道南と青森の旅(下) (2015.7.16.〜24.)

III

●ジンギスカンと花火●
 札幌に着いてから降っていた雨は、2015年7月19日(日)の演奏会がはじまる頃には上がっていました。おかげで、

 ──朝に降っていた雨が上がったあとの催し物には客がたくさん入る。

 というイベント運営の原則どおり、演奏会は大入りでした。朝から晴れていると、人々は別のところへ出かけてしまうことがあるし、ずっと降り続いていると、出かけるのが億劫になるので、特に無料ないし廉価なイベントの場合は上の傾向が顕著に見られるとされています。これが5千円、1万円という高額な入場料のイベントであれば、別用を入れることもあまり無いし、雨が降っていても出かけるのをやめたりはしないので、天候による変動は少ないのですが。
 翌20日(月)の朝は、曇ってはいましたが雨の気配はありませんでした。
 この日は3夜を過ごした宿をチェックアウトし、いくらか買い物などをしたのち、札幌在住の親戚たちと昼食会をおこないました。母が札幌の出で、その両親である私の祖父母はもう亡くなりましたが、母のきょうだいたちはみんな健在で札幌に住んでいます。前日の演奏会には聴きに来てくれました。ただし彼らの子供、つまり私のイトコたちは来ていません。イトコのひとりは合唱マニアでもあり、マダムのSNS仲間でもあるのですが、当日は他の合唱イベントでよそへ行っていたそうです。
  今回の演奏会に合わせて母も帰郷していたので、5人のきょうだいが揃うことになりました。同じ市内に居ても、法事などでもないとなかなか顔を合わせることも無いようで、良い機会が持てたと叔母たちからかえって感謝されてしまいました。

 さて、親戚たちと別れたあと、16時10分の道南バスで札幌を後にします。あと何回か泊まりを重ねながら帰るつもりです。まずは洞爺湖に向かいます。
 洞爺湖は2007年のG8サミットがおこなわれた土地で、会議場になったのがザ・ウィンザーホテル洞爺でした。マダムがこのリゾートホテルに泊まりたがったのですが、1泊1名5万円よりというようなクラスであり、とても手が出ません。ここのレストランの、生花を使ったサラダが食べてみたかったようですけれども、それも単品で5000円はするし、それを含めたランチなりディナーなりのコースとなるとそれだけでひとり3万円くらいは飛んでしまいます。私程度の収入の者にとっては、生涯にいちど奮発できれば良いほうでしょう。
 とはいえ、洞爺湖には他に多くの宿があるし、ウィンザーホテルは無理にしても、洞爺湖温泉郷で一泊するのは行程として悪くありません。そのあたりで探して、ジンギスカン鍋つきの料理を供する宿を見つけ、予約しておきました。マダムはジンギスカン鍋が好きで、食べたあとはいつも体調が良いと言っています。羊肉には、豚肉や牛肉の何倍ものL-カルニチンが含まれていて、この物質は体内の脂肪燃焼を促進し、ダイエットに大いに寄与するんだそうです。それで、札幌でもジンギスカン食べ放題の店に行くつもりだったのですが、マダムの体調が良くなくて断念したことは前稿で書きました。
 洞爺湖の宿のジンギスカン鍋はさすがに食べ放題ではありませんが、それなりの分量のラム肉がつき、宿泊料もリーズナブルなので、迷わず押さえたのでした。
 札幌から洞爺湖温泉までの直通バスは1日4往復、2時間40〜50分ほどかかります。

 バスは定山渓を抜けて、中山峠を越える道を辿りました。
 中山峠では15分ほどの休憩が置かれました。ここの茶店の揚げじゃがいもが名物で、私は中山峠を通ることがあると必ず買い求めています。しかし今回は、夕食に差し支えるかもしれないと思って躊躇しました。
 ところがマダムがあっさりと、食べたいと言い出しました。何かというとダイエットを口にするわりには、食べることには目がない人なのでした。まあふたりで1串くらいなら良いかと思って、買い求めて外のベンチに坐って食べました。
 喜茂別の町を通り抜け、近年名が上がっているルスツリゾートを過ぎて、ひと山越えると洞爺湖が見えてきます。
 このあたりは廃止された胆振線の沿線で、存命(?)中にもう少しリゾート開発が進んでいて、そこへのアクセスを重視したダイヤ編成をおこなっていれば、廃止の憂き目を見なくとも良かったのではないかという気がします。実は特定地方交通線(廃止対象路線)を選定する期間に有珠山の噴火があり、胆振線は火山灰の除去作業のために経費がかかって大変な赤字になってしまったのです。選定は、そういう特殊事情もまったく考慮しないでおこなわれました。当時の国鉄の財政は、特殊事情などと言い出してはきりがない状況であったのも事実ですし、たとえ火山灰が無くとも胆振線が赤字線であることには変わりはありませんでした。それにしても「特定」でないただの「地方交通線」にひっかかって存続していれば、JRになってからいろいろやりようがあったのではないかと思えてならないのでした。なにしろ北海道新幹線は胆振線の起点であった倶知安も通る予定なのです。新幹線に接続する「快速ルスツライナー」でも走らせれば、ルスツリゾートも活性化するし、胆振線も息を吹き返したかもしれません。
 バスは一旦洞爺湖畔に出たと思ったら、再び山のほうへ入ってゆき、しばらく高原地帯を走ってからもういちど湖畔に下りました。最初に下りたのは北岸の「洞爺水の駅」であり、洞爺湖温泉郷はあとで下りた南岸にあるのでした。そしてウィンザーホテルは西岸の高台にあったらしく、そもそも公共交通機関で行く手段は無かったようです。JR洞爺駅などから送迎バスを走らせているのでした。
 洞爺湖温泉のバスターミナルは、なんとなく見覚えがあります。洞爺湖には何度か来たことがありますが、たいてい親戚の運転するクルマに乗ってきており、バスで来た憶えはありません。それなのに、なんだかわりあい最近、このバスターミナルの建物を見たような気がするのです。
 ともあれ、バスターミナルの入り口のところに貼られていた、ホテルの位置などを示した地図を見てみました。しかし、私たちが泊まろうとしているホテルの名前はありませんでした。電話をかけて道順を訊いてみると、一本隣の通りに出ればすぐわかるとのことでした。さほど大きくない宿なので、バスターミナルからは見えなかったのです。
 フロントにはヒゲを生やしたマスターが居て、なんとなくホテルというよりもペンションの雰囲気がありました。部屋にあった案内を読むと、わりと古くからある旅館の別館で、本当にペンションのイメージで経営しているらしいのでした。
 安いプランということで、狭めの部屋を予約していたのですが、やりくりがついたようで、同じ料金で普通の部屋に案内されました。札幌の宿が狭苦しかったので、ここでひと息ついた気分です。

