忘れ得ぬことどもII

「バラード」の復権を

 少し前の項目で、日本の現代詩がはなはだ私小説的だということを指摘しました。
 そのこととも少し通じ合うのですが、私がかねてから日本の詩歌について不満を感じているのは、「バラードの欠如」ということです。
 バラードという言葉がタイトルに含まれる詩や歌は少なからずありますが、それらはどう見てもバラードではありません。また、ポピュラー音楽のほうではバラードという言葉がかなり違う意味で用いられています。主に6拍子であまり速くなく、しゃべるような感じで歌うタイプのものをそう呼んでいるようです。
 私がここで言うバラードは、本来の意味、つまり「叙事詩」です。
 吟遊詩人が旅をしながら村々に、どこそこで戦争が起こって何人死んだとか、どこそこの伯爵が嫁を迎えたがそれがとんでもない悪妻だったとか、どこそこの村に頭のふたつある犬が生まれたとか、そんなさまざまな出来事を、リュートか何かの伴奏に乗せて、美声で調子よく、即興的に語ってまわったのが本来のバラードです。情報の伝達が乏しい中世以前、吟遊詩人は現代の新聞記者と時事漫談師を兼ねたような存在でした。当時の庶民は文字など読めませんから、世の中の出来事をもっぱら、年に何度か立ち寄る吟遊詩人の節回しで知ったわけです。

 日本でも、吟遊詩人に近い存在はありました。
 琵琶法師です。
 彼らが琵琶の伴奏に乗せて語った源平の戦いの物語、すなわち平家物語は、まさに日本におけるバラードの最高傑作と言えます。
 ところが、平家物語の完成度があまりに高かったのがかえって災いしたのか、日本のバラードの伝統は、それ以後衰退して途切れてしまうのです。太平記になると、もはや詩とは呼べません。両者の冒頭を較べただけでも、その違いははっきりします。

 ──祇園精舎の鐘のこゑ 諸行無常の響きあり
  沙羅双樹の花のいろ 盛者必衰の理をあらはす
(平家物語)

 ──蒙ひそかに古今の変化を採て安危の由来を見るに、覆て外無きは天の徳なり。
  名君これに体して国家を保つ。のせて棄つることの無きは地の道なり。
(太平記)

 七五調に乗せて、対句を用いながら一挙にイメージをふくらませてゆく平家物語に対し、太平記のほうはいかにも説明臭が強く散文的であることがおわかりと思います。
 太平記の時代になると、「太平記読み」などと言って、講釈師が張り扇を持って名調子で読み聞かせるようになり、それはそれで人々の娯楽になって行ったのですが、やはりそれはすでに「歌」ではなく、西洋における吟遊詩人に較べられるものではなくなっていました。
 残念ながら、日本の吟遊詩人、そしてバラードの系譜は、平家物語をもって終わってしまったのでした。
 日本の詩歌は、ひたすら抒情詩(リリック)の方向へと突き進むことになります。

 もちろん、叙事詩が皆無だったというわけではありません。頼山陽『日本楽府』は日本史上の出来事に材を得た叙事詩集と言うべきものです。元寇を歌った「蒙古来」などは特にスケールも大きく、読む者の心を揺り動かすような迫力に満ちています。頼山陽の歴史認識は必ずしも正確な史実に基づいているとは言えなかったようですが、渡部昇一氏は「山陽は歴史を『詩』として捉えることができた稀有な人である」と絶賛しています。
 とはいえ、惜しいことにこの叙事詩は、漢詩の形態をとっています。漢詩というのは日本文学史上決して無視できる存在ではなく、明治初期くらいまでは和文と共に二本柱を成していたと言って良いのですが、「歌」になりにくいのは当然のことでした。これを無理矢理「歌」にしたのがいわゆる詩吟ですけれども、漢詩の読み下しに節をつけて「歌う」、というのは、詩の味わいかたとしてはいささか回りくどいようです。また必然的に漢語が多くなるため、聴いた側が理解しにくいという点は争えません。
 頼山陽がもう少し後に生まれて、近代詩の書きかたを身につけていてくれれば、おそらくバラードの復活ということも起こり得たと思います。

