忘れ得ぬことどもII

計画停電日記

 寒い一日でした。暦の上ではとっくに春なのに、まるで冬のような空気の冷たさでした。被災して避難所などにおられるかたがたは、充分な暖房も無く、大変な想いをされていることと思います。どうかおからだに気をつけていただきたいと願うばかりです。
 家を失った人々から見れば、計画停電など大したことでもなく、甘受しなければなるまいと覚悟は決めておりますが、それにしても不手際なことが多かったと言わざるを得ません。
 まず、初日である14日(月)の計画が発表されたのが遅すぎました。前日22時を過ぎており、私のような夜更かし人間は良いとしても、すでに床についている人も多かったはずです。マダムはもう寝ているかもしれない両親のために、私が調べた停電時間を一生懸命携帯電話でメールしていました。
 聞くところによると、こんなに遅れたのは、菅直人首相が自分で発表することにこだわったためで、それがなければ2時間くらい前に発表できていたのだとか。事実とすればまことにもってけしからぬ話としか言いようがありません。原発事故の対応の初動が遅れたのも、首相が現地視察を強行したために、その応対に人手を取られたせいだという話も聞きます。首相の手腕がどうにも頼りないのはもうやむを得ぬこととしても、せめて現場の邪魔だけはしないで貰いたいと思うのは私だけではないでしょう。
 東京電力もずいぶん叩かれていますが、こちらについては私は、時間と人手が限られた中でよくやっていると思います。いつ放射線漏れ事故が終熄するかもわからない福島の原発への対応に大量の人手を割かれる中、丁目単位のブロック分けで停電計画を立てているのですから、社員はほとんど不眠不休状態ではないでしょうか。まったく頭が下がりますが、それはそれとしてやはり不手際は不手際というものです。

 まず最初にあっけにとられたのは、私の住んでいる川口市は、5つにグループ分けされたうちの実に4つまで名前が挙がっていたことです。隣のさいたま市も同様ですし、朝霞市なんて小さなところでも3つに懸かっていました。

 ――なんだとお? これじゃ一日3時間くらいしか通電しないってことか?

 と一瞬、眼をむきそうになりました。
 もちろんそうではなく、川口市の中に4つのグループ(その後3つになった)に属する区域が混在しているに過ぎません。例えば私の家のあたりは第4グループですし、私がピアノを教えに行っている教室のあたりは第2グループでした。しかし、そういう細かいことは、テレビを見ていてもさっぱりわからなかったのです。あわてて東京電力のサイトにアクセスして、はじめて判明したことです。テレビしか情報源の無いお年寄りなどは途方に暮れたことでしょう。実際、当日の朝ゴミを出しに行くと、同じマンションの人が
 「一体いつ停電になるんだろう?」
 と困り顔をしていました。

 それから、停電とされていた時間になっても、一向に停電にならないのも面食らいました。電力需要を見据えながら実際に停めるかどうかを決めるというスタンスを知ったのも後のことです。なるべく電気の供給を停めないようにしたいという東電の心意気は壮としますが、これも先に言っておいて貰いたかったところです。庶民はまだしも、鉄道会社などにも伝えていなかったので、初日は電車が停まったり、停まっているかと思ったら動いていたり、いつになったら運転するのか駅員も知らなかったり、大変な混乱が起きてしまいました。
 「これじゃ無計画停電じゃないか」
 という声がそこらじゅうから湧き上がったのも無理はありません。その後、なんとか鉄道会社にだけは優先的に電気を回したり、早めに通知するようになったようで、今でも間引き運転や全面運休は多いものの、一応は落ち着きました。

 とにかく福島の原発が一段落しないと、次のステップに進むことができないと思われます。放射線漏れも怖いですが、それは東電の現地職員・自衛隊・警察・米軍など収拾に当たっている人々を信じるしかありません。そちらが片づくまでは、代替エネルギーの調達とか、計画停電の見直しなどの段階には行けないのではありますまいか。地震や津波で大丈夫だったのに、原発事故のために避難せざるを得なくなった福島県の浜通りの人々も口惜しいことこの上ないことでしょう。一日も早く原発事故が落ち着くことを祈らずにはおられません。

