忘れ得ぬことどもII

災厄の月の終わり

 いろいろな意味で大変な3月でした。東日本大震災で亡くなったかたがたはもとより、住む家や家族を失ったかたがた、もちろん生涯忘れ得ぬ衝撃を受けられたことでしょう。原子力発電所が大変なことになった福島の人々も、直接的な放射線被害に加えて、さまざまな風評被害によりさんざんな想いをなさっていることと思います。何万人というオーダーの人生が、一瞬にして大きく狂ってしまいました。
 しかしとにかく、生きているのですから、これからも生き続けることが大事です。作物が全部出荷停止になってしまった福島のお百姓さんが、前途を悲観して自殺したというような話も仄聞しましたが、早まったように思われてなりません。今がどんなに苦しくても、生きてさえいればまた陽の当たることもある筈です。
 関東大震災のあと、「復興にまさる供養なし」という標語が流行ったそうですが、まったくその通りだと思います。およそ一世紀を経て、同じ言葉が俄然生彩をおびてきたような気がします。なお、「復興」という言葉自体も、その時に世に広まったようです。「復旧」を超えて、あらたな世の中を興そうという、意志と希望と祈りが込められた言葉だったのです。
 生き残った者が生き続け、希望を持って新しい世界を創ってゆくことこそ、亡くなったかたがたへの何よりの慰めとなることを私は疑いません。日本は何度でも蘇ります。

 とにかく、マグニチュード9.0という世界でもワースト5に入る巨大地震をまともにくらって、死者が1万人台(現在の行方不明者を全部ひっくるめても2万人台)で「済んでいる」というのは、世界的に見れば驚愕すべきことなのです。スマトラ大地震の時のように20万人くらいの死者が出てもおかしくはありません。
 地震で倒壊した建造物もごく少なかったようです。やられたのは大半が津波のせいであって、これはまた別の話でしょう。15メートルだか20メートルだかの津波が押し寄せたというのは、たとえて言えば4階建てとか6階建てとかのビルが、横一線に一斉に倒れてくるのに等しいわけですから、揺れには耐えられてもこれにはひとたまりもないでしょう。こんな巨大津波はほぼ千年ぶりで、さすがにそれを予測できなかったことを責めるわけにはゆかないように思えます。
 原発も、揺れそのものは想定内でおさまっていたという話で、今のようなえらいことになったのはやはり津波が直接の原因ですから、本当は震災というより津災(しんさい)とでも呼ぶべきなのかもしれません。
 建造物の耐震性については、やかましく言われていただけのことはあって、見事に成果が顕れたと私は思います。詳しい検証はこれから専門家の皆さんにお願いしたいところですが、日本の耐震技術がとてつもないレベルのものであったことは、はっきりと証明されたのではないでしょうか。震災のせいで日本の信用ががた落ちになったと心配する人が多いですが、おそらく他の地震多発地域で、これから日本の耐震技術はおそらくひっぱりだこになることでしょう。
 原発については今のところ楽観はできませんが、もしこれをうまく収拾することができれば、これまた多くの原発利用国から参考にされるに違いありません。その意味でも、関係者にはなんとか頑張っていただきたいものだと念じます。
 数年間は苦しい時が続くかもしれません。しかし、われわれにはそれを乗り越える叡智が備わっていると信じています。

 東北の惨状をテレビなどで見れば、関東地方の停電などは大したことではないかもしれません。

 ――停電のせいで、首都圏の人々が被害者意識を持ってしまい、本来の震災被害者へのいたわりを忘れてしまうのではないか。

 という、うがったようなひねくれたような観測を述べる論者も居たようですが、いまだに連日のようにテレビで流されている惨状を見せられながら、自分らのほうが苦労しているなどと思う人はほとんど居ないでしょう。日本人はこの論者が考えているよりは、もう少し思いやりを持っている筈です。
 確かに最初の数日は混乱しました。人々は怒りの声を上げました。ただ、多くの人々が憤っていたのは、情報の発信が遅すぎ少なすぎ、なおかつ整理されていないということについてであって、停電そのものはやむを得ないことだと考えていたのが大部分ではないでしょうか。
 5つのグループが何サイクルか繰り返されるうちに、だんだんと落ち着いてきたように思われます。また、節電の考えが行き渡ってきて、最近は停電が回避される日が多くなりました。東京電力のホームページにある電力使用状況グラフをよくチェックしているのですが、ほぼ毎日、ピーク時でも供給可能量の90%くらいで推移しており、去年の同時期に較べると80%以下の電力需要で済んでいます。これから野球のナイターが始まったり、ディズニーランドなど大規模なアミューズメントが再開したりすればどうなるかわかりませんが、一般の人々は、電力少なめの生活に徐々に馴れてきているように見受けられます。店の看板は別にネオン煌々でなくても構わないし、店内の照明が多少暗くてもそんなに困りません。

