道南と青森の旅(上) (2015.7.16.〜24.)

プロローグ

 2015年初夏の2ヶ月ほど、振り返ってみればずいぶん行事が続いたなあと思います。私にとって大きなものも小さなものもありましたが、これだけ集中してあれこれあった期間は珍しいのではないかと思います。
 5月17日が皮切りで、この日に『法楽の刻』の初演がありました。これは私自身は聴きに行っただけで、当日何かをしたというわけでもないのですが、作品初演が作曲家にとっての重要行事であることには変わりありません。この2ヶ月ほどのさまざまな行事の中には、作品初演もいくつも含まれていました。去年が珍しく作曲仕事が重なった年であったために、その初演も近接した時期におこなわれたわけです。
 その約1週間後、5月23日にはChorus STのボランティアコンサートがありました。小なりとはいえども、演奏会に違いはなく、このための練習も重ねました。前週の『法楽の刻』と同じ立正佼成会がらみで、場所もほとんど隣り合わせみたいなものだったのは、偶然とはいえ面白い符号でした。
 5月31日には世田谷区合唱フェスティバルがあり、30分ほどのワークショップと、コーロ・ステラの指揮をしました。ワークショップなどやったことはあまり無く、かなりイヤな汗をかきました。

 6月13日には、この2月から指導することになった女声合唱団クール・アルエットが、新宿区の合唱イベント「初夏に歌おう」に出演するというので、その指揮をしました。前の指導者が亡くなって、とりあえずこの演奏をどうしようかということで急遽呼ばれたふしがありますが、合唱団としてなんとか「うまくなった」と他から言われたということだったのでほっとしました。前の先生のときに較べて明らかに劣化したというようなことになっては私の沽券にかかわります。そんなことを意識していたために、知らないうちにかなり緊張していたらしく、終わってみると、当日の実際の労力以上にくたびれていました。
 そして6月21日には『セーラ〜A Little Princess』の初演です。もとより、一連の行事の中でも最大のイベントでした。当日は私は聴いていただけですが、台本執筆期間、作曲期間、そして稽古期間と、長いことつきあってきた作品です。それだけに気を揉むことも多く、本番直前など胃が痛くなりかけたほどでした。
 1週間も経たない6月27日には『星空のレジェンド〜七夕に寄せて』の初演がありました。これは、作曲を終えてから後は、『セーラ』ほど制作に関わったわけではなく、2回ほど練習に出向き、当日もホール練習と本番を客席で聴いたばかりでしたが、何しろ場所が平塚であり、行き来するのはなかなか大変でした。
 7月8日板橋区のオーディションがありましたが、これは他のと同等に並べられる「行事」であるかどうかは微妙です。私がオーディションを受けたわけでもありません。とはいえ、オーディションの審査員というのは、場合によっては他人の人生を変えてしまうことがあるわけで、その責の大きさはやはり相当に大きいと言わなければならないでしょう。大げさと思われるかもしれませんが、実際のところ私が新設されたばかりの「編曲専攻」オーディションに落ちるか、あるいは受けなかったとして、その結果板橋区演奏家協会に入会していなかったとしたら、私のその後の人生はだいぶ違ったものになっていたかもしれないと思うことがよくあるのです。
 そして7月12日にはChorus STとして東京都合唱祭に参加しました。旧作の20年ぶりの再演というオマケまでついていました。初演ではないけれども、これだけ久しぶりの再演となると、初演に準ずるような気分でもあります。
 以上、1〜2週間ごとに、なんらかの行事が8回も立て続けに催されていたことになります。

 もちろん、2ヶ月間に本番8回ということなら、少し売れているミュージシャンであればそう珍しいことでもありません。しかし、その8回がそれぞれまるで違った内容だなどということはあまり無いのではないでしょうか。
 8回の内訳は、自作の初演が3回、合唱指揮が2回、合唱団団員としての演奏が2回、そしてオーディションの審査員が1回ということになります。この中で、本番前にさほど準備にタッチしていなかったのは、初演3回のうち2回と、審査員の仕事だけで、あと5つはけっこう時間を取られています。準備同士がかち合わないようにするだけでも厄介でした。なんとかうまく処理したとは思いますが、それでも、『セーラ』の稽古のためにChorus STを欠席または大遅刻したり、世田谷区の合唱フェスティバルの役目が済むや否や『星空のレジェンド』の練習を見るために平塚に駆けつけたりといったきわどいスケジュールがありました。
 これらの外に、実はもうひとつ行事が控えています。
 小樽商科大学グリークラブOB会の、創立95周年記念演奏会というものです。

 小樽商大グリーについては、前にも書いたことがあります。川口第九を歌う会で事務長を務めているO氏が、このグリーのOB会の、「東京勢」の世話役をしており、その縁で指導を頼まれました。
 通年活動しているわけではなく、大学とかグリークラブとかの、何周年かの記念で演奏会をやろうじゃないかという話が持ち上がるたびに、OBで東京近辺に来ている人たちに呼びかけて練習をおこない、本番前日くらいに札幌もしくは小樽に出かけて行って、そちら在住のOBたちと合同演奏をする……ということを繰り返しています。私が関わるのは今回が3度目になります。
 最初は「グリー創立90周年記念演奏会」で、それから「小樽商大創立100周年記念演奏会」となり、そして今度の「95周年」です。この分だと、今回が終わっても、じきに100周年ということになりそうであり、そのくらいならもういっそ通年活動にしてしまったらどうかと思うのですが、本番を済ませるとしばらくインターバルを取りたい気分になるのでしょう。
 グリー90周年のときは、私は聴きに行きませんでした。近い時期に亡祖母の法事があり、そのときに札幌へ行ったので、ひっかけて聴いてきても良かったような気もしますが、確か1週間ほどのラグがあり、秋の忙しい時期で、1週間以上も北海道に滞在している時間的余裕が無かったのでした。
 商大100周年のときは、小樽まで出かけました。3泊ほどの行程で行ってきました。小樽商科大学というのは、その前身である商船学校の所在地を、函館と取り合って見事もぎとったという歴史があり、それだけに常に小樽という街と共にある感じで、この100周年を街を挙げて祝っている観がありました。
 そのときは聴きに行っただけでしたが、さて今回に至って、1ステージ振って貰えまいかと打診されたのです。北海道勢の負担を減らしたいという意図があったのかどうか、「東京勢だけによるステージ」を設けることになり、その部分のみ私が指揮をするというのでした。
 私としてもいわば「札幌デビュー」を飾る(?)ことになるので、ありがたくお受けしました。
 その本番が、今度の日曜日、つまり7月19日に開催されます。それが5月からの行事ラッシュの、ひとまずラストということになります。
 当然ながら、この演奏会の練習にもだいぶ時間をかけています。最初の頃は隔週というペースでしたが、年明けくらいから月に3回、近づいてくるとほぼ毎週となり、練習時間も2時間→2時間半→2時間50分と増えました。
 正直な話、練習時間および練習期間に比して、練習しなければならない曲数が多すぎ、やや不安が残っています。「東京勢ステージ」は4曲あり、その4曲を仕上げるというだけなら充分な期間と時間だったのですけれども、それよりも合同ステージとして演奏される多田武彦『雨』にかなり手間取りました。このOB会、毎回多田武彦の合唱組曲をひとつずつ採り上げているのですが、いつも時間が足りず、不満の残る出来具合のまま送り出しています。「かつて現役時代に歌った人が多い曲」ということで選曲しているらしく、それは妥当な方針とは思うのですが、ただ小樽商大グリークラブというのは伝統的にプロの常任指揮者を置くことをしない合唱団で、つねに学生指揮者によって曲づくりがなされています。それゆえ、同じ曲を歌うのでも、年代によってかなり歌いかたに違いがあり、各年代のメンバーがそれぞれに自分についた癖のままに歌ってしまうため、まず歌唱の統一を図るのに労力を要したりするのでした。
 『雨』そのものがまた、なかなか難儀な曲でもあり、どうしてもそちらに時間をとられて、「東京勢ステージ」に宛てられる練習時間がどうしても限られてしまいました。昨日、東京における最後の練習があって、大半を「東京勢ステージ」に費やしたものの、

