9.大覚野峠死の彷徨

 
 大覚野(だいかくの)と言って、すぐにわかる人は、地元の人は別として、かなりの地理通と言わなければならない。
 この峠は、秋田県仙北郡北秋田郡との境界にある。峠越えの国道105号線が通っており、決して深山幽谷の中というわけではない。
 ただし、この周辺はマタギの部落などが多く、日本の中ではかなり僻陬の地であることは疑いない。
 この峠の下に、秋田内陸縦貫鉄道の線路が敷かれ、列車が走りはじめたのは、1989年の4月のことである。
 例によって、国鉄時代に計画着工され、途中まで開通したものの、その後の赤字路線廃止の対象となってしまい、そのままうち捨てられるところを、沿線自治体や住民の熱意で第3セクター化した路線のひとつである。現在は秋田新幹線が通っている田沢湖線角館(かくのだて)から、大覚野峠を貫いて、奥羽本線鷹ノ巣(たかのす)まで通じている。本来、奥羽本線のバイパス線「鷹角(ようかく)線」として計画されたものだ。
 角館側は、田沢湖に近い西木村松葉(まつば)まで開業して角館線と称され、鷹ノ巣側は、阿仁町比立内(ひたちない)まで開業して阿仁合(あにあい)線と称された。で、あとは大覚野峠を貫くトンネルを作って松葉と比立内を結べばよかったのだが、ここまで来たところで、廃止対象路線にされてしまった。
 そもそも、バイパス線として計画した路線が部分開業したところで、それだけでは採算がとれるわけがないのである。角館線は田沢湖線という、今でこそ新幹線も通るが当時の状況では「地方交通線」(ローカル線のレッテルと考えて差し支えない)に分類されてしまった路線からさらに分岐する、いわゆる「二次ローカル線」であり、一方阿仁合線はかつて宮脇俊三氏(鉄道ライターの最長老と言うべきお方)が「もっとも『秘境』を感じさせてくれる路線」として「ローカル線十傑」に挙げられたほどのローカル線で、どちらも、ひとたまりもなく廃止対象となったのである。
 しかし、前にも述べたように、東北の人々は鉄道に対する愛着が強い。鷹角線の計画は全線が秋田県内ということもあって、比較的とんとん拍子に話が進み、秋田内陸縦貫鉄道が設立された。そして累卵の危うきに合った角館線と阿仁合線を引き取り、さらに未通部分も開通させようという大計画を立てた。
 それが開業したのが、前述した通り、1989年の4月である。

 その僅か一月あまり前、1989年の2月に、私は角館駅に下り立った。
 鉄道雑誌などほとんど読まないので、新規開業区間などの情報に疎い。私は当時まだ松葉までしか営業していなかった旧角館線、その時は秋田内陸縦貫鉄道南線と呼んでいた路線に乗ってみようと思って訪れたのである。駅に着いてはじめて、間もなく未通部分が開業するということを知って、
 ――ちょっと早く来すぎたな。
 と舌打ちをしたのだった。
 しかし、ともかく松葉まで行こうと思い、1輛だけのディーゼルカーに乗り込んだ。
 その年は雪が少なかったのだが、仙北郡と言えば日本でも有数の豪雪地帯(付け加えるなら、日本有数の美人の産地でもある)で、さすがにかなり深い。しかし、天気は快晴だった。
 松葉までは、檜岐内(ひのきない)に沿った平地をゆくので、車窓は比較的平凡である。快晴のため、一面の銀世界がまぶしい。眼を開けていられないほどだ。
 松葉はなんの変哲もない無人駅だった。周囲にも大した集落があるわけではない。未通部分の開業も近いので、当然線路はその先へずっと延びている。知らなければ終着駅とは思えない。
 ディーゼルカーは5分後に折り返す。それに乗って角館に戻るのが順当であり、私ももともとそのつもりだった。
 ところが、松葉駅があまりに拍子抜けな終着駅だったせいか、生来の無鉄砲な性分が頭をもたげてきた。
 この先、比立内まで抜けることはできないだろうか。
 国道はずっと続いているのだし、鉄道が通るということは旅客需要があるわけで、ひょっとしたら先へゆくバスでもあるかもしれない。もし直通するバスがなくても、ある程度先へ行ければ、あとは歩いてもいいのではないか。
 同じルートを戻るのは芸がない。このまま比立内へ抜け、当時秋田内陸縦貫鉄道北線と呼ばれていた旧阿仁合線に乗って、鷹ノ巣へ行ってやれ……
 そんなことを考えたのである。

