年末年始沖縄行 (2019.12.31.〜2020.1.2.)

I

 2019年の年末から2020年の年始にかけて出かけておりました。
 いままで、大晦日まで出かけていて元旦に帰ってきたということはあるのですが、年末年始にまったく家に居なかったのははじめてです。やってみると、良いですねこれが。正月料理などまったく考えなくて良いし、年末、何をするでもないのにやたらと気がせいてあわただしい雰囲気を、すっかり振り払うことができます。今後も、事情が許せば年末年始はどこかへ出かけてしまおうかと思いました。
 もっとも、年賀状の返事などがだいぶあとになってしまうデメリットはあります。私の場合、こちらからは出さないけれども先方からは届くというケースが多く、それに対しての返事は出しますので、年明けに追加で送る枚数がけっこうな分量になるのでした。この年末は珍しく年賀状を早い時期に用意できたので、もう少し多めに出しておけば良かったと後悔しました。
 大掃除などは出かける前に済ませなければならないところだったのですが、あいにくと年の瀬も押し迫った時期にマダムが腰をやってしまい、毎年の私の分担であるガス台と風呂場のクリーニングくらいで終わってしまいました。12月30日の朝に休日診療の整形外科を見つけて、私も付き添って行ってきましたが、むちゃくちゃ混んでいて、診察が終わるまでに3時間くらいかかりました。もうその日はほぼそれで終わりみたいなものです。
 とはいえ、起き上がるのもしんどうそうだったマダムが、診察を受けたあとはかなり調子が良さそうになり、ヘタをするとお出かけがキャンセルになりかねない騒ぎだったのが、無事に出かけられることになったので、やはり医者に行っておいて良かったようです。原因と対策がわかっただけでも安心したのでしょう。

 さて、そんなわけで31日の朝から出かけました。向かうは沖縄です。実家の母が、そろそろ寄る年波で、家族で旅行できる機会ももう無いかもしれないなどと言い出し、ツアー代金は自分が出すので一緒に行かないかと誘ってきたのでした。それでお言葉に甘えることとし、両親とマダムと妹と私の5人連れで、「沖縄で暖かいお正月」とかなんとかいうツアーに参加したのでした。私は基本的にパッケージツアーというのはぎちぎちにスケジュールが詰め込まれていて好きではないのですけれども、日数があまりとれないときには要領良くあちこちを見せてくれるのでその点はありがたいし、何よりも沖縄にはまだ行ったことがありません。
 私は沖縄以外の都道府県にはすでにすべて足跡を記しています。列車で通過しただけではなく、ちゃんと下車して歩いたことがあります。そんな私が沖縄へ行っていなかったのは、ひとえに鉄道が無かったからでした。ゆいレールが開通した頃からは、逆になかなか時間がとれなくなりました。せっかく行くのなら最初は飛行機などですっ飛んでいくのではなく、船で行きたいものだなどと考えていたので、余計にふんぎりがつかなかったようでもあります。こういう機会でもないと、まだしばらく沖縄に足を踏み入れそうもなかったので、良いきっかけでした。
 マダムも沖縄ははじめてだそうで、楽しみにしていました。腰痛のためにキャンセルにならず、めでたい限りです。
 わりと遅い時刻の出発でした。最初の予定では11時の飛行機のはずだったのが、13時となったのでした。これはご想像がおつきでしょうが、先日の首里城焼失事件の影響です。首里城でとっていた時間がまるまる不要になったので、その分出発を遅くしたというわけです。まあ、首里城公園そのものは入場可能ですが、中に入るのと入らないのでは所要時間がだいぶ違うのでしょう。
 首里城の事件は残念ではありましたが、本来首里城というのはたびたび火災で焼失している建物で、このたび燃えたのも平成になってから再建されたレプリカであり、しかももとの建物の図面なども残っておらずほぼ関係者の記憶と想像だけで建てられたものだそうで、観られなかったことがそんなに深刻なダメージだったわけでもありません。むしろ出発がゆったりできたほうがありがたい話でした。
 京浜東北線が快速タイムに入っていたので、品川まで乗ってゆき、京急羽田空港に向かいました。いままで羽田に向かうときはほぼ東京モノレールを利用してばかりだったのですが、案外と時間がかかります。それに京急利用のほうが安くつくのでした。ただし、日中の快速タイムでないときに行く場合、品川まではかなり遠い感じがします。上野東京ラインが開通するまでは、やはり浜松町で下りてモノレールのほうが楽な気がしていたのでした。いまとなっては京急一択でしょう。
 両親と妹はもう待ち合わせ場所に着いていて、私らが到着すると、今回代表者となっている妹がチェックインしに行きました。昔ながらの厚紙の搭乗券ではなく、A6判の紙に必要事項がプリントアウトされただけの「Eチケットお客様控え」というのを手渡されます。いろんな交通機関でこの種の「切符」が増えてきたので意外ではありませんが、飛行機の搭乗券までこうなってしまうと、どうにもお手軽な気がしてなんとなく落ち着きません。
 飛行機の出発は少し遅れましたが、待ちあぐねるほどではありません。ほぼ満席でした。
 外国へ行くとき以外は、札幌までの飛行機しか乗ったことがないのですが、沖縄まではその倍近くの時間を要し、日本は広いものだとあらためて思いました。

