宦官列伝

1.秦・前漢の宦官

 前回「宦官」の成立について書きましたが、引き続き考えてみたいと思います。なんとなく昔から、わりと興味のあるテーマなのでした。
 男性器を切除する、などと言われると、からだのどこかがむずむずする感じで、
 「ひぃぃ」
 と叫びたくなりますけれども、前回も書いたとおり、宦官は洋の東西を問わず、王朝のあるほどのところにはたいてい存在しました。古来まったく存在しなかった日本がむしろ特殊なのです。
 宦官は、男性ホルモンの分泌が無くなりますので、ひげが生えなくなり、体脂肪が増えて全体的に肥り気味で、のっぺりとした顔つきになったそうです。三国志の最初のあたりで、袁紹が宮廷に乗り込んで宦官の一掃を図るという事件が出てきますが、宦官にはひげが無いのですぐ見分けがついたようです。不幸にも体質的にひげの薄い男は、宦官でないことを示すため、あわてて前をはだけ、ついているべきモノがついていることをアピールしなければなりませんでした。
 異常性格の者が多かったという説もありますが、これは本当かどうかわかりません。有史以来あまた居た宦官の中のほんのひとにぎりの異常性格者が、異常な事件を起こしたために目立つというだけのことかもしれず、大部分の宦官は、大部分の庶民や小吏たち同様、別に事件も起こさずに歴史の中に埋もれて行ったと見るべきでしょう。

 ──性欲を充たせなくなったんだから、そりゃ性格も歪むだろう。

 という意見もあるでしょうが、それは五体満足な立場から「想像」したことに過ぎず、ちゃんとした調査がおこなわれた形跡もありません。
 歴史に名を残すほどの宦官には、それなりに異常性も見られないではありませんが、これは宦官に限ったことではありますまい。普通の男だって、どこかアブノーマルな点でもなければ、歴史に残るほどの仕事をしてのけられるものではないに違いありません。となると、宦官というものを、ただ単に異形の者だからというのでひとからげに見るのは適当ではないということになりそうです。
 中国史上から著名な宦官をピックアップして、その人となりを推測してみたいと思います。

