ミステリーゾーン

シャーロック・ホームズ(1)
邦訳題名について

 シャーロック・ホームズの活躍する物語は、よく知られているように、長編が4つ、短編が56、併せて60篇である。
 これが、原作者コナン・ドイルの書いたすべてであり、正典(キャノン)と呼ばれている。パロディや贋作のたぐいはこの何十倍という数が書かれているが、正典はそれらとはまったく違った、神聖にして侵すべからざるものと考えられている。
 とはいえ、英語国民ならざるわれわれとしては、正典といえども日本語訳で読むのが普通だ。本当はコーランをアラビア語で頌し奉らなければならないのと同様、英語の原文で読むのが理想なのだろうが、なかなかそういうわけにもゆかない。
 そこで、翻訳という作業が加えられることになるのだが、当然ながら訳者によっていろいろな流儀が発生する。
 シャーロック・ホームズ物ともなれば、推理小説を扱うほどの出版社ならどこでも出したいのは当然だ。実は長らく、完訳があるのは新潮文庫延原謙訳によるものだけという状態が続いていたのだが、何しろ主に戦前の訳であるため、言い回しなどがすこぶる古風である。しかも最後の方は訳者が息切れしたのか、かなり「迷訳」になっていたりもする。それで、最近になって完訳版もだいぶ増えてきた。創元推理文庫ハヤカワミステリ文庫はもちろんのこと、日本シャーロック・ホームズ協会会長の小林司氏と東山あかね氏による新解釈全訳版なども出版されたし、数冊だけの部分刊行をしている出版社に至っては数え切れないほどである。
 それぞれの訳文について比較検討するほどいろんな版を読んでいるわけではないし、どれで読んでもホームズの魅力は十分に伝わるだろうと思うから、ここでそんなに深入りするつもりはない。

 ただ、以前から気になっていることのひとつに、タイトルの訳し方がある。
 コナン・ドイルという人は、タイトルの付け方がなかなか絶妙だ。推理小説といえばナントカのひとつ覚えのごとく「×××殺人事件」とか「△△△の謎」とか命名する作家(あるいは出版社)が後世増えたけれど、ホームズ物には「殺人事件」などを冠したタイトルはひとつもない。原題を見ると「The Adventure of 〜」つまり「〜の冒険」とつけられたのはやたらと多いが、これは例えば日本の続き物で「ナントカナントカの巻」という時の「の巻」あたりに相当すると考えてよいので、ほぼすべての訳本で省略されている。
 タイトルを眺めてみると、タイトル自体が何やら謎めいているものが多いことに気づく。
「このタイトルはどういう意味なんだろう?」
「どういう話なんだろう?」
と好奇心をそそられるものが次々と現れる。簡単な英語のようでいて、意味が二重になっているらしいものも少なくない。

 有名な例だが、「The Adventure of the Speckled Band」。これは「まだらの紐」というのがほぼ定訳になっている。speckledはまさに「まだら模様の」「斑点のついた」という意味なので、これはまあよい。問題は最後のBandである。これも確かに「紐」という意味ではある。ただし、別の意味もある。別の意味と言っても、本来は同じ意味から派生しているのだが、あるグループを作っている人々、ということだ。なんのことはない、日本語にも入っている「バンド」である。
 日本でバンドというと、主にポピュラー音楽をやっているアンサンブルグループというイメージしかないが、英語では別に音楽に限らない。日本語に「紐帯(ちゅうたい)」という言葉があるがこれがふさわしいかもしれない。紐でつながっているようにいつも一緒にいる一群の人々をバンドと呼ぶのである。
 「まだらの紐」には、「まだら模様のスカーフをかぶったジプシーの一団」が登場する。死んだ女性が遺したダイイング・メッセージ「speckled band」は、それを聞いた妹にも、さらにホームズまでにも、まずは「まだらの一団」という意味合いに受け取られることになり、これが見事なミスディレクションになっているのだ。
 ところが、「まだらの紐」ではこのミスディレクションが効いてこない。「紐」ではそのまんまであり、ジプシーがなんのために出てくるのかわからないことになってしまう。ドイルがせっかく用意したBandという言葉の二重性が、この訳題ではまったく失われてしまっている。
 英語の両義性を日本語で活かすというのは至難の業だが、幸い「バンド」という外来語は日本でも両方の意味で使われているのだから、それを使わない手はなさそうである。
 私が訳すとしたら「まだらバンド」となるだろう。小林=東山訳の本ではさすがに「まだらのバンド」となっていたが、「の」を入れてしまうと「一団」の意味のニュアンスがやや薄れるような気がする。
 この例はよく知られているが、ホームズ物のタイトルには、この手の落とし穴がいくつもあるのだ。