 那覇空港に着くと、ツアー会社の添乗員のYさんに迎えられました。わりに恰幅の良い女性でしたが、半袖のアロハシャツみたいなのを着用していたのでさすがに驚きました。空港の建物内ではまだ外気の感じはわかりませんが、調べてきた最高気温・最低気温の感じからして、首都圏の9月末から10月はじめくらいの気候と思われました。私は半袖はさすがに寒いのではないかと思い、長袖のシャツに、場合によってはジャケットを羽織るくらいの服装で行ったのですが、Yさんの姿には度肝を抜かれました。もっとも、Yさんは意識してお客たちを驚かせた気配もあります。この日の晩は風が強く、実際にかなり体感気温が下がっていました。また、Yさんは埼玉県の生まれで10年ほど前から沖縄住まいであったのに対し、翌日から合流したガイドのKさんは沖縄の地生えの人で、ヒートテックを着用していたとのことです。

 ツアーの客は20人ほどで、観光バスに乗り込むとすぐにホテルに直行しました。空は残念ながら曇っています。
 この日は一旦ホテルに落ち着いたのち、国際通りの端にある居酒屋で夕食ということになっていました。その後、23時ころからはじまるカウントダウンクルーズに乗船するというスケジュールです。
 居酒屋と言っても、宴会コースみたいな感じでメニューは決まっています。沖縄らしい料理がいろいろと出てきました。ゴーヤチャンプルー、豆腐チャンプルー、グルクンという魚のバター焼き等々、次から次へと運ばれてきます。いささか量が多くて胃もたれがするほどでした。あとでクルーズでも軽い食事が出るという話なので、少しおなかを空けておきたい気もしたのですが、残すのも忍びなく、つい食べてしまいました。母はもとから食の細い人だし、それなりの食事量だったはずの父と妹も最近少し減ってきているようで、結局マダムと私がかなり引き受けたような形です。
 食事のあと、三線のライブがありました。兄妹ふたりのユニットだそうで、兄さんが三線、妹さんがエイサー太鼓を受け持ち、楽器を鳴らしながら歌います。三線は重厚なコードを鳴らせる楽器ではなく、ごく簡単な伴奏形を弾いたり、メロディーを重ねたりする程度なのですが、それにエイサー太鼓が加わるだけで、ずいぶんと音の厚みが出てくるので驚きました。

