ミステリーゾーン
概論
推理小説あれこれ

●推理小説の定義●

 推理小説というものの定義については、これまで実にいろんな人が考案しており、私が事新しく口をはさむにも及ばないのだが、しかしどの定義を見ても、帯に短しタスキに長しという趣きがあるので、やはりひとこと言っておきたいような気分がある。過去さまざまな定義を下した人たちも、たぶん同じような想いにかられたのに違いない。
 江戸川乱歩の有名な定義があり、1950年というからすでに半世紀以上前に唱えられているにもかかわらず、今でも賛同する人は多いようだ。そこでまずその定義を引用し、少し考えてみることにしよう。

 ──探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である。「幻影城」より)

 探偵小説と推理小説は、厳密に言うと多少ニュアンスの差があるが、一応同じものとみなしてよいだろう。戦後の漢字制限で探偵の「偵」の字が使えなくなり、「探てい小説」ではあまりにも間抜けだろうというので「推理小説」という言い方が広まったという経緯がある。漢字制限が人名を除いてはほぼ過去のものとなった現在、「探偵小説」に戻しても良いかもしれないが、推理小説、推理作家という言い方はこの半世紀ですっかり市民権を得てしまった。
 「主として犯罪に関する難解な秘密」というところは乱歩の見識だったと思う。海外の作家や評論家の定義を見ると、犯罪は自明として、「主に殺人」などと物騒な注意書きがあったりするのである。「殺人が必要。そうでないと保たない」とまで断じている人もいる。確かに長編推理を殺人抜きで持ってゆくのはかなり至難の業だろうが、すぐれた短編には、殺人とは無縁のものも少なくない。犯罪と無縁のものすら珍しくはないのである。乱歩自身の作品にも、犯罪に見えて犯罪と無関係というものがかなり多い。「二銭銅貨」「人間椅子」などが好例だろう。
 世の中を見渡すと、必ずしもその謎が難解とは思えないような推理小説も多いが、まあそこはよしとしよう。とにかくなんらかの「謎」がなければ始まらないのは確かである。「謎」のない推理小説というのはあり得ない。あったとすれば、別の名で呼ぶべきである。まず、「謎」の存在が、推理小説の第一条件だと言えよう。

 だが、「謎」が呈示されるのは何も推理小説だけではなく、普通の小説でもよくあることだ。次の条件は、「論理的に、徐々に解かれて行く」という部分になる。
 ホラー小説というのは、広い意味で推理小説の親戚筋くらいに含めても良いようだが、「謎」をいわゆる「投げっ放し」にしてしまう場合が多い。謎が謎のまま、収束せずに終わってしまうことで、読者は言い知れぬ不安感を覚える。ホラーのホラーとしての価値はそこにある。途中がどれほど怖ろしくとも、最後ですべての謎が解ければ、読後感としてはあまりホラーな気はしないものだ。
 いわゆる純文学畑の小説でも、謎を投げっぱなしで終えるものは珍しくない。
 しかし少なくとも推理小説を名乗るからには、「謎」は解かれなければならない。たとえ小説自体が悲劇的な結末(例えば、真相を探り当てた主人公がそのまま死んでしまうとか)になったとしても、「謎」の解決だけは読者に与えられる必要がある。多少疑わしかったり、未解明の部分が残ったとしても、とにかく主な部分の「謎」は白日の下に解明されなければならないのだ。
 「謎」とその「解決」……これが次なる条件となる。

 「謎」と「解決」があれば良いのかと言えば、これもそうではない。「解決」は論理的なものでなければならないのである。単なる当てずっぽうや霊感に頼っては推理にならない。
 ただしこの段階に来ると、多少曖昧でもある。推理小説を名乗りつつ、あんまり解決が論理的でないように思われる作品は少なくない。
 もっとも厳密であるべきいわゆる本格推理小説においてすら、真の意味で水も漏らさぬ論理が組み立てられていると言えるものはむしろ少数派である。穴を探せばいくらでも指摘できるといったものが多い。エラリー・クイーン「フランス白粉の謎」「Zの悲劇」で、厖大な数の容疑者を次から次へと論理的に抹消してゆき、最後にただひとりの真犯人に到達したところで終わるという手法を用いたが、こういうやり方は誰にでもできるわけではなく、またそのやり方によって小説として面白くなると限ったものでもない。
 どちらかと言えば、蓋然性に頼った解決であることが多い。
「その犯罪が犯せたのは関係人物の中では彼だけなのだから、彼が犯人に違いない」という、法廷に出したら弁護士の攻撃でたちまち崩壊しそうな論理しか持ち合わせない場合がほとんどである。それ以上に、作者の身びいきがある。名探偵の論理が多少怪しくても、
「実際、そうだった」と作者が保証してくれているのだから、これほど心強いことはない。
 身も蓋もない言い方をしているようだが、それが悪いというわけではないので、推理小説では要するに、読者に説得力を感じさせられる程度の論理があればそれで良いのである。読者の合理性が納得できる限度での論理性が不可欠で、当てずっぽうや霊感で解決したのではたいていの読者の合理性は満足しないというわけだ。
 またハードボイルドなどになると、都合の良い偶然が生ずることによって謎が解ける割合がさらに高くなる。たいてい、ある時点で解決は向こうからやってきたりするのだ。主人公がタフネスを発揮して荒仕事をしまくった揚句のことであるのはもちろんなのだが、論理によって真相に到達したとはとても感じられないものがほとんどである。
 だから解決の「論理」は、カッコ付きにしておく必要があるだろう。数学におけるような厳密な論理とは異なる。しかし少なくとも、超常現象に頼った解決だけは避けなければならない。

 「謎」とその「(論理)」による「解決」、それが「徐々に」おこなわれなければならないと乱歩は言う。「徐々に」とはこれまた微妙な言い回しだが、つまり算数ドリルの答えを見るように一目瞭然ではよろしくないのであって、もつれた糸が次第にほどけてくるような「過程」があり、その「過程」にこそ「面白さの主眼」を置くべきだというのだ。
 この点も現代ではやや異論がある向きもあろうが、やはり知的なカタルシスを少しも味わえない文芸作品を推理小説と呼ぶのはあんまり意味がないのではなかろうか。一時期、推理小説というジャンルがむやみと拡大解釈されたことがあって、それこそ今で言うサイコホラーのようなものまで推理小説の範疇に含められてしまっており(最近はむしろ本格推理のテイストがある作品でもホラーを名乗ることが少なくないようだが)、あたかも
「『推理作家』が書いているのだから推理小説だ!」
と言わんばかりであったが、そろそろ少し整理した方がよい。
 冒頭の乱歩の定義を、多少言い回しを変え、現代風にアレンジしてみれば、こんな感じだろうか。

 ──推理小説とは、「謎」とその「合理的な解決」「知的カタルシス」を感じることが面白さの多くの部分を占める文芸作品を指す。

(2003.3.2.)


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