 200グラムの肉というのはけっこう食べでがありました。考えてみればときどき食べに行っているうちの近くのステーキハウスで頼む肉は、150グラムか130グラムかそこらです。副菜の差などはありますが、食べでがあったのも当然なのでした。
 21時近くなってから、湖上で花火を打ち上げるというので、湖畔の遊歩道まで行って見物しました。この日だけではなく、夏のあいだ毎日打ち上げているそうです。思ったより本格的な花火なので驚きました。打ち上げ花火は一発10万円くらいかかると聞いたことがあります。
 湖上を進む船の上から打ち上げているらしく、見える方向は刻々と変わりました。なかなか見事なものでした。
 それにしても、実はマダムもそうでしたが、こういうものを見てすぐに「写メ」しようとする手合いがそこらじゅうに居て、ほとほとあきれます。花火の写真など、よほど熟練したカメラマンでないと満足に撮れるはずがありませんし、携帯電話やスマホの液晶画面を覗いている間に次のが打ち上がってしまい、せっかく広々とした夜空に散った光の饗宴を堪能することがほとんどできなくなります。花火のようないわば瞬間の芸術は、まさに瞬間として愉しめば良いので、それを素人が写真に撮って残そうなどという根性がそもそも間違っていると私は思います。いかがなものでしょうか。
 ところでこの「毎日の花火大会」を見て、先ほど着いたバスターミナルの既視感の理由がわかりました。去年の秋に放映していたアニメ「天体(そら)のメソッド」の舞台がここだったのです。少し名前を変えて「霧弥湖」としていましたが、描写は明らかに洞爺湖で、物語の中では湖の上空にUFOが居坐ってしまい、名物の花火が中止されて久しいという設定になっていました。
 主人公の中学生たちは、バスに乗って都会にある学校に通っていたようで、私は札幌だとばかり思っていたのですが、2時間40〜50分もかかる1日4往復だけのバスでは通学には使えそうもありません。もっと近い室蘭だったのかもしれません。ともかくそんなわけで、洞爺湖のバスターミナルがしょっちゅう映されていたのです。既視感の元は、アニメだったのでした。

●洗濯と寿司●
 宿の泊まり客も、花火の見物客も、中国人や韓国人らしいグループが多く、むしろ日本人より多いんじゃないかと思えんばかりでした。しかし宿の地下にある温泉に漬かりに行ったときは、彼らは居ませんでした。と言うより、私はチェックアウトするまで3回入浴しましたが、いつもほとんど貸し切り状態でした。みんなで広い風呂に漬かるという文化が、まだあまり無いのかもしれません。
 翌21日(火)の午前中は、大きな荷物は宿で預かって貰い、遊覧船に乗りました。湖の遊覧船としては、所要時間が60分近くで、かなり長いほうです。周航ルートのちょうど半ば頃、中ノ島のひとつ大島の桟橋に一旦着け、客の積み下ろしをしていました。大島には森林博物館があり、また桟橋近くでバーベキューを食べられるのでした。
 この大島、3000年ほど前と思われる遺跡が発見されているそうです。広い湖の中の小島なので防衛には都合良かったでしょうが、この島だけで生活が成り立っていたのだろうかと不思議に思えます。
 バーベキューはともかく、森林博物館にはちょっと惹かれるものがありましたが、時間に余裕が無くなりそうだったので、下船せずにそのまま元の桟橋に戻ってきました。
 このあたりにはもうひとつ観光として、有珠山のロープウェイというのもあるのですが、そちらも割愛しました。時間のこともありますが、雲行きが怪しく、また雨が落ちてきそうだったのです。
 土産物屋に立ち寄り、それから温泉通りのホテルの喫茶室でお茶を飲んで、宿に預けた荷物をピックアップして、バスターミナルに向かいました。そろそろ雨がぽつぽつ落ちはじめており、バスを待つあいだに大降りになってきました。

