忘れ得ぬことどもII

宮城谷昌光『三国志』を読んで

 宮城谷昌光氏の『三国志』第12巻を読み終わりました。この第12巻で完結となります。
 この人は原稿用紙何千枚クラスの長い小説が多いのですが、12巻となるとその中でも格段に長い作品です。新書と文庫で分けかたが違うことがありますが、私が持っている文庫だと『太公望』『重耳』『新三河物語』が3巻、『晏子』『楽毅』『香乱記』が4巻、『孟嘗君』『奇貨居くべし』が5巻、『風は山河より』が6巻……刊行中の『湖底の城』がどういうことになるかはわかりませんが、いずれにしても12巻には及びません。
 雑誌連載も12年かかったそうです。これは偶然ではなく、1年で1冊出せるように各回の枚数を調整したとのことです。文庫のほうは、最初の6冊くらいは相次いで刊行されましたが、それからは半年とか1年とかおきになってしまい、新しいのが出るたびに前のほうを読み返さないと話がつながらないという状態でした。いささか間延び気味の観がありましたが、連載中に文庫も出していたのでやむを得ないことでしょう。
 ともかく大変な仕事であったことは間違いなく、作者にとっても記念碑的作品であったことでしょう。

 三国志には、いろんな作家がそれぞれの立場で挑んでいます。
 三国志の魅力はいろいろ語られています。単純な二項対立ではなく三つ巴になっているために、筋書きが複雑になっていること。登場人物の個性が鮮烈であること。あまり長期にわたらず数世代程度の長さでまとまっていること。
 そういうこともありますが、私は

 ──底本となる史書に、裴松之の厖大な註釈がついたことで、解釈の多様性が備わっていること

 を挙げたいと思います。
 たいていの史書では、ある人物のひとつの行動について、ひとつの理由しか与えられていません。「この人物がこういう行動を取ったのは、Aという理由からだと思われるが、もしかするとBだったからかもしれない」なんて書きかたをすると、記述が間延びして読者が混乱してしまいます。
 しかし、人間の行動には、たいていいくつかの要因があるものです。またその行動そのものが、見る人によって違って見えたりもするものです。
 史書というものは、首尾一貫したストーリーを紡ぎ上げなければならないので、いくつもの解釈のうち、編者がもっとも妥当だと思うものを採用します。ひとつの史書が完成した裏には、捨てられた大量の資料が横たわっているのです。
 三国志の著者である陳寿は、非常に厳しく資料吟味をおこなう人でした。疑わしい資料はことごとく却下し、まず確実と思われることのみを書いたとおぼしいのです。ほとんど近代の歴史学者に近いほどの潔癖さでした。
 しかし、そのために三国志の記述はきわめて簡潔で、見ようによっては味気ないものになってしまっています。
 そこで、150年ほどあとの裴松之が、数多くの同時代資料を参考にして註釈をつけたわけです。と言ってもあまりに荒唐無稽なのは却下したようですが、小説に近いようなものまで引用して、陳寿の本文とは別の解釈を列記しています。
 このため三国志は、ひとつの事実についての多様な解釈が含まれる、珍しい形の書物になったのでした。わが国の日本書紀はこの記述方法を参考にしたに違いないと私が考えていることは前にも書きました
 三国志の登場人物が魅力的であるのも、この記述によるものでしょう。関羽なら関羽を、史家の一面的な眼から眺めるだけではなく、さまざまな記述者が関羽をどう見ていたのかということを裴松之が紹介してくれたため、人物像の彫琢が深くなっているのです。
 それで、三国志は早い時代から、講談や芝居で扱われるようになりました。娯楽として扱われる以上、さまざまな解釈の中で、いちばん面白いものが採用されてゆくのは理の当然です。幸い、裴松之がいろんな説を列挙してくれているので、台本作者はその中から面白いものを選べば良かったのでした。
 こうして高座や芝居小屋でだんだんと形作られ、最終的に羅貫中が書物にまとめたのが三国演義です。
 三国演義はもちろん小説であり、史書ではありません。しかし、人々の三国志のイメージは、ほとんど三国演義によって作られています。諸葛孔明といえば天才軍師であり、関羽や張飛は一騎当千の超人的武勇の持ち主であり、曹操はどこまでもふてぶてしい悪党であり、献帝はあくまで気の毒な悲劇の帝王でなければなりません。「そうでない」人物像を与えれば、何やら奇をてらっているように思われかねないのです。
 しかしさすがに、20世紀もなかばになると、こういうステレオタイプな造形は飽きられるようになりました。近代で曹操にはじめて積極的評価を与えたのは魯迅でしょうが、そのあたりから、演義を離れた形で三国志を検証しようという雲行きになってきたようです。
 日本でも三国演義は古くから親しまれていましたが、近代的な意味での小説としてまとめたのは吉川英治からでしょう。吉川三国志は基本的には演義を下敷きにして、若干自分の解釈を混ぜてゆくという書きかたです。柴田錬三郎のものも同様でしょう。
 演義から離れた、正史三国志に準拠した小説は、陳舜臣からであろうと思います。そのため陳氏は、演義しか知らない読者のため、章末ごとに「作者いわく」として解説をつけました。そうしないと、例えば赤壁の戦いの時に諸葛孔明がさっぱり活躍しないので、読者から山のような苦情が寄せられると考えたのでしょう。
 その後も三好徹北方謙三など、何人もの作家が自分なりの三国志を書いています。正史三国志と三国演義とのあいだの、どのあたりにスタンスをとるかというあたりも、その作家の好みと資質によるでしょう。

