忘れ得ぬことどもII

11.松江阿房列車

 「菅田庵の狐・松江阿房列車」「週刊読売」昭和30年新年号から6回連載されました。『阿房列車』としてははじめての週刊誌連載で、連載時のタイトルは「山陰阿房列車」でした。
 単行本収録のときに「松江阿房列車」と改めたわけです。「山陰」でも良いような気がしますが、山陰地方では松江にしか立ち寄っておらず、いくつかの街を転々としたわけではありません。また、山陰のだいたい真ん中くらいにあたる松江より先へは行っていないので、山陽特急を乗り潰した「春光山陽特別阿房列車」のような言葉の使いかたも不適当でしょう。さらに、山陰地方について書いた部分は全体の半分以下です。いろいろなバランスを考えて、山陰阿房列車では名乗りが大きすぎると判断したのでしょう。連載に先立つ作者の「予告」でも、内田百は「琵琶湖宍道湖へ行ってきた」と書いています。ふたつの大きな湖を対比して描くのが、むしろ百閧フ興味であったのかもしれません。
 出発は昭和29年11月3日文化の日ですが百閧ネどにとっては「明治節」の名前のほうが親しかったでしょう。前の「隧道の白百合」から半年あまりを経ています。阿房列車を夏季に運転した例は無いので、この間隔は四国で体調を崩したのとは関係ないでしょう。
 百閧フ調子は申し分ないようですが、今度は同行のヒマラヤ山系君がやや体調不良のようです。軽い胃潰瘍であったようですが、百閧ヘ「未発性盲腸炎」なる診断を奉っています。「まだ盲腸炎になっていない盲腸炎」だそうです。
 それで何を言っても面倒くさそうな受け答えしかしないというのですが、いままで読んできた限り、ヒマラヤ山系君はたとえ体調が良くても、やっぱり面倒くさそうな受け答えしかしていないような気がします。しゃべるときはしゃべるのですが、その場合でもちっとも話が進まないのが山系君の持ち味です。

 東京駅から乗ったのは、もう何回目かになる特急「はと」です。山陰方面行きの直通列車に乗らないのは、まず琵琶湖を眺めるために、大津で泊まることになっているからです。
 もちろん「はと」は大津には停まりません。大津は昔から「特急の停まらない県庁所在地」として知られています。いまも、「米原はるか」「びわこエクスプレス」のようないわば「なんちゃって特急」こそ停まりますが、在りし日の特急の面影をいくぶんか残している「(ワイドビュー)ひだ」は通過しています。「はと」で京都まで行って2駅戻るという旅程です。
 大津の宿では、「隧道の白百合」にも登場した大阪管理局の総務部長と、その「秘書」であった大津駅長上月木代次氏との酒宴が待っていますので、「はと」の中ではおとなしくしている百閧ナした。横浜を過ぎた頃、列車ボーイに頼んでサンドイッチを買ってきて貰ったくらいです。食堂車へ行ってお酒を我慢していて、他の客がその隣で飲み始めたりしたら腹が立つというわけでした。
 昼間のうちは飲まないというのが百阯ャのお行儀なのですが、それを考えると「特別阿房列車」ではじめて「はと」に乗ったときはずいぶんとはめを外したものです。陽も暮れる前から食堂車でたらふく飲んだだけでなく、乗車前にも東京駅の食堂でウイスキーを飲んでいます。とれるかどうかわからなかった特急券がとれた喜びと、とにかく戦後はじめて特急に乗るという嬉しさとで、だいぶテンションが上がっていたのでしょう。