 バスに乗る前に昼食も済ませるつもりだったのですが、時間が無くなり、洞爺駅に着いてから駅弁でも買うことにしました。
 待合室の駅弁売りのところへ行くと、なんと5種類ほどある弁当がことごとく売り切れでした。ただ、1個ずつくらいだったら列車が出るまでに作ってこられるというので、「かにめし」と「鮭めし」を頼みました。駅弁売りのおじさんは向こうの階段を昇ってどこかへ行ってしまい、私たちが乗る特急「スーパー北斗10号」の発車10分ほど前になって、ポリ袋を提げて戻ってきました。まだ温かい弁当を手渡されてプラットフォームに出ました。
 噴火湾沿いに走る室蘭本線の車窓は、本来ならなかなか風光明媚なのですが、雨が降ってどんよりとした空の下では、対岸の渡島半島も見えず、鉛色の海が拡がっているばかりです。
 発車して間もなく弁当を拡げましたが、「かにめし」も「鮭めし」も実がたっぷりしていて満足しました。
 4つめに通過した小幌という駅があります。ふたつのトンネルにはさまれていて、クルマが駅前まで乗りつけることができず不便なため、普通列車でも通過してしまう便が多いのですが、近々ついに廃止されることが決まったそうです。前に廃止された張碓駅なども同様ですが、北海道ではクルマと連繋できないところはどんどん寂れてしまうようです。
 長万部を出て渡島半島側に渡っても、天気は変わりません。沈鬱な空の下を1時間40分ほど走り続けて、函館に到着しました。
 函館で一泊することにしたのは、次の行程の都合です。下北半島大間というところへ船で渡るつもりで、その船は1日3往復しかありません。最終便には間に合うのですが、大間到着が21時くらいになってしまい、それから投宿したりするのも面倒なので、函館で泊まって翌朝の便に乗ることにしたのでした。
 函館でとった宿は松風町にあるので駅からは少し離れています。雨は上がりかけていましたが、スーツケースをころがしながら歩くのは少々難儀でした。しかしこの宿は大手ビジネスホテルチェーンの一軒であり、アメニティが充実していることで知られています。私たちにとってありがたいのは、まず確実に洗濯室が備わっていることでした。倍以上の宿泊料をとられていた札幌の宿にはそれが無く、洞爺湖の宿にも無く、ようやく汚れ物を洗濯することができます。
 すでに旅立ち以来6日を経過しており、そろそろ洗濯しないと着る服が足りなくなりそうでした。今回の北海道は雨模様で思った以上に蒸し暑く、マダムも私もすぐ汗ばんでしまって、予想外に着替えをしなければならなかったのでした。
 おまけに札幌の宿の浴室で手洗いした下着のたぐいが、3泊も干しておいたのに全然乾かず、湿ったままスーツケースに詰めてきたので異様な臭気が漂いはじめています。
 一旦部屋に落ち着いてから、私たちは大量の洗濯物を抱えて階下の洗濯室へ行きました。1回で洗い尽くせるだろうかと不安になったほどの量でした。
 洗濯物の中には「ネット使用」と洗濯表示がされているものも少なからずありましたが、洗濯ネットは札幌の百均ショップで買った1枚があるばかりでした。構わず片端から放り込みます。
 ありがたいことに洗剤が無料になっていたので、洗濯機の使用料30分100円也を投入しただけで済みました。
 30分待って再び洗濯室に行き、今度は乾燥機です。乾燥機も100円で30分使えるようでした。
 「30分くらいじゃ絶対乾かないから」
 とマダムが強調しました。
 「1時間でもまず無理。うちの実家のなんか2時間かけてもまだ乾ききってなかったし」
 マダムはフランスに留学中、コインランドリーを使う機会が多かったので、乾燥機については権威のような口をききます。私はというと、実はこれまでの生涯で、乾燥機など使ったことがほとんどありません。うちの洗濯機には「風乾燥」という機能が備わっているのですが、一度も使ったことがないのでした。それでマダムの言に従い、と言ってさすがに2時間廻し続ける気もせず、1時間分のコインを投入しました。マダムは、無理だと思うけど、という顔をしました。まあ、1時間やってみて乾いていなかったら、もう少し追加すれば良いと思います。
 ちょっと買い物に出て、1時間後にまた洗濯室に行き、乾燥機の中から洗濯物を回収しました。
 若干生乾きかと思えるような服も1、2枚ありましたが、ほとんどはカラカラに乾いていました。マダムは意外そうに、
 「日本の機械ってやっぱり優秀なんだねえ」
 と述懐しました。フランスでは1時間廻してもあんまり乾かなかったそうです。
 ただ、札幌の宿で干しておいて異臭のついた下着は、乾いてはいたもののわずかに異臭が残っているようでした。下着など洗わないほうがましだったかもしれません。

 函館では寿司を食べるつもりでした。8年ほど前、祖母の一周忌の法事で札幌へ行った際、帰りに函館に立ち寄り、マダムが往路の飛行機内の雑誌に広告の出ていた寿司屋へ行きたがったので行ってみたら、なかなか良かったので、再訪することにしたのでした。
 もっともその時は、夕食後に函館山に登って夜景を眺める予定で、その寿司屋はいわば通り道だったので都合が良かったのですが、松風町に宿をとっている今回は、探せばもっと近くに、もっと安くてうまい寿司屋があったと思います。わざわざ十字街近くのその店に出かけることもなかったようなものですが、その寿司屋はいくつかの飲食店がまとまっている一角にあって、その一角には足湯があるというのがマダムの押しポイントなのでした。
 マダムは足湯が好きで、どこかへ出かけて足湯があれば、有料でない限り必ず漬かりたがります。洞爺湖にも足湯があって、遊覧船に乗ったあとに漬かるのをマダムは楽しみにしていたのですが、なんと朝になると湯が抜かれてしまっていました。その怨念があるので、函館では絶対に足湯に漬かること、当たるべからざる勢いなのでした。
 松風町から市電に乗って4区間ほど、目当ての寿司屋に着くと、待っている客が多くて、私たちは8番目くらいになるようです。マダムは待ち時間のあいだに足湯に漬かってくると外へ出て行きました。
 ところが、待ちくたびれて諦めた客も居たようだし、人数の関係もあったのか、意外と早く名前を呼ばれました。マダムが足湯を充分に堪能できたかどうかわかりません。

 ふだんあんまり寿司屋で注文しない、ここならではというネタを中心に食べ、店を出ました。
 まだ21時を少し過ぎたくらいでしたが、通りは寝静まった感じです。市電も21時台になると便数が激減しています。まあ、地方都市の常で、表通りはずいぶん早い時間に寝静まったようになるものの、ちょっと横丁へ入って居酒屋の扉でも開ければ、地元の客で案外賑わっていたりするのですが、よそ者にはなかなかわかりません。
 宿には「天然温泉」がついていたので、入浴しました。男女の別が無く、時間で分けているので、マダムは夕方に入浴していたのでした。
 函館に来ても、洗濯をして寿司屋へ行っただけで、外人墓地にも行かなければ夜景も見ませんでしたが、まあこんな日があっても良さそうです。
 明朝の大間への船は9時10分。出発するフェリーターミナルは少し離れていて、駅前からシャトルバスが出ています。そのバスの便は8時10分なので、朝はわりとあわただしくなりそうです。早めに寝ることにいたします。

(2015.7.26.)

