忘れ得ぬことどもII

10.四国阿房列車

 内田百「隧道の白百合・四国阿房列車」は、どこの雑誌にも発表されず、書き下ろしとして単行本『第三阿房列車』に収録されました。講談社から出た単行本では、これが最後尾に置かれています。実は「長崎の鴉」「房総鼻眼鏡」とこの「隧道の白百合」は、ダヴィド書房から刊行された『禁客寺』という文集にいちど収録され、その後『第三阿房列車』に再録されたのでした。そのとき、『禁客寺』刊行以後に発表された新稿である「菅田庵の狐」「時雨の清見潟」「列車寝台の猿」の3篇を前半に持ってきたので、時期としては先に来る「長崎」「房総」「四国」が後半に置かれたわけです。この前後顛倒状態は、数年後『第三阿房列車』が新潮文庫になったときに解消されました。
 単行本の最後で「隧道の白百合」を読んだ人は、百閧フことを心配したかもしれません。まず、百閧ェこの篇の中で病気になっていること。ひどい風邪をひいてしまい、かなりの高熱を出していかにも苦しそうです。いちおう治癒はした旨の報告は為されているのですが、ずいぶん長引いたようで、視力なども衰えたらしく、百閧フ身を案じた読者が多かったと思われます。
 しかも、この篇は妙な構成になっています。型破りにも、旅先から帰途に就こうというところから筆を起こし、そのまま東京に帰ってしまい、そのあと出直すように旅の前半について書いているのでした。9章まであるうちの第6章から読み、最後まで読んだら冒頭に戻って第5章まで読むという風にすれば時間軸が整理されます。
 こんな変な書きかたをしているので、百閧ヘ体調を崩しただけではなく、もしかして精神にも変調をきたしたのではあるまいか、と思った人が居ても不思議ではありません。しかもそんな篇が、初期の単行本では最後に置かれているので、百鬼園先生はヤバいんではないのかと、二重の意味で心配した読者が居たような気がします。
 前後が顛倒しているのは、病気でつらかったことを印象づけるための工夫なのだろうと思いますが、しかし冷静になって読み返すと自分でも変な文章だと思ったのかもしれません。文藝春秋の『新阿房列車』第3回として掲載するつもりで、校正刷りまでできていたのに結局掲載を見送ったのは、そのためだったのではないでしょうか。
 その代わり、自分が主筆をしていた不定期刊行雑誌「べんがら」に、「高知鳴門旅日記」という全文カタカナで書かれた文章を掲載しています。百閧ヘ日記や手紙などはカタカナで書いたものが多いのですが、いまの感覚だと少々読みにくいですね。

 さて、私の探訪では、文章ではなく実際の旅の順序に従って、出発から記してゆくことにします。旅行の時期は昭和29年4月のことでした。
 四国に渡ろうとしたものの、旅程を立ててみるとどうしても11日か12日くらいを要し、さすがに長すぎると思ったようです。四国を列車で一周するのにそんなにはかからないと思うのですが、何しろ午前中から出かけるのはイヤな上に、晩も早く宿に着いてお酒を飲みたいという人ですから、実質の移動時間は午後の4〜5時間に限られ、列車の本数も少ない時代とあっては、なかなか都合の良い便が見つからず、そんなことになってしまうのも無理はありません。朝の8時くらいから動き始めればずいぶん選択肢も拡がるのですが。
 それで、四国全部を廻るのは諦め、うち二国、阿波(徳島県)と土佐(高知県)だけを廻ってくることにするのでした。この時期はまだ中村線(現土佐くろしお鉄道中村線)も無く、予土線(当時は宇和島線)も高知県内には入ってきておらず、高知県では長大な盲腸線である土讃線窪川まで延びているだけでした。鉄道乗り潰しだけならわけはないような路線図です。
 香川県を外したのは、4歳か5歳の頃、家族に連れられて金比羅参りをしたことがあったからだそうで、行ったことのない県を優先したかったのでしょう。また香川県に渡るとなると郷里岡山を通らざるを得ません。夜行列車で素通りするだけならともかく、四国へ渡るのに岡山を通って、なぜ少しくらい立ち寄らないのかと言われるのを怖れたのかもしれません。百閧ヘ記憶の中に残る古き佳き岡山の風景を大切にするために、戦後まるで変わってしまった岡山を訪れることを最大の禁忌にしていたのです。
 宇野行きの四国連絡急行「瀬戸」はこの当時すでに運転していたはずですが、九州へ行く夜行列車で岡山を素通りするのと、目と鼻の先の宇野へ行く「瀬戸」で素通りするのとでは、やはり岡山の知人たちに対する心証が大きく違うはずで、百閧ヘそのあたりを斟酌して香川県を外したのではないか、という気がしてなりません。傍若無人ワガママ放題に見えて、実は繊細すぎるほどに他人の心のうちに気を廻すのが内田百閧ニいう人物でした。

