦は華北統一を果たした前秦が滅亡したのちの混乱に乗じて首都を平城(現在の大同)へ移して国号をとし、みずから道武帝を称した。
 北方の遊牧民である鮮卑の政権ではあったが、北魏はこの頃までに、すでに中華帝国的な官僚支配の体制を確立していた。五胡十六国の多くは、有力な部族がそれぞれに兵力を持っていたので、栄枯盛衰が激しかったのだが、ここは代王国だったうちに、有力部族の長を彼らの軍団から引き離すことに成功していたのである。北魏が長持ちしたのはそのためであろう。
 道武帝は決断力に富んだ果敢な皇帝で、北魏の勢威を大いに伸ばしたが、晩年はそれが悪い方へ傾き、やたらと臣下や皇族を殺すようになってしまった。日頃から素行が悪く、身の危険を感じていた息子のひとりが、殺られる前に殺ってしまえとばかりに、409年、親父の道武帝を謀殺してしまった。
 もちろんこの息子はすぐに討たれ、皇太子が順当に帝位を襲った。明元帝である。明元帝は聡明な男で、道武帝の死による動揺を最小限に抑えたばかりか、423年にはの武帝(劉裕)の死に乗じて河南四鎮を攻略した。翌年明元帝は没したが、17歳で即位した後継者の太武帝はさらにやり手で、五胡十六国のうち残っていた北燕北涼を亡ぼして、439年、約半世紀ぶりに華北を統一した。

 太武帝は最初仏教を保護していたが、漢人宰相崔浩(さいこう)はこれを苦々しく思い、太武帝に寇謙之(こうけんし)なる道士を推挙して転向させようとした。太武帝は崔浩の思惑通り転向し、一転して仏教弾圧に向かったが、仏教寺院や僧たちに与えられていた特権をはぎ取ったのは、北魏にとってはかえってプラスだったと思われる。
 何しろそれまでは、仏教僧になれば税も払わなくてよければ、徴兵にも応じなくてよかったのだから、われもわれもと出家し、労働人口や兵力が心許ない状態にさえなっていたのである。この廃仏毀釈により、北魏の財政は立ち直り、軍事力も充実させることができた。
 寇謙之を推挙した崔浩は太武帝に信頼されていたが、強烈な漢族ナショナリストであり、北魏の歴史を記述するよう命じられた時に、あまりにも漢族至上主義な書き方をして鮮卑貴族たちの怒りを買い、誅殺された。世に言う国史事件である。
 そのあと太武帝に寵愛されたのは宦官の宗愛(そうあい)だった。この宦官は陰険な人物で、皇太子の一の側近を讒言して処刑に追いやった。皇太子は衝撃のあまり間もなく病死した。ところが太武帝が皇太子の死を悼むあまり、その側近の処刑を後悔しているのを見て取ると、身の危険を感じた宗愛は太武帝を殺してしまったのである。華北を統一した一世の英傑としては、悲劇的な最期であったと言える。
 宗愛は拓跋余(たくばつよ)という皇族を即位させたが、これも思い通りにならないので殺した。皇帝をふたり殺した宦官も珍しい。さすがに宗愛は誅殺されて、文成帝が立った。

