LAST EMPERORS

第8回 五胡十六国と南朝の巻

 東晋が亡びた420年、北方には匈奴(きょうど)族の及び北涼鮮卑(せんぴ)族の北魏西秦及び南涼、漢族の西涼及び北燕の、都合7つの政権が割拠していた。いわゆる五胡十六国時代であって、五胡というのは5種類の異民族、匈奴(けつ)・鮮卑(てい)・(きょう)のことだが、十六国の中には漢族政権も3つ含まれている。その16のうち、この時までにすでに9つは亡びていたわけである。
 ごく少数の例外を除いて、いずれも小領域を支配するだけの、言ってみれば地方政権なので、それぞれに皇帝を名乗っていても実質はない。従って、これらの国々については、詳述を避け、その興亡を簡単に触れるにとどめよう。国号のあとに数字がついているのが十六国である。

 西晋を亡ぼした匈奴政権劉漢は、劉渕(りゅうえん)、劉聡(りゅうそう)のあと、少々お家騒動があったのち、318年に洛陽・長安攻略の殊勲者であった劉曜(りゅうよう)が立ち、国号を(ちょう)と改めた。しかし、有力な将軍だった羯族の石勒(せきろく)──あの王衍(おうえん)と問答し殺した男である──が離反し、同じ趙を名乗って自立した。劉曜の趙を前趙(1)、石勒の趙を後趙(2)と呼び分けるが、建国はほとんど同時であり、ただ後趙の方があとに亡びたので「後」がついていると思えばよい。前趙(1)の劉曜は帝位に就いてから堕落し、酒色に溺れているところを後趙(2)軍に攻められて捕らわれ、のち殺された。皇太子もほどなく殺されて、前趙は329年に建国11年(劉漢から数えて25年)にして亡びた。
 前趙(1)を亡ぼした殊勲者は石勒の養子だった石虎(せきこ)である。この男は武人としては卓越していたが、痛快なまでに粗暴でもあった。石勒が死ぬと、仁君の誉れ高かった後継者の石弘(せきこう)をあっさり殺して自ら帝位に就き、およそ暴君のやりそうなことはなんでもやったようである。18万と言われる軍勢を、趣味の狩猟のために動員する。宮女の首をはねて、その首を皿に載せて眺めながら酒を呑む。胴体の方は他の肉と一緒に煮て食べたらしい。大建築を好んだのはもちろんである。古代の陵墓を荒らして宝を集める。残酷な刑罰を好み、わが子である石宣(せきせん)を殺した時などは胸が悪くなるほどのサディストぶりを発揮している。もっとも、敬虔な仏教信者だったとも言われるからわからないもの。
 どうも、多少大げさではないかと思われないでもないが、石虎が暴君であったのは確かだろう。人心は離れ、彼の死後まもなく、351年に後趙(2)は建国31年にして亡びた。
 後趙(2)を亡ぼしたのは、石虎の養子でもあった漢人将軍の冉閔(ぜんびん)で、彼は自立してという国を建てたが、たちまち前燕(3)に併呑された。冉閔の魏(冉魏)はあまりに短命のためか、十六国には数えられない。

 その前燕(3)は、鮮卑慕容(ぼよう)部が建てた政権である。燕というのは現在の北京周辺だが、当時の中国の地理感覚としては、東北の辺境というイメージであった。辺境で力を蓄えて次第に西へ勢力を伸ばし、中原へ躍り出たのが350年代ということになる。その勢力は華北を統一するかに見えたほどだったが、新興勢力である氐族政権の前秦(4)に阻まれることになった。前秦(4)は後趙が亡びた時、西方にいた氐族の首長蒲洪(ほこう)が自立して建てた国である。蒲洪はこの時姓を苻と改め、苻洪と称した。
 前燕(3)と前秦(4)とは20年近くにわたって、中原の覇権を賭けてにらみ合っていたが、前燕(3)内部で内訌があり、それに乗じた前秦(4)皇帝苻堅(ふけん)により前燕は亡ぼされた。建国63年、370年のことである。これにより、華北は一旦前秦(4)によって統一される。五胡十六国時代の前半と後半を分けるエポックである。
 苻堅は自分の民族である氐族を遠方に追いやり、亡ぼした前燕(3)の遺民と入れ替えた。民族の枠を取り払って平等な世の中を作ろうとしたらしい。一種の空想的理想主義者であった。漢人王猛(おうもう)を補佐役としてつけ、理想主義的な施策を次々と打ち出したのである。前秦の国力はこれにより大いに伸張した。
 が、王猛の死後は、「空想的」な部分の方が先走るようになり、ついには自分が天下を統一する使命を帯びていると思いこみ、敵の事情もよく調べないで南征の軍を起こし、東晋を亡ぼそうとした。結果、淝水の戦いでよもやの敗北を喫したのは前回書いた通り。