 さて宮城谷三国志ですが、スタンスとしては「『演義』に徹底的に背を向ける」という方針をとったようです。正史三国志はもちろん、「後漢書」「資治通鑑」などをひたすら読み込み、それを自分なりの文章で再構成するというのが宮城谷氏の行きかたでした。
 たいていの三国志ネタの小説は、黄巾の乱あたりから筆を下ろしますが、宮城谷三国志は、なんと和帝皇后であった(とう)太后の執政期から開始されます。黄巾の乱の80年近く前であり、もちろん曹操も劉備孫堅も生まれていません。曹操の義理の祖父である曹騰(そうとう)が、少年宦官としてのちの順帝である済陰王劉保に仕える頃が発端となっています。
 黄巾の乱が起こるのは第2巻も終わりの頃で、これほど悠然とした筆運びの三国志は他に例が無いかもしれません。
 後漢という時代は宦官と外戚が角突き合わせ、それに知識人たる士大夫階級がからむという独特の社会構造を持っています。ここをしっかり解き明かしておかないと、例えば曹操がなぜああいう形で擡頭したのかが理解できないはず……というのが宮城谷氏の信念であったのだろうと思います。
 また、諸葛孔明の死で幕を閉じる三国志本が多い中、宮城谷三国志はその後もかなり詳しく記述しています。諸葛孔明の死は、三国時代という一連の流れの中ではひとつのイベントに過ぎず、三国時代はそのあともまだ続いているという判断からでしょう。しかしこの、後期三国時代をしっかり書いた本というのは意外と少なく、わかりづらい時代と言って良いようです。その点ではよく書いてくれたものだと思いました。
 しかしによる天下統一までは書き継がず、が亡びて司馬昭晋王になるあたりで擱筆しています。確かに蜀が亡びれば、あとは「三国」ではなく「二国時代」です。その後のの滅亡については、附録の随筆で触れていました。

 めぼしい人物が出て来ると、その来歴や職歴などをかなり事細かに説明するという方法をとっています。時には父の代にさかのぼったり、本筋と関係のないエピソードを紹介したりしているので、本筋に戻った時に

 ──あれ、なんの話だったっけ?

 と思ってしまうことがちょくちょくありました。
 歴史小説であるはずなのですが、演義に背を向けて正史にこだわるあまり、古代もので見せた奔放な筋運びがだいぶ犠牲になっていることは否めないようです。おそらく史書に出てこない人物はひとりも出していないでしょう。
 人物像なども、演義で組み上げられたキャラクターをまったく顧慮せず、正史から読み取れる材料だけであらたに組み立てているようです。例えば献帝が曹丕に譲位するあたり、曹丕はまったくその気がないのに献帝のほうから強いているように書かれています。曹丕が何度も断っているのは事実でしょうが、たいていの学者や作家は、それは形式上だけのことで、実際には曹丕が譲位を強要したのだと解しています。宮城谷氏の読み込みによれば、本当に献帝のほうから譲位を望んだという結論になるらしいのでした。
 そういう点では、新しい視点から時代や人物を見る愉しさを感じられたのは確かです。ただ、全体としては、これは小説というよりも、史書のリライトなのではないだろうかという気分を拭えませんでした。
 人物ごとの来歴やエピソードなどに、それほどの紙数を費やさなくても良かったような気がします。いわば史書の「紀伝体」の「伝」のところを「紀」に次から次へと挿入していったようでもあり、それは連載小説という体裁上仕方のないことではありますけれども、はたしてこれが小説としていちばん良い形態であったのかどうかは微妙です。むしろweb小説のような形が向いていたかもしれません。例えば気になる人物が出てきたら、そこからリンクして、別ウィンドウでその人物の来歴やエピソードが示される……といった形式であれば、本筋を見失うことなく、テンポ良く読めたのではないかと思うのです。
 『晏子』を書いたとき、史料のほとんど無い父・晏弱の活躍する前半は非常に面白かったのに、本来の主人公である晏嬰になると、少しじれったく物足りないという評があったそうです。その評が的を射ているかはともかく、少ない史料をつなぎ合わせて奔放にふくらませるところに宮城谷氏の本領があるとすれば、史料にこだわってしまうとどうしても闊達さが失われるというところもあるのではないでしょうか。演義と同じようにはなるまいという志は壮とすべきでしょうが、その結果として生まれた宮城谷三国志の面白さは、小説としての面白さというよりも、歴史自体の持つ面白さを紹介するにとどまっているのではないか……僭越ながら私はそんな感想を抱いてしまったのでした。
 そういえば宮城谷作品というのは、主人公がはっきり決まっているものがほとんどで、

 ──「時代」そのものが主人公。

 などという抽象的な小説はあまり見受けられません。春秋時代の趙氏という「家系」を主人公にした『孟夏の太陽』という連作短編集がありますが、これにしても趙氏歴代の当主から4人を選んで、それぞれのエピソードの主人公にしています。三国志を扱うときも、さまざまな人物を主人公、というわけにゆかなければ少なくとも「視座」に置いて、連作のような形にするのも手だったかもしれません。長いばかりではなく、どうにも異色の作品であった、というのが正直な読後感でした。

(2015.4.23.)

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