忘れ得ぬことどもII

「嫌韓」考

 「嫌韓」がブームであると言われます。十数年前の「韓流」ばやりから見ると隔世の感というか、まるで違う社会を見ているようでもあります。まあ「韓流」なるものもマスメディアによって作られたブームというところがあり、乗せられて韓流スターに夢中になったりした女性も多かったようですが、あまり人々に根を下ろした風潮ではなかったと思われます。その後すっかり醒めてしまったばかりか、むしろ「嫌韓」の側に与するようになった人も少なからず居るようです。
 山野車輪氏の「嫌韓流」というマンガが出たのが2005年ごろであったかと記憶しますが、その頃から徐々に、作られた「韓流」に疑問を持つ人が増え始めたようです。もっとも、ネットではそれ以前から、この厄介な隣国の正体を知り、あるいは知らしめようという人々がけっこう存在しました。山野氏のマンガも、そうやってネットで検証された事実をまとめただけではないかと批判されたこともあったようです。ただ、一般書籍として出版された影響はやはり大きかったと思います。
 ちなみに「嫌韓流」から「嫌韓」という言葉が生まれましたが、もともとは「嫌・韓流」つまり「作られた『韓流』を嫌う」という意味のタイトルではなかったのかという気がします。「韓国を嫌う」ということではなかったのではないでしょうか。

 ネット上でいわゆる「嫌韓」が増え始めたのは、「嫌韓流」の発売より数年遡る2002年日韓合同開催ワールドカップが契機となっていると思われます。あのワールドカップにはいろいろと疑問符を付けたいことが多く、サッカー史上の「疑惑の判定」の多くがその時に発生していると言われます。また合同開催に至った経緯もどうもきな臭いし、何よりも韓国側の態度が変でした。日本の観客は、韓国チームがどこかと戦う時はたいてい韓国を応援したのに、韓国のほうでは、日本チームが他の国と戦う時はほとんどの場合相手国を応援していたのでした。共同開催した同志とは思えないような振る舞いが眼に余りました。
 いまではたいていの人が、韓国ならさもあらんと納得するに違いありませんが、当時はまだ韓国のことがあまり知られていませんでした。その常軌を逸したような反日ぶりもさほど表に出てきてはいませんでしたし、

 ──まあ、日本が昔ひどいことをしたわけだから、多少反日的なのも仕方がない。

 と思う人も多かったことでしょう。
 しかし、若い人を中心に、ワールドカップの時の韓国の態度や振る舞いに疑問を抱く人がぼちぼち現れ始め、いったい韓国とはなんなのだと調べはじめたところ、驚くべき実態が明らかになって行ったというのが「嫌韓」初期の様相です。
 もちろんそれまでにも、豊田有恒黒田勝弘、それに呉善花(おそんふぁ)といった人たちの著作で、知っている人は知っている状態だったのですが、やはりネットの伝播力は書籍とは較べものになりません。ちなみに私はこれらの著者たちの本をそれ以前から読んでおりましたので、ネットでそういう言説が多くなっても、特に「驚くべき」という気はしませんでした。
 ただ、上記の著者たちは、基本的には韓国を愛し、日韓が良い関係で居て貰いたいと考える人たちです。済州島生まれで日本に帰化した呉善花さんは、最近は少々生国に絶望を覚えて距離を置きたくなっているかのように見受けられますが、それでも多くの親類縁者の居る韓国を見捨てるつもりはないでしょう。
 ですから、彼らの著書では、韓国のおかしな点を指摘しつつも、できるだけ理解しようと努めており、本当にヤバい事例はぼかされている観があります。
 しかし、ネットで増え始めた「嫌韓」の徒は、出発点が「愛情」ではありません。

 ──もしかして日本人は、韓国人のために不利益をこうむっているのではないだろうか?