 まずトップバッターは、前回も名前を挙げた趙高ということになりそうですが、実はその前にとんでもないのが居ます。嫪毐(ろうあい)という人物です。ただし、ニセ宦官です。
 始皇帝の父の荘襄王は、人質としての国でくすぶっていたところを、呂不韋(りょふい)という商人の援助を受けて王位に就いた人でした。「奇貨措くべし」という有名な言葉は、呂不韋が荘襄王(当時は公孫異人)を知った時に漏らしたセリフです。あとで値が出るかもしれないから買っておこう、というほどの意味です。
 値が出るかもしれないどころではなく、呂不韋は猛烈な運動を繰り広げて、王位継承順も非常に低かった公孫異人を押し上げ、ついに秦の国王にしてしまいまいした。
 荘襄王もまた呂不韋には大いに感謝し、即位すると彼を宰相として取り立てます。呂不韋は政治家としてもなかなかのやり手で、特にそれまで陽の目があたらなかった優秀な将軍を抜擢するのがうまく、戦国末期の秦王国の覇業に貢献しました。のちの始皇帝の天下統一も、呂不韋がその基礎固めをしておいたと言っても良いほどです。
 また文化事業にも熱心で、大勢の学者を集め、一種の百科事典とも言うべき「呂氏春秋」を完成させました。この書物は現代でも戦国時代の研究には必須です。呂不韋はこれを大いに誇りにし、全巻を石に彫らせて宮殿の外に並べ、
 「この書物に一字でも添削できたならば、その者に千金を与えよう」
 とまで豪語しました。「一字千金」という故事成語の由来です。チャレンジャーが居たかどうかは知りません。
 戦国の最後を飾るにふさわしいスケールの大きな人物だったようですが、この呂不韋、かつて荘襄王に愛妾のひとりを献上しています。公孫異人時代の荘襄王が一目惚れし、たっての頼みで譲り受けたというのですが、一説には──というより後世かなり信じられた説によると、この女性、公孫異人に嫁いだ時点ですでに妊娠していたと言います。そして産まれたのが(せい)、のちの始皇帝というわけで、つまり呂不韋が始皇帝の実父だったのではないかというスキャンダラスな説が、かなり早い時期から唱えられていたようです。
 不幸にも、荘襄王は即位わずか3年で急死します。13歳の政が即位しますが、幼君なので依然として呂不韋が宰相として政務をおこないました。
 ところが、政の生母、すなわち呂不韋のかつての愛人が、夫である荘襄王の死後、呂不韋とよりを戻したがったことから騒ぎが起きました。
 まさか「太后」が宰相と再婚するなどというわけにはゆきません。よりを戻すのなら密通ということになりますが、呂不韋はそんな事態になることを好みませんでした。
 太后はあいにくと、男無しでは暮らしてゆけないタイプの女性であったようで、だんだんとそれが周囲にもおぼろげに知られるようになったようです。呂不韋は困った揚げ句、自分の身代わりを太
后にあてがうことにしました。これが嫪毐でした。
 本当かどうか、嫪毐は稀に見る巨根の持ち主で、しかも強靱で、桐の車輪を自分のモノにはめて回転させることができたと言います。どのくらいの大きさの車輪だかわかりませんが、何やらすごそうだということは伝わってきますね。
 太后はいたくご満悦でしたが、男を後宮に近づけるわけにはゆきませんので、嫪毐を宦官と偽って近くに召すことにしたのでした。
 嫪毐はやがて「長信侯」という爵位を与えられます。サオの大きさだけでここまで出世した男は空前絶後でしょう。こうなると「文信侯」であった呂不韋と同格になってしまいます。もはや呂不韋のコントロールを脱して、自前の野望を持つに至ります。
 太后が嫪毐の子を産んだということもあり、嫪毐は秦王政つまり始皇帝を暗殺して自分の子を王位に就けようと画策しはじめますが、先手を打った政に軍勢を向けられ、抵抗するも殺害されて、その屍体は車裂きの刑に処されました。
 ……とされているものの、もしかすると始皇帝によるプロパガンダかもしれません。というのは、太后に嫪毐を薦めたのが呂不韋であったことが明らかになり、秦王政は呂不も隠退に追い込むのです。最初から呂不韋がターゲットであって、嫪毐はそのダシに使われただけという可能性も無いではありません。呂不韋は秦王政からすると先代の大番頭であって煙たいことこの上なかったし、上記のようにもしかすると実父かもしれないと思えば余計におぞましかったに違いありません。いずれは排斥しなければならない存在と考えていたことでしょう。
 なお、呂不韋は隠退しても慕う者が多く、客人が引きもきらない状態であったので、地団駄踏んだ秦王政は蜀(四川)への流罪を命じます。そろそろ潮時と思ったのか、呂不韋は蜀へはゆかず、服毒自殺をとげました。それにしても、始皇帝ともあろう究極的な独裁者が、誅殺することもできずせいぜい追放を命じるしかなかったあたりに、呂不韋という人物の器の大きさと声望の高さが窺えます。
 というわけでニセ宦官嫪毐の話を劈頭に置き、いよいよ趙高の登場です。


 趙高は晩年の始皇帝に仕えた宦官ですが、なかなか教養もあったらしく、のち二世皇帝となった胡亥(こがい)の教育係も務めていたと言います。始皇帝の最後の巡幸にも付き従い、沙丘で始皇帝が死亡した時、その遺勅を受ける立場となりました。
 始皇帝の遺勅は、かつて辺境へ飛ばしていた長子扶蘇(ふそ)に対して、