 地震以来の日録です。
 地震当日の11日(金)は、晩にChorus STの練習が入っていましたが、さすがに中止となりました。集まれても、帰りの電車が動くかどうかわかりません。団員の中には職場に泊まりになってしまった人も居たようです。
 翌12日(土)は、午前中に散髪をしたのち、いつもの通りピアノ教室に教えに行くつもりでいたところ、生徒全員から「今日は休みます」という連絡が寄せられました。全員と言ってもこの日は3人だけですし、みんな大人です。ひとりはいつもクルマで来ますが、道路が混雑しているし、大地震の翌日でいろいろと用事もあったのでしょう。ひとりはかなり遠方から電車で通っていますが、電車のダイヤが乱れまくっていたので、来られないのもやむを得ません。もうひとりは教室からわりと近いところに住んでいるのですが、かなりぎりぎりになって欠席の連絡がありました。結局教室に出かけなくて良いことになり、夕方にマダムと買い物に行ってこの日は終わりました。
 13日(日)「川口第九を歌う会」の練習があり、これは予定通りおこなわれましたので、練習会場の小学校まで自転車で行きました。メンバーの大半は市内の住人ですし、テレビで繰り返し放映される惨状にさすがにみんなうんざりしてきたのかもしれません、かなり出席率が良かったようです。夜は確定申告の書類作りをしていました。
 14日(月)から計画停電が始まりました。私のところは上記の通り第4グループで、午後の時間帯が停電になるということでした。朝の内に税務署に確定申告書を提出してきて、停電時間の少し前にマダムとふたりで自転車で出かけました。停電中はパソコンも使えないしテレビも見られないし、することがないので出かけていようということにしたのです。もっとも、計画停電はこれからどれほど続くのかわかったものではなく、そのたびに出かけているわけにもゆかないでしょう。
 ホームセンターやスーパーマーケットをいくつか訪ねましたが、品物が少ないことに驚きました。特にスーパーでは、お米やパンの棚がまるっきりがらんどうです。トイレットペーパーなども無いようです。輸送経路が破壊されて入荷が無いのかもしれませんが、それよりもどうやら買い占めが始まった様子です。心配なのはわかりますが、少し落ち着いたらどうかと思いました。
 私のところは幸い、お米はつい最近買ったばかりでしばらくはもちそうです。パンはありませんが、代用食としてトルティーヤをけっこう買ってありますし、パスタのたぐいもかなりあるので、当面食べるには困らないでしょう。ただ、トイレットペーパーはそろそろ底をついていて、買わなければならないと考えていたところでした。こんなに品薄では、いつ買えることやら。
 停電予定時間が終わったあとで帰宅しましたが、この日は初日だけあってどこも節電に努めたようで、実際に停まったところは少なかった模様です。

 15日(火)は合唱指導の仕事が入っていましたが、集まるのが大変そうだというので練習は無くなりました。
 また、来週26日に予定されていたちょっとした演奏会を中止する旨の連絡が入りました。とある区の企画した演奏会だったのですが、たぶんお客の安全を確保できないからという理由ではないかと思います。上層部から、中止して欲しいと要請があったそうです。
 しかし、私はこの演奏会のために10曲ばかり編曲をおこなっていましたし、すでに一度演奏者が集まってリハーサルをおこなっています。普通こういう場合はなんらかの補償があるものですが、形式的に「共催」という形であったためか、補償も出さないというので少々むっとしました。中止ではなく、来年度の事業として延期という形にして貰うように交渉して、この問題については決着しました。
 なんだか用事がどんどんキャンセルになってゆくようで、暇ができるのは良いとしても、私のようなフリーの人間にとっては若干生活が心配になります。
 この日は晩に板橋区演奏家協会の役員会がありました。東武東上線などおそるべき間引き運転(夕方ラッシュ時に一時間2本の鈍行が走るだけ)になっていましたが、私はもともと自転車で行き来しています。30分ほどかかりますが、それでも電車で行くより速いのでした。それで問題なく出席できました。他の人も、なんだかいつもより出席率が良いくらいで、意外と集まっていました。
 「な〜んか、妙に暇なんだよね〜〜」
 と言い合っていました。音楽家仲間も、みんな多くの仕事がキャンセルになっているようです。
 なお、この日も私のところは実際には停電がありませんでした。

