ミステリーゾーン

黒後家蜘蛛の会
推理の饗宴

 名探偵の名前を各章題に掲げているこのエッセイシリーズの趣旨から行くと、この章には「ヘンリー・ジャクスン」と書くべきではないかと思われる向きも多いかもしれない。

 特許弁護士ジェフリー(ジェフ)・アヴァロン
 諜報機関の役人であるトマス(トム)・トランブル
 化学者
ジェイムズ(ジム)・ドレイク
 数学教師をしているロジャー(ログ)・ホルステッド
 推理作家
イマニュエル(マニー)・ルービン
 画家マリオ・ゴンザロ

 という、6人の知識人によって構成されるクラブ「黒後家蜘蛛の会」の月例会食の場に、毎回違ったゲストが招待され、上は殺人事件から下は試験のカンニングまで、それぞれに不可解な謎を持ち出す。会員一同はその謎をああでもないこうでもないとひねくりまわすが、最終的に正しい答えを導き出すのは、常に会食の世話をしている名給仕のヘンリーだった……というのが、この短編集のおなじみパターンである。また、本のアオリ文句にも、
 ──ブラウン神父以後、もっとも個性的な名探偵と言われるヘンリー……
 というような書き方をされることが多い。
 しかし、ヘンリーのみを特筆大書するのは、いささか当を逸してはいまいかと私は考えている。

 安楽椅子探偵だろうと、足で稼ぐ探偵だろうと、探偵の仕事にはいくつか必須の要素がある。
 情報を収集し、集めた情報を分析し、そこから推論して仮説を立て、それによってさらに補強的な情報を拾い、仮説を修正したり建て直したりして、最後に真相に到達する。
 その手順は、科学者のそれに対応していると言ってもよい。
 まあ現実の私立探偵の仕事というのは、この最初の段階である情報の収集で終わることが多く、時には分析する段階までやることもあるが、その先の、推論したり真相を突き止めたりするところまで求められることは稀だ。
 しかしながら、推理小説の世界ではそうはゆかない。最後に真相に辿り着かないことには読者は納得しないのだから、探偵役は例外なくこれらの段階を踏まなければならない。ハードボイルドの探偵でも同じことだ。
 クラシックな意味での「名探偵」は、これらすべて、もしくはその大半を自分ひとりでやってのける。

 情報収集というのは、証人に訊問したり、事件現場を捜査して足跡や遺留品などの手がかりを見つけたりすることすべてを指すわけだが、それらの実際の作業は別人がやることも多い。だがその別人から捜査結果を聞くというのも情報収集のひとつの形態ではある。初期の推理小説によくあった、アマチュアの探偵が友人の警察官から相談を受けて、事件のあらましを聞くという形はその典型と言える。現代でも、探偵役が民間人であった場合は、自分で捜査するというのはやや非現実的なので、主な情報は警察などから仕入れざるを得ない。ともあれ、そういう広い意味で考えていただきたい。
 情報の分析。集まった情報というのは玉石混淆であって、互いに背反しているように見えるものもあるし、さして重要でないものも含まれている。それらを選別するのが分析の段階である。背反しているように見えれば、どちらかが嘘であるわけで、名探偵はそれを見抜けなければならない。
 推論して仮説を立てる。分析の段階と重なる部分もあるが、いわゆる「推理」が必要になるのはこの部分だ。整理されたデータを、破綻のないように組み合わせて、まとまった筋に収斂させなければならない。この場合、複数の筋が考えられても構わない。
 複数の筋があった場合、そのあとでたいてい何か新事実が発見されるなり起こるなりして、最終的にひとつの真相に到達することになる。新事実が出てきたがそれがまだ分析されていない、という段階でエラリー・クイーンならば「読者への挑戦状」を挿入したりするわけである。