 ホテルから店までは小さなバスで移動したのですけれども、帰りはやはりバスに乗るか、それとも自力で帰るかの選択肢が示されました。那覇きっての目抜き通りである国際通りを散策したい人も多いし、このあと那覇の街中に戻ってくる機会も無いので、大半のツアー客が自力帰還を選んだ様子です。私たちももちろんそうしました。
 もっとも私の両親・妹とは、店を出て間もなくはぐれてしまい、あとはマダムとふたりで散策しました。マダムは彼女の母親から、小さいシーサーの置物を買ってくるよう頼まれており、しかもどれでも良いわけではなく意匠を指定されて「これと同じ物を」と写メまで受け取っていました。ホテルの売店にもシーサーの置物はいくつも置いてありましたが、ご指定の品は少々変わっていてそこには無く、国際通りで最初に入った店にも無く、3軒めくらいでようやく発見しました。マダムは肩の荷を下ろしたようでした。
 何軒かの店を冷やかしながら、国際通りをほぼ全部歩き、東側の終点近くにあるゆいレール牧志駅から、3駅間だけ乗って旭橋で下り、そこからタクシーを拾ってホテルに走らせると、初乗り料金で着けました。初乗り料金も那覇では560円で、東京よりだいぶ安いのでした。
 パック旅行ではゆいレールに乗ることは無理だろうと諦めていたのですが、わずか3駅間とはいえ乗ることができて幸いでした。
 ゆいレールは、クルマ社会が定着している沖縄では利用者が少ないだろうとの事前の観測を裏切って、那覇市内での交通渋滞にうんざりしていた住民から好評をもって迎えられ、営業成績は好調です。しばらくは那覇空港から首里までの路線でしたが、つい3ヶ月前の10月1日浦添市てだこ浦西まで延長されました。計画ではさらに延長して沖縄市域まで達することを考えているようですが、これはいつになるかわかりません。
 わずか2輌の編成とはいえ、最大12分間隔、たいていは6〜8分間隔という、地方都市としてはなかなかの運転頻度で、今後が期待されます。赤字が出ているとのことですが、おそらく償却費がほとんどでしょう。いずれ全線、そして日中に乗ってみたいと思います。

 ホテルでひと休みし、タクシーに分乗して港へ向かいます。カウントダウンクルーズへの乗船です。モビー・ディック号という遊覧船でした。本来こういうディナークルーズ用に運用される船であるようです。この日は180名ほどの乗客が居たとのことでした。
 指定された席に着き、ビュッフェ形式の食事を取ってきます。軽食という話でしたが、充分に食べ応えのありそうな料理が並んでおり、眼は欲しがっていたものの、おなかにはさっきの夕食がまだたゆたっており、ごく控えめにしか取れなかったのが残念です。年越しそばとして沖縄そばが出ており、それは確保しました。
 カウントダウンのタイミングまでは、早食い競争だの早呑み競争だのがありましたが、当然ながら参加は無理です。それでもマダムはやや心が動いた様子でしたけれども、激辛・熱々のそばと聞いて諦めていました。彼女は辛いほうはまだしも、熱い食べ物が苦手なのです。なお、早呑みのほうはビールをストローで飲むという、なかなか厳しい勝負で、私たちのツアーの中の女性が優勝しました。並み居る男性たちを差し置いて女性が優勝したのは、最近流行のタピオカドリンクによって、液体をストローで吸う力を鍛えていたからではないかというのが妹の説でした。
 年が改まるとき、港に停泊中の船はみんな汽笛を鳴らして新年を祝うのが慣例となっています。早食い競争の勝者は、その汽笛を鳴らす権利を与えられていました。
 カウントダウン前にクラッカーが配られ、午前零時に鳴らすことになっていました。少し前に船室の照明が落とされ、真っ暗の中で司会者がカウントを開始します。
 カウントダウンがゼロになったとき、クラッカーの紐を引っ張りましたが、残念なことに私のは不発でした。幸先良くないなあ。
 その後、ジャズのライブがあったり、抽籤会があったり、エイサー太鼓のショーがあったりと、なかなか盛りだくさんな行事がおこなわれました。
 抽籤会というのは乗船券の半券に印刷されていた数字を使ってくじ引きをするのでしたが、景品がやたらと厖大です。私の家族は全員くじ運が悪いので、どうせ当たらないだろうと思っていたら、珍しく父が引き当てました。父に与えられた景品は「赤いきつね」12食分で、重くはないもののえらくかさばります。持って帰るのがひと苦労で、私たち夫婦もあとで4食分割り当てられました。カップ麺くらいならまだ良いのですが、ビールひと箱とか、お菓子(しかも同じ物)を32箱とか、どうすりゃいいんだと言いたくなるような景品もいろいろとありました。国際通りにあるお店での食事券なんてのもあって、県内の参加者なら良いようなもののツアー客など困るだろうなと思いました。
 外国人が引き当てたのもいくつかあり、上に書いたビールはそうだったようで、持ち帰るのは困難です。重さもさることながら、余計に税金をとられるかもしれません。仕方なく、隣の席の人にあげてしまっていました。それを貰った人が私らのツアーのメンバーだった関係で、あとでメンバー全員にオリオンビールの缶が配られたのでした。なかば受け狙いの抽籤会であることはわかりますが、もう少しひとり分の分量を抑えて、当選本数を多くすれば良いのにと思わざるを得ませんでした。

