ミステリーゾーン

シャーロック・ホームズ(2)
シャーロッキアンという人びと

 世の中には、シャーロッキアンと呼ばれる人々がいる。私も一応その末席に連なっているつもりでいる。簡単に言えば「シャーロック・ホームズにハマった人々」ということなのだが、単なる愛読者ともまた違う。読むだけでなく、むしろ「シャーロック・ホームズで遊ぶ人々」と定義すべきだろうか。
 コナン・ドイルが書いたホームズ物最初の長編「緋色の研究」は、あっちこっちの出版社から突き返され続けた揚げ句、ようやく1887年に「ビートンのクリスマス年鑑」という雑誌に掲載された。この時はあんまり評判にもならなかったのだが、しばらくしてアメリカのリピンコットという出版社がこれに着目し、同じ主人公で書き下ろしの長編を書いて欲しいと依頼してきた。その依頼に応えて1890年に書かれたのが第二長編「サインは“4”」(原題「The Sign of the Four」「四人の署名」と訳されることが多いが、「邦訳題名について」で書いたように、タイトルには私なりの好みや主張があるので、こう書かせていただいた。今後とも同様にしたいが、従来の訳題とかけ離れている場合はその都度注記します)である。
 今度はこの第二長編に着目した人物が現れた。ロンドンの月刊雑誌「ストランド・マガジン」の編集長である。1891年1月に発刊されたばかりのこの雑誌は、一枚看板となるような連載小説を求めていたが、ドイルに、いやシャーロック・ホームズに白羽の矢を立てたのである。最初の読み切り短編「ボヘミアのスキャンダル」がストランド・マガジンに掲載されたのは、同年の7月号であった。
 現在に続くホームズ人気が高まったのは、この月刊連載が始まってからのことである。シャーロック・ホームズは、作者も編集者も唖然とするほどの爆発的な人気を獲得した。ホームズを実在の人物と勘違いした多くの人々が、彼の住まいとされたベーカー街にひっきりなしに押し掛け、探偵依頼の手紙をよこしたりした。
 毎月一編の短編を書き続けるのは大変なことだったに違いないが、ドイルは2年間頑張った。ホームズの人気は毎月のようにうなぎのぼりに上がり、ストランド・マガジンは大いに売れ行きを伸ばしたし、ドイルの原稿料もどんどんアップした。
 が、ドイルとしては不本意だったようだ。彼は歴史作家を自任しており、「シャーロック・ホームズの生みの親」としてばかり名が売れてしまうのは不愉快だったらしい。後年、アメリカの劇作家がホームズを舞台化する時、
 ──ホームズに恋愛をさせても構いませんか?
 とドイルに問い合わせたのだが、ドイルは至極簡潔に、
 ──結婚させようが、殺そうが、お好み次第でどうぞ。
 と答えたという。シャーロック・ホームズにほとほと愛想が尽きていた作者の顔が眼に浮かぶようである。

 そんなドイルであったから、連作を書くにあたってのつじつま合わせというか、筋の一貫性などということにはほとんど考慮していなかったようだ。ある短編と別の短編を読み較べると、明らかに矛盾が生じてきたりするところがわんさか出てくる。
 ひどい時にはひとつの物語の中でとんでもない矛盾があったりする。有名な「赤毛連盟」は、
 ──去年の秋だったか、
ワトスン博士が冒頭に時期をはっきりと書いているのに、少し読み進むと、当のワトスンが、ホームズから新聞の日付を訊かれて、
 「1890年4月27日。ちょうど2ヶ月前だね」
などと答えている。4月27日から2ヶ月で、どうやったら秋になるのであろうか。
 これまた有名な例だが、ワトスン博士の名前がジョンであることは「緋色の研究」で明らかなのに、「くちびるのねじれた男」という短編では奥さんに「ジェイムズ」と呼びかけられている。いつの間に改名したのやら。
 こんな例は次から次へと出てくるのだが、要するに、かなりいい加減に書き飛ばしていたため(もっとも、ストーリーテリングについてはどれも見事なものだと感心するし、クリスティクイーンの短編に時々見られるような、箸にも棒にも掛からない駄作となるとほとんどないという点は称賛に値する。しかしディテールにあまり意を用いていなかったのは確かだろう)、ホームズ物語にはツッコミどころが満載だったのである。
 そういう矛盾点もさることながら、ホームズ自身の性格も特異なだけにツッコまれやすかったし、かなり早い時期から、パロディが登場していた。ストランド・マガジンの連載が始まった早くも翌年、ロバート・バーという作家が「ペグラムの怪事件」なるホームズ・パロディを書いている。探偵の名前はシャーロー・コームズ。ちなみにバー自身も「放心家組合」など「奇妙な味」のミステリーで知られる人である。
 パロディが生まれるのは、言うまでもなく人気の証明であるが、ともあれそういうパロディを愉しむ人、あるいはツッコミを愉しむ人がたちまち急増したのだった。それがシャーロッキアンなのである。