 ファーストランナーは、「特別阿房列車」以来となる特急「はと」でした。いや、実はそのあと、国鉄80周年記念イベントで名誉東京駅長になったときに、自分で発車の合図を出さなければならないはずの「はと」にいきなり乗り込んで熱海まで「視察」に行ってしまったことはありますが、普通に乗客として乗るのは3年半ぶりとなります。
 特別阿房列車の時とは違い、このときは食堂車へは行かずに一等車を満喫しました。大阪に20時半に到着したのち、このたび東京からずっと同乗していた大阪管理局の総務部長に招待されて晩餐にしています。途中で総務部長の「秘書」という人が加わり、そのふたりがホテルまで送ってくれたのですが、ホテルのバーでまたさらに飲み続けたそうです。
 なおこの「秘書」は鉄道マニアの元老みたいな存在であった上月木代次氏だったそうで、ヒマラヤ山系君こと平山三郎氏の友人でした。上月氏は鉄ちゃんのあいだで名高い名句
 「帯解けば 老人ばかり 可哀想」
 の作者と言われています。お座敷ストリップ嬢の悲哀を詠ったような(by宮脇俊三氏)この句のどこが名句かというと、国鉄の駅名だけを連ねて詠まれているのでした。

 帯解(おびとけ・桜井線芭露(ばろう・湧網線──1987年廃止)陣場(じんば・奥羽本線狩川(かりかわ・陸羽西線石生(いそう・福知山線

 上月氏は、実はこれまでの阿房列車にもたびたび登場しています。特別阿房列車のときに、大阪駅で帰りの切符を手配してくれた「山系の友人」が上月氏であり、この当時は大阪管理局の旅客課広報係長。「春光山陽特別阿房列車」で大阪から三ノ宮まで同車した「甘木君」も上月氏のことです。のちに大津駅長となり、この次の「菅田庵の狐」でも百閧ニ一緒に飲んでいます。平山氏と違って現業にも就いていましたが、広報などの仕事で共通点もあり、戦中からの知り合いだったそうです。

