13.ライバル音楽史(その2)

ハイドン vs.モーツァルト

 古典派の3大巨匠と言えば、周知のようにハイドン(1732−1809)・モーツァルト(1756−1791)・ベートーヴェン(1770−1827)の3人だ。モーツァルトはハイドンの24歳下、ベートーヴェンはさらに14歳下ということになる。「ライバル」というにはいささか年齢差があるようだが、生没年を見てわかる通り、ハイドンはモーツァルト没後実に18年も長生きしているし、モーツァルトは早熟な天才の見本のように言われる人物だから、24歳の年齢差を超えても、このふたりのライバル関係は成り立つと考えてよい。
 なお、ベートーヴェンはハイドンの弟子である。モーツァルトとは1度だけ会ったことがあるらしいが、モーツァルトが死んだ年にはまだベートーヴェンは21歳の青年に過ぎず、作品としてもいくつかの室内楽とピアノソナタを発表しているくらいの頃だったから、モーツァルトとベートーヴェンのライバル関係はあまり考えられない。
 さて、モーツァルトは作品こそ天上的に美しく、まさに人間離れのした天分を誇っているが、人間的には結構イヤミで、自己顕示欲の固まりで、しかも口を開けばシモネタばかり飛び出し、あんまり友人に持ちたいタイプの男でなかったのは、芝居から映画にもなった「アマデウス」でお馴染みである。
 「アマデウス」の中でも、サリエリの行進曲を勝手に改変して弾くところがあったが、彼はどうも、他人の業績に我慢のならない性格でもあったらしい。つまり、他人の作品に感銘を受けてしまうと、感銘を受けたこと自体が癪でたまらず、めらめらとライバル意識を燃やすのである。
 「そういうことをするのなら、おれの方がずっとうまくできるぞ!」
とばかりに、よく似たモティーフを使って自分の曲を書いたりする。相手にとっては小面憎いこと甚だしかったろう。
 有名なオペラ「魔笛」序曲のテーマは、実はムチオ・クレメンティ(1752−1832)のピアノソナタの盗作と言ってよいほどに酷似している。ふたりが別々に考えついたとは思えない。モーツァルトの性格からしても、明らかにクレメンティの作品を意識した上で、
 「どうだ、このテーマなら、おれの書いた方がずっといいだろう
と威張っているとしか考えられないのである。前回書いたように、モーツァルトとクレメンティは即興演奏勝負をしたことがあるが、この時の判定者がモーツァルトの大ファンだったため、クレメンティはあっさり負けてしまった。クレメンティといえども当代超一流のピアニストだったのだから、このことは深く遺恨に思っていたに違いない。そこへ持ってきてこの盗作だ。しかもはっきり言ってクレメンティのソナタよりは、「魔笛」の序曲の方が音楽的には数段上なのである。クレメンティの口惜しさは想像に難くない。彼はのちに楽譜出版業を始めたが、モーツァルトの作品だけは絶対に出版しなかったと言う。
 ハイドンvs.モーツァルトのはずが、モーツァルトvs.クレメンティの話になってしまったが、本題に戻ると、モーツァルトは大先輩のハイドンにも似たような喧嘩を売っている。
 1781年、49歳の円熟したハイドンは、「まったく新しい方法で作曲した」として、6曲の弦楽四重奏曲を発表した。それまでの、軽いセレナード風なものに過ぎなかった弦楽四重奏曲を、かっちりとした構成と充実した声部書法で整備し、交響曲やソナタに匹敵するジャンルに仕上げた、まさに画期的な作品だった。世に言う「ロシアン・セット(ロシア四重奏曲)(MIDIは第3曲第1楽章の冒頭)である。
 これを知った25歳のモーツァルトはたちまち対抗意識を燃やし、翌82年から85年にかけて、やはり6曲の弦楽四重奏曲を書き、あろうことかこれをハイドン本人に送りつけている。さすがに丁重な送り状は添えてあるが、モーツァルトの本心はやはり、
 「なんだ、そんな方法。おれの方がよほどうまく処理できるぜ
というところにあっただろう。
 実際、モーツァルトがハイドンに送った6曲、いわゆる「ハイドン・セット(MIDIは第1曲第1楽章の冒頭)は、ハイドンの始めた新しい方法を見事に自家薬籠中のものとし、しかもさらに進んだ工夫を凝らしてあり、弦楽四重奏曲の古典的名作として今も愛奏されている。
 並みの人間なら、モーツァルトの振る舞いには我慢がならず、烈火のごとく怒りそうなところだが、ハイドンはさすがに大人(たいじん)であった。もともとハイドンは「師父(パパ)ハイドン」と言われたほどに温厚な人柄であり、しかも後輩にでも謙虚に学ぶ姿勢を終生忘れなかった人である。晩年の作品には、なんと弟子であるベートーヴェンからの影響さえ顕著に感じられる。他人の才能や業績を素直に認められる、巨大な度量の人物であったらしい。
 この時も、若いモーツァルトの才能を充分に認め、むしろ師事したいというほどの返事を送ったので、さすがに傲岸不遜なモーツァルトも、ハイドンにだけは常に丁重に接するようになり、文通による交際が始まった。この、世代を超えた友情はモーツァルトの死まで続き、ハイドンはモーツァルトの妻コンスタンツェの依頼で、モーツァルトの末子フランツ・クサーヴァー(1791−1844、ヴォルフガング・アマデウス2世を称した)の指導にも当たっている。
 この勝負、作品だけをとってみればモーツァルトの勝ちだが、全体としてはハイドンの貫禄勝ちと言ったところか。