 12歳で即位した文成帝はさして大過なく北魏を治めたが、26歳という若さで死んだ。そのあと、彼の皇后だった(ふう)氏が皇太后として新皇帝の献文帝を後見した。彼女は相当なやり手だったようで、その治世下には、均田法や三長法など、革新的な法律がいくつも発布されている。
 献文帝は6年間在位してから廃された。馮皇太后は代わって5歳の拓跋宏(たくばつこう)を帝位に就け、さらに19年間実権を握ったが、490年に死んだ。この拓跋宏こと孝文帝は名君の誉れが高い。
 孝文帝は積極的に漢化政策を推し進めたのだった。古都洛陽への遷都を執り行ったのもその一環であったのだろう。なお、この遷都はなかなか巧妙な方法でおこなわれた。周囲の反対を押し切って南朝の斉を討つと言い張り、軍勢を南下させたのである。敵情視察もろくにせず、準備も全く不足した状態での出兵ではあり、重臣たちは口をすっぱくして諫めたが、孝文帝は聞かず、どんどん兵を南下させる。が、洛陽まで達した時に、諫言に妥協するという形をとって、そこにとどまってしまったのである。ずっと後年、織田信長が本拠を清洲から小牧に移した時と似た鮮やかさで、信長はもしかしたらこの故事を知っていたのかもしれない。
 孝文帝は胡服の禁止や他民族同士の通婚の奨励などもおこなったが、前秦の苻堅のようなかたくなな理想主義者ではなく、上の遷都の例に見られるように、性急な改革を避けた現実的な男であった。そのさじ加減の巧妙さは、確かに名君の名に価する。
 なお、彼は自分の姓まで変えた。拓跋という鮮卑臭のする姓を好まず、皇室の姓をとしたのである。のちの隋皇室の楊、唐皇室の李なども、実は鮮卑の出身であって、この時期に中華風に変えたのではないかという気配がある。
 孝文帝治下の洛陽は大いに栄えた。その盛況は楊衒之(ようげんし)の「洛陽伽藍記」に詳しい。北魏の分裂と共に寂れてしまった洛陽を訪れた文人が、在りし日の繁華な有様を偲んで書いた名文である。

 孝文帝は確かに名君であったが、急速な漢化政策はなおまだ時期尚早だったようでもある。彼の生前は矛盾も目立たなかったが、499年に孝文帝が死ぬと、そろそろ様子がおかしくなる。次の宣武帝は16年在位したが、外戚の専横が目立った。
 次の孝明帝は幼帝だったので、母の胡皇太后が後見した。が、この女は権勢欲が強かった。成長した孝明帝が自己主張するようになると、なんと腹を痛めたわが子を毒殺してしまい、代わりに3歳の孝昭帝を擁立した。
 この時起ち上がったのが、孝明帝の親政を画策していた山西の軍閥爾朱栄(じしゅえい)である。ちなみに爾朱というのが姓だ。彼は孝文帝の甥に当たる男を孝荘帝として擁立すると、洛陽に攻め入って胡皇太后と孝昭帝を洛水に沈め、ついでに皇族や高官を片っ端から殺しまくった。
 その後も、三国志の董卓のごとき傍若無人な専横ぶりを見せた爾朱栄にプッツンした孝荘帝は、彼が朝廷に訪れた時に、隙を見て自ら爾朱栄を刺殺したのだった。
 すると爾朱一族はあらたに宗室の元曄(げんよう)を皇帝に擁立し、それを担いでまたもや洛陽を攻め、孝荘帝を追放し、のちに殺した。さらに、せっかく担いだ元曄は傍流であまり人望がなかったので、早々に廃し(この皇帝には追号がない)、孝荘帝の従弟にあたる節閔帝を担ぎ上げた。
 今度は爾朱栄の片腕だった高歓(こうかん)がやはり宗室の元朗(げんろう)を擁立して攻め入り、爾朱一族を亡ぼすと共に節閔帝も廃したばかりか、元朗も引きずり下ろして、宣武帝の甥を帝位に就けた。孝武帝である。
 要するに権勢を狙った有力者が、お手軽に皇帝を擁立したり廃立したりするようになった。皇帝の威信はどこへやらという観がある。

 孝武帝は擁立されたものの、どうも居心地が悪いので、高歓を退けようと謀った。が、高歓は先手を打ってまたもや洛陽に迫った。孝武帝は命からがら逃げ出すと、長安で勢威を張っていた宇文泰(うぶんたい)のもとへ転がり込んだ。ついでながらこれも宇文というのが姓である。
 高歓は孝武帝を追おうとはせず、別に孝文帝の曾孫である孝静帝を擁立した。皇帝を洛陽に置いておくといろいろ不都合だと思ったのか、高歓は孝静帝を連れてに遷都した。どうにもお手軽である。
 同年宇文泰は、懐に飛び込んできた孝武帝を毒殺する。宇文泰が外道だったのか、孝武帝がよほど性格が悪かったのか、それとも単に乱世の掟と見るべきか。
 翌年宇文泰は孝武帝の従弟を擁立する。文帝である。これまたお手軽だ。
 鄴には孝静帝がおり、長安に文帝がいるわけだから、北魏は分裂してしまったことになる。どちらも魏の国号を名乗ったので、後世の史家は鄴の方を東魏、長安の方を西魏と呼んでいる。

