LAST EMPERORS

第10回 煬帝(隋)の巻

 文帝は589年、ほぼ400年ぶりに中国を統一したが、よく知られているように、せっかくの天下統一の約30年後、618年には亡びてしまう。わずか2代の世であった。
 隋の2代目、すなわち最後の皇帝は煬帝(ようだい)。なぜかこの皇帝だけ、帝を「だい」と読むことになっている。もちろん「ようてい」と呼んでも間違いではない。本名は楊広(ようこう)、文帝の次男である。秦の始皇帝と並び、伝統的な中国の史観では史上最大の暴君と見なされていた男だ。
 煬帝が重臣宇文化及(うぶんかきゅう)によって弑されたのが618年なのだが、実際には各地で蜂起した群雄が、煬帝の血縁の者を担いでそれぞれに皇帝と称せしめている。が、どれもこれも名目だけの傀儡であるから、やはり煬帝をラストエンペラーとするべきだろう。

 煬帝の即位については、秦の胡亥(こがい──第2回参照)のそれと同様、面白おかしい話が伝わっている。
 本来、彼は文帝の後継者ではなかった。皇太子だったのは文帝の長男である楊勇(ようゆう)である。楊勇は豪放磊落で気のいい男で、臣下からも愛されていたらしいが、女にだらしがなかった。むろん、好色はこの当時の観念から見て不道徳とは言えない。
 文帝皇后の独孤(どっこ)氏は賢夫人ではあったが、男女のことについて異常に潔癖だという一面を持っていた。文帝は中国全土を支配する大皇帝でありながら、皇后の生前は側室ひとり置くことができなかったという。一度だけ宮女相手に浮気をしたが、その女は独孤皇后に殺されてしまった。
 普通ならただ嫉妬深いと評されるところだが、独孤皇后は自分の夫の女性関係だけではなく、他人の女性関係にも異常に厳しかった。ひそかに妾を囲っていた重臣に詰め腹を切らせたことさえある。上流階級では一夫多妻が常識のこの時代に、彼女は頑として一夫一妻制を主張したのである。
 これほどの女なので、当然ながら息子が女好きなのを激しく憎んだ。楊勇が文武両道の人気者であるというという美点も、好色だという一点によって、母親の独孤皇后には許せなかったようだ。
「あのような淫らな者を後継者とするのはおやめなさいませ」
と文帝に詰め寄ったのである。皇后に頭の上がらない文帝は、楊勇を皇太子から外し、次男の楊広を皇太子としたのだった。楊広はこの頃猫をかぶっていて、品行方正で通っていたので、母親の眼鏡にかなったのである。

 ところが母が死ぬと、そろそろ楊広の化けの皮がはがれてきた。
 文帝はおそろしい皇后の死後、ようやく息を吹き返したようにいろんな女に手を出し始めたが、中でも寵愛したのは、第8回でちょっと触れた陳宣華(ちんせんか)だった。彼女は南朝陳の最後の皇帝陳叔宝(ちんしゅくほう)の妹である。美しかったのはもちろんだが、性格も温かく、またいわゆる「けなげ」なタイプの美少女だったようで、独孤皇后にさえかわいがられたという。
 楊広は、父の愛妾である宣華に恋してしまった。一説には、たまたま彼女の着替えているところを目撃して、そのヌードにいかれてしまったとも言う。
 文帝はこの頃、病床に伏しており、崩御も時間の問題と思われた。
 楊広は父の死を待ちきれず、宣華を口説き、いきなり抱きしめようとした。驚いた宣華はやっとのことで楊広を振り切り、病床の文帝のもとへ駆け込んだ。
 「どうしたのだ、そんなに息を切らして」
文帝はびっくりして宣華を見た。
「その……皇太子さまが無礼なことを……」
宣華はありのまま、文帝に話した。
 文帝は怒り狂い、
「父親の女に手を出すとは、わが子ながらなんと鬼畜な奴だ。独孤め、われを誤れり!
そう叫んで、即座に楊広を廃し、もとの皇太子楊勇を呼び寄せて後を託そうとした。
 だが、楊勇を呼びにやった使者は、楊広に拘束されてしまう。いつまでも戻ってこない使者に、文帝はいらいらした。
「何をやっているのだ。なぜ勇はやってこないのだ」
 そこへ、ぬっと楊広が入ってきた。
 しばらくのち、楊広は百官を集め、文帝の崩御を伝えた……。