 ――なんだ、結構これでも大丈夫じゃないか。

 と思う人が多くなってきました。
 堺屋太一氏によると、人間には本来、「有り余っているものを大量に使うのは格好の良いことだ」という「雄々しい価値観」と同時に、「足りないものを節約するのは正しいことだ」という「優しい英知」が備わっているのだそうで、電気が足りないとなれば、節電が正しく、電力を多く消費するモノやコトは「不正」と見られるようになるのが自然の流れというものです。節電の我慢がいつまで続くものやら、と皮肉に眺めている評論家なども居ますが、一旦それが「価値観」となってしまえば、「我慢」という不自然な心性からは遠ざかるでしょう。製造業の不振を心配する向きもありますが、これからのトレンドは省電力製品となってゆくに違いなく、それに気づいたメーカーは有卦に入るかもしれません。個々に見れば、発想を切り替えられないメーカーは落ち目になるでしょうから、没落する人も多く出そうですが、トータルで見た場合の日本の底力は、決して失われていないと思います。

 大変な時こそチャンスは多いとも言えます。その意味では、「自粛ムード」がいつまでも続くのは感心しません。むしろ新しいことを始めてみてはいかがかと思います。
 前にも触れた宝永の大地震の時は、直後に富士山の爆発があったりもして、世間全体が恐れおののき、すべてが自粛ムード一色となりました。幕府さえも派手なことを控え、倹約を徹底しましたので、長期にわたる不景気となり、すぐ前の時代である元禄の華やぎはもはや二度と戻ってきませんでした。この歴史的教訓を無駄にすべきではありません。
 実際、関東大震災の時には無駄にしませんでした。復興院総裁となった後藤新平は、すかさず帝都大改造計画をぶちあげ、復興需要の喚起と共に、人々の希望をかき立てたのでした。あいにくと後藤の構想が遠大すぎて、実現したのは銀座周辺の街造りだけでしたが、ともかくすみやかに花火を打ち上げたということが重要でした。
 そういうことができる政治家を考えてみると、どうも石原慎太郎氏くらいしか思い浮かびません。4回目の都知事になるよりも、復興の牽引役として、後藤に匹敵する大構想をぶち上げて貰うほうが、ずっと有効ではないかと愚考いたします。

 私の家は、揺れは大きかったものの被害はごく軽微でしたし、計画停電の区域には入っているものの実際に停電したのは3、4回でさほど不便していませんし、まあ文句を言ってはバチがあたるような状態です。
 ただ、地震のあと、いろんな仕事がキャンセルになったのには少々参っています。
 印税・著作権収入とか、作曲編曲料などは、不安定な上に僅かなもので、私の家計は、ピアノや合唱の指導とか、演奏会の出演料とか、言ってみれば日銭頼りです。
 地震以来、合唱指導が2回、作曲の指導が1回、それに演奏会が1回キャンセルになったもので、正直なところ一ヶ月の食費分くらいの収入が入らなくなってしまいました。間もなく住民税やら固定資産税やら国民年金の保険料やらを納めなければならない時期になりますし、かなり心配な懐具合になっています。
 いろいろなイベントが中止されるのはやむを得ないかもしれませんが、私らのようなフリーでやっている人間としてはたまったものではなく、その意味では二次被災者だか三次被災者だかを名乗っても怒られないかと思われます。
 地震当日のChorus STの練習はさすがに無くなりましたが、翌週は団員が集まりました。声を合わせて歌うと、不思議と元気が湧いてくる気がしたものです。「こういう時だから遠慮する」のではなく、「こういう時だからこそ声を出す」ことが、今後への活力となってゆくのだと思うのです。

(2011.3.31.)

【後記】東日本大震災で、揺れで倒壊した家屋がほとんど無かったという点は、いくら強調してもしすぎることは無いと思っています。福島原発事故も揺れによるものではなく、ほとんどは想定外の津波が原因でした。他の原発まで停めてしまい、容易に再起動を認めなかったなどは、愚かとしか言いようがありません。
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