 ──この時点でまだこういうことを言わなければならないか。

 と思ってしまう箇所がいくつもあり、少々焦りを感じています。

 本番前日の18日に、札幌でリハーサルがあります。ステージは全部で4つあり、ひとつのステージにかけられるリハーサル時間は1時間かそこらですが、とにかくそこでなんとか仕上げてしまわなければなりません。
 札幌に着いていきなりリハーサルというのも、私の気分的にかないませんので、一日早く(17日)札幌入りすることにしました。
 そして、例によってなるべくなら飛行機など使いたくない人間ですので、明日(16日)の夕方に発って、夜行列車で行くことにしました。
 「北斗星」「カシオペア」ではありません。「カシオペア」はそもそも運転日ではありませんでした。「北斗星」は今春のダイヤ改正で定期列車としては廃止されましたが、「カシオペア」が運転しない日を中心に不定期列車として残っています。16日発の列車もあったのでそれを最初は狙いました。
 ところが、なんということか、発売日である1ヶ月前の、発売時間である10時に駅の窓口へ行ったところが、まったく入手できなかったのです。実は私はわずかに出遅れ、3番目に並んでいました。窓口はふたつです。最初のふたりは10時の5分ほど前に窓口に呼ばれ、指定券以外の情報はMARSに全部入力されて、あとはボタンひとつでOKという状態で10時を待っていました。その片方が、私と同じく「北斗星」を狙っていたようでした。
 時計が10時を告げると共に、ふたりの駅員はボタンを押しました。
 しかし、「北斗星」は本当に瞬時に売り切れてしまったらしく、その人すら入手できなかったようでした。
 私は「北斗星」には何度も乗ったことがあり、それほど入手しづらかったということもありません。しかし、不定期列車となり、しかも夏休み開始の連休前という条件では、希望者が各駅に殺到していたのも無理はなかったのでした。
 今回はマダムも同行するというので、二人用個室、一人用個室を2室、開放寝台と次々調べて貰いましたが、すべて売り切れです。
 瞬時の売り切れに驚きはしましたが、実はそういうこともあろうかと、もうひとつの申込書を用意していました。夕方の「はやぶさ」から夜行急行「はまなす」に乗り継ぐというルートです。「はまなす」は夜行の激減、急行の消滅寸前という現況にあって意外としぶとく、「北斗星」と「トワイライトエクスプレス」が定期列車から消えた今春のダイヤ改正でも、最後の急行列車として生き残りました。ただし、運休になる日は増えています。
 前回行ったときも、同じ乗り継ぎでした。そのときは新幹線は「はやて」で、しかも震災後だったためにやや間引き・低速運転をしていましたが。
 「はまなす」では寝台券を確保しました。「北斗星」の売り切れの速さから、「はまなす」も危ないかと思ったのですが、「北斗星」の券を買えなかった衝撃から即座に立ち直って次のプランを検討できた人はそう多くなかったらしく、「はまなす」の寝台券はいとも簡単に入手できたのでした。もっとも「はまなす」は寝台だけでなく、カーペットカー(ごろ寝席)やドリームカー(ハイリクライニング席)などが連結されていて、むしろそちらを狙う人のほうが多かったのかもしれません。私も単独行なら寝台までは取らなかったでしょう。マダムのために奮発した観があります。
 実はマダムと結婚して今年で10年を迎えます。札幌での演奏会を済ませてしまうと、そのあと案外時間がとれたため、少し長めに旅程をとって、10周年の記念旅行ということにしようとも考えたのでした。
 「北斗星」がとれなかったため、逆に札幌到着が早朝となり(「北斗星」だと昼近くなります)、17日がまるまる空いてしまったので、夕張を訪ねてこようと考えました。夕張というところには、はじめてひとりで旅行をした高校1年のとき以来足を向けていません。しかもそのときは乗り潰し優先だったので、夕張駅に着くや、そのまま折り返しの列車で戻ってきました。だから夕張の街のことは何も知らないのでした。巨大な炭鉱町としての栄光の歴史、エネルギーシフトによる斜陽化、すっかり寂れた街並み、観光に見いだした活路、しかしながら投資に失敗して破綻した財政などなど、知識としてはいろいろ蓄えてきましたが、機会があれば街を歩いてみたいと思っていました。
 翌18日がリハーサル、19日が演奏会です。演奏会には札幌在住のおじおばたちがこぞって聴きに来てくれるらしく、その謝恩の意味も込めて、20日の昼に親戚一同で会食することにしました。会食のあとで札幌を発ち、いろいろ立ち寄りながら24日(金)の朝に帰ってくるという行程を立てました。仕事がらみとはいえ、前後8泊に及ぶ、なかなか大がかりな旅行になりました。

(2015.7.15.)