 私がなぜそんなにバラードにこだわるかというと、オペラとかオラトリオとかの大規模な声楽曲を制作しようというときに、そのための台本を書く人には、叙事詩人の才能が不可欠であると痛感するからです。
 自分でもいくつかオペラを手がけたことがあり、もう少し小規模の音楽劇はもっとたくさん書いており、他人のオペラの制作にも何度も関わってきて、台本のありかたについてはずいぶん考える機会がありました。
 その中で、「読まれる言葉」「語られる言葉」「うたわれる言葉」それぞれに、かなりはっきりとした違いがあると感じたのでした。
 小説家が書いたオペラ台本にいくつか接したことがあります。オペラ好きの小説家ではあったようですが、書かれたテキストはやはり「読まれる言葉」であると感じました。眼で字面を追ってはじめて腑に落ちるというタイプの言葉だったのです。耳で聴いた時のリズム感というものがあまり感じられません。
 それでは劇作家が書いた台本はどうでしょうか。小説家のテキストよりは、耳で聴くことを意識して書かれています。それなりのリズムも感じられます。が、「歌われた」場合に充分に効果的かどうかというと、やや疑問です。
 私としては、オペラの台本──「うたわれる言葉」は、誰よりも詩人に書いて貰いたいと思っています。
 実際、西洋ではそれは詩人の仕事でした。少なくとも、オペラの台本を書くほどの人は、同時にすぐれた詩を書く人でもなければなりませんでした。巧みに韻を踏み、各節のアクセントの位置を効果的に配列し、耳に心地よい響きを連ねる……などというのは、詩人にしかできない作業です。
 そして、なおかつひとつの首尾一貫したストーリーにまとめ上げるということを考えると、詩人の中でも私小説的な抒情詩人には難しいことで、叙事詩、すなわちバラードを書く適性のある詩人がどうしても欲しいところなのです。
 しかし残念ながら、日本では叙事詩の伝統が切れてしまっています。それが残念でなりません。

 今からでも、バラードを志す詩人は居ないものでしょうか。
 もちろん、昔の吟遊詩人のように、時事を面白おかしく歌い上げるという必要はありませんし、そんな需要も無いでしょう。叙事詩というと大ごとに感じられますが、つまりは物語詩です。
 日本でも、童話とか絵本とかには、この種の物語詩と呼べそうなものがけっこうあります。全体として韻律のようなものを感じさせつつ、ひとまとまりのストーリーを構成するという点では、著者がそれを詩と思っているかどうかは別として、物語詩と同じ作りかたであろうと思います。
 それをもう少し、大人向きに、かつスケールアップして作ってくれれば、叙事詩そのものではなくとも、オペラのようなものが成立しうるような気がします。
 ひとつの例としては、宮澤賢治「北守将軍と三人兄弟の医者」を挙げておきたいと思います。全篇が七五調でまとめられ、中国の唐宋期を思わせる雄大なスケール感があり、童話というよりも一種の物語詩と呼ぶにふさわしい作品となっています。もちろん七五調というのは今では少々滑稽感を伴ってしまいますが、言葉のリズム感さえあれば七五調にこだわる必要もありません。
 こういう、リズム感を優先する傾向の物語がもっと作られていれば、やがてその中から本格的なバラードに相当する作品が生まれてきていたかもしれません。しかし、大正期の『赤い鳥』をはじめとする「新しい」童話童謡の運動は、そういったものを排除して散文化の方向へ進んでしまいました。
 どうも日本の文学は、バラードの萌芽が時折見られても、あまり発展せずに終わってしまうことを繰り返してきたように思われてなりません。それが残念であると共に、なんとか今からでも、バラードが復権しないものかと詩人諸賢に期待しているのです。

(2012.7.20.)

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