 この経緯だと、どう考えても、楊広が文帝を殺したことになるのだが、これまた、一体誰が見ていたのだろうという疑問が湧く。もし誰かが見ていたら、皇帝になった楊広によって即座に殺されてしまったはずである。
 どうも、必要以上に煬帝を悪玉にしようという配慮が働いて、こういう話が作られた疑いが濃い。何しろ隋の歴史を編纂したのは、隋に取って代わった唐王朝でのことで、煬帝を悪玉にしないと自らの正統性が主張しずらいのである。
 なお、上の話にはまだ続きがある。一部始終を見ていた陳宣華は、これは必ず自分も殺されると思い、自室に引きこもってがたがた慄えていたという。はたしてその夜、楊広から小箱が届けられた。てっきり毒薬が入っていて、それを服めと言われるのだとばかり思っていた宣華だったが、開けてみると、中に入っていたのは楊広のラブレターだったというのだ。なんというか、面白すぎる筋書きである。

 以上の話はどこまで本当かわからないが、煬帝が陳宣華と通じたのは事実であろう。
 父の愛人と通じるというのは、漢民族的価値観からすると、これほどの非道はない。直接の血のつながりはなくても、父親の妻妾は母親に準じたものとして考えられるので、煬帝の行動は、現代のわれわれの感覚で言えば、自分の母親を犯したのに近いのである。もちろん陳宣華の方が年下だったろうが。
 ただし、この感覚は漢民族ならではのもので、周辺の遊牧民族にはこの考え方はなく、首長が死ねば、その妻妾もろとも後継者に相続されるのが普通である。さすがに実の母親だけは別だが、相続した妻妾の中に気に入った若い女がいれば、手をつけても構わない。
 隋王朝の楊氏というのは、実は鮮卑だったのではないかという説が、古くからささやかれている。北周の武帝の頃、普六如(ふろくじょ)なる鮮卑臭い姓を賜ったということになっているが、もともとそれが本姓だったのではないかというのだ。もしそうでないとしても、文帝の母も、そして煬帝の母独孤氏も、れっきとした鮮卑貴族であり、彼らの血の中には濃厚に鮮卑の血が混ざっている。
 煬帝が父の愛妾である陳宣華を犯したことも、楊氏=鮮卑説の有力な傍証とされている。
 なお、のちのことになるが、隋に取って代わった唐でも、似たような話がある。3代皇帝の高宗が、父の太宗の後宮にいた女を愛し、皇后にしてしまったのだ。のちに中国史上唯一の女帝となった武則天(則天武后)がその相手で、この高宗の振る舞いも、漢民族的道徳観からすると信じがたいことである。唐王朝の李氏もまた、実は鮮卑ではないかと言われている。隋の楊氏と同じく、北周の重臣である八柱国の出身であるし、創始者高祖李渕(りえん)の母親は、煬帝の母親と同じ独孤氏、それも文帝の独孤皇后の妹に当たる女であった。つまり、煬帝と唐の高祖は、母方の従兄弟同士ということになる。

 限りなく疑わしい即位をした煬帝は、皇帝になると、人が変わったように鷹揚で意欲的になった。
 そもそも文帝という男はケチで、大帝国の主となっても大した国都造営をやろうともせず、後宮も(独孤皇后の眼が光っていたせいもあるが)ごく小規模、不要不急の工事などもほとんどしなかった。そのせいか、彼の23年の治世中、隋王朝の財政は非常に豊かになった。
 煬帝は、親父が爪に灯をともすようにして貯め込んだ財貨を、湯水のように使って大事業を始めたのである。
 この点、しばしば較べられる秦の始皇帝より、むしろ漢の武帝に似ているかもしれない。武帝も祖父文帝、父景帝の代に貯め込まれた財貨を思い切りよく放散して大事業をおこなった。一代でほとんどそれを蕩尽してしまったのも同様である。ただしその大事業というのが、武帝の場合は領土拡張のための大侵略戦争であり、煬帝の場合は大運河の開鑿(かいさく)であったという違いがある。どちらも多くの人的犠牲と財政破綻を産み出したことに変わりはないはずだが、武帝が最大の名君と呼ばれ、煬帝が最大の暴君と呼ばれるのはどうも納得できない。というより中国人の考え方をよく示していると言うべきだろうか。
 煬帝は対外戦争もやっているが、これはあまりうまく行っていない。高句麗(こうくり)にはついに勝つことができなかった。
 高句麗はなかなか息の長い国家で、建国は1世紀のことである。三国時代には公孫氏に圧迫されたり、魏の将軍毋丘倹(かんきゅうけん)に壊滅的なダメージを与えられたりしていたが、その後の中国大陸の混乱で息を吹き返し、五胡十六国や南北朝でごたごたしている間に大いに国力を伸張させ、朝鮮半島北半から現在の東北三省(満洲地方)にまたがる広大な版図をもつ大国になっていた。隋は文帝の代から高句麗に対してしばしば攻略を仕掛けたが、遠すぎるための食糧補給の困難さや、冬の厳寒などによってその都度失敗していた。隋が早く亡びた原因は、大運河よりもこの高句麗遠征にあったと論ずる史家もいる。