I

●隼は北へ●
 2015年7月16日(木)の18時46分大宮「はやぶさ31号」に乗って、北へ向かいます。
 「はやぶさ」と言えば、私たちより少しあとの世代くらいまでは、東京西鹿児島(現・鹿児島中央)間、日本最長距離を走る寝台特急というイメージが強かったと思います。私もいちどだけこのロングランを経験したことがあります。九州旅行の帰り、西鹿児島から一気に東京まで乗り通したのですが、21時間の汽車旅はさすがに乗りごたえがありました。すでに食堂車など連結していない時代で、熊本で個室寝台車連結のために長時間停車しているあいだに弁当を買ったり、門司で関門トンネル用機関車連結のために停車しているあいだに翌朝の朝食を買ったりと、なかなか忙しくもありました。
 「さくら」「富士」「あさかぜ」などと並んで日本の鉄道を代表するような列車だったはずなのですが、私が乗ったときには大牟田で特急「つばめ」に抜かされるという醜態をさらしていました。機関車牽引の客車列車で、あまりスピードが出ず、30分おきに次から次へと走っている電車特急「つばめ」から逃げ切ることができなかったのです。まあ仕方のないことで、確か日豊本線まわりの「富士」もどこかで「にちりん」「ソニック」に抜かされていました。それにしても、ハヤブサがツバメに平然と追い抜かされるようでは先も長くないな、と思ったことを憶えています。どちらもすさまじい飛行速度を誇る鳥で、確か瞬間最高速度ではツバメのほうが若干速かったかとも思いますが、獲物をみつけて急降下するときのハヤブサも、よく「いちばん速い鳥」の話柄に登場します。とにかく「いずれ劣らぬ」スピードであるべきなのであって、「はやぶさ」が疲れて休んでいるところを「つばめ」が抜かしてゆくなどというのは、まことにもってありうべからざる光景なのでした。

 その寝台特急「はやぶさ」も、ほかの九州夜行の仲間たちと共に廃止されました。
 まるでそのタイミングを待っていたかのごとく、東北新幹線の最速列車に「はやぶさ」が登場しました。八戸から新青森に延長された時に導入されたのです。それまでの最速列車「はやて」のワンランク上という触れ込みでした。南へ向かっていた「はやぶさ」は一転して北へ向かうことになったわけですが、最速列車としての礼遇を受けたのだから、きっと満足していることでしょう。なおカタキであった「つばめ」も九州新幹線で活躍していますが、こちらは最速列車ではなく、「こだま」タイプの各駅停車クラスです。「はやぶさ」も溜飲を下げているのではないでしょうか。
 「はやぶさ」は「はやて」以下の列車よりも特急料金がやや高く設定されているので、私はいままで乗ったことがなかったのですが、新青森まで行く「はやて」がだいぶ削減され、大半が盛岡止まりになってしまったので致し方ありません。今回はマダムも同行するので、奮発することにしました。
 乗り込んだ列車はもちろんE5系「こまち」E6系との併結ですが、E6系は「こまち」が走る在来線部分に対応したもので、E5系と性能的には同一です。どちらも現在のところ日本最速の時速320キロでの営業運転をおこなっている列車です。
 大宮を出ると仙台までノンストップ、わずか1時間06分、盛岡までも1時間47分に過ぎません。聞きしにまさるスピードです。盛岡の先は停車駅が多くなるので少し時間がかかりますが、それでも新青森まで2時間50分、21時37分には到着していました。
 ここまで速いと、あまり景色を愉しむという感じではありません。実際、窓は旅客機のように小さい造りになっていますし、座席の背もたれが高くて、向かい側の窓の景色も遮られています。たぶんリニアになるともっと旅客機ライクな車内になることでしょう。もともと名古屋までの行程の7分の6まではトンネル内と言われていますし、利用者はほとんどビジネスユースでしょうし、リニアで景色を眺める人などはほとんど居ないかもしれません。
 気密には充分留意されていると思いますが、それでもトンネルに突入したり出たりする時には少し耳がつーんとします。耳にこれだけ影響があるということは、それにつながっている鼻や気管にも影響があるのかもしれません。マダムはここしばらくひどく咳き込みが続いていて、少し良くなりかけていたのですが、「はやぶさ」で北上中に、また咳が出てきていました。

 新青森からひと駅だけ普通電車に乗り、青森駅へ。次に乗る寝台急行「はまなす」はすでに入線していました。最後の定期急行であり、「サンライズ」と共にわずかに残る定期寝台列車である「はまなす」ですが、来年の春に新幹線が函館(駅名はたぶん「新函館北斗」)まで延伸されるとどうなるかわかりません。函館〜札幌間は、かつては夜行の快速や鈍行が走っていたこともありますが、急行以上の夜行列車が走るほどの距離ではないので、たぶん廃止になりそうな気がします。そうなると、今回が乗りおさめということになるかもしれません。
 座席車には何度か乗りましたが、寝台をとったのははじめてです。マダムに配慮してのことでしたが、乗りおさめにふさわしいゼイタクだったと思います。青森発22時18分、札幌着6時07分、7時間49分の行程で、寝台料金がもったいないというほどの時間でもありません。もちろん昼間の特急「スーパー白鳥」「スーパー北斗」を乗り継げば、青森〜札幌は5時間半ばかりで移動できますが、そこは夜行列車のおおらかさというか、函館では40分も停車して時間調整をおこなったりしています。
 寝台車に乗るのは久しぶりで、私は寝台車では車窓が気になってなかなか眠れないたちです。しかも22時台といえば、家に居ればまだ全然寝る時刻ではありません。それなのに、青森を出ると間もなく眠ってしまったようでした。函館での長時間停車も気がつかず、眼が醒めると長万部駅に停車するところでした。3時少し過ぎです。
 それからしばらく起きていたように思うのですが、4時15分の東室蘭停車も、5時01分の苫小牧停車も知らず、5時24分の南千歳でまた眼が醒めました。よく眠れたようです。
 家を出たのは18時ちょっと過ぎでしたから、約12時間をかけて札幌に到着したわけです。