 ホテルに帰って1泊し、2020年の最初の夜が明けます。沖縄の夜明けは東京近辺よりずっと遅いものの、ホテルの部屋が西向きであったため、初日の出は拝めませんでした。それにこの元日もおおむね曇りで、東の空を見ても太陽は出ていなかったでしょう。
 正月企画らしく、朝食の会場でも琉球舞踊の演舞がありました。音楽は生ではなく録音でしたが、いわゆる琉球音階(ドミファソシという旋法、ペロッグ音階ともいう)でない曲もけっこうあるのだなと思いました。聴いているうちに、不意にミュージカル版『星空のレジェンド』の、冒頭の祝祭音楽のメロディーが思い浮かんできました。実は往路の飛行機の中で台本を読み、その場でいちおうのメロディーはイメージしていたのですが、どうも合唱版の最終楽章の祭の歌と雰囲気がかぶり、しかもその歌はミュージカル版でも援用されるため、どうしたものかと思い悩んでいたのです。琉球舞踊の音楽を聴いていて、長調系の音階を用いればガラッと印象が変わることに気がついたのでした。ここからその日の晩くらいまで、頭の中で曲想を練り、ホテルの部屋で五線紙に書き留めて、さらに練って翌朝くらいに決まりました。何はともあれ、2020年は元日から作曲ができたわけで、こんどは幸先良いぞと思ったものでした。
 9時半にホテルを出発し、まず向かったのは「波上宮(なみのうえぐう)でした。港に隣接した「波の上ビーチ」の直上の崖の上に立てられた神社です。最初に初詣というわけです。
 早めの時間に来て良かったようで、参拝して階段を下りてくると、鳥居を経てずっと先の路上にも行列が続いていました。少しでも遅かったらえらく待つことになるところでした。
 そこから一挙に高速道路で北上します。いまのところ沖縄県唯一の高速道路である沖縄自動車道は、首里近くの那覇インターチェンジから、沖縄本島の脊梁山脈──などというと大げさですが──を突っ切る形で、名護市の南部にあたる許田(きょだ)インターチェンジまで連なっています。私たちの乗ったバスは、西原インターチェンジから入りました。道路の脇や中央分離帯に植えられている植物がいかにも南国らしいものでした。そういえば国際通りの街路樹もシュロの樹で、沖縄に来たぞぉ、という気分を盛り上げてくれました。
 西海岸の恩納村(おんなそん)、東海岸の金武町(きんちょう)よりも北のことをヤンバルと呼ぶそうです。ヤンバルという言葉が「山原」であって田舎とか田舎者を意味することはもちろん知っていましたし、沖縄本島の北部をそう呼ぶことも知識としてはありましたが、どのあたりからヤンバルになるのかは知りませんでした。漠然と、名護市よりも北のほうかな、と思っていたのですが、実際には名護はもう完全にヤンバルで、実際ヤンバルを名乗る店や施設も名護市内にはたくさんあるようです。私がヤンバルだと思っていた大宜味村(おおぎみそん)や国頭村(くにがみそん)は、奥ヤンバルと呼ばれる地域になるのでした。
 そのヤンバルの根元あたりの西海岸に、大きくコブのように張り出した半島が本部半島で、高速道路を下りたバスはそちらに向かって走ります。名護の市街地でちょっと渋滞していて、ガイドのKさんが心配していましたが、半島に入るとスムーズに走り出しました。
 道端に、お墓がたくさん見受けられました。沖縄のお墓は非常に特徴的な、亀甲墓とか破風墓とか呼ばれるもので、ちょっとした小屋みたいな形をしています。大きなものは家に近いほどです。マダムの父方の祖父母が眠るお墓の近くに、沖縄式の破風墓が建てられているので、見覚えはありました。でなかったら道端にあるのを見てもなんだかわからなかったかもしれません。昔は風葬が多く火葬しなかったのでお骨がコンパクトな大きさにならなかったのと、内地よりも家父長制が強くて父系親族全員がひとつのお墓に収納されたのが、やたらとサイズが大きいお墓になる主な理由だそうです。山の斜面などを利用した掘り込み墓というのもあります。話が前後しますが、翌日に行った王家の墓「玉陵(たまうどぅん)も、規模が巨大なだけで、基本的には同じ考えかたで造られているようです。
 晴れていたらものすごくきれいだろうなと思われる海に沿って、半島の先のほうまで走り、ちょっと坂道を登って、ゴルフ場のほとりに建てられたホテルの食堂で昼食となりました。前の晩と対照的に、少々量が控えめで、マダムなど物足りなさそうにしていましたが、この辺の名産であるアセロラを用いた料理で味は良好でした。
 そのあと、いよいよこの日のメインとも呼ぶべき、美ら海(ちゅらうみ)水族館に移動します。言うまでもなく、1975年に開催された沖縄海洋博の跡地に造られた海洋博公園国営沖縄記念公園)の中心となる施設です。海洋博のことは、当時テレビなどで盛んに宣伝していたので、小学生であった私も記憶していますが、沖縄が復帰した72年からわずか3年後でしかなかったことに、今さらながら驚きを禁じ得ません。USAの委任統治領から復帰して「日本国沖縄県」となったことを世界に向けてアピールすべく、内地側も沖縄側も、総力を挙げて突貫で実現してしまったという趣きがあります。それに、会場は那覇近辺であろうとばかり思っていたのに、ヤンバルの本部半島であったということにも驚きました。美ら海水族館のことはもちろん聞いたことがありましたが、不明なことながら、いったいどこにあるのかという点は、今回訪れるまでまったく知らなかったのです。

