11.三つの「君が代」

 間もなく、世間は卒業式のシーズンを迎える。
 入学式・卒業式と言った学校行事の時に、「君が代」が歌われるのは、今や別に珍しくなくなったが、10年ほど前は大騒ぎであった。いわゆる「君が代」論争が蜿蜒と繰り返され、左右の人々がそれぞれの立場からいろんな発言をして、しかもそれが一向に咬み合わず、はたして収拾がつくのかどうか、さっぱり見通しが立たないような状態だったのである。実は、それまで「君が代」を国歌とするということが法文化されていなかったのがそもそもの原因で、法文化された途端に論争もぴたりとおさまった。
 私は中学から大学までずっと国立の学校に行っていたが、一度も行事で「君が代」を歌っていない。論争が行われている時、私の出身高校の先生方は、国立学校にもかかわらず、ほとんどが「君が代」反対派で、校長の指示に対してかなり強硬に抵抗していた。
 騒ぎが済んでから当時のことを考え直してみると、反対派と言っても、必ずしもその論拠は統一されていなかったように思われる。論争においても、いくつかのレベルの反対論がごっちゃになって論じられていたので、一見収拾がつかなかったようである。
 簡単に分けてみると、1.「国歌」が嫌な人、2.「君が代」が嫌な人、の2種類があった。
 筋金入りの左翼は1の立場である。「君が代」だろうと他の曲だろうと、国歌など必要ない。ましてやそれを学校で使うなどとんでもない。世の中はインターナショナルに向かって進むべきで、国家というものの権威を象徴するものにはなんであれ反対である。日本などという国が存在すること自体腹が立つ。
 これはこれで、筋が通っていると言えよう。
 問題なのは2である。国歌があってもよいが、「君が代」は嫌だという人々だ。
 まあ、煎じ詰めれば好き嫌いの問題に帰着するのだが、いろんな理屈を付けるのでややこしくなる。
 曰く、荘重すぎて歌いずらい。曰く、法文化されていないものを使えというのはけしからん。曰く、歌詞が民主主義の時勢に合わない。
 特に、最後の理由が大きく叫ばれたようである。これに対し、擁護派は、「君が代」の歌詞は平安時代から愛好されてきた伝統のあるもので、世界を見回してもこれほど平和主義的な歌は見当たらない、と反論した。確かに、アメリカの国歌も、フランスの国歌も、歌詞はおそろしく好戦的である。
 冷静に考えれば、「君が代」の「君」が天皇家を指しているとしても、天皇は憲法で「日本国国民の統合の象徴」であると定められているのだから、「統合の象徴」が千代に八千代に続くことを願ったからとて、別に個人崇拝とかいう話にはならないように思う。まさに「星条旗(アメリカ国民の統合の象徴)よ永遠なれ」と全く同じ意味合いを持つことになる。
 なんだかんだ理屈を付けてみても、結局
 ――戦前に使われていた国歌をそのまま使っているのが気にくわない。
 という点に収束するようだ。戦争を体験した人たちから見れば、確かにいやな思い出のある歌かもしれない。しかし、いやな思い出があるから捨てようというのも、なんだか情けない話ではある。ましてや、戦後生まれの先生方がそんなことを言うのは筋が通らないと言うべきだろう。
 一方、擁護派の論拠もなんとなくあやしげなところがあって、そんなに言い立てるほどの伝統があるのかどうか。
 「君が代」誕生をめぐって、少し調べてみたので、その是非については読者が判断していただきたい。