●炭都の落魄●
 7月17日(金)は特に予定がありませんでした。19日小樽商科大学グリークラブOB会の演奏会があり、その前日の18日にそのためのリハーサルがあって、到着していきなりリハーサルに向かうのも疲れるので、17日到着という日程を組んでいたのでした。それも最初は「北斗星」に乗るつもりでしたから、札幌着が昼近くなるはずだったのですけれども、「北斗星」の券がとれず、「はやぶさ」→「はまなす」になってしまったために、札幌に早朝に到着してしまい、17日がほぼまるまる空いてしまったことになります。
 せっかくなので、札幌から日帰りできる程度のところに出かけようと考えました。17日の晩から宿をとってあるので、晩までに戻ってくれば良いわけです。
 いろいろ考えた末、夕張に行ってくることにしました。夕張には一度だけ行ったことがあって、高校1年の夏にはじめてひとり旅をしたときのことです。札幌の祖父母の家(祖父はその年の秋に亡くなりましたが)を基地にして出かけて、最初に向かったのが夕張でした。
 とはいえ、当時の私は鉄道の乗り潰しばかり優先させていましたので、夕張に行ったと言っても街には出ず、ただ駅に着いて、写真を撮って撮り鉄というのではなく、そのころ「チャレンジ2万キロ」というキャンペーンがあり、国鉄の路線の起点駅と終点駅で駅名と自分が入った写真を撮って事務局に送ると「路線踏破」を認定され、それがある程度たまると景品が出る仕組みでした。私は結局2万キロチャレンジャーにはなりませんでしたが、そのときはやるつもりで居て、路線の起終点ごとに写真を撮っていたのです)、折り返しの列車で戻ってきたまでのことでした。従って、炭鉱が次々と閉じられてしょぼくれていた当時の夕張の様子などまったく知らないのですが、ひとり旅ではじめて訪れた場所であることには違いありません。そこにもういちど行ってみたくなったのです。
 前に行ったときには、石勝線が開通する直前で、夕張に鉄道で行くには、苫小牧の隣の沼ノ端室蘭本線に乗り換え、追分でもういちど乗り換えなければなりませんでした。石勝線は南千歳(当時は千歳空港)から追分をショートカットしたので、夕張までもだいぶ楽に行けるようになりました。
 しかし、「はまなす」を南千歳で下りて石勝線に乗り継ぐというほどの便利さはありません。南千歳に5時24分に着いても、石勝線の一番列車は7時31分の特急「スーパーおおぞら1号」であり、しかもこの列車に乗ってしまうと、夕張へ行く分岐駅である新夕張に停車しないために、夕張へは行けないことになります。次の7時51分の普通列車は追分止まりで、追分で33分待って特急「スーパーとかち1号」に乗り換えなければなりません。
 ところがこの「スーパーとかち1号」は、札幌発が8時01分です。つまり「はまなす」で札幌に到着しても、2時間近い余裕で乗り換えられるわけです。
 朝早く南千歳であわただしく起きて下車するのも大変だし、南千歳なんてところで時間を潰すあてもないため、一旦札幌に行ってしまうことにしたのでした。
 ちなみに、私たちが持って出た乗車券は、「川口→夕張」というものでした。「川口→札幌」「札幌→夕張」と分けるよりも、「川口→夕張」という切符にして、南千歳〜札幌間を乗り越しで別払いしたほうが安く上がるのです。なお、私はたいていこういう旅行のときにはフリー切符のたぐいを使うのですが、今回の行程ではどのフリー切符を使ってもかえって高くつくことが判明し、普通に乗車券を買うことにしたのでした。かつての道南ワイド周遊券が残っていればなあ、と思います。

 札幌駅というのは、早朝に着いても軽食ひとつ食べられる店がありません。4年前に同じように「はまなす」で到着して、そのことはわかっていました。京都でも大阪でも名古屋でも、6時台に着いて、モーニングセットの食べられる喫茶店のたぐいが1軒も開いていないなんて経験はしたことがなく、そういう点、都会のような顔はしていても札幌はまだ田舎だと思わざるを得ません。
 しかしまあ、洗面所で朝の支度などしているうちになんとなく時間は過ぎて、7時になると開く店も出はじめました。それでも多くの店は7時半開店で、私たちが入れたのはせいぜいドトールくらいです。
 ドトールで軽く朝食を済ませ、「スーパーとかち1号」に乗り込みました。「はまなす」で乗ってきた道を南千歳まで戻り、さて石勝線に入ります。帯広方面へのバイパスのために作られた路線で、沿線人口は著しく少ないため、駅はきわめて少なくなっています。南千歳を出ると、17.6キロ先の追分までひとつも駅がありません。
 追分から新夕張まではもとの夕張線なので少し駅が増えますが、いずれも小駅で、特急列車は容赦なくすっ飛ばし、9時ちょうどに新夕張に到着します。かつては紅葉山という駅名で、登川というところまで夕張線の枝線が出ていました。途中に(かえで)という駅がひとつだけありました。紅葉山といい楓といい、秋は風光明媚だったろうと思わせる駅名です。石勝線はその楓あたりまではこの枝線のルートを利用しており、開通後は夕張へ向かう路線のほうが石勝線の枝線ということになってしまいました。なお石勝線にも楓駅がつい最近まで存在しましたが、駅周辺に人が住まなくなって廃止されました。特急は一日中びゅんびゅん通過するのに、停まる列車は一日わずか2便、しかも新夕張方面にしかゆけず反対側の占冠(しむかっぷ)には向かわない、なんて状態では、不便すぎて利用する人が居なくなるのも当然です。
 夕張に向かう列車はすべて普通列車です。実はこの「スーパーとかち1号」からの乗り継ぎがいちばん便利で、わずか5分後に発車します。
 夕張へはかなり急勾配を登ります。かつてのキハ40系みたいなディーゼルカーではなかなか大変だったことでしょう。いまは新型ディーゼルカーで軽やかに登ってゆきます。
 途中の清水沢からは、大夕張線という私鉄が出ていました。会社名は何度か変わっていて、確か最後は三菱石炭鉱業だったと思います。純然たる民営鉄道としては北海道で最後のものでしたが、1987年に廃止されました。もう28年も前のことです。しかし、清水沢駅附近にはその路盤の痕跡らしきものが見え、駅そのものにも、かつては大夕張線のプラットフォームがあったのだろうと思われるスペースが残っていました。レールをはがしただけで、駅の構造自体を改築してしまうほどの予算も無かったものと思われますが、廃線の痕跡が残っているのを見ると、なんとなく嬉しい気分になります。

 終点の夕張駅は、1本だけの線路がマウントレースイホテルの一角にまぎれ込んだかのような、なんとなく場違いというか、何やら遊園地の豆汽車の乗り場みたいな雰囲気になってしまっていました。何十本もの線路が広大なヤードに拡がっていた「炭都」夕張駅の面影はまったく残っていません。そもそも駅の位置自体がずいぶん引き下げられ、私が高校生の時に訪れた夕張駅よりは2キロくらい手前になるようです。広大なヤードの跡地に建てられたのがマウントレースイホテルであり、ホテルシューパロであったのでした。
 隆盛を誇っていた炭鉱がことごとく閉鎖され、主要産業を失った夕張が、観光に活路を求めようとしたものの、無理な投資が祟ってあえなく財政破綻したことはよく知られています。2軒の大きなリゾートホテルも、現在は第三セクターの経営になっています。
 スキーシーズンは少しは賑わうのかもしれませんが、それ以外の季節はさほど見るところもありません。ただ初代の夕張駅の附近が「石炭の歴史村」という公園として整備され、石炭博物館ができているので、そこを見学するつもりでした。
 石炭博物館までは、駅が下がってきた分、つまり2キロほど離れています。北海道とはいえ日ざしが強く、あまり歩きたい気分ではありません。近くまでのバス路線はありますが便数が少なく、バス停からも500メートルくらいは離れているようです。といってタクシーを拾うほどの距離でもありません。
 それで、自転車を借りることにしました。マダムと観光するときは、よく自転車を使います。観光案内所で訊くと、マウントレースイホテルで貸してくれるそうです。また荷物も預かってくれるらしいので助かります。フロントへ行って頼むと、すぐに貸してくれました。私の手回り品を入れた手提げはカゴに入れなければならないのですが、ママチャリっぽいのは1台しかありません。マダムの手回り品はリュックザックに入れてあるので、私がママチャリに乗って、マダムがマウンテンバイクに乗ることにしましたが、数十メートルも行かないうちに、マダムは
 「乗りにくい」
 と苦情を言いました。相当に上体を寝せなければならないので、無理もありません。仕方なく、私の手提げをカゴに入れたママチャリを、リュックザックを背負ったままのマダムが漕ぎ、私は手ぶらでマウンテンバイクに乗ることにしました。私もほとんどマウンテンバイクには乗ったことがないのですが、まあなんとか漕げます。ただお尻が痛いのが難点でした。