IV

●マダムのメモリージャーニーふたたび●
 大間行きの津軽海峡フェリーに乗るため、7月22日(水)の朝7時45分頃に、函館の宿をチェックアウトしました。フェリーターミナルは街の中心から少し離れており、函館駅からシャトルバスが出ています。松風町の宿から駅までは歩けない距離ではないものの、大きなスーツケースを抱えて雨模様の中急ぐのも気がせいてかなわないので、1区間だけ市電に乗りました。
 大間といえば最近はマグロで有名ですが、どのあたりにあるのかまで知っている人は少ないかもしれません。本州の最北端で、マサカリの形をした下北半島の、まさに刃頭に相当する場所がそれです。北海道の最南端である松前附近よりも北に位置します。函館からも近く、かつての青函連絡船が3時間50分を要していたのに対し、函館〜大間は1時間半ほどに過ぎません。
 このルートをとることにしたのは、マダムが昔むつ市に住んでいたことがあり、そのあたりを探訪してみようと考えたからです。前に「マダムのメモリージャーニー」として石巻東松島を訪ねたことを書きましたが、むつ市に住んでいたのは、その宮城県時代よりさらに前で、マダムが幼稚園の年少組だった頃です。従って記憶はよりおぼろであり、マダムの両親に訊いてみても、住んでいたのがどのあたりであったのかはどうにも曖昧でつかみどころが無い感じでした。
 とにかく、マダムの父は航空自衛官でしたので、むつ市に居たのは当然ながら空自の駐屯地に赴任していたからであり、住んでいた官舎はその駐屯地のすぐ近くであったはずです。念のためウィキペディアで「大湊分屯基地」を調べたところ、基地は釜臥山という山の山頂近くにあり、その麓のほうに官舎が建っているということでした。

 ここまでわかれば問題はなさそうに見えますが、それが案外そうでもないのでした。クルマで動くわけではないので、探訪にはバスを使わざるを得ません。そのあたりを通っている路線バスはJRバス東北下北線しか無く、この路線の案内はどこを見ても著しく不親切なのでした。つまり、掲載されているのはごく主要なバス停だけで、一体どこで下りれば目的の場所に行き着けるのかがさっぱりわからないのです。
 むつ市といえば空自よりも、海上自衛隊の基地として知られています。それで「海上自衛隊前」というバス停があり、そこは主要バス停のひとつとして時刻なども載っています。しかし海自の基地は相当に広い範囲にわたっていて、そのどこに当該バス停があるのかわかりません。また空自の基地もそれに近い場所であるはずですが、「海上自衛隊前」バス停の先なのか手前なのかも判断に困ります。
 Yahooの地図を見ると、バス停の位置は示してありましたが、そのバス停の名前がわかりません。業を煮やして書店へ出かけ、青森県の区分地図帳や道路地図帳も参照してみましたが、むつ市のあたりはどれも粗放で、中心部の詳細図以外はYahooやGoogleの地図よりも使えないようでした。むつ市そのものの地図なら知りたいことがわかったかもしれませんが、書店に並んでいる「市の地図」は県庁所在地クラスのものばかりでした。つまり青森市弘前市くらいはあるものの、むつ市までは取りそろえていないようです。
 仕方なく、当該地域と思われるYahooの地図をプリントアウトし、あとは現地に行って探してみようと考えました。
 ともあれそんなわけで、むつ市に立ち寄りたかったために大間に上陸することにしたわけです。
 また、きわめて偶然ながら、私の母方の祖母の出身地が大間なのでした。ただ、祖母の実家の情報などは何もありません。札幌で親戚と会ったときに、母や叔母に訊ねてみたのですが、
 「さあ、全然わかんないね。話で聞いただけだし」
 とあっさり言われました。

 函館フェリーターミナルは、なかなか大きな建物で、フェリーに載せるクルマを溜めておく駐車場も広大だし、中には土産物屋や食堂、休憩室などがいくつも設置されていました。発券カウンターも、まるで空港のようです。大間行きの船だけでなく、青森行きもあり、また湾内を周航する遊覧船なども出ているようでした。JRの青函連絡船こそ無くなりましたが、青函トンネルをクルマが通れない以上、青函航路そのものは健在なのです。ただ青森も函館も、ターミナルが駅からは遠く離れているため、いままで使う機会がありませんでした。
 乗った船もかなり大きなものでした。もっとも、そのスペースの大半はクルマを積み込むために使われ、客室スペースは意外と狭いものでしたが。
 かつての青函連絡船を髣髴とさせる床席がいくつも区画されています。そのひとつに入ってひと息ついているうちに出航しました。函館山がうしろに遠ざかります。朝が早かったせいか、マダムはそのうち寝息を立てはじめました。
 私は船内をぐるっと一周してきてから、横になってやはり少しまどろみましたが、間もなく大間到着のアナウンスがありました。3時間50分かかった青函連絡船に較べると、1時間半の大函航路はあっけなさすぎるようです。10時40分、大間フェリーターミナル到着。