 翌朝、百閧ノは珍しく、ルームサービスの朝食をもりもり食べています。しかしそのあと又寝をして昼頃に起きると風邪っぽくなっていたので、その日は一日寝て過ごしたようです。もともと大阪には2泊する予定でした。2日目の晩は、親類の母子をホテルのレストランに招待しており、その相手をしなければなりませんでしたが、親類の若者はお酒をまるっきり飲めず、百閧ニしてはひとりで飲んでいても面白くなく、彼らをさっさと帰してしまい、山系君たちが先に飲んでいるはずのグリルへ移りました。
 ところがあれほど好きなお酒が、鼻について飲めなかったというのですから、風邪がだいぶ悪化してきたものと見えます。
 ひと晩寝たら治るかと思ったら、明け方に持病の喘息の発作が起こって、呼吸困難で死ぬ想いをしました。その発作は朝にはおさまったものの、風邪はむしろひどくなってきたようです。
 夕方、天保山桟橋から高知行きの船に乗ります。
 天保山は国土地理院の地図の「山頂」マークのつけられた中では日本でいちばん低いところとして、カルト的に知られていますが、もとは国内便の船がたくさん出航していた港でした。昭和40年弁天埠頭が作られるとそちらがメインとなり、さらに現在は大阪南港が主要港となっています。百閧スちはこの天保山桟橋で、関西汽船須磨丸に乗船したのでした。
 千トンくらいと言いますからそれほど大型の客船ではありませんが、サロンなどもついている本格客船ではあります。そのサロンで、体力をつけるためになんとか飲み食いしようとした百閧ナしたが、お酒も進まず、食事は全然食べられませんでした。どうも相当に悪化しているようです。神戸に寄港したときには、波の高さに驚いています。
 高知行きですから、さらに外海に出るわけです。室戸沖を通過したときには、物につかまらないと一歩も歩けないような揺れかたで、かつて日本郵船の豪華客船を乗りまわして船馴れしていたはずの百閧烽きれるほどでした。
 風邪が悪化して、食べていないので体力も落ち、しかも夜通し高波に揺られて、体調はさらに悪くなります。高知港からタクシーで予約した宿へ向かいますが、あいにくとその宿が、クルマの通れない坂の上にあり、クルマを下りてその坂を登るので疲労困憊、すぐには靴を脱ぐことさえままならなかったそうです。
 昼まで休んで、午後は桂浜などを見物して廻りましたが、余計に疲れ、晩にお客を呼んでいたもののヒマラヤ山系君に任せて寝てしまいました。もうお酒も一滴も飲みたくないという異常事態です。
 体温計をはさんでみますが、不思議なことに熱は全然無くて平熱だったとか。発熱が遅れてくる場合があるので、わからないでもありません。

 翌日は、本来の予定では徳島へ直行するはずでした。土讃線で阿波池田に出て、そこから徳島線吉野川沿いに徳島に出るつもりだったのでしょう。
 ところが高松の管理局から、是非お立ち寄り願いたいこと、徳島(鳴門)までは管理局のクルマでお送りすることを伝えられて、旅程を変更します。そんな横槍は頑固ジジイの百閧ネらいかにも断りそうな印象があるのですが、国鉄職員からの要望には案外素直に従うようです。ずいぶん国鉄の世話になっているという自覚があるからでしょうか。あるいは無碍に断ると、平山氏の国鉄での立場が悪くなるという配慮だったかもしれません。
 それで、高知駅から準急「南風」に乗って高松に向かいます。もちろん現在の特急「南風」の先祖にあたる列車です。ただしいまの「南風」は岡山発着になっていますので、高松発着の「しまんと」のほうが近いかもしれません。現在の「しまんと」で高知から高松までは2時間20分ほどです。準急の当時は4時間くらいかかったようです。
 途中には大歩危峡の険阻な光景など、いろいろ見どころはあるのですが、百閧ヘ一切記していません。たぶん4時間のあいだ、うつらうつらしていただけだったのでしょう。
 ようやく高松に着き、ひと休みしてからクルマで鳴門まで移動します。これが約3時間の自動車旅となり、百閧フ残った体力も奪い尽くしてしまった観があります。耳の近くでクラクションが鳴るだけでも神経に響き、鳴門の宿に着いたときには口もきけないほどになっていました。
 当時は道路状態も悪かったはずで、国道11号線は未舗装区間もあったかもしれません。クルマのほうにしろサスペンションもシートの構造もいまよりお粗末だったでしょう。いまだって体調の悪いときに3時間もクルマに揺られたくはないわけで、百閧フ苦労が偲ばれます。
 坐れさえするなら列車の三等座席のほうがずっと楽だった、と百閧ヘ述懐します。異論のある人は居ると思いますが、乗り鉄仲間としては同意せざるを得ません。高徳線に乗ったほうが楽だったでしょうし、それ以前に最初の予定どおり、阿波池田で徳島線に乗り換えたほうがもっと楽だったと思います。阿波池田は高知と高松の真ん中くらいに位置しますから、当時としても高知から2時間くらいで着けたと思います。徳島線のダイヤは推測しづらいのですが、いまのディーゼルカーによる普通列車で阿波池田・徳島間が2時間弱というところですので、当時も3時間もあれば走り切れたでしょう。移動時間を合計すると、阿波池田乗り換えのほうが2時間くらい短かったと思います。時間が短いというそのことだけでも、不調のときにはありがたいのです。
 その晩は、とうとう発熱して、38度4分まで上がるのでした。