 松葉駅に下り立ったのは10時10分。国道はすぐ近くを通っており、そちらへ出ると、ほどなくバス停があった。「角館・上戸沢方面」と表示がある。路線図がないのでよくわからないが、上戸沢というのはずっと奥の方らしい。
 ほら見ろ、やっぱり先へゆくバスがあるじゃないか、と思って、時刻を見ると、13時半近くにならないと来ないようだ。3時間以上あるとわかったところで、普通なら断念するのだが、私はもう鷹ノ巣へ抜ける気分になっていたから、こう考えた。
 ――まあ、3時間くらい歩くのはなんとかなるだろう。バスが追いついてきたらそれに乗って、上戸沢とやらまで行くとしよう。
 ――そこからまた別の路線がでているかもしれないし、そうでなくても、バスの終点になっている集落だったら、きっとタクシーの営業所くらいあるに違いない。そこから比立内までタクシーに乗れば、そんなにバカ高いこともあるまい。
 勝手にそう決めて、国道を歩き始めた。
 天気はいいし、快適なハイキングだった。防寒靴が少々きついのだが、厚いアノラックを着ているので寒くはない。景色もとてもよい地域である。
 線路が見え隠れしている。時々試験車が行き来する。あれに乗せて貰えればなあ、と思った。
 バス停をひとつひとつ過ぎ、追いついてくるバスの時刻との間が徐々に詰まってくる。
 いくつもの集落を過ぎた。いくつもの坂を昇降した。そろそろ峠かと思うのだが、川はいつまでも後方に流れ続けている。
 13時半まで歩いてバスを待とうと思った。そのあたりにバスが追いついてくるのは13時50分頃になるはずだ。そこからバスに乗って上戸沢までゆくのだ。

 ところが、そう考えたあとに通過したバス停が、「下戸沢」となっていたので私は唖然とした。
 いま下戸沢なら、上戸沢だってそう遠くないはずである。向こうに併走している線路には、「戸沢」という駅名票が見えた。
 思った通り、ほどなく上戸沢に着いてしまった。バスが追いつく前に、終点まで来てしまったのだ。
 小さな集落で、みすぼらしい工場が一棟、商店が一軒、それに住宅が10軒ほどあるだけだった。
 先へ行くバスなどない。タクシーの営業所もない。どん詰まりの小集落である。人が住んでいるから仕方なくここまでバスを延ばしたという感じだ。
 間もなく来るであろうバスに乗って、角館に戻るしかないようだ。しかし、ここまで3時間半を歩いてきたのが完全に無駄になろうとは。
 ともあれ、愕然としながら、そこらの電話ボックスの入り口に腰掛けて、昼食用に買ってあった卵やポテトサラダを食べた。さっきまであんなに晴れていたのに、いつの間にか白いものが舞い始めている。
 おなかができると、強気になった。なんとかなるさ! 強気というよりは無謀というべきだろうが。
 私は、さらに奥へと道を歩き始めた。
 しばらく行くと、もう私には用のなくなったバスが追い越して行った。その先に転回所があるのだ。
 転回所を歩き過ぎようとすると、バスの運転手が声をかけてきた。
 「どこまで行くね」
「まあ比立内の方へ……行ける所までね」
「大変だよ。どのくらいあると思う?」
 ここから阿仁まで、人家は全くないのだという。これからが大変なのだ。
「ま、明るいうちにゃ着けるさね」
 そんな運転手の声をあとにして、再び歩き始めた。いい加減くたびれていたが、ともかく峠さえ越えればなんとかなるだろう。国道が峠を越えるあたりにはたいていドライヴインがあるものだし、そこからハイヤーを呼ぶこともできるかもしれない。
 何もかも皮算用なのだが、私は意地になっていた。
 線路がトンネルに入った。そのまま二度と現れない。
 谷間を急旋回で巻く部分にさしかかった。峠はもうすぐだとわかった。