 という、ワールドカップを契機とした疑問から出発していますから、それこそ容赦なく、いろんなトンデモ事例を発見しては紹介するという行動が多くなりました。

 また「翻訳掲示板」の出現も、韓国人の生の姿を日本人に知らしめる効果がありました。
 いまは閉鎖されてしまいましたが、「Enjoy Koria」というサイトがあって、そこに日韓双方から書き込める翻訳掲示板が設置されていました。機械翻訳なのでお互い不自然なところはありましたが、それでも相手国のネットユーザーの発言を直接読むことができるのはとても興味深いことでした。私は書き込んだことはありませんが、ちょくちょくROMしていました。
 もともとは「韓流」ブームに乗って「日韓友好」を促進するために設置されたサイトであったと思うのですが、政治や歴史がらみになると激しい論戦になるのも当然でした。閉鎖されたのは、論戦が激しくなりすぎて、むしろ友好のために不適当と考えられたからではないかと思います。
 そこでわかったのは、韓国人が驚くほど偏った教育を受けているという事実でした。よく見受けられたのは、韓国側ユーザーが、自分の受けた教育に基づいて日本を批難し、日本側がさまざまな論拠を挙げてそれに反論し、韓国側はそれらの論拠と自己の主張の矛盾に混乱して、ひどく感情的な叫びを残して打ち切ってしまう……といった光景でした。たぶん、面と向かっていたら大声で叫び続けて日本側の反論を封じ、それで勝ったつもりになったことでしょう。韓国=朝鮮の伝統的な議論というのは、「声闘(ソント)と言って、より大声で相手を威嚇し黙らせたほうが勝ちという、論理も何もないわめき合いでしかありませんでした。ネットでは「大声で相手を黙らせる」ことはできませんので、その点勝手が違ったことでしょう。
 感情的な叫びと書きましたが、往々にしてそれはもう言葉の態をなしておらず、意味不明な文字や記号の羅列になっていました。
 ともかく韓国側の主張が偏りすぎているので、いったい韓国ではどんな歴史教育をしているのかと疑問に思った人も多く、教科書を取り寄せて読んでみるということをする人も出はじめました。
 教科書が日本のような自虐的記述をおこなっている国は珍しく、たいていの国で教科書というのは多かれ少なかれ自国礼賛の傾向があるものですが、韓国のそれは度を越していて、史実とか歴史文献とかいうものとかけ離れているということがわかってきました。基本は
 「過去には高度な文明と広大な版図を持つ輝かしい国であった」
 「それを全部日帝(大日本帝国)がぶちこわして台無しにした」
 というふたつの「前提」、というより「信仰」によってのみ組み立てられた記述だったのです。
 教科書ばかりではありません。かの国では大学教授でさえこんな「信仰」に基づいて発言しているようなのでした。
 それでいて韓国人はふたことめには「日本人は歴史を知らない」と言います。これは韓国人と結婚した知り合いの女性が、まさに亭主からそう言われたと言っていましたから、韓国人一般の「常識」なのでしょう。確かに学生時代、あんまり日本史や世界史に熱心でなかった人も多いでしょうから、そう言われると「そうかも……」と思ってしまうかもしれませんが、彼らの言う歴史とは「自分たちが教えられた歴史」のことなので、日本人が知るわけがありません。
 「そんなウリナラファンタジーなど知ったことか」
 と返すのが正しい反応です。
 ともかく、議論を通じて、韓国人が自分で言うほど優秀ではないこと、論理的に感情をまじえずものごとを考えるのが日本人以上に苦手であること、そして何よりも教育が偏りまくっていることが明らかになってきました。
 一方日本側では、翻訳掲示板での議論のために、多くの文献や新聞記事などを読みあさって勉強する人も増えました。韓国の大手の新聞社は、日本語のサイトも持っていますので、そこで材料はいくらでも手に入ります。そしてweb版の例に洩れず、実際の紙面よりもチェックが甘いので、かえって連中の本音をさぐることができるというわけでした。

 そうやってネット上では、だんだんと韓国の本当の姿を知る層が厚くなってきました。
 少なくともテレビなどで「韓流」ともてはやされているのが、実態とはかけ離れたものであることがはっきりし、そんな「韓流」をなぜメディアがもてはやすのかという疑問からはじまって、テレビ局の「在日韓国人枠」といったものの存在もあぶり出されました。
 こうしてどんどん範囲が拡がって行ったわけですが、そのすべてが、「どうしてこうなんだろう?」という個人の疑問から出発していることに注目すべきです。メディアや政治家にあおられてのことではないのです。
 そして、いわゆる「情報ソース」が、主に上記の韓国の新聞のwebサイトなどであることも見るべきでしょう。想像で論じたり、情報を捏造したりといったことはほとんどしていないと思います。
 韓国の息のかかった勢力はこういった層をネット右翼ネトウヨと呼んでおとしめることに精を出してきましたが、層は厚くなるばかりで減る様子はありません。ついにネットを飛び出して現実世界でのデモも起こり始めました。そしてようやく、近年になって一般書籍や週刊誌などでも同様の記事が載るようになりはじめ、それをメディア側が「嫌韓ブーム」などと呼んでいるというわけです。

