忘れ得ぬことどもII

作曲開始

 2014年2月末からオペラ『セーラ〜A Little Princess〜』の作曲にかかっています。
 この曲には特に序曲というほどのものはありませんが、冒頭にかなり長大な合唱があります。ストーリーに直接関係している部分は少なく、どちらかというと象徴的というか、時代背景を説明するような内容の歌詞ですので、まあこの合唱が序曲と言っても良いかもしれません。
 台本を何人かに読んで貰った時、この部分の歌詞が難しくて憶えられないかも、という意見が出ました。基本、台本のテキストはセリフとして、口語で書いていますけれども、冒頭の合唱の部分だけは文語を使っています。私としてはそれも、ある程度の「時代色」を示したいという意図によるものでした。
 具体的に引用してみると、次のような歌詞となっています。私自身で作ったテキストなので、こういう場合に誰はばかるところなく引用できるのが良いですね(笑)。

  旧(ふる)き館の 帳(とばり)の奥の
  明かりもささぬ 閨(ねや)の間に
  人形(ひとがた)のごと 据えられし
  旧き女よ いざさらば


 いかにも古色蒼然たる言葉遣いとなっています。「旧」という字を「ふるい」と訓ませるのはまあご愛嬌ですが、「帳」とか「閨」とか、現代ではまあ滅多に使わない言葉です。人形を「ひとがた」と訓むのも、ある特定のニュアンスが欲しかったからではありますが、馴染みのない用法ではありそうです。
 「据えられし」などという文語体活用も意図的に使いました。もっとも、こういう文語体活用を使った歌詞は珍しくありません。最近のJポップですらちょくちょく耳にします。「据えられし」のようなシ活用は少ないかもしれませんが、「美しき」のようなシク活用は普通に使われています。
 私は実を言うと、唐突に文語が出てくる歌詞は好みません。全体が文語体、あるいはせめて文語体風になっていれば良いのですが、おおむね口語なのにちょっとだけ出てくる「美しき」「白き」のたぐいは、どうも違和感があります。
 必要もないとばっちりは遠慮すべきでしょうが、麻稀彩左さんの台本にはちょくちょくそういうのが出てきて、私が首を傾げていると、

 ──わたしは聖歌で育ったので、特に違和感はないです。

 と涼しい顔で応じました。それを聞いて、なるほど、と思いました。確かに讃美歌などの日本語歌詞には、口語文語が混淆しているものが少なくありません。訳す時の音節数などの都合でどうしてもそうなってしまうのでしょう。

 ──荒野(あらの)のはてに 夕日は落ちて、
  妙なる調べ 天(あめ)より響く。


 完全に文語体ならば「天より響けり」とすべきではないかと思います。
 ともあれ、あえて私がここで文語体を用いたのは、上にも述べたとおり、あえて時代色を出したいと思ったからでした。19世紀末という設定ですから、日本で言えば明治中期くらいです。英国におけるパブリックな女子教育がはじまって間もない頃です。その前の時代の女子教育機関といえば、シャーロット・ブロンテ「ジェイン・エア」に描かれているような、修道院に近い陰惨なものでした。そんな教育すらも受けられない女性が、けっこう高い身分の中にもたくさん居ました。19世紀中頃という時点で較べれば、少なくとも女性の初等教育の履修率は、英国は日本などよりもはるかに低かったはずです。
 上に引用した歌詞と、それに続く部分は、そうした時代のいわば「冥(くら)さ」を表現しようとしたものでした。従って、多少の「歌詞の難しさ」は我慢して貰わなければなりません。

 読んで貰った第一稿の台本では、冒頭の合唱の途中にはまったくト書きを入れていませんでしたので、4行の歌詞が6聯(れん)あるのを見て、
 「6番まであるの?」
 と訊ねられました。
 6回も同じようなメロディが繰り返されるのでは、歌うほうも混乱しますし、聴いているほうもたまりません。もちろんそのつもりではなく、2聯ずつが組になって、それぞれ違う曲想を持つことになっています。
 最初の部分は、曲のほうも陰鬱な雰囲気です。演出がどうなるかはわかりませんが、私のイメージとしては、舞台上もまだ明るくならない感じです。
 3聯めに至って、ガラッと変わります。前時代の迷妄を打ち破り、新しい時代が訪れた、と自信満々に歌う部分であり、歌詞も少し口語的になります。

  新しき世は来たり
  七つの海を越えて ひろがりゆく大地よ
  大空と太陽の下(もと) 帆を張り馬を駆り
  飛び立とう 涯(はて)なき世界へ


 「新しき」「来たり」「涯なき」あたりにまだ文語体が残っている感じですね。これもあえてそうしています。ちなみに次の4聯めは

  新しき世は来たり
  七つの海を越えて 輝きゆく誉れよ
  女王陛下の旗の下 インドへ 東洋へ
  ひろめよう イギリスの栄光を


 となり、さらに時代色をくっきりと顕してみました。思えば19世紀末とは、大英帝国がいちばん威勢の良い時期だったのです。この部分のあと、「God save the Queen」を引用する予定です。
 これに続く5、6聯は、また雰囲気が変わり、舞台となる女学校の校歌というか讃歌というか、そんな内容になります。歌詞はまったく口語調となります。このあたりから、舞台上で歌っている人々が、「合唱団のメンバー」から「オペラの役者」にようやく変わってゆくというもくろみなのでした。
 つまり、『セーラ』冒頭の合唱は、2番まで歌詞のある歌を3曲連ねた形になるわけです。言ってみれば、オペラの序曲として合唱組曲を置いた、みたいなことになりました。たぶんここまでで10分以上になるでしょう。これだけ合唱が蜿蜒と続くのは珍しいかもしれません。