 この敗戦で、せっかく統一した華北も14年で統一が破れ、384年にはまたもやいくつもの地方政権が群がり興る。東方では前燕(3)の皇族慕容垂(ぼようすい)が後燕(5)を、同じく慕容沖(ぼようちゅう)が西燕を建国。ただし西燕はやがて後燕に吸収され、なぜか十六国には数えられない。
 また前秦(4)の首都長安は羌族の姚萇(ようちょう)に乗っ取られる。姚萇は秦の名を継承した。これを後秦(6)と呼ぶ。西方では1年遅れて鮮卑乞伏(きっぷく)部が独立し西秦(7)を建てる。
 この頃から、北辺で力を伸ばしていた鮮卑拓跋(たくばつ)部の北魏が、無視できない勢いになってきた。この北魏がのちに華北を統一し、次の南北朝時代の幕を開けることになるので、北魏自体は十六国に数えない。
 北魏は398年に、内訌で混乱した後燕(5)を攻めてその領土の一部を奪った。これにより孤立してしまった山東地方で、後燕の皇族のひとり慕容徳(ぼようとく)がやむなく自立し、南燕(8)を建てた。これは12年後の410年、東晋の実権を握った劉裕(りゅうゆう=のち武帝)により亡ぼされる。
 劉裕は417年に後秦(6)も亡ぼしている。しかし後秦が割拠していた長安附近を制圧することはなく、そのまま建康に帰って行った。彼は東晋を簒奪するべく、単に権威と人気を高めようとしただけであったらしい。
 空白地帯となった長安附近には、オルドス地方に興った匈奴赫連(かくれん)部の夏(10)が入り込んでここを領有した。夏(10)は西秦(7)も431年に亡ぼしたが、同じ年に自らも吐谷渾(とよくこん=鮮卑慕容部の一派)に亡ぼされた。吐谷渾は特に王朝を作っていない。 
 一方東方へ逼塞した後燕(5)は409年に漢人馮跋(ふうばつ)に乗っ取られる。馮跋は燕の国号を継承したが、史家は彼の政権を北燕(9)と呼んでいる。北燕(9)は27年後の436年、北魏に亡ぼされた。 

 劉漢が興った頃、劉渕の勢力によって洛陽と分断されてしまった四川の地で、李特(りとく)が自立した。成漢(11)と呼ばれる政権である。中原が混乱していたので案外長持ちし、4代43年を経て、東晋の桓温に亡ぼされた。劉備の蜀と同じくらいの版図と同じくらいの寿命があったのに、この国について語られることは少ない。
 西域方面では、五涼と呼ばれる地方政権が興亡した。まず317年に漢人張軌(ちょうき)が自立して前涼(12)を建て、59年を経て376年に前秦に亡ぼされる。淝水の大敗戦後の386年、氐族の残党が逃げてきて後涼(13)を建てるが、よほど政治が悪かったのか、397年に北涼(14)南涼(15)が独立してしまう。さらに400年には西涼(16)も自立し、後涼(13)は403年に、建国17年にして溶けるように後秦(6)に吸収された。また南涼(15)は414年に西秦(7)に吸収され、421年には北涼(14)が西涼(16)を併呑し、その北涼(14)も439年には北魏に亡ぼされた。北涼が十六国では最後に残った国であり、その滅亡をもって五胡十六国時代は終焉した。
 この頃すでに東晋は劉裕に簒奪されて、南方には宋王朝が始まっていた。そして華北を統一した北魏とにらみ合うことになり、ここに南北朝時代が開始される。