 緩斜面をゆるゆる上がってゆくと、石炭の歴史村が見えてきました。休館かと思えるほどにひと気がありません。夏休みに入る前の平日なので仕方がありませんが、それにしても閑散としています。園内の売店や食堂のたぐいはほとんど休業でした。
 しかし石炭博物館はちゃんと開館していました。入口と出口がかなり離れており、出口附近にたむろしていたおじさんの助言で、自転車はそのあたりに駐めて、入口まで歩きました。
 博物館はなかなか充実しています。採炭の技術的な面の展示と、炭鉱生活の面の展示が混在している感じでした。また途中からは地下に下りて、本物の坑道を利用した展示もおこなわれていました。探照灯をつけたヘルメットをかぶって暗い坑道を歩くというところもありましたが、看板にあった「まっくら体験」というほどのことはなく、探照灯がどの程度役に立っているのかよくわからない程度の照明は設置されています。
 坑夫というのは非常な重労働ですが、当時は花形産業であって、稼ぎもきわめて良かったようです。私の父は地質学を専攻して石油のほうに進みましたが、父が石油会社に就職した昭和30年代はどう考えても石炭のほうが主力で、石油に行くのはやや負け組っぽい感覚があったかもしれません。
 最近世界遺産に登録された軍艦島なども同様であったはずで、炭坑で働きたいという人はいくらでも居ました。朝鮮などから無理矢理人を連れてきて働かせる必要はまったく無く、そこで働いていた朝鮮出身者(戦前は日本国内)も、単に高給に釣られて出稼ぎに来たに過ぎません。戦争末期のほんの数ヶ月ほどのあいだだけ、壮丁が兵隊に取られてしまって働き手が不足し、兵隊になっていない者(これは朝鮮出身者が多かった)を強制的に徴用するということもあったかもしれませんが、その場合でも給料はちゃんと支払われていたわけで、奴隷的な強制労働が長期にわたっておこなわれたなどという韓国その他の主張はまったくの絵空事です。
 石炭博物館の展示説明にも、韓国の主張に配慮したか屈したか、有無を言わせず連れてきて無理矢理働かせたみたいなくだりがありましたが、別のところでは、戦争中に労働力が不足したので急速に機械化が進められたという記述もあって、おそらくそのほうが真実でしょう。「強制連行された朝鮮人」などによる「奴隷的な労働力」に頼らなければならなかった時期は、ほとんど、というより、まったく無かったと思われます。

 国内の石炭資源は、まだまだ大量に存在するらしいのですが、石油がべらぼうに安くなったためにコストパフォーマンスが悪くなり、顧みられなくなってしまいました。また国内の石炭は東南アジアなどに産する無煙炭ではないため、化学的な処理を施さないと公害が発生し、その面でもコストがかかることになっています。石油や天然ガスのように、パイプを貫けばあとは勝手に噴き出してくるということもなく、あくまでも固体であるために、採掘も手間がかかります。
 石炭が息を吹き返すのは、それらを勘案した上でも石油より明らかにコストが安くなった時でしかないでしょう。そのための研究も、大々的にとは言えないまでも続けられていますけれども、石炭というと古臭いイメージがあるのか、あまり人気が無いようです。いつの日か、石炭が見直されれば、夕張もまた復活するときが来るのかもしれませんが……

 古い映画の看板が並べられた通りがあったので、そちらへ行ってみました。青梅市などでも試みられていることで、どれほどの宣伝効果があるのかはわかりませんが、少しでも人を呼ぼうと、街ぐるみで涙ぐましい努力をしていることが伝わってきます。
 市役所のあたりも走ってみました。夕張駅は、いまの場所に移る前、ほんの5年ばかり、この市役所の裏に位置していたそうです。それが2代目で、いまの駅は3代目というわけです。
 市役所も、その隣の市民会館も、構えは立派なのですが、壁が汚れても塗り直ししていないようで、どこかくたびれた感じを漂わせています。財政破綻した自治体の悲哀というものでしょう。
 夕張市では開き直って、「夕張夫妻」なるご当地キャラクターを打ち出しています。「夫妻」は「負債」にかけており、いささかみすぼらしい服装の男女が「金はなくとも愛はある」とうそぶいているのでした。夕張には「夕張メロン熊」というご当地キャラがすでにあるのですが、いわば第二弾というところでしょうか。「メロン熊」はご当地キャラとはいえ、いわゆる「ゆるキャラ」ではなく、目つきなどホンモノのヒグマそっくりの獰猛そうな表情です。あまりに怖すぎるとの指摘が多く寄せられたようで、ちょっとカワイクしたヴァージョンも誕生しています。
 マウントレースイホテルに自転車を返し、ホテル内のレストランで昼食をとりました。私は駅の外の屋台村でも良いかと思っていたのですが、夕張メロン食べ放題のビュッフェというところにマダムが食いついてしまいました。
 確かにメロンは食べ放題でしたが、マダムは例によっていろんな料理をたくさん取りすぎてしまい、メロンに行き着くまでに満腹になって、ひと切れしか食べられませんでした。あまりにもったいないので、私は頑張って3切れ食べました。角度から見てたぶん16切りにしたもので、1個2000円のメロンだとしても3切れで375円に過ぎず、あまり元を取った気がしません。
 さて、夕張から札幌に戻るにあたって、最初はなるべくJRを使うように考えたのですが、どうにもうまい列車が見当たりません。途中までバスにして乗り換えるなどという手も検討してみました。しかし、フリー切符のたぐいが使えないと決まったところで、あっさり全行程バスということにしてしまいました。マウントレースイホテルの前から、札幌まで直行する北海道中央バスが1日3往復走っています。夕鉄バスもありましたが新札幌まででした。私が小学生の頃に廃止されてしまった、夕張鉄道線という私鉄があったのですが、起点は札幌からかなり離れた野幌で、夕張に直行できるわりに不便でした。その後身である夕鉄バスとしても、何か利権の関係があって札幌の中心部には乗り入れられないのかもしれません。
 ともあれ、15時43分の北海道中央バスに乗って夕張をあとにしました。
 時刻表ではいちおう長距離バスのページに掲載されており、車輌もなかなかグレードが高いのですが、走りっぷりは路線バスとさほど変わりません。途中高速道路を経由するので長距離バスとして扱われているようです。街中に入ると、快速便程度の頻度でバス停に停まるのでした。
 札幌駅に近づくとさらに停車間隔が短くなりました。私たちが泊まるのは北2条西3丁目にあるホテルなのですが、この住所は札幌駅からもほど近いのに、駅よりひとつ手前で下りれば至近であることがわかり、途中下車しました。
 連休にかかるこの時期、札幌市内のホテルは軒並み満室で、空いていてもべらぼうに宿泊料が高く設定されていました。これから3泊しなければならないのですが、Jらんのサイトで検索すると実に一軒も見当たらず、Rてんのサイトで検索してようやくひとつだけ発見したのがそのホテルでした。それも、通常ならそんな値段は払いたくないというような、ごく貧相なビジネスホテルに過ぎません。部屋も狭く、窓の外は隣のビルの壁で、朝になっても一向に光が差しこまないのでした。
 しかしこの際やむを得ません。駅へも大通公園へもごく近いというロケーションの利があるのが取り柄と言えるでしょう。20日(月)の朝まで、ここがわが城というわけです。

(2015.7.24.)