 作品上の誤りや矛盾などについては、連載中からドイルの元へはツッコミの指摘が届いていたはずである。だが、ドイルは意地になったのか、あるいは後から直すのはアンフェアだと思ったのか、そういうツッコミどころを、単行本になる時にも、それが増刷される時にも、一切修正しなかった。
 それゆえ、誤りも矛盾も、そのままの形で後世に伝わることになった。つまり、後世の人間も同じようにツッコみ、遊ぶことができるわけである。シャーロッキアン活動というものが、百数十年の時を経ていまだに続けられているのも、ドイルのフェアプレイだか意地だかの賜物だったのだ。
 かくして、シャーロッキアンにはずいぶんと著名な人物も名を連ねるほどに、その活動は発展した。
 彼らは同好会を作り、ホームズ物語についての論文を書いてそれを朗読し合ったりした。場合によっては侃々諤々の論戦になったりしたものだが、いわば彼らは「真剣に遊んで」いたのである。いかにも英国人らしい愉しみと言えるかもしれない。有名な同好会としては「ベーカー・ストリート・イレギュラーズ」などがある。この団体は今や支部を各国に拡げ、シャーロッキアンの総元締めみたいな立場にあるようだ。

 議論の種は数々あれど、過去から現在に至るまで、彼らの最大の興味は、ホームズ物語の時間的配列だろう。
 物語は、上述の「赤毛連盟」のように「去年の秋」などと比較的最近の事件を書いたものもあれば、十年以上前の事件として書かれたものも多く、事件の発生順序はごちゃごちゃになっている。60の長短編で扱われている事件を、すっきりと年表上に配列したいというのは多くのシャーロッキアンの夢であり、実際いくつもの試案が発表されている。
 文中に正確な年月日が記されているものもあるが、それとても全面的に信用して配列しようとすると収拾がつかなくなることが少なくない。
 ドイルが深く考えずに書いたのだと解釈すればそれまでのことなのだが、シャーロッキアンとしてはそういう態度をとってはいけないのである。
 シャーロッキアンの暗黙の諒承として、ホームズ物語はドイルという作家が書いたものではなく、その中に一人称で登場するワトスン博士が本当に書いたものだという建て前があるのだ。さまざまなツッコミはすべて、その前提のもとになされなければならない。
 矛盾があるならば、その理由はドイルではなく、ワトスンに求めなければならないのである。
 そんなわけで、ワトスンの健忘症説(事件の日付を間違えた)、ワトスンの悪筆説(書き間違いや判読不明の文字があった)、ワトスンの瞞着説(差し障りを案じてわざと違ったことを書いた)などが山のように唱えられた。ワトスンこそいい面の皮である。ワトスンが作中人物である以上、どんな説がどれほど唱えられようと、絶対的な結論など出るわけがない。記述の中のあるものを信用し、あるものを捨てるという以外に、筋の通った仮説など立てようがないのだから、議論はいつまででも続くことになるだろう。それがこよなく楽しいのである。
 当初は、正典の記述のみに基づいて日付などの議論をしていたが、時代が下がるに従って議論も大がかりになった。当時の気象記録をひっぱり出したり、文中に出てきている疫病の流行時期を考慮してみたり、そういうさまざまな外部的な資料と突き合わせて結論を出そうというわけだ。
 重ねて言うが本質的に結論など出るわけのない議論であり、また結論が出たからと言って何がどうなるというものでもない。よく考えれば(というか、非シャーロッキアンから見れば何も考えずとも)なんの意味もないたわいもない遊びに過ぎないのだが、そのたわいもない遊びに、百数十年にわたっていい大人たちが眼の色を変えてきたのである。