ベートーヴェン vs.ヒンメル

 ベートーヴェンとなると、これはあまりに巨大すぎて、ライバルとしてふさわしい格を持った音楽家など考えつかないのだが、次のエピソードはベートーヴェンのキャラクターの一面をよく顕わしていて面白いから、ここに挙げておく。
 フリードリヒ・ハインリヒ・ヒンメル(1765〜1814)と言っても知っている人はほとんど居ないだろうが、ベルリンの宮廷楽長を長いこと務めた音楽家で、当時は大変な人気を誇っていた。「ヴァスコ・ダ・ガマ」などのオペラをはじめ、声楽作品に長じ、優雅で感傷的な歌曲は人々に大受けしていた。
 とは言っても、作曲家としての力量はベートーヴェンには較ぶべくもない。参考MIDIを作ろうとして探してみたが、ヒンメルの曲の楽譜を入手することはできなかった。はっきり言って、このエッセイの第2回で述べた「時のふるい」に振るい落とされた作曲家と言ってよい。
 しかし、演奏の方はなかなか大したものだったようだ。この対決は、やはり即興演奏対決のお話なのである。
 1796年、26歳のベートーヴェンはベルリンに演奏旅行に行き、そこで宮廷楽長に赴任したばかりのヒンメル31歳と対決することになった。場所はとあるコーヒー店のサロン。このエッセイの第4回に書いたように、この当時はすでにその種の「音楽喫茶」みたいなものが沢山あったようだ。
 楽器はピアノ。ヒンメルが先攻だった。まず指馴らしをして、その後ほとんど間髪を入れずに演奏に入った。さすがに宮廷楽長、その指のこなしは華麗で、次から次へと難しいパッセージをこなしてゆく。一渡り弾き終えて、どうだとばかりにベートーヴェンを見た。
 するとこの、ボンの田舎出の鈍重そうな青年は、ニヤリと笑って言ったものだ。
 「なるほど。それで、本番はいつ始めていただけるんですかね?
 ヒンメルはこの侮辱に堪えきれず、真っ赤になって怒りながらその場を憤然と立ち去ったと言う。
 演奏技術では勝てそうもないと見たベートーヴェンが心理作戦に出たか、それともヒンメルの演奏が技術をひけらかすばかりでちっとも「曲」としてまとまっていなかったのを皮肉ったのか、今となっては知りようがないが、ベートーヴェンもかなり小憎らしい皮肉屋で、つきあいずらい男であったことは確かなようである。