 戦後はじめて、と書きましたが、百閧ェ戦前の特急に乗ったことがあるかどうかはわかりません。戦前の特急は「富士」「櫻」「燕」「不定期燕」「鴎」の5本だけでした。乗っていればどれかの随筆に書かずにはいられなかったと思いますので、たぶん乗っていないのでしょう。
 特急が登場する前、上位の優等列車として「最急行」というのが走っていたことがありました。百閧ヘこれには乗っていたと思います。確か、東京帝大に入るためにはじめて上京する際、親戚のおじさんが
 「栄さんは汽車が好きだから」
 とお金をくれたので、最急行の二等車に乗ったのではなかったかと記憶しています。
 「はと」で京都に着いた百閧ヘ、その最急行のことを追想しています。ただし自分が乗った話ではなく、夏目漱石が京都を訪れたときのことで、たぶん東京からその最急行に乗ってきたのだろうと推測しているのでした。
 最急行を牽引していたのは「前部がそり上がったような格好の機関車」だったそうですが、どんな形だか想像がつきません。Wikipediaに「最急行を牽引した機関車」として写真の載っているD12(のち6400形)は、特に前部がそり上がった風でもない、普通の形状の機関車です。
 下り列車は新橋8時00分発、神戸21時20分着だったと言いますから、東京〜大阪に換算すれば12時間ほどで、百閧ェ阿房列車の頃の「つばめ」や「はと」と所要時間が大して変わらなかったと書いているのは少々大げさなようです。もっともこのダイヤは明治42年のもので、あとで少しくらいはスピードアップしたかもしれませんが、それでも1時間も2時間も速くなったとは思えません。
 なお、山陽本線の前身である山陽鉄道には、最急行よりさらに上の最大急行というのもありました。宮澤賢治「氷河鼠の毛皮」という話に、ベーリング行き最大急行というのが出てきます。子供の頃に読んだ際、最大急行とはどんな列車だろうかと思ったものです。

 京都駅には総務部長と上月駅長が出迎え、4人で上りの普通列車に乗り込んで大津に戻ります。逢坂山トンネルを抜けて、たちまちのうちに大津に到着します。このあと、琵琶湖畔の宿に2泊することになります。
 最初の晩は総務部長も同じ宿に泊まることにしたそうで、市内に家のある上月氏が帰ったあとも興が乗って、夜半の3時頃までずっと飲み続けていたようです。もっとも、百閧ノとっては日常のことで、家に居るときはいつも就寝が3時4時になっていたと言います。
 起床も当然遅く、このときも起きてみたら正午を過ぎていたそうです。旅先で午前中をまるまる無駄にするのはもったいないと思うのですが、そこが百鬼園流なのでしょう。
 午後もぼんやりして過ごすのが好きなのでしょうが、この日は珍しく、百閧フほうから山系君に、出かけてこようかと声をかけます。山系君も賛同し、クルマを呼んで貰うのですが、どこへ行きたいという希望は特にありません。
 運転手がいくつか挙げた中で、いちばん遠いところにしようということになり、石山寺瀬田の唐橋を見物に行くことにしますが、百閧ニしては途中で偶然、皇后陛下(香淳皇后)のお召し列車をお見送りすることができた件のほうが印象深かったようで、紙数もそちらに多く割いています。百閧ヘ陸軍士官学校で秩父宮昭和天皇の弟)を教えたこともあったせいか、皇室には格別の敬意を払い続けました。

 翌朝8時29分発の急行「出雲」で大津を出発します。8時29分発とは、百閧ノとっては真夜中のようなもので、よくぞ思いきったものだとかえって唖然とします。松江に到着する時刻を考えるとこの急行に乗るのがいちばん都合がよいのですが、大津発が早すぎるので、例によって百閧ヘいろいろと思案します。「東北本線阿房列車」のときのように、「出雲」が乗りやすい時間帯に通るところ、例えば福知山とか豊岡あたりまで移動してそこでもう1泊するということも考えたらしいのですが、さすがにそれもばからしいと思い直したようです。いろいろ考えた結果、万死を賭して8時半の列車に乗るのがベストという結論に辿りついたのでした。
 そう決めてしまうと、7時とか6時半とかちょうど良い時刻に眼を醒ますという器用なことは百閧ノはできなかったようで、ふと眼が醒めると5時過ぎだったとのこと。又寝するのも心配で、そのまま起きてしまいました。
 「出雲」は大阪まで、宇野行きの四国連絡急行「瀬戸」と併結して走ります。現在もただひとつ残った定期夜行特急「サンライズ」が、高松行き「サンライズ瀬戸」出雲市行き「サンライズ出雲」を連ねて走りますが、その原型はまさにこの時代まで遡るわけです。
 この当時の「瀬戸」「出雲」は二三等編成で、一等車はついていません。ついていないものは仕方がないので、百閧スちはその中でいちばん高級な特別二等車に乗り込みます。
 現在の「サンライズ出雲」は伯備線経由のため、「サンライズ瀬戸」とは岡山で切り離しますが、この当時の「出雲」は福知山線経由でした。それで大阪まで併結し、そこで切り離すことになっていました。そののち独立した寝台特急になったときには京都から山陰本線に入ることになっていましたが、併結列車はなるべく併結したままで走ったほうが、燃料とか人員とかの都合が良いのでしょう。なお当時の伯備線は、途中で補助機関車の連結を要する布原附近の急勾配があり(貨物列車につけられたD51の三重連は有名でした)、その意味では必ずしも倹約になりませんでしたので、「出雲」も伯備線ルートは使いませんでした。
 大阪で「瀬戸」と切り離し、そのまま走るわけではなく、大阪からの車輌を連結します。食堂車などはそちらに含まれていたのでしょう。いずれも動力を持たない客車なので、いちいち機関車で差し回さなければなりません。そのため、「瀬戸」の到着・発車プラットフォームと、「出雲」の発車プラットフォームは別になっており、構内の機関車が「瀬戸」の片割れをひっぱって「出雲」の大阪発車輌の待っている線に移動し、両者を連結してようやく「出雲」が完成することになります。
 車輌が自走できるディーゼルカーや電車に較べると非常に手間がかかり、こういう多層建て列車の多かった日本の国鉄が機関車牽引客車を嫌い、電車化を推進したのも無理はありませんでした。なおヨーロッパなどではまだ機関車牽引客車が主流で、例えば新幹線と較べられるフランスTGVなども電車ではなく、電気機関車に牽かれる客車列車です。
 手間がかかるだけに、大阪着時刻から大阪発時刻まで、20分以上かかります。山系君はそのあいだ外に出て、大阪管理局の友人と長話をしていたそうです。