 大間のフェリーターミナルは、函館に較べるとなんともこぢんまりとしたものでした。こちらは函館以外に向かう定期航路が無いのですからやむを得ません。船からタラップで下り立った2階には小さな土産物屋と小さな食堂があり、1階にはひっそりとした発券カウンターがあるばかりです。カウンターは出航が近づいたときだけ開けるらしく、無人でした。外の景色も、いかにもな漁村といった趣きで、フェリーターミナルの建物が場違いに感じられるほどでした。
 すぐに接続するバスは無く、1時間以上待たなければなりません。そのあいだに大間の街を少し歩いてみたいなどと思っていたのですが、フェリーターミナルは市街地とは少し離れているようです。あとでバスに乗ったら、5分ばかり走ってようやく大間の中心部に入りました。1時間ちょっとで歩いてこられるところではありませんでした。
 仕方がないので、フェリーターミナルの食堂でアイスクリームなど食べながら時間を潰します。ここからむつバスターミナルまでのバスは2時間近くかかるので、昼食を食べはぐれると困りますから、同じ食堂でカツサンドを包んで貰いました。昼食を済ませてしまうには少し早い時間だったのです。
 バスは11時57分にフェリーターミナルをあとにします。マサカリの刃の真ん中あたりにある佐井港から、すでに30分ほど走ってきているバスで、かなりの長距離路線と言えましょう。しかし車体は潮風を浴びてあちこち錆びており、いかにも「さいはて」感が漂っています。
 大間の集落の中を通過します。車窓から見る限り変哲もない漁村で、祖母がこの地に生まれ育ったのだと思っても、別段の感慨も湧いてきませんでした。
 バスはマサカリの上部に沿うような形で、海辺を走ります。いくら走っても似たような漁村集落とひと気のない海岸が続くばかりで、この先何があるのだろうと思いたくなるような車窓でした。下北半島というのが予想外に大きな半島であることがわかります。
 本州最北端の温泉・下風呂を経て、大畑の街並みに入ると少し繁華になりました。しばらく前までは、ここまで鉄道が通じていました。国鉄大畑線だった頃には乗ることができませんでしたが、下北交通に移管されてから乗りに来たことがあります。大畑駅近くの宿に飛び込みで一泊しました。その宿のタオルがまだうちにありますが、どのあたりであったかよく憶えていません。
 大畑駅は、下北交通が鉄道を維持できなくなって廃止され、列車が訪れなくなっても、まだしっかり駅舎が残っており、線路もはがされていないようでした。バス停の名もいまだに「大畑駅」であり、乗ってきたバスはここで5分ばかり時間調整をしました。下北半島の北辺の中心地であることには変わりがないのでしょう。
 ここから、マサカリの刃の付け根を突っ切るような形で半島を横断し、むつ市街に向かいます。もっともむつ市そのものは合併により巨大化していて、2005年以来大畑も市域に含まれています。
 本来のむつ市はマサカリの刃の下辺と柄の境目あたりが中心で、1960年に現在の市名になる前は大湊田名部市と言っていました。ただしその大湊田名部市も、その前年の合併によって生まれた市です。
 終点のむつバスターミナルは、田名部のほうに位置しています。ここが下北交通の中枢であり、下北半島の交通の要衝であるわけですが、JRの大湊駅や下北駅からは少し離れていて、JR大湊線で下北半島を訪れた場合、半島各地へのバスへの乗り継ぎが少々不便なことになっています。かつての大畑線は下北駅で分岐して、その次の駅が田名部であり、この1区間だけは残しておいたほうが良かったのではないかという気がします。
 むつバスターミナルは下北交通のターミナルであり、マサカリの刃の下辺を行くJRバス東北の路線は立ち寄りません。この乗り継ぎも少し不安でしたが、ターミナルに到着する直前に、道の向こうにJRバスの停留所が見えましたので、安心しました。柳町というバス停です。

 やって来たJRバスに乗り込むとき、運ちゃんに
 「航空自衛隊へはどこで下りたらいいですか」
 と訊いてみたところ、
 「ああ、そういう名前の停留所があるから」
 との答えでした。海上自衛隊前という停留所があることは知っていましたが、もしかしてそこと間違えてやしないかと心配になり、
 「航空のほうもあるんだね?」
 と念を押しました。私はずいぶん以前にこの路線に乗って、脇野沢まで行ったことがあるのですが、「航空自衛隊前」というバス停があった気がしません。しかし、
 「ああ、あるよ」
 と運ちゃんが請け合ったので、信用することにしました。
 大湊の駅を経て、市街を突っ切り、また海沿いの道に出ました。北辺の寂しげな海と違い、陸奥湾に面しているので、向こう側に対岸も見え、穏やかな雰囲気です。久しぶりに空が晴れ上がっていたせいもあったかもしれません。
 やがて、プリントアウトしてきた地図の範囲に入ったようでした。範囲にはいくつかバス停が表示されていましたが、上に書いたとおりバス停の名前はありません。しかし実際に乗ってみて、ここがそうなんだろうという確信は持てました。
 ところが、航空自衛隊前というバス停は一向に現れません。空自を思わせるような名前の停留所も無いのです。そうこうするうちに、バスは地図の範囲を外れてしまいました。
 マダムと顔を見合わせていると、
 「次は、飛行場前」
 というアナウンスがあり、運ちゃんが
 「ここだよ」
 と声をかけました。
 それでバスを下りましたが、どうも変です。マダムはまったく見覚えがないようだし、あたりは海自の備蓄センターなどがあるばかりで、空自の駐屯地があるような雰囲気ではありません。
 見当がつかないので、海自の施設の門衛に訊ねてみました。組織違いですが、門衛のおじさんは親切に教えてくれました。
 やっぱり私が持ってきた地図に間違いはなかったことがわかりました。あとで知りましたが、海自の航空隊の基地がその近くにあり、飛行場前というバス停もそれを指しており、空自の基地と間違われやすいということでした。バスの運ちゃんも完全に間違えていたというわけです。
 仕方なく、門衛に教えられたとおり、ひとつ前のバス停のところにあったローソンを目指します。田舎のこととてバス停の間隔も長く、スーツケースをころがしてゆくのはしんどい作業でした。しかも、晴れたのは良いのですが、思いのほか日ざしが強く、たちまち汗だくになってしまいます。
 マダムが文句たらたらでしたが、私は最善を尽くしたつもりであり、現地に来る前にこれ以上のことは調べられなかったと思います。マダムはさらに
 「運ちゃんへの訊きかたが悪かったんだ」
 と言いつのりましたが、運ちゃん自身が航空自衛隊と海自航空隊を混同していたのでは、さっき以上に良い訊きようがあったとも思えません。私が海自航空隊の存在をあらかじめ知っていれば、
 「航空隊ではないよ?」
 と重ねて念を押すこともできたかもしれませんが、そんなこととは私も知らなかったのです。