 まずはそれぞれの本のタイトルを考えてみたいが、ここからして問題がある。
 ちなみに60篇の長短編は9冊の本にまとめられている。出版順に並べると、

 1.A Study in Scarlet
 2.The Sign of the Four
 3.The Adventures of Sherlock Holmes
 4.The Memories of Sherlock Holmes
 5.The Hound of the Baskervilles
 6.The Return of Sherlock Holmes
 7.The Valley of Fear
 8.His Last Bow
 9.The Case Book of Sherlock Holmes


 このうち、3.を「シャーロック・ホームズの冒険」と訳すのは問題ないだろう。9.の「シャーロック・ホームズの事件簿」もまあ他に訳しようがあるまい。6.は「シャーロック・ホームズの帰還」「〜生還」「〜復活」などといろいろな訳がされているが、これも特に両義性はなく、お好みの訳語を、というだけの話である。8.は本来は「彼の最後の挨拶」だが、たいてい「シャーロック・ホームズの最後の挨拶」とされている。これもまあ、シリーズであることを明確にするための方便と考えればそれほど問題はない。
 ただ、残る短編集である4.はちょっと問題がある。このタイトルには実は両義性があるのだ。
 memoryという言葉の意味には特に変わったところはない。しかし、次の「of」が曲者なのだ。「The Memories of Sherlock Holmes」には、「ホームズに関するメモリー」という意味合いと、「ホームズの過去のメモリー」という意味合いが両方感じられる。
 この短編集の最後で、よく知られているようにホームズはモリアーティ教授と差し違えて一旦死に、ドイルはもうホームズ物を書かないつもりだった。従って単行本になった時、死んだホームズの追憶という意味の「The Memories of Sherlock Holmes」というタイトルをつけたと考えるのは的を射ているだろう。
 ところが、この短編集の中には、「グロリア・スコット」「マスグレイヴ家の儀典書」というふたつの物語が含まれている。これは、ホームズがワトスンに出逢う前の若き日の事件を、ワトスンに語るという形をとっている。つまり、ホームズ自身の回想に他ならない。そういうのが複数含まれている本に「The Memories of Sherlock Holmes」というタイトルをつけたと考えるのも──これまた当を得たことだ。
 これを創元推理文庫のごとく「回想のシャーロック・ホームズ」と訳してしまうと、前者のニュアンスしか感じられない。一方ハヤカワミステリのごとく「シャーロック・ホームズの回想」とすると、後者のニュアンスだけになってしまう。どちらが正しいというのではなく、作者は両方の意味を込めたに違いないのだが、日本語の「回想」にはそういう両義性がないので、どちらかに偏ってしまう。
 この短編集に関しては、延原訳の「シャーロック・ホームズの思い出」というのがいちばん妥当だと私は思う。「思い出」にすると、これは両方の意味を込められるからだ。

 4冊の長編について言えば、5.と7.はそれぞれ「バスカヴィル家の犬」「恐怖の谷」という定訳でよいだろう。細かいことを言えばhoundというのは「猟犬」で、愛玩犬dogとは異なる。エルキュール・ポワロがしょっちゅう間違えてヘイスティングズ大尉に訂正される言葉だが、日本語では区別しないから構わないだろう。
 最初の2冊は難しい。1.は「A Study in Scarlet」であって「The Study of Scarlet」とはなっていない。scarlet緋色という色は英米では「罪」を象徴するらしく、ホーソン「緋文字」などでもそういう使われ方をしている。この場合も犯罪を示す言葉として「緋色」が使われているのは間違いないだろう。そしてこれは、作中第4章末尾のホームズのセリフ──
 「人生という無色の糸枷には、殺人という緋色の糸がまざっている。それを解きほぐしてひっぱりだし、端から端まで明るみにさらけ出してみせるのが、ぼくたちの仕事なんだ」
に対応したものであることも言を待たない。
 さて、この「緋色」に対し、ofでなくてinという前置詞が置かれているのがミソだ。それにstudyには定冠詞theではなく不定冠詞aがついている!
 この辺を詮索した結果、定訳となっていた「緋色の研究」は誤りで、「緋色の習作」とすべきだと小林氏は言っている。確かにin scarletとくれば、緋色どうにかするのではなくて、緋色描かれた──ホームズのセリフにひっかけるならば、緋色の糸によって織られた──何か、ということになりそうである。しかし「習作」ではいかにもこなれない感じでもある。私もどう訳すべきなのか、まだ結論が出ていない。
 2.も厄介だ。「The Four Signs」ではなく「The Sign of the Four」なのだ。「四人の署名」としてある本が多いが、延原氏は「四つの署名」とし、「四人」よりはまだ気が利いているのではないかと述べている。どんなものだろう。
 「the four」が、作中に出てくる悪党4人組を指すことは言うまでもないが、signには「署名」の他に「前兆」とか「象徴」とか「暗号」とかの意味もあるから、英語で読んだ場合、そのあたりを連想して、より奥深い印象を受けるのではないかという気がしてならない。
 日本語でも、サインというと署名の他に、野球のブロックサインのような「暗号」、Vサインのような「象徴」に相当する意味も含まれるから、上述の「バンド」同様、外来語を利用した方がよいかもしれない。しかし「四人のサイン」では署名という意味にしかならないし、小林訳のように「四つのサイン」とするのも私としてはあまり感心しない。
 いっそ、「四人」とか「四つ」という、具体的な「個数」から離れてみたらどうだろう。fourに定冠詞がついているから、「4という数字」というような意味にも取れる。
 愚考の結果考えついたのが「サインは“4”」という訳題である。某古典的スポーツマンガのタイトルに便乗したようで気が引けるが、なんだかよくわからないあたり、原題の雰囲気をけっこう伝えているのではないかと思う。