 そういうわけで、北魏のラストエンペラーははっきりしない。一応孝武帝と見るべきだろうが、孝静帝も文帝も、その後継者だと思っているし、年代記的にも微妙である。
 いずれにしろ、この時期の皇帝というのは、実力者の傀儡であるのがあたりまえで、傀儡であることに甘んじなければ簡単に殺されてしまう存在であった。

★東魏(534-550)★ 

 東魏の孝静帝元善見(げんぜんけん)ははじめから高歓の傀儡でしかない。高歓の死後、息子の高澄(こうちょう)が高一族の総帥となるが、有力部将の侯景(こうけい)を疑って離反させた。この侯景が逃げ出しがてら南朝の梁に攻め込み、事実上亡ぼしてしまうのは前回書いた通りである。
 高澄は粗暴な男だったのか、恨みを持った自分の召使いに殺されてしまう。弟の高洋(こうよう)があとを継ぎ、あっさりと孝静帝から帝位を譲り受けて王朝を開いた。南朝の斉と区別するため、北斉と呼ばれている王朝である。
 かくて、東魏初代皇帝かつ最終皇帝の孝静帝は、16年間何ひとつエピソードを遺すこともなく、歴史から退場した。

★西魏(535-557)★

 西魏の文帝元宝炬(げんほうきょ)もまた、はじめから宇文泰の傀儡であった。22年間、これまたなんのエピソードも遺していない。ある意味ではお気楽な皇帝生活だったかもしれない。意欲的に何かをやろうとする皇帝にとっては、権臣の存在は腹立たしいことこの上ないのだが、特に抱負や政見もなく、ただ贅沢な暮らしを楽しみたいというだけの人間であれば、傀儡の皇帝の座というのはそれほど坐り心地の悪いものではないとも考えられる。
 西魏の末期、南方の梁では侯景の乱が起こり、それを王僧弁(おうそうべん)と陳覇先(ちんはせん)が撃破したのだが、その混乱に乗じ、西魏は出兵した。554年に梁の副都江陵を陥とし、梁の西半分を占拠した。が、西魏はここを自国の版図とはせず、梁の元帝の甥に当たる宣帝を擁立して、傀儡国家を建てさせたのである。ほどなく梁の首都建康では陳覇先が簒奪して陳を建てるので、この傀儡国家を後梁と呼んでいる。西魏の国力では、まだ後梁の領域を直接支配するわけにはゆかなかったのだろう。
 その3年後、死んだ宇文泰に代わって宇文一族の総帥となった宇文覚(うぶんかく)が文帝から禅譲を受け、王朝を開いた。古代の周と区別するため、北朝の周だという意味で北周と呼ばれる。