II

●札幌の雨●
 私たちが発ったときは、関東地方はまだ梅雨明けになっておらず、降ったり止んだりの鬱陶しい天気が続いていました。朝は晴れているようでも、午後あるいは夕方から天気が崩れ、雨が落ちてくるということがしょっちゅうで、自転車で移動することの多い私などは、その日の交通手段をどうしようかということでずいぶん悩みました。
 よく知られているように、北海道には梅雨がありません。ごくたまにそれらしき天候になる年が無いではありませんが、基本的には津軽海峡を境に気候帯が切り替わり、梅雨前線は北海道には到達しないのが常です。また颱風も、北海道に達するまでにはたいてい勢力を失ってしまいます。
 それだから、さぞかし向こうはからりと乾いているだろうと期待していました。じめじめした関東地方を抜け出て、体調なども良くなるのではないかと思いました。
 が、7月17日(金)の夕方に札幌に着き、北2条西3丁目の宿に荷物を解いて、夕食でもとりに行くかと思って外へ出ると、雨になっていました。それも霧雨のような細かいものではなく、けっこう本格的な雨です。昼間に滞在した夕張ではかんかん照りと言って良い天気だったのに、これは意外、というよりがっかりでした。せっかく梅雨の関東をあとにしてきたのに、なんだか騙されたような気分です。もちろん梅雨どきでなくとも雨は降りますし、北海道といえども雨が降らないわけはないのですが、これまで私が滞在しているときにそんなに雨模様だったことはあまり無かったような気がします。もちろん、冬に行った時に雪に降り込められたことは何度もありますが。
 今回の旅の主目的である小樽商科大学グリークラブOB会創設95周年記念演奏会で、メインステージに多田武彦『雨』などやるものだから、札幌の空がご祝儀をくれたのかもしれません。

 7月18日(土)の朝は、マダムがあまり体調が良くないということで、かなり遅い時間まで臥せっていました。朝食がつく宿ではないので、臥せっていたからと言って損することもないのですが、まわりの部屋で掃除をしている気配がはじまっても部屋でごろごろしているのは、なんとなく気がとがめました。
 11時近くなって、ようやくマダムが支度をはじめ、出かけることにしました。私は13時からリハーサル会場に入れば良いので、まだ余裕があります。マダムはそのあいだ、珍しく単独行動をとることにしていました。札幌市の近代美術館で、フランス絵画展をやっていたので、それを見に行くと言います。地下鉄に乗って数駅先になるようでした。持参の地図帳をマダムに渡し、札幌という街は南北が○条、東西が○丁目という形で表されているので、交差点の信号機についている表示を確認して歩けば迷うことはないと教え込みました。
 マダムを美術館に送り出す前に、朝食をとります。時間からしてもうブランチと言うべきかもしれません。イタリア風サンドイッチであるパニーニを供する店が駅の北口にあって、マダムは前からそこへ行きたがっていたのでした。札幌にある店としてあらかじめそこを知っていたわけではなく、マダムがむしょうにパニーニを食べたいと思いネットで検索したらその店が出てきて、住所を調べたら札幌だったという次第です。サラダ・飲み物・ソフトクリームまでついたセットが500〜700円程度という安さで、マダムの脳裡に刻みつけられていたのでした。
 宿から駅は近いので、そこへ行ってパニーニのセットを食べ、地下鉄東豊線の改札口でマダムと別れました。
 私は一旦宿に帰ります。リハーサルに必要な楽譜などを持ってきていないので、取りに戻らなければなりません。宿で小一時間のんびりできるかな、と思ったのですが、帰ってみるとまだ部屋の掃除がおこなわれておらず、私が在室していてはさらに掃除の時間が延びることになりそうだったので、早々に出かけてしまいました。
 ところで、パニーニの店にブランチを食べに行ってきただけで、ひどく汗をかいています。雨も降ったり止んだりしていて、そのせいもあって服が濡れてしまっています。適当な枚数を見繕って服や下着を持ってきていたのですが、意外な湿気と蒸し暑さのため、どうも着るものが足りなくなりそうな雲行きです。宿には洗濯室などが無く、前日の入浴のときに洗った下着なども一向に乾く気配がありません。
 予想するところ、乾燥機まで備えた洗濯室がある宿は、21日(火)までありそうになく、着替えのペースからするとそこまでも保たなさそうでした。
 やむなく、駅の南口にあるショッピングセンターの中のユニクロへ行って、3枚980円也の安いTシャツを買い求めました。家に居ると滅多に衣類を買ったりしない人間なのですが、旅先ではかえってそういうことをします。
 宿を少し早めに出てきたのは正解でした。リハーサル会場は北6条西7丁目にあるクリスチャンセンターというところなのですが、ユニクロに寄っていると少々遠回りになります。そのため、13時に着くためにちょうど良いタイミングとなったのでした。