  君が代は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで

 この和歌は11世紀初頭の「和漢朗詠集」祝(はふり)の部に載せられている。しかし、その100年前の「古今和歌集」に、「我が君は千代に八千代に……」という歌がすでに「詠み人知らず」で載っている。「古今和歌六帖」にも、「我が君は千代にましませさざれ石の……」という形のものがある。なんと言ってもめでたい歌であるから、平安、鎌倉、室町、戦国、江戸時代を通じて人々に愛唱された。従って、確かに歌詞については申し分ない伝統があると言える。おそらく「古今」の前にも詠われていただろう。
 江戸時代には、将軍家やいくつかの大名家の「正月の儀」としてこの歌が唱えられていたようだ。
 「君」と呼ばれる対象は、「古今」では、どうも「愛人」であるように思える。この「我が君」が天皇を指すようには、どうも私には考えられないのだが、そのあたりは学者の先生方の解釈にお任せしましょう。
 鎌倉・室町の頃に白拍子が唱い、舞ったというのは、白拍子というものの性格からしても、これは彼女らの舞いを見ているお客様を「君」と呼んでいるのであろう。
 江戸時代の将軍家や大名家の場合、これは明らかに、当の将軍や大名である。
 さて、明治2年、英国から偉いお客様がやって来た。偉いお客様を迎えるときは、音楽を演奏しなければならない。そういったことは、当時、薩摩の軍楽隊の指導をしていたお雇い英国人のジョン・ウィリアム・フェントンが取り仕切っていた。フェントンは接待係の詰め所へ行き、
 ――日本の「国歌」はなんであるか?
 と訊ねた。
 質問を受けた接待係の薩摩藩士、原田宗助はうろたえ、会議中であった上役の川村純義を呼び出して、いかがいたしましょうやと相談した。
 川村は不機嫌な顔で、
 ――歌なんぞのこっでオイを呼ぶヤツがおっか。万事任すつうこっでおはんらを接待係にしたんではないか。
 と原田を一喝した。原田は蒼くなって詰め所へ戻り、同役の乙骨太郎乙に泣きついた。乙骨は旧幕臣だが、やはり困り果てた。お客様の到着は刻一刻と迫っている。
 しばらくして、乙骨は
 ――そういえば……
 と、将軍家の正月の儀で唱われていた「さざれ石」の歌を持ち出し、これを使ったらどうだろうかと言った。
 原田は驚いて、
 ――その歌なら、薩摩でもしょっちゅう唱われていた。こうなったら仕方がないから、それを持ってゆこうではないか。
 と答え、すぐにフェントンの所へ行って、あやしげな節回しで唱ってみせた。フェントンはその異様な節回しに面食らいながらも、その場で五線紙に書き取り、軍楽隊用に編曲して、なんとか事なきを得た。
 あとで、原田は、
 ――オイが唱ったのと、だいぶ節が違うぞ。
 と渋い顔をしたそうだが、彼もよほど音痴だったのだろう。また、フェントンもかなり西洋音楽のスタイルにひきずられている。
 「国歌」はこのようにして誕生した。どうも、急場しのぎに作られた印象がある。

 このフェントンの「君が代」が数年海軍軍楽隊などで使われたが、はっきり言ってメロディーが不自然で曲としてもあまり上出来とは言えなかったため、明治9年に廃止された。明治14年に、文部省がこれとは違うメロディーをつけた「君が代」を「小学唱歌集」に載せたが、あまり歌われなかったようである。
 現行のメロディーは、明治13年、海軍軍楽隊の依頼により宮内省(当時は省だった)雅楽課内で作られたもので、林広季奥好義が合作したものに、広季の父で当時雅楽隊のチーフだった林広守が手を加えて発表したものだ。何かと海軍軍楽隊が関わっているのは、当時の海軍は外国などへ行って祝賀演奏をしたりすることが多く、その場合どの国もまず自国の国歌を奏楽するのが常識となっていたからである。
 しかし、こうして制定された「君が代」も、しばらくは海軍が上記の目的で使うだけで、一般に知られるようになったのは明治26年、学校で儀式の際に用いる曲として決められてからのことだ。従って、このメロディーの「伝統」はせいぜい100年あまりである。

 私個人としてはこの歌は好きだ。ただ、いささか歌いずらいのは事実だと思う。また、国際的な競技会などでこの曲が流れても、選手たちはあまりやる気が起きないと言う。闘争心をあおるような曲ではないのだ。よほど平和的と言わねばならない。

 フェントンの「君が代」と、文部省唱歌の「君が代」は、もはや知る人も少ないので、ここにMIDI化して掲げておこう。和声などは私がアレンジしてあるのでもとのままではない。現行のものと合わせて3種類の「君が代」、皆さんはどのようにお聴きになるだろうか。

(1998.2.22.)


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