 しかしながら、これらの諸段階を、ひとりでやるわけではないという場合もある。複数の人物が「推理競争」をおこなう、という趣向の小説も少なくない。
 主役探偵のライバルとして配置された警察官などが競争相手を務めることもあるが、より典型的なのはアガサ・クリスティ「火曜日の夜会」(「ミス・マープルと13の謎」)だろう。火曜の晩に集まった6人の人物が、代わる代わる謎を出し合い、その真相を推理し合う。もちろん正解を出すのはミス・マープルだけなのだが、この趣向の面白いところは、同じデータでも違った側面から眺めることで、全然別の結論に到達してしまうということがあり得るという点である。まさに論理の楽しさであり、推理小説の中でも特に理知度が高いジャンルと言えるだろう。
 アントニー・バークリーは長編でこれをやっている。「毒入りチョコレート事件」がそれだが、推理小説のステレオタイプを壊すのが大好きだったらしいバークリーは、自らのシリーズ探偵であるロジャー・シェリンガム間違わせるというとんでもないことをしでかしている。遺憾ながら邦訳の出ているシェリンガム物はこの長編と、その原型となった短編「偶然の審判」だけであるため、日本の読者にはロジャー・シェリンガムが「名探偵」であるとは到底思えないことになってしまっているのは気の毒と言う他ない。ちなみに「偶然の審判」のほうでは推理競争はなく、シェリンガムはちゃんと真相を突き止めているが、どうしたって長編のインパクトのほうが強いのはやむを得ない。

 「毒入りチョコレート事件」では、推理クラブの6人のメンバーが、それぞれ独自に調査、つまり情報収集をおこなっているから、厳密に言うと「同一のデータに基づく推理競争」とは呼べないかもしれない。
 が、いずれにしろ、与えられた情報の分析方法や、そこからの推論などは人それぞれであって、その点はミス・マープルの仲間たちも同様である。
 ところが、「黒後家蜘蛛の会」の場合は、ちょっと異なっている。
 もちろん、たくさんある短編のうちには、ミス・マープルの火曜日の夜会と同じような形式を持っているものもあるのだが、このシリーズでより一般的なのは、情報の分析、あるいは推論による仮説の段階まで、ヘンリー以外のメンバーが受け持っているという形なのであった。

 作者アイザック・アシモフのとてつもない博覧強記ぶりを反映してか、黒後家蜘蛛の会のメンバーはいずれも非常に博学である。特にジェフ・アヴァロンとマニー・ルービンの博識ぶりには唖然とさせられるほどだ。他のメンバーも、たいていは自分の専門以外でなんらかのオタッキーな趣味を持っていることが多く、例えばジム・ドレイクは三文小説マニアであり、ログ・ホルステッドはリメリック(日本の狂歌にあたるような、滑稽な内容の五行詩)に凝っている。
 ゲストから謎が呈示されて、彼らのいずれかにより、それにまつわる蘊蓄が長々と披瀝されないということは滅多にない。シャーロック・ホームズはしばしば蘊蓄を傾けたし、ヴァン・ドゥーゼンファイロ・ヴァンスピーター・ウィムジイ卿などはもっと鼻持ちならない蘊蓄家であったが、黒後家蜘蛛の会の面々は彼らを上回ると言ってよい。ただ、誰かが知ったかぶりを始めると、たいてい他のメンバーがすかさずツッコミを入れたりするので、全体としてはそんなに鼻持ちならぬ印象にはなっていない。
 彼らはその博識ぶりにものを言わせて、データをかなりの程度まで分析し、真相まであと一歩というところまで迫ることも珍しくはない。が、最後のツメの部分で、たいていは考えすぎて間違ってしまい、ヘンリーが別の角度からアプローチして真相に到達するのである。
 ゲストに質問して必要な情報を引き出すのも、たいていの場合はヘンリーではなく他のメンバーである。ヘンリーはレストランの給仕に過ぎないので、自分からは滅多に口をはさまないのだ。他のメンバーがデータをこねくりまわし、あれこれ分析し推論し、結局行き詰まってしまったところで、
 「ヘンリー、頼むよ」
と助けを求めるというのがこのシリーズの普通のパターンである。
 つまり、「黒後家蜘蛛の会」では、従来の「名探偵」がひとりでやっていたことを、6人のメンバーとヘンリーとが分担してやっていると言える。章題にヘンリーの名前でなく「黒後家蜘蛛の会」そのものを掲げたのは、そのためなのだ。