 クリスチャンセンターというのは行ったことがなかったのですけれども、マダムに教え込んだとおり、札幌という街は「条・丁目」さえわかれば容易に目的の場所に行くことができます。まあ同一の「条・丁目」はひとつのブロックを形成しているため、運が悪いとそのブロックの周囲をぐるぐる回って、数百メートル歩かなければならなかったりすることもあるのですが、大きな施設であればそんなことになる心配はほとんどありません。目指すクリスチャンセンターは、北大の入口にほど近い場所でした。
 演奏会は4ステージ構成で、最後に『雨』が置かれています。その前の第3ステージの前半は、グリークラブの現役学生による演奏ですが、現在グリークラブは人数が極度に減って3人しか居らず、同学の女声合唱団「カンタール」と一緒に活動するようになっており、事実上混声合唱団となっているそうです。そして彼らの後に、東京勢だけの演奏がおこなわれます。私はここを指揮するためにやってきたわけです。1ステージどころか半ステージだけの出番ですが、ちゃんと交通費やら出演料やらを貰っており、やや恐縮します。
 第2ステージが北海道勢だけのステージで、新実徳英『やさしい魚』全曲を演奏します。合唱組曲をふたつもよく準備できたものだと思います。そして第1ステージはオペラの合唱曲やら歌曲の編曲ものやら、いろいろ雑多なプログラムのステージであり、東京勢も有志参加ということになっています。
 そんなわけで、私が去年の4月頃から指導してきたのは、『雨』全曲と、第3ステージ後半、それから第1ステージの曲ということになります。第1ステージの曲は、最初の頃少し時間をかけましたが、その後有志参加ということになって、通常練習ではほとんど扱わなくなりました。その代わり、本番直前に、その「有志」たちのために別に時間を取って、ごく簡単に指導しました。
 東京勢だけのステージを持つということが決まったのは、練習開始後半年くらい経ってからであり、その曲目が確定したのは年明けのことでした。そのため、第3ステージの練習は、期間の上でも、合計練習時間の上でも、かなり危ういものになってしまいました。なにぶん『雨』のほうもなかなか仕上がらず、しばらくの期間第3ステージの練習に専念するというわけにもゆかなかったのです。
 それでもクロアチア民謡「ウ・ボイ」清水脩「秋のピエロ」は、かつて歌ったことのあるメンバーが多かったので、けっこう良い仕上がりになっていたと思うのですが、私が編曲した「見上げてごらん夜の星を」「花は咲く」が、どうにも完成度の低いことになっていました。前者はかつて清水雅彦さんの麾下合唱団が合同で開催した演奏会で、混声合唱団の中から男声だけ集めて演奏したもので、いちおうちゃんと響くはずなのですが、このたびは練習するごとに戸惑いが見られました。要するに昭和30年代、40年代という時期にグリークラブで歌っていた人々にとって、「こういう流儀の編曲」は馴れていなかったのでしょう。
 「花は咲く」も、そのことに気づいてから編曲すれば、もう少しやりようがあったのでしょうが、それ以前に「見上げてごらん」と同じようなスタイルで編曲してしまったため、これまた戸惑いばかりが感じられる練習風景になってしまっていました。この2曲については、どうも私の失敗だったような気がします。

 リハーサル会場に着くと、北海道勢だけのステージ『やさしい魚』の練習をやっていました。少し待って第1ステージの練習、それから私の受け持ちの第3ステージ、最後に『雨』、という順番で練習をおこないました。第1ステージと『雨』にはそれぞれ指揮者がおり、『やさしい魚』もそのステージだけの指揮者が居ます。小樽商大のグリーは伝統的に外部の指揮者を頼まず学生指揮者だけで演奏活動をしており、今回もみんな学指揮あがりのOBです。
 あとで聞いたのですが、その指揮者一同、第3ステージの練習のときに、私の指導を食い入るように見ていたそうで、何やら面映ゆいものがありました。私も別に合唱指揮を専門的に勉強したわけではなく、いろんな合唱団の伴奏などしに行った際に、それぞれの指揮者の指導法や指揮ぶりを見て少しずつ盗み取って行ったまでのことです。というかたいていの合唱指揮者はそんな感じなのではないかと思います。それがいつの間にか、盗まれる側になっていたのだと思うと、妙な気分になります。
 ともあれ後半の編曲もの2曲は、このリハーサルでもあまり埒があかず、「本番の奇跡」に賭けるしかないような状況になってしまいました。指導者がそんなことを思うのは、言うなれば敗北宣言みたいなものであり、正直なところ重い気分です。

 リハーサルが終わって外に出ると、雨は篠つくような大降りになっていました。宿に帰るだけでもうぐしょ濡れです。
 マダムは美術館のあと、サッポロビールの博物館などにも足を伸ばしてきたそうで、19時過ぎになって帰ってきました。体調は回復したようですが、この日予定していたジンギスカン鍋の食べ放題はやめておき、カレーを食べに行きました。近年札幌名物となった「スープカリー」ではなく、少し前に話題になっていた「オホーツクカリー」の店をマダムが発見して、そこへ行きたいと言ったのでした。真っ青なカレーに、流氷に見立てたチキンのクリーム煮をあしらったオホーツクカリーは賛否両論で、食欲が失せるという意見も多かったのですが、話の種にいちど食べておくのも悪くありません。
 店に行くと、オホーツクカリーにはその後いろんな変種ができ、ついに虹の七色をそろえて「完結」したんだそうです。それをひとそろい食べられる「レインボーカリー」というセットがあり、注文してみました。興味のある向きのために列記しておくと、

 赤……オホーツク夕陽のカリー(チキン)
 橙……オホーツクかぼちゃのカリー(かぼちゃ)
 黄……オホーツクスモークカリー(ホタテ)
 緑……オホーツクバラクバニール(ほうれん草)
 青……オホーツクコフタカリー(じゃがいも団子)
 藍……オホーツク流氷カリー(チキン、これが元祖)
 紫……オホーツクバイオレットカリー(白花豆と紫花豆)

 私たちが行ったときは「橙」が品切れだったようで豆のカレーに差し替えられましたが、それでも色合いは「橙」でした。「青」も「藍」も本当にそういう色で驚きました。このふたつだけ、他と少し違った風味が感じられたので、何か青色を発色する独特のスパイスがあるものと思われます。「青色何号」のたぐいでないことは確かでした。7色並べられれば良いのですが、「青」や「藍」だけの単品だったら、やっぱり食欲が減退するかもしれません。

●札幌デビュー●
 地下鉄の大通駅からすすきの駅までは、以前から地下道がつながっていましたが、今回来て驚いたのは、札幌駅から大通駅までも「地下空間」と称する地下道ができていたことです。いやにオシャレな感じに造られた地下道でした。これができたので、札幌からすすきのまでは、ずっと地下道がつながったことになります。
 地上を歩くのも良いのですが、ブロックごとに信号機にぶつかるのがありがたくありません。しかも今回は雨模様だったので、この地下道をずいぶん利用しました。宿は地下道からわずか半ブロックしか離れていないので、たいへん利用しやすかったのです。
 また、宿から西に向かって歩くと北海道庁にぶつかるのですが、その道庁前の道路が歩行者天国、というかイベントスペースのようになって、終日車輌進入禁止なのでした。実はこの道路、北海道ではじめて敷かれた舗装道路なんだそうですが、その当時の雰囲気を再現した赤レンガ風の舗装となっていました。数年来ないうちに、札幌の市街地はいろいろ変貌したようです。
 7月19日(日)の演奏会当日も、朝のうち雨っぽい天候だったので、私は地下道だけを通って本番の会場・札幌市民ホールまで行きました。大通まで地下空間を行き、そこからは以前から設置されている地下街「オーロラタウン」を東に行けば、ほとんど外に出ることなく市民ホールに到達できます。大通公園随一のランドマークであるテレビ塔のすぐ隣になります。
 10時からホールリハーサルでしたが、最初のうちはあまり用がないので、私は少し遅れて会場に入りました。最近建て直されたらしく、いやに清潔感のあるホールです。
 私は専用の楽屋をあてがわれていましたが、ただ3人ほどの合唱団員と同室でした。その3人はどういう人かというと、出演者のうち高齢なほうから3人ということのようでした。一般楽屋は2階にあって、いちいち階段を上り下りしなければならず、確かにお年寄りにはつらいことでしょう。私も喜んで承諾していました。ひとりは昭和28年卒、あとのふたりは昭和31年卒ということですから、いずれも80代であるはずです。しかし話をしてみると、そんなお齢とは思えないようなお若い雰囲気を感じました。歌っている人は、実年齢よりも若く見えるようです。