 ところで、煬帝が即位して3年後の607年、日本からの国書が届いている。
 ──日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや?
 という聖徳太子の有名な書簡である。
 大和朝廷の力を妙に過小評価したがる一群の歴史学者がいて、この書は九州の豪族であったタリシヒコなる者が勝手に出したのだという説を唱えているが、同年に中国に使者を派遣していることは日本書紀にも記されているので、まず聖徳太子のものと考えて間違いはないだろう。
 はっきり言ってこれは破天荒な書簡である。中国的観念からすれば、天子というのはこの世にたったひとりしかいない。ふたり以上いれば、それは偽称であり、どんなことをしても排除しなければならない存在となる。つまり、これは宣戦布告書と見られてもやむを得ない書き方をしているのだ。
 しかし、周辺各国が中国の覇権を認め、宗主国としての礼をとっているところへ、堂々とタメ口を張ろうとした大和朝廷の意気は壮とすべきだろう。世間知らずとか、日本は昔から国際常識というものを知らなかったのだとか、言うのは簡単だが、現在の日本人にこれだけの気概があるだろうか。
 ただし、意気は壮だったものの、空振りに終わった。
 煬帝はこれを読み、
「蛮夷というのは手紙の書き方も知らんようだ。こんな無礼な国書は、もう取り次がなくてよろしい」
と言っただけだったのである。
 ──煬帝は激怒した。
 と、日本人の書く歴史の本にはよく記されているが、中国側の史料にそんな記述はない。「不悦よろこばずと書いてあるだけである。激怒させたのではなく、どうやらただ笑い物にされただけだったようだ。哀しいかな、ニッポン人。
 激怒したのでない証拠に、煬帝はちゃんと返答使の裴世清(はいせいせい)を帰国する小野妹子に同行させている。大帝国の皇帝らしい鷹揚なところを見せたのであろう。日本相手に限らず、煬帝は外国の使者に対してはひどく鷹揚なポーズをとる男であった。皇帝が本当に激怒したなら、使者の小野妹子は頸をはねられていたはずである。
 天子という言葉の使い方については、そう遠くない過去、あちこちで天子を自称する連中が割拠していた時代が続いていたため、後世のそれほど神経質ではなかったとも考えられる。これが宋や明だったら大変なことになったろう。

 さて、始皇帝の長城建造(第2回に述べたように、実際は補修に過ぎないが)と並び称される煬帝の運河開鑿だが、運河は610年に竣工している。
 前回の最後で書いたように、このころ南方の生産力が飛躍的に上昇しており、北方との格差が目立つようになっていた。北方は南方の農作物などに頼らざるを得ない状態だったのである。
 しかし、陸上輸送というのはなんと言っても非効率である。手間の点でも経費の点でも、船による輸送の方が遙かに効率がよいのは今も昔も変わらない。陸上輸送の方がずっと高速になった現代でもそうなのだから、人力に頼らなければならなかった当時はなおさらである。
 南北を結ぶ運河の開削は、統一国家となった隋にとっては、必要不可欠な工事であった。
 全国から厖大な人夫を徴集し、苛酷な労働を強いたのは事実であろう。が、いずれは誰かがやらなければならなかったのだ。
 これよりのちの王朝は、みなこの運河の恩恵をこうむっている。それを考えれば、後世は煬帝にこそ感謝の念を捧げなければならない。

 が、伝統的史観においては、煬帝はことのほか南方の風情を好んでいたので、その旅行の便宜のために運河を造っただけで、民生のことなど考えてもいなかったということになっている。その証拠に、最初のうちは民間人が運河を利用することはできなかったという。
 これも、煬帝を必要以上に貶めようとしている考え方としか言いようがない。
 手間と経費をかけて、ようやく竣工した運河を、その施主である煬帝が、豪華船で上り下りしたいと考えたところで、別に非難される筋合いはないではないか。民生用に使わせなかったというのも、国庫に納める年貢の運搬が最優先だったのだから、当分はやむを得ないだろう。唐代になってからは民間にも開放され、人々は大いに利用したのである。
 あまりに急いだ工事がさまざまな無理を惹き起こしたのは事実としても、運河を造ったことは煬帝の功績のひとつであり、決して責められるべき事業ではなかった。
 動機のひとつに、好きな南方へ豪華船で旅行したいということがあったにせよ、政治業績というのは結果で判断すべき事柄である。動機論を持ち出しても仕方がない。