 南北朝の国々のうち、南朝は宋から始まって斉・梁・陳といった王朝が興亡する。また、北朝たる北魏はそのうち東魏西魏に分裂し、さらにそれぞれの実力者に簒奪されて北斉北周となり、北周が北斉を亡ぼすが、その4年後に北周もまた臣下に簒奪される。この簒奪した臣下こその文帝楊堅(ようけん)で、彼が南朝の陳をも亡ぼして、400年ぶりに中国を統一するのである。
 では、各王朝の興亡と、ラストエンペラーたちをざっと見てみよう。

★宋(420-479)★
 東晋の恭帝から帝位を奪った劉裕=武帝は建国3年を経て死んだ。この男は貴族制社会と言われた六朝時代には珍しく、庶民の出で、一兵卒から成り上がって皇帝になったが、同じような経歴を持つ漢の高祖や明の太祖などと較べると、幕僚に大した人物がいなかったのが致命的であった。そのため、東晋以来の家柄誇りをする貴族たちをそのまま重用せざるを得なかったのである。これは宋だけの問題ではなく、続く斉・梁・陳でも、トップだけは次々と代わったが、それを支える貴族制社会は微動だにしなかった。
 武帝の治世は短かったが、倭王が彼に対して朝貢をしている。倭王讃というのは応神天皇説、仁徳天皇説、履中天皇説、大和朝廷と関係のない九州あたりの豪族説、などが唱えられているが、一応仁徳天皇説が有力である。晋について書かれた史書にはほとんど姿を見せない倭国が再び現れたわけだが、応神天皇はその前の仲哀天皇とは関係のない人物で、半島あたりから進出して日本を支配したという説もあるところを考えると、新しい倭国の支配者として大陸に仁義を切ったというところかもしれない。

 宋は59年続いた。武帝の死後、皇太子が即位したが、なぜか徐羨之(じょせんし)らによって殺され、弟の文帝が立つ。文帝は20年近くにわたってなかなかの善政を施したが、あろうことか皇太子に殺されてしまう。皇太子が出来が悪かったので廃そうとしたためである。父を殺した皇太子は、それまで協力的だった叔父が逃げ出すと、その子(自分の従兄弟)らを皆殺しにした。
 弟の武陵王劉駿(りゅうしゅん)が皇太子を討ち、孝武帝となったが、被害妄想にかられたのか、兄弟や皇族たちを次々と殺した。自分は27人とも28人とも言われる子を作ったオットセイのような精力の持ち主で、皇族を殺戮したのはその子供たちに与える領土を得るためだったのかもしれない。
 孝武帝はアル中になって35歳で死んだが、あとを継いだ皇太子が暗愚だったので、孝武帝の弟劉彧(りゅういく)がそれを殺して自ら明帝となった。明帝は兄の孝武帝の28人のうち16人を殺し、残りの12人は明帝の皇太子劉昱(りゅういく)が帝位に就いてのち殺された。もっとも劉昱は10歳で即位して15歳で死んだので、従兄弟たちを殺したのは彼の意思ではなかったかもしれない。

 劉昱は重臣蕭道成(しょうどうせい)の専横を抑えようとして逆に殺されたということになっている。死後帝号も貰えなかった。蕭道成は劉昱の弟、11歳の劉準(りゅうじゅん)を擁立して順帝とし、翌々年順帝を廃して自ら帝位に就いた。すなわち斉の高帝であり、ここに宋は亡びた。
 順帝はほどなく高帝に殺された。彼は13歳で譲位する時、
 ──もう二度と、王家なんぞに生まれたくないものだな……
 と呟いたという。この言葉は孝武帝の第8子が10歳で殺される時に言ったのだともいうが、いずれにしても子供が容赦なく殺される時代になってしまった。