 「黒後家蜘蛛の会(ブラック・ウィドワーズ)」は、アシモフ自身が所属していた「戸立て蜘蛛の会(トラップドア・スパイダーズ)」というクラブにヒントを得て作られたという。日本ではこの種のクラブ文化というものがなかなか育たないが、専門・職種・業種などまるきり異なる人々が、時々歓談するだけのための親睦団体というのは、もっと採り入れられてもよいのではあるまいか。
 毎回ゲストを呼んで話を聞くというのも、この戸立て蜘蛛の会の慣例であったらしい。それを「訊問」と称し、ゲストは何事によらずメンバーの質問に正直に答えなければならず、メンバーはクラブの外では決してそれを口外しないというルールも同様だろう。女人禁制であるところも同じである。
 アシモフは当初、「黒後家蜘蛛の会」のメンバーはみんな創作であり、いかなる意味でも「戸立て蜘蛛の会」のメンバーと似通ったところは少しもない、と明言していたが、年月が経つにつれて、モデルにした人物を明らかにしはじめた。もっとも、明らかにされても読者にとっては「はあ、そうですか」としか言いようがないのだが、マニー・ルービンのモデルは「夕べの祈り」「いとしのヘレン」など抒情的な作品で知られるSF作家のレスター・デル・レイだそうで、いつも喧嘩腰なルービンのキャラクターはデル・レイそのままであるらしい。
 ルービンといつでも角突き合わせているのがマリオ・ゴンザロである。彼だけはさほど博学というわけではないようで、そのためかシリーズ全体の「ワトスン役」のような役割を一手に引き受けている。他のメンバーが何やら知ったかぶりをし始めると、たいていゴンザロが
 「なんだ、そりゃ?」
 と合いの手を入れ、さらなる蘊蓄を引き出すという段取りになっている。最初のうちはそれほど明確ではなかったが、回数を重ねるにつれそうした役割がはっきりしてきた。

 シリーズは、邦訳が出ているものだけで60篇と、厖大な数にのぼっている。ブラウン神父ものより多いし、ホームズものも短編だけ見ればこれより少ない。創元推理文庫で5冊組で刊行されており、すべて池央耿氏の訳となっている。第5巻の末尾のあとがきで、アシモフはまだ書き続けるという意思を明らかにしており、実際それから1992年に亡くなるまでいくつかを雑誌掲載したようではあるが、単行本にはなっていない。
 60篇のうち、直接的にせよ間接的にせよ、殺人事件がからんだものは僅か5篇に過ぎない。その他の犯罪やスパイ活動がからんだものに範囲を拡げても、半数に満たない。推理小説、特に短編にとって、殺人、さらには犯罪も、決して不可欠な要素というわけではないということを教えられる。
 むしろ多いのは、ちょっとした言葉の行き違いとか、誰かの奇妙な行動に説明をつけるとかいう趣向の話である。純粋に論理の穴を見つけるというだけのものもあり、しかも傑作と呼べるものが、重大事件を扱ったものよりもむしろそちらのほうにあったりする。「推理小説あれこれ(1)」で考察した推理小説の定義、

 ──「謎」とその「合理的な解決」「知的カタルシス」を感じることが面白さの多くの部分を占める文芸作品を指す。

 を立証するような作品群だと思う。

 英語の変則なところにネタを求めたようなものもいくつもあり、アシモフ自身が言っているように訳者泣かせだったことだろう。逆に翻訳本を読んで、ここは原文ではいったいどんな英語になっているのだろうと首を傾げてしまうところも少なくない。例えば「トゥ」という発音でtwo(2)、to(〜に)、too(〜も)の他にどんな単語があるか、ということがメインのネタになっている話があるのだが、発音だけの「トゥ」を原文でどう書き表しているのか、いくら考えても想像がつかなかった。発音記号で書くという方法を考えてみたのだが、実はそうすると最後のオチがわりと簡単に予想できてしまうのではないかと思うのである。
 メインのネタ以外でも、ホルステッドはしょっちゅうリメリックを披露するわ、実にしばしばダジャレは飛び交うわで、池さんまったくご苦労様と言うほかない。リメリックの韻を踏んだ部分などは、ちゃんと七五調に調えて、しかも脚韻を踏ませていたりするから感心する。

 さほどの大トリックが使われているわけではないとはいえ、肩の凝らない、軽く読めるミステリー集として「黒後家蜘蛛の会」はうってつけである。事件の真相が──というより「オチ」が──わかってしまってからでも、何度でも読み返せるだけの内容がある。それというのも、謎解きの部分よりもむしろ、軽妙な会話文、登場人物の(つまり作者の)語るさまざまなミニ知識などが、再読に耐える面白さを持っているからだろう。
 稀に謎の呈示が、会話の中ではなく、「(以下、誰某の話)」という註釈のもとにまとまった一節として語られることがあるが、そういうのに限って飛ばし読みしたくなるのは、やはり会話劇の面白さがこの作品群の主軸を占めているからではないかという気がするのである。
 推理小説がパズル・ストーリーであることに異存はないけれども、再読できるものとなると、やはり謎解き以外にプラスアルファの持ち味が必要なのではないかと思う次第。

(2004.5.29.)


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