 繰り返しになるようだが、運河工事が煬帝の(そして隋王朝の)命取りになったのではない。隋王朝をつまづかせたのは、やはり高句麗への不毛な遠征だったのである。
 そして、高句麗への遠征の失敗を糊塗するかのように、むやみと豪勢な離宮をあちこちに建てたこと。三国時代の曹操(そうそう)は赤壁の戦いで敗れたのち、都に帰って銅雀台(どうじゃくだい)なる宮殿を造って、自分はちっともダメージを受けてはいないということを誇示したが、失敗した政治家が考えることはいつの時代もあまり変わらないようだ。庶民はたいていもっと賢く、いい気なもんだと冷ややかに見ていることが多いのだが。
 煬帝が南方を愛したことは上述した。北方の埃っぽい、黄色く乾いた景色よりも、水気の多いしっとりとした景観を喜んだのは、日本人から見れば実に理解しやすい心事である。
 隋の首都は、長安にほど近い(ほとんど重なっていると言ってよい)大興(だいこう)であったが、煬帝は長江沿いの風光明媚で知られる楊州(ようしゅう)を江都(ごうと)と改称し、副都とした。文帝時代から手をつけられていた大興城も巨大だったが、煬帝は江都にさらに巨大な宮殿を築こうとした。仙人がやってきても迷うくらい広く手が込んでいるということで、迷楼(めいろう)という仮称が与えられていた。
 始皇帝も阿房宮なる大宮殿を建てようとしたが、完成前に死んだ。そして煬帝も、迷楼の完成を見ることなく命を落とすことになった。巨大建築というものは、ほどほどにしなければならない。

 煬帝の意欲的な事業の数々は、文帝がちまちまと貯め込んだ遺産をたちまち食いつぶし、あとは税を厳しくするしか方法はなかった。
 税が上がり、その率及び量が生存に関わるレベルとなれば、中国の人民は蜂起する。いろいろ文句や苦情があっても、生きてさえいられれば中国人というのはすこぶる我慢強い民族なのだが、これ以上搾取されては生きてゆけないという臨界点に達した瞬間、たちまち何万何十万という叛乱軍が成立してしまう。卓越した煽動者や指導者がいるわけではない。本能的な反射運動と言うべき現象なのだ。
 歴代王朝が衰微するのは、たいていそうやって立ち上がった叛乱軍の鎮圧に追われはじめてからである。何度も同じことが繰り返されているというのに、歴代王朝末期の皇帝や重臣たちは、なぜか必ずその臨界点を読み間違えてしまうらしい。
 一旦大規模な叛乱が起きると、その鎮圧のために軍を動かすから、さらに金が必要になる。しかも叛乱が発生した地域からは年貢が入らなくなるから、取れるところから取るということにならざるを得ない。そうするとその地域でも叛乱が発生する。かくして叛乱は連鎖反応となって王朝を潰すことになる。
 隋の末期は、まさにその典型的な状態であった。

 もっとも、はっきりと煬帝に叛旗を翻した最初の人物は重臣楊玄感(ようげんかん)であった。彼の父の楊素(ようそ)は煬帝冊立に尽力した功臣だったが、いささか功を誇るあまりに大きな顔をしすぎて煬帝に退けられ、失意のうちに病死した。その子である楊玄感はもともと煬帝に対して含むところがあった。
 が、こういう、重臣の私怨によるクーデターというのはたいてい失敗する。民衆の支持がないためである。楊玄感は北周以来の貴族である李密(りみつ)を参謀にして謀反の兵を挙げたが、あえなく鎮圧されて、敗走中に弟に自分を斬らせて果てた。
 李密は李密で天下に野心を抱いていた。彼は敗残の楊玄感の陣営から逃げ出し、その後櫂襄(てきじょう──最初の文字は実際には木ヘンがない)という流民の親分のもとへ転がり込み、その軍団を操ることになる。
 この李密の動きが典型的だが、食うに困って起ち上がった流民たちの上に、野心を抱く地方豪族や知識人が乗っかって、流民のエネルギーを自分の兵力として利用する、というケースがよくある。後漢の光武帝もそういう形で天下をとった。流民たちこそいい面の皮であるが、彼らは上にそういう存在を戴かなければ、戦利品や糧食をうまく分配することさえできないのである。いちがいに豪族や知識人を強欲だとか狡猾だとか言えることでもない。
 隋末、最終的に天下をとった唐も、同様の形であった。ただし高祖李渕は、たかだか地方長官とはいえ一応隋の重臣でもあり、古い家柄の名家でもあったために、自前の兵もかなりたくさん抱えてはいた。