★北斉(550-577)★

 北斉は5代27年続くが、初代文宣帝高洋、3代孝昭帝高演(こうえん)、4代武成帝高湛(こうたん)は兄弟である。2代目の高殷(こういん)は文宣帝の息子だが、1年で叔父の高演に取って代わられ、帝号も与えられていない。無事に息子に位を継がせることができたのは武成帝だけだったが、その息子(高緯《こうい》)は暗愚で、国を亡ぼした。
 高緯だけが暗愚だったのではない。北斉の皇帝は揃いも揃って酒乱の暴君だった。高一族に酒乱の血が流れていたとしか言いようがない。
 文宣帝が死ぬ時、弟の高演に向かい、
「おまえが殷から帝位を奪うのはやむを得ないと思うが、できれば殷を殺さないで貰いたい」
と遺言したのだが、高演は簒奪したばかりか殷も殺してしまった。
 孝昭帝となった高演は、即位のいきさつこそきなくさかったが、政治家としてはなかなか英邁で良政を心がけたと言われる。ただしわずか1年で落馬事故のため没したので、真価はわからない。他がひどすぎたので、積極的な暴虐を振るわなかった孝昭帝だけがよく見えたのかもしれない。
 孝昭帝は臨終に当たって、皇太子の高百年(こうひゃくねん)を廃し、弟の高湛にあとを継がせると発表した。自分が甥を簒奪したのち殺したものだから、息子が同じ目に遭うのは避けたいと思ったのだろう。
 しかし武成帝となった高湛は、容赦なく高百年を殺してしまった。高百年の居所に王気があるなどと、つまらぬことを進言した男がいたらしいが、武成帝のヤラセだったかもしれない。

 武成帝は、自分の息子こそ無事に天寿を全うさせようと思った。
 ──朕が死んでしまってからではどうしようもない。よし、それならば……
 というわけで、武成帝は在位4年、29歳で退位し、息子の高緯を即位させた。自分は太上皇帝(上皇)として高緯を後見する。おかげで高緯は簒奪されずに済んだが、その代わり北周に攻め込まれて帝位を失った。なんともばかばかしい経緯であった。

 暗君が続いた北斉だったが、なぜか戦争にはめっぽう強かった。ある意味では、酒乱も暴虐も、エネルギー過多から来ていたのかもしれない。そのエネルギーが戦に向けられれば、まさに火のついたような武勇となり、兵たちもそこに神秘的なまでの憧憬を抱いて奮戦したのだろう。
 かくて大いに四方を斬り従え、北斉の勢威は揚がった。北斉、北周、陳と天下が三分されている中で、疑いもなく最強だったのが北斉であった。
 が、ラストエンペラー高緯は、武勇の資質にも欠けていた。また、讒言を信じて、北斉の国軍を担っていた斛律光(かくりつこう)や高長恭(こうちょうきょう)などの名将を殺してしまった。高長恭は蘭陵王に封じられており、その甘いマスクと勇猛ぶりのギャップで人気があった。今も雅楽のレパートリーとして残る「蘭陵王入陣曲」は、彼を讃える軍歌がもとになっている。
 皇帝本人が武勇に欠ける上に、名将を次々殺してしまったのだから、北斉の兵の士気は極度に下がった。573年には、三国のうち最弱だったはずの陳の軍勢にすら負けている。
 これを見ていた北周の武帝は、馬鹿のいるうちに片づけてしまえとばかりに北斉へ侵攻を開始し、4年後には高緯を捕らえて、のち殺してしまった。かくて北斉も亡びた。

★北周(557-581)★

 宇文覚は西魏の文帝から帝位を譲られて孝閔帝となった。初代皇帝なのに閔という、「あわれむべき」というような意味を持つ文字の入った追号を贈られているのは異様だが、実は宇文泰の甥で、孝閔帝には従兄にあたる宇文護(うぶんご)という者が実権を握っていた。簒奪のお膳立てを調えたのも宇文護である。
 孝閔帝は宇文護の専横を嫌い、除こうとしたが、先手を打った宇文護に廃され、のち殺されてしまう。わずか16歳であった。
 宇文護は孝閔帝の異母兄を擁立した。明帝である。しかし彼も、明敏さを宇文護に警戒され、結局3年で毒殺された。
 明帝は臨終の席で、帝位をわが子ではなく弟に譲ることを宣言した。やはりわが子が殺されるのを防ごうとしたのだろう。
 かくて、武帝が即位した。これが傑物だったのである。
 彼は兄の孝閔帝や明帝の最期を見ていたので、明敏さを外に顕わさないことに腐心した。宇文護に警戒されたが最後、自分も殺されるとわかっていたのである。
 武帝の雌伏は実に12年間に及んだ。宇文護が完全に油断したところを見計らって、自ら武器を振るって誅殺することに成功したのである。