 短編それぞれのタイトルとなると、まだまだいろんな問題が出てくるのだが、あとひとつふたつだけ例を挙げておこう。
 「The Adventure of the Solitary Cyclist」という短編がある。第三短編集「帰還」(としておこう)の中の一編である。
 「ひとりぽっちの自転車乗り」というところだろうか。ところが、そうなっている訳本はほとんどないのである。ざっと挙げてみると、「美しき自転車乗り」「ひとり自転車を走らせる女」「あやしい自転車乗り」「謎の自転車乗り」といったところ。
 実は、この物語には、自転車に乗る人物がふたり登場する。片方はホームズの依頼人として登場する妙齢の美女、もう片方は彼女のあとをストーカーまがいに尾行している正体不明の男である。原題のcyclistは単数であり、しかも定冠詞がついているところを見ると、どちらか一方を指しているに違いない。
 訳題を見ると、解釈がまっぷたつに割れていることが明確に判明する。「美しき……」「ひとり自転車を……」は美女の方だと考えたのだろうし、「あやしい……」「謎の……」は男の方だと解したのだろう。つまりみんな、ドイルの仕掛けに見事にひっかかっているのである。どちらの自転車乗りなのか特定できないようなタイトルをわざとつけているのに。「ひとりぽっちの」ではなんだか野暮ったい気がしたのかもしれないが、しゃれたタイトルにしようとしてみんな墓穴を掘ったのであった。

 「冒険」に含まれている「A Case of Identity」も訳しづらいタイトルだ。これは一にかかって、アイデンティティという言葉にぴったりくる日本語の訳語がないのが主因であろう。外来語としてのアイデンティティは、自己を認識するとか、自己を確立するとか、なんだか妙に重たい意味になってしまっている。このタイトルのIdentityという言葉は、明らかにもっと軽い意味であろう。「身元」とかその程度だと思われる。しかし「身元事件」では日本語として変だ。
 各文庫の訳者たちもこれには頭を抱えたらしい。延原氏はついに直訳を諦め、内容からとって「花婿失踪事件」とした。延原氏は同じ「冒険」の中の「The Adventure of Noble Bachelor」(直訳だと「高貴な独身者」だが、「独身の貴族」などとしている本が多い)を、これまた内容からとって「花嫁失踪事件」とし、同じ本の中に「花婿」と「花嫁」を揃えたのだった。これはこれでいいアイディアだったと思う。
 その他の版では、「花婿の正体」「花婿の行方」などなど。中には「ふきかえ事件」だの「一人二役事件」だの、思いきりネタをばらしている訳題まであった。
 江戸川乱歩の中編に「何者」というのがあるが、実はこの「何者」くらいがちょうどよいかもしれない。そのままだと曲がないので、「彼は何者?」とでもしますか。

 タイトルひとつとっても、さまざまな思案ができてしまうのがシャーロック・ホームズなのである。いつか私訳完全版を作ってやろうなどと大それたことを考えたこともあるが、タイトルだけでこれだけひっかかるのでは前途は遼遠と言うべきだろう。

(2002.2.3.)


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