ベートーヴェン vs.シューベルト

 このふたりは、ライバルと見なすのは少々無理があるかもしれない。
 シューベルト(1797−1828)は生涯ベートーヴェンに私淑し、崇拝し、ベートーヴェンのようになりたいと不毛な努力を続けた人である。
 今日の眼で見ると、ベートーヴェンとシューベルトの資質は明らかにまったく異なる。ベートーヴェンの持ち味は、すべての素材が堅牢な有機的結合を保ちながらひとつの世界を作ってゆく、いわば巨大建築のようなもので、発想自体が器楽的だ。ベートーヴェンにもすぐれた歌曲はいくつかあるが、それはやはり器楽的発想のものなのであり、例えばヴァイオリンなどで演奏しても一向に構わないように思われる。
 これに対し、シューベルトの持ち味は、もっと個人的な、美術にたとえれば水彩画クロッキーのようなものなのであり、その発想は声楽的である。シューベルトの歌曲は、他の楽器に移すと魅力が半減してしまう。ドイツ語という言語と渾然一体となって価値を生み出す音楽なのである。
 ところが、シューベルトはそういう自分の資質のあり方に不満で、なんとかベートーヴェンのような、確固たる構成力と様式感を持つ大作を作りたくてならなかった。それで相当数のソナタや交響曲を手間かけて作っているのだが、歌曲風なフレーズのところでは実にいいのに、ベートーヴェン的な動機展開をもくろんだところでは、見るも無惨なほどの失敗ばかりしている。水彩画家がノートルダム寺院の設計を請け負ったようなもので、最初から無理があったのだ。
 もちろん、水彩画がノートルダム寺院より芸術的に劣るなどということはない。まったく別の評価軸で論ずるべき問題なのである。シューベルトがもう少し長生きしていれば、そのことに気づいたと思うのだが、31歳で若死にしてしまって、おそらく最後まで、自分はダメな作曲家だと失望していたに違いない。
 シューベルトが不毛な努力に時間をとられず、もっともっと歌曲を作っていてくれればよかったと思うのは私だけではないだろう。もちろん、「未完成」交響曲は、その努力の上に作られたものではあるが、例えば、「第九」のないベートーヴェンはベートーヴェンではあり得ないが、「未完成」が作られなくても、シューベルトはシューベルトであり得たのである。
 さすがにベートーヴェンはそのことを見通していたと思う。そして、自分の大げさな表現のあり方に懐疑的になっていた時期もあったようだ。舞曲風な軽さを持つ第7交響曲、それまでの傾向とは一転して異様にコンパクトにまとめられた第8交響曲は、彼の懐疑を顕わしているのではないだろうか。シューベルトをはじめとする若い作曲家たちの、感情をそのまま発露したような、いわば素直な作品に接して、
 ――おれのやって来たことはなんだったのだろう?
 と考えなかったとは思えない。第8交響曲から第9交響曲まで、10年以上かかっているが、これは「第九」がそれだけ手間のかかる作品だったということではなく、そのままベートーヴェンの懐疑と不安の深さを示しているのではないだろうか。
 「これでいいのか?」という不安。そして、ようやく「これでいいのだ」と結論したのが「第九」なのである。
 ベートーヴェンとシューベルト。このふたりは、外面的な意味でのライバル関係などはなかったと言ってよいが、内心において、大いに意識し合っていた可能性がある。
 ふたりが実際に会ったのはただ1度である。ベートーヴェンの家に自作の譜面を持ってシューベルトが訪問した。ベートーヴェンは譜面をしばらく眺め、小さなミスを指摘した。ただでさえ小心者で、崇拝する大先生の前に出てあがっていたシューベルトはこの指摘に慄え上がり、たちまち逃げ出してしまった……というのが通説である。
 しかし、ベートーヴェンは本当は、この若者の資質を正確に洞察した上で、自分を懸命に真似ようとしている彼の努力の不毛さを感じ、そのことを指摘したのではないかと思うのである。
 ずっと後年、ジョージ・ガーシュウィンが、ちゃんと音楽の勉強をしたいと思って、パリのラヴェルのもとを訪れた時、ラヴェルは、すでにアメリカでジャズの第一人者として名が知られていたこの青年に向かい、
「君はすでに一流のガーシュウィンではありませんか。何を好きこのんで二流のラヴェルになろうとなどするのです」
と言ったと伝えられるが、ベートーヴェンはそれに似たことをシューベルトに言ったのではあるまいか。自分を真似ようとなどするな。君自身の歌を作りなさい。
 だが、シューベルトは若く、その真意がわからなかっただろう。ベートーヴェンを崇拝していた彼は、自分がベートーヴェンのようには決してなれないだろうということをベートーヴェン自身から言われて、ひどいショックを受けたに違いない。あれほど崇拝していたベートーヴェンの家から、作法もへったくれもなく逃げ出したのは、その落胆のあまりとしか考えられないのだ。
 シューベルトはその後も、生涯「亜流のベートーヴェン」を目指してうまくゆかず、失意の内に死んだ。彼の遺体はたっての遺言により、ベートーヴェンの墓の隣に葬られたのである。

(1998.4.14.)


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