(2020.1.4.)

II

 12月31日から沖縄に出かけ、カウントダウンクルーズに乗ったりして、元日は那覇波上宮(なみのうえぐう)で初詣をおこなったのちに、本部半島にある美ら海(ちゅらうみ)水族館に行きました。
 ここには、かなりの期間世界最大とされていた大水槽が設置され、そこに収容された魚の種類も非常に多様です。呼び物は、これまた世界最大の魚類であるジンベエザメを2頭も飼育していることで、15時からそのジンベエザメにエサをやるショーがあるとのことでした。
 同時刻に、水族館の外のプール「オキちゃん劇場」ではイルカのショーもおこなわれるそうで、どちらを観るか迷うところではありましたが、イルカショーというのはあちこちでやっていて、しばらく前に油壺マリンパークで観たことでもありますし、やはりジンベエザメのほうをとることにしました。
 元日から、すごい人出です。県内からの客もさることながら、私らと同様、「沖縄でお正月を!」という売り文句に誘われて全国から集まったパックツアー客が大変な数になっていたものと思われます。
 そのため、大水槽はまだ見えるのですが、個別の小さな水槽になると、人が密集していてやや見づらいところがありました。しかし、なんとか15時15分前くらいにジンベエザメが居るところに辿り着きました。
 エサやりショーを愉しむには、かなり水槽の近くまで寄る必要があります。はるか上の水面が見上げられるところまで寄らないと、ジンベエザメが口を開けてエサを吸い込むところが見えないのでした。当然ながら水槽近くは大混雑でしたが、それでもなんとか水面が見えるあたりまで寄りました。