 大阪を出ると、そのまま東海道本線を走って淀川を渡り、尼崎から福知山線に入ります。この事情は現在でも変わりませんが、この当時、福知山線は尼崎が起点ではなく、いまは無い尼崎港という駅が起点になっていました。ほとんどの旅客列車は大阪発着で尼崎から福知山線に乗り入れましたが、そのとき通る尼崎〜塚口間の線路はいわば連絡線で、尼崎港に行く線のほうが福知山線の本体だったのです。
 現在の南武線を思い浮かべていただくのが早いかもしれません。塚口が尻手にあたり、尼崎が川崎、尼崎港が浜川崎に相当します。南武線も、歴史的に見れば浜川崎枝線のほうがむしろ本体でした。尼崎港も浜川崎も、貨物列車にとっては重要な駅だったのです。
 ただ南武線と違うのは、この尼崎港枝線上にも尼崎という名前の駅があったことです。しかも東海道本線の尼崎駅とは少し離れていて、一旦改札を出ないと乗り換えができない状態でした。尼崎港枝線の旅客営業が廃止される昭和56年1981年)まではその状態が続きました。尼崎は、かつての石巻駅や宇美駅、現在の浜川崎駅同様に、お互い連絡していないふたつの駅舎を持つ駅だったのです。
 東海道本線上の尼崎駅のほうも、3面9線という変な構造の駅でした。1面のプラットフォームには、切り欠きなどを作らない限り最大2本の線路しか設置できませんから、3面6線を除いた残りの3線にはプラットフォームが無かったことになります。実は東海道本線の急行線にプラットフォームがありませんでした。そのため、東海道本線を通る特急や急行はもちろん、新快速や快速も、現在の4面8線の統合駅ができるまでは尼崎を通過していたのです。
 尼崎から進入した福知山線も、本腰を入れた改良がはじまったのは1980年代に入ってからで、それまでは単線のローカル線に過ぎませんでした。伊丹宝塚まで阪急と競合していましたが、まるっきり太刀打ちできず、当時の国鉄はほとんど競争を諦めていたのです。三田までの神戸電鉄との競争すら負けていました。神戸までの所要時間は同じくらいだったのですが、列車の本数が比較にならないほど少なかったのです。丹波路快速や東西線直通快速がばんばん走るいまからは想像もつかないほどの田舎路線でした。
 生瀬から道場までの武庫川の渓谷に沿ったあたりなど非常に風光明媚で、大阪からこれほど近いところにこんな絶景があるとは……と他地方からの旅行者を驚かせていましたが、輸送上はまさにそこがネックで、河岸すれすれに敷かれていたため複線化できるだけのスペースがとれず、ずっと単線のままでした。ここが短絡地下線化されて、やっと複線化も可能になり、スピードが出せるようになったのです。さらに全面的に電車化されたのは民営化直前のことでした。
 百閧スちが通ったこの頃は、尼崎を過ぎて福知山線に入ると、途端にひなびた雰囲気になったことでしょう。宝塚駅を通過したとき、百閧ヘ昔箕面電車が開通したときに宝塚まで乗ってみたことを思い出します。