 ホームズの人となりについては、「緋色の研究」でワトスンが一覧表を作っている。シャーロッキアンにはおなじみの表なのだが、一応ここに書き出してみよう。

シャーロック・ホームズの特異な点
1.文学の知識 皆無
2.哲学の知識 皆無
3.天文学の知識 皆無
4.政治の知識 皆無
5.植物学の知識 不定。
ベラドンナ、アヘンその他一般毒物には詳しいが、園芸に関してはまるで無知。
6.地質学の知識 実際的な知識はあるけれども知っているだけ。
一目見ただけで各種の土壌を識別する。
散歩の後、ズボンの泥はねを指して、その色や密度により、ロンドン市内のどのあたりでついたものかを指摘したことがある。
7.化学の知識 非常に深い。
8.解剖学の知識 精確だが組織的でない。
9.通俗文学の知識 該博。
今世紀おこなわれた凶悪犯罪についてはすべて知悉しているようだ。
10.ヴァイオリンを巧みに弾く。
11.棒術、ボクシング、フェンシングの達人。
12.英国法律の実践的な知識が深い。

 この表の直前には、ホームズが、地球が太陽の周囲を公転していることを知らないという話が出てくる。
 作者としては、ここで主人公が非常に偏った知識の持ち主であることをアピールしているわけだが、これらも後年なし崩しにいい加減になってゆく。文学に関しては、スタンダールゲーテを原語で引用するなどの芸を見せるし、天文学に関しても、黄道角についてワトスンに話すところがある。政治の知識は皆無どころか、「第二の汚点」などでは海千山千の政治家を前に一歩も引いていない。通読すると、偏った知識などとはとんでもない、万能のエンサイクロペディスト(百科全書派)であることが感じられる。後年になってもワトスンに舐められているのは美術鑑賞眼くらいで、「バスカヴィル家の犬」の中で、
 ──彼の美術評なるものがまたすこぶる浅薄で……
 と言われている。
 これとても、ドイルのキャラ設定がいい加減だったと言ってはいけないのである。ワトスンの人の見る眼がなかったということにするか、あるいはもっと人気があるのは、ホームズの方が出会って間もない頃のワトスンをからかっていたのだという説だ。
 かくのごとく、シャーロッキアンにとっては、ドイルなど存在しないも同然なのである。

 「緋色の研究」では、ワトスンは第二次アフガニスタン戦争(1879-1880)で敵兵に肩を撃たれたことになっているが、「サインは“4”」ではなぜか負傷箇所が脚になっており、以後ずっと脚のままになっている。どうやら二度負傷したらしい。
 「サインは“4”」の末尾でワトスンはメアリ・モースタンと婚約する。1888年秋のことである。結婚したのはおそらく1889年初頭だろう。ところが、次の「ボヘミアのスキャンダル」は結婚後しばらくしてからということになっているのに、1888年3月20日という明確な日付が現れる。さてはメアリとの結婚は再婚だったものと思われる。さらにホームズが死んだと思われていた1891〜94年のうちのいつかにメアリは亡くなったらしいのに、1903年に起こったと思われる「白い顔の兵士」でホームズは、
 ──わが善良なるワトスンは、この頃別の所に妻と居を構えていた。
 と述懐している。すなわち三度目の結婚をしたとおぼしい。
 ホームズにマイクロフトという兄がいるのはよく知られている。政府要人で、ある時には政府そのものであると言ってよいほどの立場にいる大物である。もちろん常にホワイトホール(ロンドンの官庁街)から離れない。ところが、「ボール箱」という短編を読むと、ホームズが「田舎にいる兄」に想いをはせることがある、と書いてある。してみるとマイクロフトの他に、田舎にもうひとり兄がいるらしい。ホームズの先祖は「ギリシャ語通訳」によれば、代々田舎の大地主であったらしいので、その兄というのはおそらく地所を継いでいるのだろう。
 ……などなど、ほとんど揚げ足取りのような考証が続々となされている。
 作者のドイルは、これを見てどう思ったのだろうかと心配になる。

 このシャーロッキアン活動を他の分野に移してみたのが、日本でも流行った「謎本」であろう。日本では「磯野家の謎」あたりが口火を切ったのだろうと思う。これは「サザエさん」にシャーロッキアン的考察方法を応用してみたものである。その後いろんなマンガやドラマなどに関して「謎本」が刊行された。「空想科学読本」なんてのもその流れだろう。私は「揚げ足取り本」と呼んでいるが、実のところそれらの本の方法論は、ほとんどすべてが、シャーロッキアン活動によって前例のあるものに他ならない。
 英国から百年遅れて、こういった「まともに考えればなんの足しにもならない遊びを大まじめにおこなう」ことが流行してきたのは、これでようやく日本も大国の余裕を身につけたというところなのかもしれない。

(2002.2.6.)


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