 16日(水)は上記の演奏会のリハーサルが午前中に入っていましたが、演奏会自体が無くなったので、もちろんリハーサルもキャンセルです。それで午前中、またマダムと一緒に買い物に出かけました。
 ミネラルウォーターなども買う本数を制限され始めているようですが、私のところは近くのスーパーで浄水を貰っています。ご存じとは思いますが、最初にボトルを購入すると、その後は何回でも無料で店に設置してある浄水器から水を汲めるというシステムです。そちらのほうはまだ制限されていないようなので、まずは水汲みをしようとその店に行ったところ、この日は朝に停電の予定だったため、まだ開店していませんでした。1時間以上あるようなので、他の店で用を済ませてからもう一度行ったところ、入口には長蛇の列。間もなく開店しました。さしあたり水汲み以外の用事はその店には無かったのですが、私はふと思いついて、中に入るや否やトイレットペーパーの売り場に走りました。バーゲンセールのような騒ぎではありましたが、なんとか入手。「ひと家族ひとパックでお願いします」と店員が叫んでおり、レジでいくつか没収されている人も居たようです。
 午後はマダムが仕事に出かけました。マダムはフランス語の学校にも通っているのですが、学校は地震以来ずっと休講しています。だから、マダムはこの日の仕事で、久しぶりに電車に乗ることになりました。ちなみに私はまだ地震以後電車に乗っておりません。この日も夕方から板橋に行く用事があったのですが、もちろん自転車です。

 今日、17日(木)は、私は特に用事が無い日でしたが、ついに停電が実施されました。しかも最終時間帯の18:20〜22:00です。いちばん電力需要が多くなる時間帯であり、電気が停まるといちばん困る時でもあります。しかし、最初に書いた通り今日は肌を刺すような寒い一日だったので、朝から暖房などのために電力需要が上がってしまい、もはや猶予が無かったと思われます。
 マダムはまた仕事で午後出かけましたが、もし停電が実施されたら連絡を取って、停電していない隣町の赤羽で落ち合って夕食をとることにしていました。
 18時過ぎた頃、パソコンの電源を落とし、電灯や換気扇のスイッチを切り、コートを羽織って、玄関の灯りだけ点け、本を読んでいました。
 20分になっても灯りは消えません。しばらく待ちましたが、停電する気配はないようです。どうなったかと思ってテレビをつけてみましたが、どうも要領を得ません。なんだか眠くなってきました。
 うとうとしかけた頃に19時のニュースが始まり、始まったかと思うとテレビが急に切れてしまいました。玄関の電灯も消えて、家の中は真っ暗です。とうとう始まったようです。
 家の外に出ると、マンションの非常灯だけは、電源が違うのか点灯していましたので、その下でマダムに携帯メールを打ち、自転車に乗って出かけました。
 うちの近くは高層マンションが多いのですが、それらが真っ暗に静まっているのは異様な雰囲気でした。交差点の信号機も消えています。慎重に渡らないと、すでに停電時の交通事故で死者が出ています。比較的大きな交差点では、警官が出て交通整理していました。
 街灯も全部消え、かすかに非常灯がともっているビルがあちこちにある程度で、なんだか廃墟を歩いているような気がします。もちろん歩行者や自転車、クルマは沢山動いているのですが、建物から灯りが消えるだけでこんなに寂れて見えるものかとあらためて驚きました。
 東京都埼玉県を隔てる荒川にかかる橋を渡ります。埼玉側の土手を過ぎて橋にさしかかると、橋の上の街灯はあかあかと点いていました。ぎりぎりまで東京都側の電気を使っているようです。
 振り返ると、「アド街ック天国」「埼玉のマンハッタン」などと呼ばれていた川口の高層ビル群が、いずれも黒々と寝静まった感じで、何やら荘重な気分になってきました。空を見ると、いつもは見づらい星々がよく見えます。なんとなく、

 ――こんな日がたまにあっても、いいんじゃないか。

 と思っている自分に気がつきました。現代の都会は明るすぎるのではないでしょうか。夜は本来暗いものではなかったか。私が子供の頃は、まだ時々停電がありました。人間は「闇」を忘れてはいけないような気がします。

 停電時間帯が終了する22時の少し前に、食事を済ませたマダムと私は再び橋を渡りました。
 22時10分前ほど、前方の真っ暗な高層ビル群に、一斉に灯りがともりました。街が生き返るさまに、私は思わず知らず感動を覚えてしまいました。

(2011.3.17.)

【後記】1週間ほど経つうちに、菅直人首相率いる民主党政権のポンコツっぷりがあらわになってきました。しかし人々は、意外と冷静に事態を受け止めていたように思います。
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