 ──還り来て朕の葬儀を執りおこなうべし。

 と命じるものでした。扶蘇は国民からの評判も良く、もし彼が二世皇帝になれば秦帝国も繁栄まちがいなしと言われていたほどでしたが、父帝におこなった諫言が気に入られず、なかば追放されたかたちになっていたのでした。その扶蘇に葬儀の執行を命じたというのは、諫言のことは許すので後を継げ、と言ったのと同様だったのです。
 始皇帝は皇太子というものを決めていなかったので、この遺勅が事実上の皇太子指名でした。
 ところが、この遺勅を聞いた趙高は、これを握りつぶしてしまうのでした。
 趙高は扶蘇とはあまり関係がなかったので、扶蘇の代になれば斥けられるに違いありません。それはどうも面白くありません。そこで、みずから教育した胡亥を擁立して、次代も安泰であろうとしたのです。
 趙高は胡亥を呼んでそのことを諒解させ、さらに随行していた宰相の李斯(りし)を無理矢理説き伏せて、この陰謀を成し遂げてしまいます。扶蘇には自刃を命じる偽の遺勅が送られました。
 この、ある意味面白すぎる内幕話については、私は以前にも疑義を呈したことがあります。趙高と胡亥と李斯の、密室での3人の陰謀を、いったい誰が聞いていたのかという点がまったくわからないのです。3人とも、他人に漏らしたが最後命取りとなるような話ではありませんか。
 おそらく、秦の滅亡後に、亡国を嘆いた遺民たちによって作られた「物語」なのでしょう。


 ──まったく、生きてこんな憂き目を見ようとはねえ。
 ──二世皇帝がアホだったからだろうよ。
 ──そうかもな。二世皇帝があのアホの胡亥じゃなく、扶蘇さまだったら、こんなみじめな想いをしなくても良かったんじゃないか?
 ──そうだなあ、なんで扶蘇さまが始皇帝の跡を継がなかったんだろう? だって長子だったんだろ?
 ──いや、実は始皇帝は、ひょっとしたら扶蘇さまを後継者にしていたのかもしれんぞ。
 ──それがどうしてこうなった?
 ──遺勅が書き換えられたのかもしれない。
 ──なるほど、胡亥が……
 ──いや、あのアホにはそんな頭はあるまい。例の威張りくさっていた宦官がやったんじゃないか?
 ──宦官だけじゃ無理だろ。誰かもっと大物が噛んでないと……となると丞相かな。


 といったような次第で、3人の陰謀というオハナシが「史実」として語り伝えられて行ったというのは、大いにあり得ることです。歴史(history)は、つい近年まで、物語(story)とそれほどの区別はされていませんでした。
 ともかく確かな史実としては始皇帝の死後に胡亥が二世皇帝として立ったこと、そしてその教育係に過ぎなかったはずの趙高という宦官が急に威張りはじめたことがあるわけで、そこにはいろいろな理由が考えられる、という程度が、こんにちの歴史学で言える限界でしょう。
 趙高は二世皇帝の威を借りて暴虐の限りを尽くしました。政敵を次々と殺害し、同志であったはずの李斯をも罪を着せて処刑し、百官を慄え上がらせました。二世皇帝に鹿を献上して馬と言い張り、賛同しなかった廷臣を処刑したことから「馬鹿」という言葉ができた……という俗説もあります。この献上の話は「史記」に出ていますが、中国の文献で、日本で言うバカの意味で「馬鹿」という文字を使った例は無いので、これが馬鹿の語源だという説はどうやら真実ではなさそうです。
 二世皇帝には常に超然としているように進言し、世俗の政治や軍事に関わらせませんでした。このため、二世皇帝は陳勝呉広の乱からはじまって燎原の火のように拡がっていた各地の叛乱のことをまったく知らないまま、宮廷の奥深くに鎮まっていました。
 そうであってみれば、叛乱鎮圧の指揮を執るのは趙高でなければならなかったはずですが、彼は宮廷内の陰謀には長けていても、軍事的なセンスはまったくありません。将軍たちに任せきりで、その将軍たちも二世皇帝とつながらせないように、趙高はすべての情報を自分のところで握りつぶし続けました。
 しかし叛乱軍は勢いを増し、ついに劉邦の率いる軍が首都の咸陽に迫るようになりました。こうなってはもう趙高の恐怖政治もおしまいです。責任をとらされるのを恐れた趙高は、あろうことかみずから擁立した(かもしれない)二世皇帝を殺害するのでした。
 代わりに嬰という公子を秦王(すでに全土を支配する皇帝という実質が無くなっていたので、呼称を秦王に戻した)に擁立しようとしましたが、かねてから趙高の暴戻を憎んでいた公子嬰は手ずから趙高を殺し、劉邦に降伏しました。
 宦官の権力というのは、いかに強大なものに見えても結局皇帝権力の一部に過ぎず、源泉たる皇帝を失ってしまってはなんの力にもならないというのが歴史の教える教訓です。趙高はやりすぎました。彼はどんなことをしても、二世皇帝を生かしておかなければならなかったのです。この教訓を、私たちはずっと後世、の時代にも見ることができますが、趙高の場合は史上はじめての宦官権力者であったために、加減もわからなかったものと見えます。