 ローソンのあった辻から山のほうへ向かうと駐屯地があり、空自の官舎はその途中で折れた道に面していると聞いてきましたので、言われたとおりの道をたどりました。
 いやに立派な大湊中学校の建物を過ぎると、何やらうらぶれた平屋が十何軒も並んだ一角に出ました。ほとんどバラック建てと言っても良いような簡素な家々で、現在住んでいる人が居るとも思えません。
 「もしかして、ここじゃないか?」
 とマダムに訊ねました。
 「こんなにボロじゃなかったけど」
 「でも37年経ってるんだろう」
 「うーん、扉の向きが違うと思う」
 その一角の隣に、公団アパートみたいな集合住宅があり、そちらは確かに防衛庁の官舎であるようでした。マダムが住んでいたのは平屋だったらしく、参考にと持ってきていた写真を見ても、明らかにアパートとは違います。
 「これに建て直されたのかな?」
 ふたりで首を傾げていても埒はあきません。近くにあった集会所の軒先に、年配の男性が何人かたむろしていたので、訊いてみることにしました。
 手はじめに、さっきのボロ家群がなんであったのかを訊ねると、
 「ああ、ありゃ市営住宅だ」
 とのこと。やはり空自の官舎ではなかったようです。
 なんと幸いなことに、私が話しかけたおじさんは空自のOBで、隣の集合住宅風官舎に住んでいたこともあるらしいのでした。航空隊と間違われやすいという話はこのとき聞きました。ただし、マダムの父がこの駐屯地に居た頃よりは何年かあとの勤務だったようです。
 マダムが写真を見せてみると、この退役自衛官は、写真にかすかに写っていた番地のプレートを見て、
 「うん……? 10番地かな。えーと10番たら、あんたの家のあたりじゃなかったか」
 と他のおじさんに訊いてくれました。
 どうも、もう少し下の斜面が10番地で、そのあたりにもかつては官舎があったということらしいのでした。やはり人には訊いてみるものです。

 下の斜面のほうに降りてみると、住宅地になっていて、玄関のプレートによれば4とか6とかの番号になっており、少しそのあたりを歩いてみて、10番地を発見しました。マダムも確かになんとなく見覚えがあると言います。
 マダムの写真に写っていたのは10-9か10-7か、そのあとのほうの数字はちょっと判読困難でした。10-9というところを探し当てて行ってみると、写真にある官舎にちょっと似た感じの小さな平屋が4軒ばかり並んでいました。
 「きっとここだろう」
 「でも、ドアの向きが違う気がするんだけど」
 「37年も経ってるんだし、建て直したんじゃないか」
 マダムはいくつも断片的な記憶を持ち出してきて、腑に落ちたような腑に落ちないような、微妙な表情をしていました。はたしてどうなればマダムが納得するのかわからず、暑くもあって、だんだん疲れてきました。とにかく、その4軒でなくともこの周辺であることは間違いなく、37年という歳月を考えれば、なんらかの変化があると考えたほうが素直です。その4軒も現在では官舎ではないようですし、上にあった集合住宅風の官舎ができてからそのあたりは民間に払い下げられたのだと思われます。
 真冬に、雪を棄てに行ったマダムの兄が落っこちて流されかけたという小川らしきものも発見しました。もっと急な流れだったような気がすると言うのですが、5歳の幼児の眼にはそう映ったのだと思います。夏と冬の違いもあるでしょう。
 マダムの旧宅そのものは見つかりませんでしたが、とにかくマダムが住んでいた界隈を訪ねることはできて、良かったと思います。

 それからマダムの通っていた幼稚園へも行ってみることにしました。こちらは地図にも明確に記載されています。マダムはスクールバスで通っていたのではっきりした道順は憶えていなかったのですが、地図によれば充分歩ける距離です。
 途中、道端に焼鳥屋がありました。
 マダムが住んでいた当時、ご用聞きに来てくれていた肉屋さんが居て、いろいろ親切にして貰ったと言います。マダムがちょっとした怪我をした時に、配送のクルマで病院へ送ってくれたりもしたそうです。しかも治療中ずっと待っていて、帰りも送ってくれたとか。
 その肉屋と、いま目の前にある焼鳥屋が同じ屋号なのでした。Fという、この地域にはわりと多い苗字なので断定はできないまでも、ほぼ同じと思われる地区に店を構えており、肉屋だったのが焼鳥屋になったというのも自然な気がします。
 店の前で写真を撮っていると、中からランニングシャツ姿の主人が出てきました。見事に白いヒゲを生やした爺さんでした。
 マダムが二三言話すと、
 「ああ、確かに昔は肉屋をやっていて、自衛隊の官舎のあたりにご用聞きに行ってましたよ」
 と主人は言い、しかも廻った家の名前をいくつか挙げさえしたのでした。なんと真っ先に、マダムの旧姓が挙げられたのでびっくりです。あまりざらにある苗字でもないので、同姓異人ということはまず無いでしょう。主人のほうも、珍しい苗字だから憶えていたのかもしれません。
 マダムが病院に連れて行って貰った話は記憶に無いようでしたが、それにしても感無量だったらしく、
 「ちょっと中へ入って休んでってください」
 と、まだ開店前の店の中に招じ入れられかけました。バスの時間があるのでそれは辞退し、ただマダムと一緒の写真だけ撮らせて貰うことにしました。すると主人はやにわにあわてて、店の中に入るとランニングの上に開襟シャツをひっかけて出てきました。

 意外な邂逅を経て、幼稚園に向かいます。ちょうど戻りのスクールバスが幼稚園へ向かって横丁の坂を上がってゆきました。
 坂はおそろしくきつく、けっこう重いスーツケースをひっぱっていたこともありますが、途中で頭に血が昇るような気がしました。あとでなんだか足元がふらついてバランスがとりにくかったので、まさか坂を上がるときに脳の血管が切れでもしたのではないかと心配になったものです。
 マダムはスクールバスで行き来していたので、坂のことは憶えていませんでした。ただ帰り道で見える陸奥湾の景色は、記憶の底に残っていたようです。
 ちょうど園児たちの帰宅時間にあたっていたようで、そんなときにスーツケースをひっぱった中年夫婦が闖入したのではなんだか不審者扱いされかねないところでしたが、幸いこのあたりは都会のような世知辛さが無く、誰も通報したりはしなかったようです。スクールバスに乗って帰ってゆく園児たちは、見も知らぬ私にも手を振ってくれました。
 玄関の左手にあったお遊戯室は、マダムの記憶にあるままで、その後改築された様子もないようでした。園長先生でも訪ねてみたら良かったかもしれませんが、あまり時間もないので、建物を眺めただけで引き返しました。