 ──当時の箕面電車は今の何電鉄なのか、それは知らない。

 と書いていますが、もちろん阪急宝塚線のことです。福知山線はもともと阪鶴鉄道という私鉄だったのが、日露戦争後に国鉄に買収されたので、その事業者たちがあらたに作ったのが箕面電車でした。箕面電車はその後小林一三という天才的な経営者を迎え、沿線開発と鉄道整備を同時に展開する日本独特の私鉄経営の在りかたを確立するのです。
 宝塚の他、お酒の名産地としての伊丹や、デカンショ節の篠山(現篠山口)などの地名には、百閧熾キき覚えがあったようです。それらの街々を結びながら、「急行らしくもなく、のろのろと」走ってゆくのが当時の福知山線の状況でした。

 福知山から山陰本線に入っても、のろのろと走ることには変わりありません。山陰本線はのちのちまで「偉大なるローカル線」などと呼ばれる、近代化に見放されたような路線でした。
 餘部(あまるべ)鉄橋の話題が出てきます。下り列車に乗っていると、トンネルを抜けた先でいきなり空中に放り出されたような高い鉄橋を渡るようになっており、山陰本線の見どころのひとつとして有名でした。百閧ヘこのときからさらに30年くらい前にそこを通ったことがあり、その恐ろしさが忘れられなかったと言います。松江阿房列車から30年前だと大正の末年頃で、この頃百閧ヘ多額の借金を背負い、生活が破綻して陸軍の学校を辞任し、家庭も棄てて単身早稲田の下宿屋に身を潜めています。暗い失意の時期だったようで、それだから余計餘部鉄橋の恐ろしさが身にしみたのかもしれません。しかしそんな苦しい時期に、どうしてこんなところを旅行していたのでしょうか。
 ヒマラヤ山系こと平山三郎氏が作った百閧フ年譜では、大正十五年昭和元年)の項目だけなんの記述もなく空白になっています。この時期の百閧フ動静をしっかり見定める勇気が私には欠けている……と平山氏は記しています。百閧フ他の随筆から推測すると、この時期かなり遠方まで金策に出かけていたようなので、その途上と見るのが妥当でしょう。遠方へ出かけて高い汽車賃を払うのでは、多少金策ができたとしてもトータルは結局マイナスなのではないかという気もしますが、百閧ヘそれを承知であちこち出かけていたようです。半分くらい自暴自棄になっていたのかもしれません。何千万、何億という借金がある人は、感覚が麻痺してしまっており、数十万円程度の散財はかえっていとわないものです。いまさらその程度の赤字の拡大を気にしてもどうにもならないという感覚で、末期の国鉄がまさにそれを数万倍の規模にした状態でした。
 なお餘部鉄橋は、列車が強風で吹き落とされるというような事故もあり、老朽化も進んで危険になったので、2010年をもって鉄筋コンクリート橋に付け替えられました。柵もつけられたので、それまでのような「空中に投げ出される感じ」は無くなり、そんなに恐ろしさを感じるポイントではなくなりました。鉄道ファンのあいだからは残念がる声も上がりましたが、危険なのを放置するわけにもゆかないでしょう。
 私はかろうじて、前の鉄橋のときにここを渡りましたが、上り列車だったせいで景色の急激な変化が無く、さほど怖いとは思いませんでした。百閧焉A気持ちが安定しているときに通ったせいか、この二度目の餘部鉄橋は以前ほどの恐怖を感じなかったようです。