 秦に続く前漢の時代には、皇帝を操って権勢をふるったというような宦官は見受けられません。ただ司馬遷だけは、宦官史では外すことのできない傑物です。
 よく知られているように、司馬遷はもともとの宦官ではなく、敗戦の将の李陵を弁護したために武帝の怒りを買い、宮刑に処されて宦官になったのでした。男性のシンボルを切り落とす刑罰を宮刑とか腐刑とか称し、中国史にはよく出てきます。実は女性にもこの刑罰はあったらしく、あそこを縫い合わせたのだと言われていますが、確実なところはよくわかりません。
 ときどき「友人の李陵を弁護したために……」と書いてある本が見受けられますが、司馬遷と李陵は別に個人的な付き合いは無かったという説もあります。むしろそのほうが興味深い気もします。春秋戦国期以前から、史官というものは君主にあまり遠慮せずに正論を述べるものだという伝統があったようで、司馬遷も友人としてではなく、正論として李陵の擁護をしたのだと考えたほうが面白みがあります。まあ、歴史を面白みだけで決めつけてゆくわけには参りませんが……
 李陵は中島敦の小説でお馴染みのとおり、漢の建国以来の宿敵である匈奴との戦争に敗れて捕虜になった将軍です。実のところかなり無理な条件で戦いに臨んでおり、負けてしまったのもやむを得ない状況だったようです。司馬遷もそこを指摘したのかもしれません。ただ、そうなると李陵を差し向けた武帝自身の責任ということになってしまうので、群臣はみな言わずにいたのでしょう。
 さらに悪いことに、やはり匈奴の捕虜になった、同じ李姓の将軍が居て、その将軍は匈奴に寝返って敵の将軍になっていました。それが李陵のことだと誤伝され、激怒した武帝は李陵の家族をことごとく処刑しました。
 漢の武帝と言えば、太宗と並んで中国史上最高の皇帝とされていますが、治世の後半はこの種のチョンボが目立ちます。伝聞だけで怒り狂い、取り返しのつかない命令を下してしまってから真相を知って後悔するという風なことが多く、武帝はそのために大事な後継者(戻太子)まで失っています。司馬遷の論述にも、もともと聞く耳を持っていなかったのではないでしょうか。反逆者の一味と決めつけて宮刑に下してしまったのです。
 歴史を集成するという仕事については、司馬遷の父の司馬談の代からの悲願だったので、「司馬遷は宮刑という屈辱をバネに『史記』を書いた」と言ってしまうと少々事実と異なることになりそうですが、「史記」の全体の構成とか、随所に挿入される所感コメント「太史公曰く……」などには、やはりわが身の不幸が反映しているように思われます。あちらこちらに武帝へのそれとない批判が込められている、という読みかたもできるようです。
 その意味では、「史記」という書物の特異な魅力、2千年以上読み継がれる不朽の名著となったにあたっては、「屈辱をバネに」と言っても間違いではありますまい。


 筆舌を絶するようなワルである趙高と、世界史的な偉人と言える司馬遷。その後の宦官たちは、この屹立するふたりのあいだをさまよい続けたと言えるかもしれません。
 前漢が王莽(おうもう)によって簒奪され、そのあと光武帝によって後漢が建国されます。後漢は前回触れたように、宦官が猛威を振るった三朝のうちのひとつとされていますが、それは実際にはどういう様相だったのでしょうか。また近いうちに続きを書こうと思います。

(2015.4.11.)

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