 「阿仁町」という標識の下を通り過ぎたのは、15時03分のことだった。すでに5時間近く歩き続けてきたことになる。その標識の付近が峠なのだが、ドライヴインなどはなく、ただ短いトンネルがあるだけだった。
 そこから、歩いても歩いても、人家に行き当たらない。道端の看板に何やら地名らしきものが書かれていて、すわこそ集落かと思うと、橋の名前に過ぎない。ろくでもない小さい橋にもいちいちその看板が立っていて、私はその都度失望を味わった。
 カーブをいくつ曲がっても人家は見えない。何か建造物があると思うと、全部、雪崩よけの廂であった。バス停があったかと思うと、雪崩注意の標識である。どうも峠はおそろしく人里から離れていたらしく、上戸沢から峠までよりはるかに長い時間を歩いているのに、一向に見えない。見える気配もない。
 雪はいつの間にか本降りになってきた。最初からきつめだった防寒靴がひどく足を締め付けるようになっている。坂も多い。一歩一歩が甚だしく苦痛になってきた。
 これはいかん、と思って、ガードレールに手をついて息を整えようとする。ところが、今までそんなに寒くもなかったのに、急激に冷え込んできた。
 こんな所で休んでいたら、凍えてしまう。
 だが、もう歩けそうにない。
 必死で、数百メートルずつ歩いた。歩いては立ち止まる。立ち止まっては寒さに震え上がる。
 ――ここまでか……
 そんなことを思った。
 その2ヶ月ほど前、私ははじめて真剣に恋した相手に告白し、拒絶されていた。
 拒絶されはしたが、まだ私は彼女を愛していた。諦め切れていなかった。
 その彼女の顔が、雪の中に浮かんだような気がした。
 ――もう駄目だ……
 私は降りしきる雪の中に、立ちすくんだ。
 後ろから走ってきた大きなワゴン車が私の近くに停まり、ドアが開いたのは、その時だった。

 ワゴンには、中年の夫婦と、その両親らしい老夫婦が乗っていた。
 しばらく前から、道路脇に蜿蜒と着いている徒歩の足跡に気づき、何事かと思っていたらしい。
「ここから一番近い人里まで、どのくらいありますか」
あえぐように私は訊ねた。
「5キロくらいかなや。なんなら乗ってかんか。それとも、頑張って歩くけ?」
 もう意地もへったくれもなく、私はありがたく便乗させて貰うことにした。
 比立内までではなく、結局奥羽本線の二ツ井(ふたつい)の駅まで送ってくれた。北線には乗れなかったが、もうそれどころではなかった。
 運良く車が通りかかったからよかったが、そうでなかったら、私は道端で凍死していたに違いない。
 凍死は、眠りの延長のように訪れるという。7時間、30キロ近く歩き続けて、疲労の極に達していたため、私は容易に眠り込んでしまっただろう。そうなったら、もうアウトであった。
 あの時は九死に一生を得たのだと、今でもぞっとすることがある。

 全通した秋田内陸縦貫鉄道には、その後何度も乗った。
 私が死にかけた大覚野峠を、列車は易々とトンネルで通過する。
 今のように自動車が普及する以前、明治大正の頃の人々が、いかに鉄道を待ち望んだか、実感として理解できるような気がする。冬には雪によって交通が寸断されたであろう東北の人々が、悲願何十年という鉄道を、軽々に捨てることができなかった気持ちも、よくわかるのである。
 こうした私的な思い入れも強いのだが、それを離れても、秋田内陸縦貫鉄道は乗る価値のある路線ではある。特に阿仁町側は、さすがにかつての「ローカル線十傑」であり、しかも新線部分はさらに奥地を走るのだ。いつだったか真冬に乗った時は、丁度吹雪にぶつかり、本当に白と黒だけの景色というのはこれほどに凄絶なものかと絶句する想いがしたものだ。
 また、この路線には、第3セクター鉄道には珍しく、自前の急行「もりよし」号が走り、日本初の女性運転士が乗務して話題になった。私は女性運転士は見ていないが、私が乗った時の車掌も女性で、はっとするほどの美人であった。さすがに美人の産地の土地柄であると感心した。 

(1998.1.15.)

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