 生産力の低い北方でまず叛乱が多くなったのは自然の成り行きであろう。煬帝は鬱陶しくなったのか、616年になると大興城と洛陽に孫を残して、自らは文武百官を引き連れて江都へ行幸し、そこに腰を据えてしまった。
 最初のうちこそ叛乱の鎮圧に奮起していたものの、あまりにあちこちで火の手が上がるので、ほとほと嫌気がさしてしまったのだろう。煬帝は果敢な男であったが、反面飽きっぽくもあった。
 江都に移ってからの煬帝は、ほとんど北方の争乱に対する対策を施していない。おそらく彼の心の中ではすでに、華北地方は棄てられていたのだろう。南北朝の時代はまだ人々の記憶に新しいのである。豊かな南方の生産力を背景に、新しい南朝として国を保とうという考えが煬帝にあったとしても不思議ではない。
 叛乱軍対策も立てずに、煬帝は迷楼で毎夜飲み明かしていた。ある時鏡を見ると、すっかり酒焼けしてむくんでしまった中年男の顔が映った。煬帝は鏡を見て首筋をさすりながら、近くにいた皇后の蕭(しょう)氏に向かって、
「いい頸だ。誰がこの頸を斬ることになるだろうな」
と言ったという話が伝えられているが、この時期には新しい南朝の保持も無理と思っていたのだろうか。

 結局、煬帝を斃したのは、叛乱軍ではなかった。彼が大興城から連れてきた、虎の子の近衛兵たちだったのである。
 煬帝は江都に腰を落ち着けて、ここで果てても後悔はないつもりだったろうが、無理矢理連れてこられた将兵たちにとってはたまったものではなかった。江都滞在が3年目に入ると、もう気が気でなかった。北方では叛乱軍同士が殺し合っている。彼らの故郷は北方だし、家族や親戚もみんな北方にいた。それらの安否も気遣われた。
 北へ帰りたい、という近衛兵たちの要望が、上へ波及した。
 皇帝がどうしても帰らないと言うのならば、皇帝を殺してでも帰るというところまで不満が高まった。もはや将軍や重臣たちにも手のつけようがなかった。兵たちを抑えようとすれば、自分が殺されてしまいかねなかった。
 右屯衛将軍の宇文化及(うぶんかきゅう)はとうとう決断した。彼は兵を率いて煬帝のもとへ押し掛けた。

 近衛将校のひとりが白刃を捧げ持って煬帝に近づいた。
 「誰の謀反だ?」
煬帝は落ち着いて訊いた。
「天が下、ことごとく陛下をお恨み申し上げております。ひとりの人間が主謀したわけではございません」
将校はそう応えた。
「だが、朕にいったいどんな罪があったというのだ?」
「陛下は宗廟を棄ててかえりみず、遊んでばかりおられた」
別の男が応えた。
「無謀な遠征をおこない、宮中では奢侈をきわめられた。壮丁を無駄に戦死させ、女子供を窮死させ、人民はみな路頭に迷い、盗賊が横行するに任せられた。佞臣ばかり近づけ、諫言に耳を貸さなかった。これで罪がないと言えましょうか」
 煬帝はやれやれという顔で、
「よくわかった。だがその物騒な光り物は片づけよ。天子の死には作法がある。天子のからだに刃を当てることは許されぬ。毒を服ませるがよい」
 だが、煬帝の希望は聞き届けられなかった。煬帝は諦め顔で、腰の帯を解いて近くにいた将校に渡した。将兵たちはその帯を煬帝の頸に巻き、左右から思い切り引いた。……

 煬帝を弑殺した連中は、念願通り北帰行を開始したが、すでに華北地方は群雄割拠の戦乱状態になっていた。宇文化及に率いられた軍勢は、まさに弱肉強食の世界に割り込んで行くことになってしまったわけだが、皇帝をその手に掛けたという負い目は覆いがたく、軍団の士気は著しく低かった。至る所で打ち破られ、部将も次々と脱落し、最後は河北の驍将竇建徳(とうけんとく)に攻められて、溶けるように消えて行った。
 最初に書いた通り、各地の叛乱軍の中で、煬帝の血縁の者を担いで皇帝と称せしめたケースも多かったが、泡沫候補ばかりで、それらに触れる意味はあまりない。やはり隋は良くも悪くも、「大皇帝」煬帝の暴走で幕を下ろしたと考えるべきであろう。
 煬帝の享年は50歳。奇しくも始皇帝と同じ齢であった。

 (1999.7.4..)


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