●現代美術館再訪●
 新川守というバス停でバスを待って、大湊駅に戻り、大湊線の列車に乗りました。東北新幹線の延長によって在来線の東北本線青い森鉄道に移管されたため、根無し草になってしまったJR路線です。つまり、一箇所たりとも他のJR路線に接していない路線で、この大湊線が最初のケースでした。現在は石川県七尾線も根無し草仲間に加わりましたが、今後もっと増えるかもしれません。
 大湊線はローカル線にしてはかなり列車のスピードが速く、野辺地〜大湊間58.4キロを、普通列車でもほぼ1時間、快速だと50分程度で走り抜けます。そのためか、乗車率はけっこう良く、いつ乗っても混んでいる印象がありました。今回乗ったのは夕方の上り線で、通学ラッシュなどとは逆方向だったせいか、わりと空いていました。空いた車内から車窓を眺めていると、なんだかオホーツク海沿いでも走っているような気分です。五能線津軽線もそうですが、本州の北辺の車窓は、北海道の南側あたりよりもむしろ「さいはて」という印象を強くかもし出すようです。
 野辺地まで乗り通して下車し、十和田観光鉄道のバスを待ちます。鉄道はすでに無く、バスだけの会社になりましたが、バス事業のほうは「十鉄(じってつ)バス」として親しまれ、なかなか繁盛しています。
 野辺地からバスで20分ほどのところに、馬門(まかど)温泉というのがあり、まかど観光ホテルという一軒宿があります。この日の宿はそこを予約していました。
 馬門温泉は山の中だと思っていたのですが、バスはしばらく海辺を走ります。そしてその海辺のあたりからもう「馬門」という地名が現れていました。まだ走りはじめて10分も経っていません。しばらくして山へ入る道へと折れ、くねくねと曲がりながら高度を上げて、ホテルの玄関に横付けしました。ここが終点です。バスから降りると玄関に仲居さんが待っていて、フロントに案内してくれました。こんな本格的な温泉旅館に泊まることはあまり無いので、マダムが眼を白黒させていました。
 山の中というよりは高台の上というロケーションであるらしく、部屋の窓からは海がよく見えました。洞爺湖温泉のように韓国語や中国語の大声が飛び交っているわけでもなく、きわめて静かな宿でした。
 もっとも、ふたりともだいぶ疲れてしまっていて、夕食が済むと風呂にもゆかず寝入ってしまいました。私は22時頃に起きていちど漬かりにゆき、4時頃にもういちど起きて漬かりました。マダムのほうは零時過ぎて入り、それから朝食後に入ったようです。私は温泉宿に行くとたいてい4回くらいは入浴するのに、少しひかえめだったかなと思いました。

 7月23日(木)、朝から雨です。今回はどうも天候に恵まれませんでした。しかし、バスは宿の玄関に横付けになるので、濡れることはありません。
 まかど温泉を出発したバスは、前日に辿った道を逆戻りして野辺地に着き、さらに先へ進みます。4年前に小樽に行った帰りに立ち寄った十和田市現代美術館にマダムを連れて行ってやろうと思ったのでした。マダムは私よりも美術に関しては詳しいし、現代美術館の土産の絵葉書にだいぶ興味を示していました。
 時刻表には、このバス路線は「十和田市駅〜まかど温泉」と載っていました。十和田市駅は、廃止された十和田観光鉄道線の終着駅ですが、まだ「十和田市駅」がバス停の名前になっています。現代美術館までは、十和田市駅からは2キロばかり離れていて、そこは歩かざるを得ないかと思っていたのですが、前日に野辺地から乗ったバスのフロントガラスに、「七戸十和田駅・現代美術館・中央病院経由」と貼り紙がしてありました。してみるとこのバスで美術館まで直行できそうです。
 念のためホテルのフロントで訪ねたのですが、路線バスについてはよく知らなかったようで、
 「さあ……美術館には行かないと思いますが……あの、七戸十和田駅まででよろしければうちから送迎バスをお出しできますので、お申し付けください」
 という答えでした。どうも心許ないので、乗るときに運ちゃんに確認すると、
 「ああ、寄りますよ」
 とあっさりした返答。安心して乗り込みました。
 札幌〜洞爺湖や大間〜むつと同様、かなり長い乗車になります。約1時間45分ほどかかりました。