 ホールはなかなか響きが良いようでしたが、私の編曲もの2曲は、響きに助けられるということもなく、やはりあまりぱっとしない状態でした。なんと言っても、半数以上の人が手に持った楽譜にかじりついていて、指揮すらろくに見ていません。これでは声を客席に届かせることも困難です。客席に声を届けられなければ、ホールの響きの良さもほとんど意味を持ちません。
 前日も、それ以前の練習のときも、とにかく顔を上げるようにとやかましく言いはしたのですが、曲がからだに入っていないのでしょう。心配になってすぐに眼を落としてしまうのでした。
 これは彼らが悪いのではなく、練習に充分な時間を配分できず、自信をつけさせてやれなかった指導者の責任ということになります。もういっそ2曲はカットしようかとさえ思いましたが、当日になってそんなことをすると場の雰囲気が悪くなり、余計に萎縮させてしまいかねず、歌えている前半2曲にすら悪影響が出るかもしれないので、ここはもう私が失敗したということで割り切り、そのまま本番を迎えることにしました。

 OB会には別に制服は無く、みなそれぞれにダーク系の背広を着ての出演でした。各ステージの指揮者も同様でしたが、私はいちおう燕尾服を着ました。とりあえず「客演指揮者」としてのけじめみたいなものです。ただし燕尾服を持ってこなければならないために、荷物がだいぶかさばりました。
 15時開演です。最初に小樽商大に受け継がれている「若人逍遙の歌」をオープニングとして歌います。この逍遙歌、

  琅?(ろうかん)融くる緑丘(りょっきゅう)の
  春曙(あけぼの)を彷徨(さまよ)えば
  浪漫(ろまん)の靄(もや)に街沈み
  風悠久の言葉あり
  瀾朶(らんだ)の桜花(さくら)吹雪つゝ
  あわただしくも逝(ゆ)く春の……


 と、やたらと難しい言葉が連続するので、誰もが戦前に作られた歌だと思ってしまうのですが、実は昭和32年に、時の札幌地検小樽支部長であった高嶋茂氏が小樽商大に「献詩」したものだそうです。そんな頃にこんな大時代な詩を献呈された大学側も面食らったのではないかと思います。従って、私と同室だった高齢のお三方は、実は在学中にはこの歌を知らなかったということになります。
 第1・第2ステージ共に順調に演奏が進みました。北海道勢の練習期間や練習回数がどうだったのかは知りませんが、よく仕上げたものだと思います。
 休憩後第3ステージで、まず現役学生たちが歌います。木下牧子「春に」と、周藤諭「三つのマリアの歌」でしたが、舞台袖で聴いていて、惜しいなと思いました。伝統かどうか知りませんが学生指揮ではなく、外部からちゃんとした指揮者を招いて指導して貰えば、ずっと良くなるのではないかと感じたのでした。学生指揮では、どうしても音楽の読み込みに深みを欠いてしまいます。
 ……と偉そうなことを言ってみても、私も失敗でした。自分の編曲ということで、逆に細かいことを言いすぎなかったのも問題だったかもしれない、と思ったりしました。合唱団員は本番も譜面にかじりつきで、私がいくらいろんなサインを送ってもほとんど伝わっている実感が無いし、当然ながらテンポ感もどんどんずれて縦の線が合わなくなるし、和音もひしゃげてしまいました。音がずれているパートに躍起になってサインを出しますが、ほとんど効果がありません。
 冒頭の「ウ・ボイ」などでは、歌い終えた瞬間に盛大な拍手が来たくらいだったので、後半のこのていたらくはまったく泣きたくなるほどでした。繰り返して言いますが、歌う側が悪いのではなく、もっぱら私の責任です。編曲方針を彼らに合わせてやれなかったこと、練習計画を綿密に立てられなかったこと、従って曲全体を彼らに染みさせることができず、自信を持って他のパートを聴きながら歌う段階まで至らせられなかったこと、すべて私の見通しの甘さでした。『雨』のような難しい合唱組曲を歌う人々なのだから、ということで読み違えてしまっていました。
 思えば『雨』にはずいぶん時間をかけましたし、事前に本番の指揮者が上京して様子を見るという丁寧なステージづくりをおこなえました。その甲斐あって、ラストステージである合同演奏『雨』はなかなか感動的な演奏になっていたようです。終わり良ければすべて良しということで、合唱団員はわりと満足感を得られていたらしいのが、まあ救いでした。
 私のほうはそういう気分にはなれません。第3ステージのあとで、現役の女子学生から花束を贈呈されましたが、一刻も早くひっこみたい気持ちがはやっていたせいか、少々落ち着きなく見えた、と聴きに来ていた親戚から言われました。
 さんざんな「札幌デビュー」でした。雪辱の機会は訪れるのでしょうか。

 会場の隣のテレビ塔の中のバンケットルームでレセプションがおこなわれ、私とマダムも招かれていたので出席しました。いろんな人が酒を注ぎに来るのですが、私は例によってほとんど飲めないので、盃を受けるのはどちらかというとマダムの役割でした。ただ調子に乗ってワインを飲み過ぎ、最後にはかなり酔っぱらっていたようです。
 東京勢の何人かから、
 「東京ステージはいささか不本意な出来でした」
 「先生の想いに応えられず申し訳ありません」
 等々と言われました。申し訳ないのはこちらのほうです。
 ところで今回は「創立95周年」、ということは、すぐさま「100周年」がやってくるわけです。どうやら私はクビになるわけでもなく、100周年に向けての東京勢の指導も頼まれそうな雲行きですが、今回の反省を踏まえて、きちんと練習計画を立てねばと肝に銘じました。練習期間や練習回数、そのペースも、これまでのように世話役の人に言われるままではなく、私が主体的に組み立てなければなりません。少なくとも一部のステージだけとはいえ本番の指揮を任されるのであれば、そうするのが当然でした。今回、私が振ることが決まったのが相当に遅かったというのが、言い訳といえば言えますけれども。

 レセプションの後、テレビ塔の展望台に昇って夜景を見たのですけれども、マダムがすっかり酔っぱらって、しきりに早く帰りたいと言います。展望料金は安からぬものがあったのですが、やむなく早々に下り、また地下道を通って宿へ帰りました。この宿も3泊目です。

(2015.7.25.)


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