★斉(479-502)★
 斉は23年続いたが、前半は高帝とその子武帝の治世で、農民一揆などはしばしば起こっていたものの、比較的落ち着いていた。が、493年に武帝が死ぬと、そのあとはメチャクチャになる。
 武帝の皇太子は武帝に先立つ半年前に病死した。武帝は皇太子の長男の蕭昭業(しょうしょうぎょう)を皇太孫としたが、これは手のつけられない不良少年だったようである。父と祖父がさっさと死ぬように巫女に祈祷させていたというのだからとんでもない奴だ。即位すると、彼は不良仲間を高位高官に就けたり、父の愛妾を自分のものにしたりと、したい放題のご乱行を始めた。
 武帝の従弟であった蕭鸞(しょうらん)は、昭業の即位に当たって後ろ盾になった人物であったが、実は自ら帝位を狙っていた。裏で昭業の乱行をあおり立てつつ、表では厳しく諫めたのである。21歳の昭業はこれになんなく乗せられ、どうしようもない暗愚の皇帝として弑殺されてしまった。彼は自分の女にした父の愛妾とセックスしているところへ踏み込まれ、すっぱだかのままで絞め殺されたのである。情けない死に方であった。

 蕭鸞は昭業の弟の蕭昭文(しょうしょうぶん)を擁立して新しい皇帝としたが、数ヶ月でこれを廃し、さらに殺し、自分が皇帝となった。明帝である。
 明帝は昭業・昭文だけでなく、武帝の子供や孫たちを皆殺しにした。即位時に大半を殺し、4年の治世ののち病床に伏すと、皇太子の蕭宝巻(しょうほうかん)の出来が悪いのが心配になり、残りを殺させたという。明帝という追号だが、全然明君ではなかったようだ。他にも有力貴族を警戒して、身分の低い直属のお目付役を配したりして、信頼を失っている。
 明帝が心配しただけあって蕭宝巻はきわめて不出来な男だった。父の通夜の席で、ある重臣が哭礼(号泣して故人を悼む礼)をおこなっているうち、あまりに大仰な動作をしたため冠が脱げてしまい、燦然たる禿頭が露わになった。これを見た蕭宝巻は腹を抱えて爆笑したという。なんぽなんでも父の通夜で爆笑するのは不謹慎であるし、孝を絶対価値とする中国ではなおさらだ。
 即位後も、佞臣を近づけて、彼らの讒言のままに重臣を退けたり殺したりした。事実上の宰相である尚書令の蕭懿(しょうい)まで殺してしまったが、その弟の蕭衍(しょうえん)が抗議の兵を挙げた。

 斉の皇室はすっかり人心を失っていたので、蕭衍は楽々と建康に乗り込み、蕭宝巻を殺して弟の蕭宝融(しょうほうゆう)を帝位に就け、しかるのちに禅譲させて自ら皇帝となった。明帝と全く同じことをしたわけだが、蕭衍は皇室と縁続きの蕭一族の出とはいえかなり遠縁だったせいか、あるいは人心を一新するためか、斉の国号を廃して、梁と称した。蕭衍、すなわち梁の武帝である。
 蕭宝融は言うまでもなく、禅譲後殺された。15歳であった。和帝とおくりなされる。

★梁(502-557)★
 梁の武帝の治世はよく治まり、南朝随一の名君とされている。40歳で即位したのに、その後47年も在位した長命な皇帝であったため、人心が安定したということもあるだろう。貴族たちへの対策もそつなくこなし、前王朝の皇族の粛正も最小限に抑えた。
 これまで、わりと簡単に、兄弟を皆殺しにしたとか、兄の子を殺戮したとか書いてきたが、これは実は単なる同族内の殺し合いではない。中国は大家族制ということもあり、皇族のひとりを殺すと言った場合、その妻妾から子供から使用人までことごとく殺し尽くすことになってしまう。ひとりにつき千人くらいの処刑者が出るのも珍しくはなく、宋の明帝が孝武帝の子16人を殺したというような場合、全部で万単位の死人が出たものと思われる。広くもない建康城内(現在の南京市も、城壁の内側はせいぜい世田谷区程度の広さである)でこれだけの処刑があれば、政情不安というよりは社会不安を引き起こすことは間違いない。
 粛正を抑えたのは、武帝の温情というよりは、この場合やむを得ぬ社会政策だったのである。