 野辺地からはかつて南部縦貫鉄道というローカル私鉄が出ていて、七戸まで結んでいました。私は高校1年の夏にはじめてひとり旅をしたとき、たった一度だけこの私鉄に乗りました。そのときも、やはり雨が降っていたと記憶します。寂しい原野の中を走る、いかにも不景気な感じの路線でした。バスも同じようなルートを通るようですが、主に走っているのは国道4号線でした。この国道と南部縦貫鉄道跡の位置関係はよくわかりません。とにかく天間林とか、営農大前とか、南部縦貫鉄道にあった駅名のようなバス停がいくつかありました。
 急にあたりが近代的な様相を帯びたと思ったら、東北新幹線の七戸十和田駅でした。大きなショッピングモールも設置され、巨大な駐車場も附随しています。しかし残念ながら、この駅を通過する列車も少なくないのでした。
 ふと、ホテルの送迎バスでこの駅まで送って貰い、そこでいま乗っているこのバスをキャッチすれば、バス代がだいぶ節約できたことに気がつきました。すでに50分ばかり乗ってきていたのです。七戸十和田駅と美術館の位置関係がわからなかったので、これは後知恵というものに過ぎませんが。
 そのあとバスは、七戸の市街地をひとめぐりして十和田市に向かいます。私は上記のひとり旅のとき、七戸駅から十和田市駅まで歩こうと無謀なことを考えました。時刻表の索引地図では近そうに見えたのですが、もちろん索引地図というのは線のつながり具合を優先させた作図になっていますから、縮尺などはあてになりません。当時もそのことはわかっていたはずなのに、私はときどきそういう無謀をはじめてしまいます。
 両駅間の距離は20キロくらいであるようなので、歩いて歩けない道のりではなかったと思いますが、何しろ重い荷物を持っていた上に大雨です。道路を行き過ぎるトラックがはね上げた水を頭からかぶってびしょ濡れになり、さすがにみじめな気分になりました。
 そのとき歩いたのが、おそらくいまバスで通っている道です。最初の夕張もそうでしたが、今回の旅はマダムと私それぞれの昔の想い出を辿る旅であったような気もします。
 びしょ濡れになった高校生の私は心が折れてしまい、近くにあったバス停から十和田市駅までバスに乗りました。まさにこの路線の前身にあたるバスでしょう。いまも当時も、そんなに便数の多い路線ではないのに、うまくちょうど良い便があったものだと思います。
 11時40分頃、十和田市駅に着きました。線路はすっかりはがされてしまって、どこにどういう形で駅があったのか、つい4年前のことなのによくわかりませんでした。もともと片面プラットフォームに1本の線路だけが添っている簡素な駅(昔はそうでもなかったのでしょうが、廃止前にはそういうことになっていました)だったので、プラットフォームと線路を撤去してしまうと痕跡も何も残らないのでした。
 時刻表ではここが終点のように書かれていたわけですが、実際にはもう少し足を伸ばし、三本木営業所というところまで走ります。その途中に現代美術館があるわけです。

 マシュマロマンみたいな家や、草間彌生の水玉模様のオブジェが見えてきて、現代美術館の停留所に停まりました。懐かしさを感じます。
 受付で大きな荷物は預かって貰えました。入場券は一日券であって、何度でも出入りできます。それで、いきなり展示は見ず、附属のカフェへ行ってひと休みし、さらに外へ出て昼食をとりました。
 4年前に来たときは、昼食をとれる店を探して相当歩き回り、さっぱり見つからなくて、結局美術館の隣の商工会議所の食堂に入りました。そこが案外当たりで、9種類ものオカズがお重に詰められた特製ランチがわずか500円で食べられ、すっかり満足したものです。で、食べ終わってからそのあたりを散策すると、さっきいくら探しても見つからなかった飲食店が、あっさりいくつも発見できたという次第でした。
 今回はその商工会議所の食堂に直行したのですが、なんともう閉まっていました。13時くらいまでは開いていたはずなのですけれども、食べ物が無くなってしまったのかもしれません。
 それで、前回見つけた他の店に行ってみました。そこもなかなか安くて美味であり、十和田は良いぞと思いました。もともと十和田市の市街地というのは、観光地である十和田湖とはほとんど関係が無く、さしたる観光資源も無いうらぶれた地方都市に過ぎません。食堂なども決して「観光地価格」にはなっておらず、地元の人ばかりが利用するリーズナブルなものがほとんどなのでした。
 満腹してから、美術館に戻って展示を見ました。展示内容は、4年前に来たときとほとんど変わっていませんが、今回は同行者が居るせいか、けっこう愉しめました。マダムも喜んでいたようで、来て良かったと思います。
 企画展のほうは前回より面白かったと思います。1分間、指示された体勢をとりつづけて、自ら「彫像」になる、という妙な「作品」がありました。ペットボトルや洗剤のボトルなどを、ふたりの人間のオデコ、胸、おなか、ひざあたりではさんだまま静止せよ、という「作品」にマダムと一緒にチャレンジしてみました。これがなかなか難しく、何度か失敗したのちにようやく静止できましたが、1分間そうしていると、なんとなく自分が彫像になったような気分になってきたのが不思議でした。
 3人の男が、オリンピック種目のパロディみたいな遊びを蜿蜒とやり続けるところを撮影しただけの「作品」もあって、しばらく映像を見ていましたが、だんだんあほらしくなって席を立ちました。あほらしいことを大まじめでやっているところが「現代アート」だというわけなのでしょうが、あほらしさにも限りがあるでしょう。
 3時間ばかり美術館を堪能し、JRバス「おいらせ号」八戸へ向かいました。これも4年前と同じルートです。

 八戸からは夜行バス「シリウス号」で帰るつもりでしたが、発車は22時05分です。八戸に着いたのは17時35分で、4時間半ほど時間がありますけれども、ここは何をしようとも全然決めていませんでした。前のマダムのメモリージャーニーで宮城県に行った際、帰りの夜行バスに乗る前にスーパー銭湯に寄ったのがなかなか良かったので、そんなことでもして過ごそうかと思っていたのでした。ただし、八戸の駅近くにスーパー銭湯があるのかどうか知りません。
 着いてみると、「新八温泉」というのがあることがわかりました。ただ駅からはだいぶ離れているようです。100円バスがそこまで行っているらしいので調べてみたら、日中だけの運行で、「終バス」は16時台でした。他の路線バスでは近くまで行かないようです。
 仕方がないので、タクシーで向かいました。スーツケースをトランクに入れて貰ったりして、初乗り区間だったりしたら悪いなと思いましたが、予想以上に遠く、初乗りどころか1200円もかかりました。帰りも公共交通機関は無く、タクシーを呼んで駅まで戻りましたが、最後に至って意外と散財してしまったようです。
 とはいえ、ゆったりした気分で時間を過ごし、「シリウス号」に乗り込んで無事帰ってきました。
 7月24日(金)、早朝の池袋に到着し、バスを下りた途端に熱気が襲ってきました。今回、北海道でも青森でも、けっこう蒸し暑い想いをしましたが、やはり東京近辺の蒸し暑さは質が違うようです。家に帰り着くまでに汗だくになってしまい、いささかうんざりしました。

(2015.7.27.)


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