 しかし、以上の経緯を顧みてみれば、これはもうブームなどというものではありません。
 ブームという言葉には、「一過性の流行」というニュアンスが含まれますが、そうとは思えないのです。十数年かけてネット内で営々と積み上げられてきたものが、ついに現実社会を動かしはじめたというのが実態です。
 それに「嫌韓本」などと言いますが、読んでみれば坦々と「事実」を紹介しているだけのものがほとんどです。もちろんその「事実」に取捨選択はあって、著者の論調に都合の良いものを採り上げているということはあるでしょう。けれども、情報ソースが大半が韓国発の資料である点、ネットと同様です。「韓国発のニュースや論説をまとめてみたら自然に『嫌韓本』になった」というのは、いったいどういうことでしょうか。
 一般に、国や民族同士の嫌悪感情、差別感情というのは、お互いの理解が進めばだんだんと解消されるものとされています。相手の言い分を知り、お互いの風習や「常識」の違いを認め、親しく接してみれば、嫌悪感というのは薄れてゆくものです。ところが、ネット上で韓国に与えられた称号は、

 ──知れば知るほど嫌いになる国

 というものでした。これもまたネトウヨのたわごとと考える向きもありましょうが、ワールドカップの当時に較べて、韓国人や韓国という国についてよく知っている人ははるかに増えてきたのに、その分だけ「嫌韓」層が厚くなっているのは、たわごとでも煽動でもなく、厳然とした事実です。
 さらに問題は「反韓」ではなく「嫌韓」であるという点です。普通、ある国に対して負の感情を持つ場合、「反(アンチ-)○○」とは言いますが、「嫌(-フォーブ)」という言葉は冠しません。流行語と言えばそれまでですが、「反」と「嫌」の違いは「距離感」ではないかと私は思います。
 「反」は、自分の外部にあるものに対して相反する考えかたや立場を持つという、どちらかと言えばドライな印象があります。国とか政党とか思想とか、ある概念というかまとまりに対するものであって、その中の構成員とか要素とかに対しては特に悪感情を抱かないという場合もあります。
 それに対し「嫌」のほうは、自分の身近にあるもの、居る者を遠ざけたいという、そんな感情であるように思えます。実際、いわゆる「嫌韓サイト」なるものを覗くと、反感を持っているというよりも、

 ──とにかく、もう韓国とは関わりたくない。日本のほうを見ないで放っておいてくれ。

 という意見が多数を占めています。
 韓国について事実上放置状態を続けている安倍晋三総理の評判がけっこう良いのも、そのためでしょう。舛添とか額賀とかいう連中が韓国へ行ってご機嫌伺いのような真似をすると、余計なことをするなとばかり、一斉にブーイングが捲き起こるのでした。
 安倍首相が退陣すれば日韓の仲が改善するかのように言う向きもありますが、それはあまり考えられません。首相が国民をあおって嫌韓の風潮を主導しているのならそういうこともありましょうが、むしろ国民の「距離を置きたい」という気分が首相に放置プレイという態度をとらせていると考えたほうが正鵠を射ているだろうからです。

 私も、別に自分が「嫌韓」であるとは思いませんが、日韓関係が変にベタベタした様相であることには疑問を持っています。普通の、国同士の是々非々な付き合いができればそれで良いと思っており、「隣国だから……」という理由でことさらに友好を強要されたくはありません。だいたい歴史を見ても、隣国同士というのは仲が悪いのがむしろ常態です。近隣諸国を、町内の隣組みたいに考えるのは的を外しています。
 現状が続くなら、日本は韓国に対して、そう遠からずドライでビジネスライクな態度のみをとるようになる気がします。韓国がやっているように、国際場裡で相手の国をおとしめるみたいなことは日本は決してやらないでしょうが、「他人」としての振る舞いをしてゆくことはあり得ますし、むしろそうあるべきでしょう。過去に何があったにせよ、とっくに清算は済ませているというのが若い世代の考えかたです。
 「普通の」二国間関係になれば、嫌韓などは自然と消えてゆくはずです。普通の二国間関係とは、在日韓国人を他の在日外国人よりも優遇するというような状態の解消も含めてのことです。結局、在日の問題を含めて、日本と韓国というのはまだちゃんと「外国」になりきっていないのではないでしょうか。韓国政府が日本に対してしばしば平気で内政干渉みたいなことを言ってくるのも、日本が「外国」である、という意識が欠けているからであるかもしれません。まるで地方自治体の長や議会が国に文句をつけているみたいなレベルの言いがかりが大変多いのです。
 日本側も「昔のよしみ」でそれにいちいち対応していたのが、もういい加減にしたらどうだという気分が支配的になってきたのでしょう。その端的な表れが「嫌韓」という形で出てきていると見るべきです。この気分を解消するためには、「理解を深める」「友好を深める」ことは役に立ちません。そんなことはこの何十年続けてみて、かえって逆効果であったことははっきりしています。「距離を置く」「ちゃんと外国になる」のがどう考えてもいちばんです。いまはその過渡期と考えて良いのではないでしょうか。

(2014.11.1.)

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