 ところが武帝も60歳を越えるとおかしくなる。この頃大流行の仏教に帰依したのはいいが、入れ込みすぎて自ら捨身をおこない始めるのである。宮廷を捨てて寺にこもるのだが、あわてた重臣たちが一億万銭を寺に寄進して武帝を買い戻すという騒ぎになった。それも一度ではなく、武帝は3回もそれをやっている。老いてから宗教にはまると、往々にして非常識な行動をとるようになるものだ。
 寺院に対しては惜しげもなく予算をばらまいたもので、安定した治政で歳入も増えていたとはいえ、さすがに財政危機が訪れた。
 外交も失敗した。この頃北朝は東魏と西魏に分裂していたが、東魏で内訌があり、実力者の高澄(こうちょう)と反目した侯景(こうけい)に肩入れして、領土を拡げようとしたのである。が、東魏との戦いには大敗してしまった。その後の和議を見ていた侯景は、
 ──こいつはヤバい。このままだと梁は東魏におれを売るぞ。
 と焦った。
 ──梁軍は思った以上に弱体だったな。よし、こうなれば……
 逆ギレした侯景は、軍勢をかき集めて、あろうことか同盟者である梁へと進撃を始めたのである。
 財政危機や、武帝の仏教への異常な傾倒により、梁の国内にも結構不満分子がたまっていた。彼らは侯景の軍に次々と投じ、大軍になって建康を囲んだ。包囲は5ヶ月に及び、餓死者が続出した。埋葬することもできず、路傍に積まれた腐乱死体の汁が溝にあふれたという。

 549年、ついに建康は陥落。侯景は堂々と入城し、武帝の前にまかり出た。このシーンは有名である。
 87歳の老皇帝はさすがに威厳に満ち、その貫禄に侯景は縮こまった。
「卿はどこの生まれで、なにゆえここへやって来たのか? 妻子はまだ北の地におられるのか?」
武帝の問いにも、緊張して答えられなかったという。側の者が代わって答えた。
「彼の妻子は、すべて高澄に殺されました」
「はじめ長江を渡った時、その方にはどれだけの軍勢があったのか?」
侯景はやっと口を開き、ぶっきらぼうに答えた。
「千人」
「して、建康を囲んだ時は?」
「十万です」
「して、今は?」
「天下ことごとく、私の軍勢です」
これを聞いて、今度は武帝が深く頭を垂れた。

 武帝は幽閉され、その年のうちに死んだ。侯景は武帝の皇太子を立て簡文帝としたが、2年後に殺し、その子から譲位されたと称して自ら帝位に就き、国号をとした。が、翌年には武帝の第4子である湘東王蕭繹(しょうえき)の部将である陳覇先(ちんはせん)と王僧弁(おうそうべん)に攻められて敗死。
 蕭繹は自らの本拠地である江陵で即位し元帝となったが、ほどなく西魏に攻められて死んだ。元帝の甥が即位したが、これは完全に西魏の傀儡であり、史家は彼・宣帝の政権を後梁と呼んでいる。
 一方、建康にいた陳覇先は同僚の王僧弁を討ち、元帝の13歳の子を即位させて敬帝(けいてい)としたのち、この敬帝から禅譲されて皇帝となった。すなわち陳の武帝である。
 敬帝が梁のラストエンペラーと言うべきだが、エピソードは何ひとつ伝わっていない。
 梁という国は、事実上武帝ひとりでもっていたようなものだったのである。