 親政を始めた武帝だったが、意欲的に何かやろうとしても、北周は人口が少なくて思うままにならない。そこで仏教寺院を打ち壊して若い僧を還俗させ、どしどし軍営に放り込んだ。北魏道武帝、唐の武宗の時の弾圧と並んで「三武の法難」と呼ばれている。
 武帝が政権を奪取した同じ年に、北斉では名将斛律光が高緯によって死を賜っている。
 ──これで斉の力は半減したぞ。
 と武帝は大いに喜び、大赦令を出して囚人を解放した。もちろん解放した囚人も軍営に吸収する。
 その後、北斉が陳に負けたのを見て、頃はよしとばかりに武帝は兵を発し、577年に北斉を亡ぼした。まだ南方はあるが、その西半分にあたる後梁は西魏に引き続いて北周の属国であるから、これで中国全土の8割方が北周の有に帰したことになる。

 そのまま陳を亡ぼして全土を統一するかに見えた北周だったが、いよいよというところで武帝が病死してしまう。
 あとを継いだ宣帝は放蕩児だった。武帝はこのドラ息子の放蕩を案じ、しばしば自ら杖で打って折檻していたが、宣帝の素行は一向に改まらなかった。武帝の棺に向かって、宣帝はまだ生々しい打ち傷をさすりながら、
「クソ親父、死ぬのが遅すぎたぜ」
とうそぶいたという。
 宣帝はすぐに退位して息子に位を譲り、自分は天元皇帝と称した。北斉の武成帝のような深慮遠謀ではない。帝位に就いてみると、意外と窮屈で、好きなことができなかったので、さっさと放り出したのである。そして相変わらず遊蕩を続けたのち、22歳の太く短い生涯を終えた。
 位を譲られた息子が静帝だが、即位した時静帝は8歳だった。宣帝は実に13歳の時に息子を作っていたのである。武帝がしばしば折檻したのもむべなるかなと言うべきか。
 宣帝の皇后の父が楊堅で、衆望を集めていた。静帝にとっては外祖父に当たる。いよいよ天下統一を目前にした大事な時に、幼帝では心許ないというわけで、楊堅が静帝の禅譲を受けて帝位に就いた。かくて北周も亡びた。
 もっとも、孫が外祖父に禅譲したのだから、「亡びた」という印象は薄い。人々にも継続感の方が強かっただろう。ともあれ、国号はとされ、北周は消滅したのである。581年だった。
 静帝はほどなく死んだ。死因については記録がない。隋の文帝となった楊堅が9歳の孫を殺したのだとは考えたくないが、そのあと彼は宇文一族を次々と捕らえては処刑しているので、どうやらクロのようだ。

  隋は8年後の589年、陳を亡ぼし、中国を統一する。西晋のうたかたのような統一期を除けば、220年に三国が鼎立して以来、実に370年ぶりの統一の快挙である。ただし、統一がそこに住む人々にとって幸せなことであるかどうかはまた別問題だ。
 五胡十六国時代から南北朝時代を通じて、華北では異民族と漢民族の混合が進んだ。むしろ異民族の血を入れて新しい漢民族が生まれたと言うべきかもしれない。価値観や制度も大いに混合された。一方の華南では、この時期に著しく生産力が上がっている。陳が建康附近だけで充分やってゆけたのも、この時代を通して南方が大変に豊かになったことを反映している。
 隋は北方で民族がかき回されることによって生まれた新しいシステムと、南方の富とをふたつながら手に入れ、押しも押されもせぬ大帝国として歴史に登場したのであった。

 今回は隋まで進めようと思ったのだが、考えてみれば隋のラストエンペラーといえばあの煬帝(ようだい)である。
 この男については、書くべきことが大変多そうだ。ほとんど子供か傀儡であった南北朝のラストエンペラーたちとは異なり、自分の意志で動き、自分の思うままにものごとをやってのけた「大皇帝」のひとりである。
 そんなわけで、煬帝については次回、独立した一章を設けて触れてみたいと思う。

 (1999.6.25.)


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