 ひと晩明けると、少し気分が軽くなっていたので、その日は鳴門の渦潮を見物にゆきます。宿から屋形船風のモーターボートを出してくれたのだそうです。この日は4月16日、旧暦3月14日なので大きな渦が見られたようです。渦潮は月の潮汐効果のために起こるものですから、潮汐効果の強い満月と新月のときに大きくなります。旧暦は月の運行に基づいて作られる暦ですので、毎月15日が必ず満月になります。それに近い14日だから、渦も大きかったというわけです。
 夕方近くまで宿で過ごして、またクルマに乗って小松島港に向かいます。鳴門にも小松島港(当時)にも鉄道が通じているので、本当は列車で移動したいところだったのかもしれませんが、徳島駅で乗り換えたりしなければならないので、普通の人から考えれば面倒に思われるでしょう。クルマで直行したほうがずっと楽だと考えるはずです。高松から同道していた管理局の人もそう考えて、体調の悪い百閧いたわるべくクルマを手配してくれていたのでしょう。百閧ヘこういう好意を無にするのがしのびない人で、仕方なくクルマに乗ったのに違いありません。
 私も、多少の不調は列車(通勤電車とかはダメですが)に乗ってどこかへ出かければ吹き飛んでしまうほうの人間なので、このときの百閧フ困惑がわかる気がするのでした。
 なお小松島港まで通じていた国鉄小松島線は昭和60年に廃止されましたが、終点の小松島港の改札を出るとすぐさま汽船乗り場になっており、たぶん港とのアクセスが日本でいちばん良い鉄道駅だったでしょう。国鉄自身の連絡船に乗るよりも楽だったかもしれません。

 「隧道の白百合」はこのあたりで終わっており、そこから冒頭に戻ると話がつながるようになっています。
 小松島港発大阪行きの太平丸は、23時という遅い時刻の抜錨で、百閧スちは小松島港近くの宿屋に一旦荷を下ろして休息します。そのあいだにもとにかくしんどく、食事もお酒ものどを通らず、身の置き所がないような気がしたそうです。いつもの旅ならなんにもすることがないのが楽しく、ぼうっとしていればいくらでも時間が過ぎて行ったものでしたが、いまは船に乗るまでの時間が待ち遠しくてならないのでした。グウタラするにも体力が必要なのだということを、百閧ヘはじめて知ったようです。
 ようやく出航時刻になり、船に乗り込みます。そのまま船室に引きこもって寝てしまいます。幸い、往路と違って海面はごく静かなようでした。
 夜半、また熱が上がったような気がして検温したら、39度3分まで上がっているように見えました。驚いてヒマラヤ山系君を呼んで見て貰うと、目盛りを見誤っていたらしく、38度8分だったそうです。船室の電灯が薄暗いだけでなく、ものを食べていないので視力が落ちつつあることを百閧ヘ自覚します。
 朝早く、大阪・天保山桟橋に戻ってきます。とりあえず医者に診て貰いたいと思い、タクシーに乗って梅田の鉄道病院を訪ねますが、そこは分院で当直医も居ませんでした。天王寺の本院なら当直医が居るはずだと言われて、同じタクシーで天王寺へ向かいます。東奔西走ならぬ北奔南走の趣きです。
 車中で検温すると、夜半に服んだアスピリンのおかげか、熱は37度4分まで下がっていました。
 ところが天王寺の病院に着き、再び検温してみると、なんと36度4分まで下がっており、百閧ヘ逆に居たたまれない気分に苛まれるのでした。36度4分ではすっかり平熱です。早朝から病院を騒がして医者の手当てを受けようとした患者がそんなありさまでは、照れくささのほうが先に立ってしまいます。
 百閧ノはそういう間の悪さがつきまとうところがあります。かつて陸軍砲工学校に勤めていたときに、動悸の発作が出て医務室に倒れ込んだことがありました。軍医はもう帰宅したあとだったのですが、日直の下士官が百閧フ苦しみように驚き、帰宅していた軍医をわざわざ呼びに走りました。ところが、その軍医が医務室に到着する寸前に動悸はおさまってしまったのです。百閧フ持病パロクシスマーレ・タヒカルディーは、発作中は脈拍が200を超えるものすごいことになって七転八倒するのですが、発作がおさまってしまうと本当に何事もなかったかのようになってしまうので、あわてて駆けつけてくれた軍医の手前まことに心苦しかったというのです。
 天王寺の病院でどんな手当を受けたかは書いてありませんが、たぶん内服薬でも貰って辞したのでしょう。戦後はやりはじめた抗生物質の注射を受けるかもしれないと、内心ちょっと楽しみにしていたようですが、36度4分ではそんな注射は打たないと思います。