 何しろ2時間以上になりそうなオペラを書くのははじめてのことなので、内心ではだいぶ緊張しています。できてみたら1時間半かそこらで終わるシロモノになってしまっていたらどうしよう、とか、長さはあるもののひどく退屈な芝居になってしまったらどうしよう、とか、心配の種は尽きません。
 私はオペラに分類される作品をいままで7曲書いています。作品リストでは、初期の『こおにのトムチットットットット』『上野の森』『きんきらがちょう』の3曲はオペレッタとしてありますが、ほぼ切れ目無しに音楽が続きますので、定義的にはオペレッタと言うよりも小オペラと称すべき作品です。もうひとつオペレッタとしてある『おばあさんになった王女』とは明らかに異なるので、分類を変えようかと思っています。
 3曲のモノドラマは、人によってはモノオペラと呼ぶ場合もあるジャンルではありますし、最初の『蜘蛛の告白』ランドフスキ「オペラ=コンチェルト」と称する作品に影響を受けて書いたものですが、これは演技もあまり伴いませんし、ドラマティックな独唱曲と考えておいたほうが良いでしょう。
 従って私のオペラ作品は、上記の初期3曲と、『豚飼い王子』『ダイアの涙』『ステイション』『葡萄の苑』の、計7曲ということになるわけです。
 この7曲を見てみると、『上野の森』『きんきらがちょう』は20〜25分くらいで終わってしまうまったくの短編です。もちろん1幕もので、舞台も1箇所だけです。ひと続きのコンサートのコーナーのひとつとして扱うくらいが妥当でしょう。
 『こおにのトムチットットットット』『ダイアの涙』『ステイション』は40〜45分くらいの作品で、まあ中編というところでしょうか。何か別の作品や企画と併せて1回の催しにするという形が多くなりそうです。『こおにのトムチットットットット』は短いながら2幕もの、『ダイアの涙』は1幕4場となっています。『ステイション』は珍しく番号オペラの形をとりました。
 『豚飼い王子』と『葡萄の苑』は1時間を超えました。前者は正味75分くらい、後者は90分くらいでしょうか。このくらいになると、そろそろ「本格的オペラ」のタイトルを冠しても良さそうです。いまのところ、この『葡萄の苑』が私の最長の作品となっています。
 しかし『セーラ』は『葡萄の苑』をはるかに超える上演時間となることでしょう。現代オペラとして、3時間もかかってしまってはお客が迷惑しますが、休憩込みで2時間半くらいにはしたいと思っています。チケットもそう安くはないので、あまり短いのもクレームがつくかもしれません。
 2時間以上というのは、私にとっては未知の領域であるとも言えます。
 しかも、上記の7作品は、器楽はいずれも小編成です。『上野の森』『きんきらがちょう』はピアノ伴奏のみ、『ダイアの涙』はフルートとピアノ、『こおにのトムチットットットット』はフルートとチェロとピアノ、『豚飼い王子』はフルートとヴァイオリンとチェロとピアノ、『ステイション』はフルートとトロンボーンとスネアドラムと電子ピアノです。『葡萄の苑』だけは少し多くて、フルート・クラリネット・ヴァイオリン・トロンボーン・ドラムセット・ピアノ・電子ピアノを要しましたが、それでも7人です。
 『セーラ』は当然「板橋編成」となります。サクソフォンアンサンブルを主体とし、若干の木管・金管・弦楽器、それにピアノという組み合わせです。フルオーケストラでこそありませんが、それに匹敵する響きのイメージをもって作曲する必要があります。フルオーケストラによる響きを「板橋編成」にアレンジしているというつもりで書いたほうが良いでしょう。こういう書きかたは『レクイエム』でやったことがありますが、私はどちらかというと与えられた編成そのものから曲を発想してゆくほうで、少しやりづらいところがあります。それにしても一旦『レクイエム』で試せていたというのはありがたいことで、やはり『セーラ』はこの時期に書かれるべき作品であったのかもしれない、などとひとりでうなづいたりしています。

 いままで、オペラを書くにしても、ライトモティーフとかそういったことはそれほど意識したことがありません。『豚飼い王子』で冒頭に置かれた民謡「かわいいアウグスティン」のモティーフを、途中に出てくる「薔薇の精の踊り」「アルマンド」「メヌエット」「ワルツ」といった舞曲類にはすべて活用した、という程度です。
 しかし、今回ほど大規模なものになってくると、もしかするとライトモティーフの使用を考えたほうが良いかもしれない、などとも考えています。何も「ミンチン先生のテーマ」「ベッキーのテーマ」というほどあからさまではなくとも、それぞれのキャラクターになんらかの特徴的な音の動きを与えて、登場する時などにはその音の動きをどこかに含ませておく、くらいの配慮はしても良さそうです。
 1時間の作品では気にしなかったところを、2時間の作品だと考えなければならないようでもあり、かなり頭を搾る必要がありそうです。ただ、こういう模索や思案が、そんなに不快なものに感じられないのは、やはり何かを産み出す行為であるという意識があるからなのだろうと思います。

(2014.3.3.)

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