 松江着17時39分。松江の駅長と、市役所の漢東種一郎氏に迎えられます。漢東氏は、新潮社の編集者椰子君こと小林博氏の紹介で、松江を案内してくれることになっていたそうです。
 宍道湖の夕陽を見せたいというので漢東氏にせかされ、百閧スちは一服もせず、大急ぎでクルマに乗り込みます。
 百閧スちが見たのとは別の場所でしょうが、私も宍道湖大橋から夕陽を眺めたことがあります。島根半島の山々に照り映える夕陽は確かに見事なものでした。
 宿に着き、早速酒宴となります。料亭を兼ねた宿であったのか、芸者が呼ばれ、正調の「関の一本松」「安来節」を歌います。「関の一本松」は昔親しかった森田草平がよく調子っぱずれに歌っていたので、ここで正調のものを聴いた百閧ヘ喜びます。安来節は馴染みもなく、どうでも良かったようです。
 翌日、また昼近くまで寝ていて、午後から漢東氏の案内で松江の街を廻ります。
 が、百閧ヘなんだかつまらなそうで、しきりに帰りたがるのでした。小泉八雲の旧宅に案内されても、そんな人物には興味は無いとばかり、中には入らず玄関先で戻ってしまいます。また松平不昧ゆかりの茶室「菅田庵」に案内されても、門をくぐったところで
 「もう帰りましょう」
 と声をかけたので、漢東氏もびっくりしたでしょう。説得してみても、百閧ヘ頑として聞かなかったと言います。あげくに
 「私は、不昧公に用はないんだ」
 とまで言い出したので、漢東氏も諦めて戻ったそうです。
 「長年たくさんの人を案内しているが、菅田庵の入口で引き返したのははじめて」
 だったと、のちに漢東氏は苦笑混じりに雑誌に書いています。
 百閧ヘ確かに観光ということは嫌いですが、しかし人が好意で案内してくれるというものをこんなに邪険に断ったことは滅多に無いような気がします。何か虫の居所が悪かったのか、それとも漢東氏の振る舞いに多少の強引さがあって気にくわなかったのか。初対面のときに松江駅でせかしたあたりからも、なんとなく想像できるように思えるのですが、どうでしょうか。

 さて、その邪険な断りかたについては、百閧熄ュし気にしていたようです。
 このあとで百閧ニ山系君が、菅田庵の狐にばかされるシーンが出てきます。もちろん実際にはそんなことは無かったでしょうが、百閧フ創作ものによくある、現実と非現実(夢幻)の境目で、人ならぬものと遭遇し、理不尽にやりこめられるという趣向が、この「菅田庵の狐」と最後の「列車寝台の猿」で援用されているのです。松江を訪れたのが旧暦10月、つまり他の地方で神無月、出雲でだけは神有月と呼ばれ、全国から出雲大社に八百万の神々が集まってくる時期であったことも、このシーンを挿入する発想の元になったかもしれません。
 狐は名もない神を名乗って、最初は新聞記者みたいな風体で百閧フ飲んでいる席に現れ、しばらく言葉と盃を交わすうちにだんだん怒り出して、百閧ノ言いつのるのでした。

 ──「……一体あなたは我儘だ」
 「これは恐れ入りましたな」
 「人がわざわざ案内すると云ふ所を見もしないし」
 「会ひに来た者はいい加減にあしらふし」
 「若い者を相手に酒ばかりくらつて」
 ……
 「藝妓だつて怒つてゐる」
 「早く帰つてしまへ」 
 「極道ぢぢい」


 狐の口を借りていますが、この文章を書いているときに冷静に思い返してみて、あのときは少々大人げなかったかもしれないという反省があったのではないかと思います。意地を張るときは張るけれど、他人にどう思われているかを人一倍気にするのも百閧轤オいところなのです。

 翌朝11時40分発の上り「出雲」で松江を後にします。そのまま東京まで直行はせず、大阪で下りてまたホテルに2泊します。百閧ヘ基本的にはハイカラで、日本式旅館よりは洋式のホテルのほうが好きであるようです。
 その中日、「春光山陽特別阿房列車」と「隧道の白百合」でそれぞれ行こうとして果たせなかった動物園に、ようやく足を運ぶのですが、あれだけ行きたがっていたわりにはちっとも楽しそうな様子がありません。半分くらい見て帰ってしまいます。

 ──どうも我我は、いろんな事で少し疲れた様である。

 と百閧ヘ「菅田庵の狐」を結んでいますが、何がそんなに疲れたのかもよくわかりません。一体に虫の居所が悪かったとしか思えず、それも前半の琵琶湖畔のほうではそんな様子がありませんから、やはり松江の街そのものか、案内者の漢東種一郎氏が、何か気に障ったのでしょうか。
 大阪からはまた「はと」に乗って帰京しています。阿房列車の旅も終わりに近づいてきました。

(2017.5.24.)

「10.四国阿房列車」へ 「12.興津阿房列車」へ

トップページに戻る
「商品倉庫」に戻る
「忘れ得ぬことどもII」目次に戻る

「追憶の阿房列車」目次に戻る