 大阪からは特急「つばめ」に乗ります。東京発も大阪発も朝早すぎて、無縁だと思っていた「つばめ」に、百閧ヘはじめて乗ることができたのでした。
 からだはあいかわらずだるいのですが、大津駅で上月木代次駅長が「つばめ」を見送ってくれるというので、百閧スちは京都を発車して逢坂山のトンネルを抜けるあたりからデッキに出ます。大津駅を轟音を立てて通過する「つばめ」を、上月駅長を含めて3名の駅員が、指差し確認をしつつ見送りました。鉄道の指差し確認の励行は、だいたいこの時代からはじまったようです。
 「つばめ」の展望車は、列車の最後尾についています。展望車の端には車掌室などついておらず、デッキに面したドアがついているばかりで、うしろの景色が素通しになっています。だからトンネルに入ったとき、中で曲がっていない限り、入口がずっと見えています。
 タイトルの「隧道の白百合」は、展望車の隅に飾られている花瓶の白百合の花が、そういうトンネルの入口の光と重なって、熱に浮かされている百閧ノは妙に幻想的な絵として見えたというところから名づけられました。
 東京に帰って、2、3日のあいだ熱が下がらず、その後も倦怠感がひどくて起きられず、10日目にやっと床上げをしたものの、視力が戻るには1ヶ月くらいかかったそうです。

 さんざんな旅行でしたが、多少茶化すことを許して貰えるならば、どうもこの四国旅行、百閧ヘ「鉄道神」のお怒りに触れてしまったような気がしてなりません。
 子供の頃からずっと鉄道好きで、誰よりも鉄道を愛していており、近年は鉄道旅行記でさんざん稼ぎ、いわば鉄道神の神主みたいな立場であったはずなのに、この旅では船に乗ったりクルマに乗ったり、鉄道をないがしろにするような行程が目立ちました。岡山を通らずに四国へ渡るため、往復とも大阪発着の船に乗るしかなかったのでしょうが、それにしても旅程に占める船旅の割合が多すぎます。鉄道神さまがお怒りになっても無理はないのではないでしょうか。
 おまけに高松の管理局の人たちの顔を立てるためとはいえ、高徳線という鉄道路線がありながら3時間もクルマに乗ったりして、阿房列車にあるまじき振る舞いとしか言いようがありません。
 神主のくせにけしからん、少し懲らしめてやれというわけで、旅のあいだじゅう体調不良が続いた……と言えば、普通なら何をバカなと思うでしょうが、乗り鉄の人であればこの感覚は充分わかるのではないかと思います。百鬼園先生、天罰覿面の巻というところです。
 この紀行文が結局雑誌に掲載できず、あまつさえその雑誌への『阿房列車』の寄稿自体がそれで終了してしまったわけで、鉄道神さまのご不興は相当に深いものがあったようです。やはり鉄道から浮気するべきではありませんでした。

(2017.5.23.)

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