★陳(557-589)★

 陳の版図は、ほとんど建康附近だけだった。南朝を通じて副都とも言うべき要所であった江陵は西魏に奪われている。西魏はほどなく実力者宇文覚(うぶんかく)に簒奪されて北周となり、同じく実力者高洋(こうよう)が東魏を簒奪して建国した北斉とにらみ合っていた。この北方の二大国間に緊張があったおかげで、かろうじて生き延びていられたのが陳という王朝である。
 もっとも、どうしようもない弱小国家だったかと言えばそうでもない。第4代宣帝(武帝陳覇先の甥)治下の573年、陳は北斉を大いに破り、北斉の軍事要衝であった寿陽を占拠した。北斉は次回に述べるように暗君が相次いだため、国力としては北周や陳を圧倒するものを持ちながら、将兵に戦意がなかったようだ。
 だが、この戦勝は、陳のためにはならなかった。北斉が陳ごときに負けたのを見て、勢いづいたのが北周だったのである。北周は兵を発して北斉を揺さぶり、4年後の577年にそれを亡ぼしてしまった。陳は文字通り、北周に漁夫の利を得させてしまったのである。

 さらに4年後の581年、北周の静帝は楊堅に帝位を禅譲し、北周は亡びて隋が興った。
 楊堅こと隋の文帝は、表面はまことに穏やかに陳に接しつつ、秋の収穫期になると軍を南下させて脅かす、工作員を潜入させて兵糧庫に放火するなど、陰険な小技を次々と繰り出しては陳を追いつめた。かつて北斉軍を破った宣帝も、文帝相手にはいいようにあしらわれ、憂憤のうちに死んだ。
 皇太子の陳叔宝(ちんしゅくほう)があとを継いだ。
 彼はすでに、陳の命運が尽きかけていることに気づいていたようである。その行動を見ると、いわば「亡びの美学」を全うしようとしたかのように思える。芸術に深い関心と理解を示し、酒と女と歌とに日々を過ごした。名高い「玉樹後庭花」──璧月夜々に満ち、瓊樹朝々新たなり──は彼の作詩である。もはや隋に対抗しようとしても無意味であり、それならば建康周辺の豊富な財力を用いて楽しむだけ楽しみ、むしろ文化の力を後世に示そうとしたのだろう。
 隋はしばらくこの文弱な陳皇帝を放っておいたが、国内整備や、傀儡政権後梁の廃止などが済んで一応安定すると、589年に南征軍を起こした。ほとんど抵抗もなく、隋軍は建康に迫った。
 亡びの美学を追究した男にしては、陳叔宝の態度は情けないものだった。
「玉座にお坐りになって、堂々、賊軍を迎えたらいかがです」
かつて梁の武帝が侯景を引見した時の伝に見倣うべきだという重臣の奨めを振り切り、陳叔宝はなんと数多の妻妾たちと共に、井戸の中に隠れてしまったのである。もちろんすぐに発見され、隋都大興へ送られた。
 文帝の前に引き出された陳叔宝は、がたがた慄えて口も利けなかったという。そんな情けない有様だったせいか、猜疑心が強いことで知られる文帝も彼を殺すことはせず、陳叔宝は天寿を全うすることができた。
 ひとつには、彼の妹の陳宣華(ちんせんか)が非常な美女で、文帝の後宮に入って寵愛されたという理由もあったかもしれない。数奇の美女陳宣華は、おそらく兄の陳叔宝の生命を救ったのみならず、隋王朝の運命を変えたかもしれない存在なのだが、その話は第10回で触れることになるだろう。

 南朝については、最後の陳以外はいずれも子供の皇帝で終わっている。
 もう一度整理すると、禅譲した時、宋の順帝13歳、斉の和帝15歳。梁の敬帝15歳。今の年齢よりは大人に見なされていたかもしれないが、昔だろうと今だろうと15歳は15歳に違いない。そしていずれも、禅譲したあと間もなく殺されている。
 南朝は、少年の悲劇の歴史だったようである。
 続いて北朝についても書くつもりであったが、ここで紙数が尽きた。次に廻したいと思う。

 (1999.6.22.)


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