 2頭のジンベエザメが、悠然と泳いでいます。他にもマンタイトマキエイ)をはじめ多くのサメ類、エイ類、カツオその他の魚がたくさん泳いでいるのですが、やはりジンベエザメの圧倒的存在感の前には霞んでしまう趣きがありました。他の水族館ならその大きさに驚くはずのマンタが、中型のエイにしか見えないのですから、なんだか遠近感やら距離感やらが微妙に狂わされるような気がします。
 ジンベエザメの名前は、グレーの地に白い斑点が規則的に並ぶ様子が衣服の甚兵衛に似ていることによる命名であることは、見ればすぐにわかるのですが、最初に命名した人は、他の特徴、例えばその巨大さなどに着目しなかったのかと不思議に思います。
 片方のジンベエザメのおなかには、コバンザメがくっついていました。寄生して体液を吸うとかいうわけではなく、単純に吸盤でくっついて、移動を楽にし、敵から襲われにくくしているだけなのですが、見ているといい気なものだと思ってしまいます。宿主のほうはくすぐったかったりしないのでしょうか。
 やがて15時になり、エサやりタイムがはじまります。飼育員が水面を棒で叩いて泡を立てると、2頭のジンベエザメはエサの時間だとちゃんとわかるようで、水面に向かって上昇しました。片方などはほとんど直立状態になっています。ジンベエザメがそういう体勢になるのを観測されることは滅多に無いそうです。
 ジンベエザメのエサは、オキアミとかサバの切り身とかだそうで、あの巨体には似合わず、案外と小さいものを食べます。まあ、ジンベエザメよりさらに倍以上大きいシロナガスクジラでも主食はオキアミだと言いますから、他の魚などを食べるよりはエネルギー効率が良いのかもしれません。シロナガスクジラは口を覆っているヒゲでオキアミを漉しとって食べますが、ジンベエザメは海水ごとエサを飲み込んで、要らない海水はエラから吐き出しているのだと思われます。ともあれ、サメという名にしては非常に温厚でおとなしい性格であるようで、シロナガスクジラと同様、王者の風格というものかもしれません。
 不思議に思ったのが、投げ込まれるエサに対して、他の魚たちがまるで無反応であることです。エサの内容はどの魚もそんなに変わらないと思うのですが、いち早くジンベエザメのおこぼれにあずかろうと群がってゆくようなことはしいていません。あとで自分の分も充分に来ることを知っているようです。魚類というのは案外と学習能力があるのではないかと思えてきました。

 私は水族館がけっこう好きで、いくらでも時間をつぶせるのですが、残念ながら出発時刻が迫ってきました。もっとじっくり展示を観たい気持ちに後ろ髪を牽かれつつ、バスに戻りました。
 バスは本部半島の海岸沿いにさらに走り、北側にある古宇利島(こうりじま)に立ち寄りました。島なのですが、本島とは橋でつながっています。それもダイレクトにではなく、まず手前の屋我地島(やがちじま)に橋で渡り、屋我地島の中を走って、さらに古宇利大橋というのを渡って古宇利島に着きます。わずかな海峡をはさむだけなのですが、橋ができるまでは海が荒れるたびに孤立してしまって大変だったようです。
 ここは晴れていれば海の色が非常に美しく、ビーチとして人気があるのと、渡ってきた古宇利大橋がとても美しい橋であるというのが売りなのですが、曇っているのでさほどのこともありません。滞在時間もたいしたことはありませんでしたが、なぜかマダムがいたく気に入ったようです。橋が開通して陸続きになったとはいえ、離れ小島のひなびた雰囲気が彼女の琴線に触れたらしいのでした。
 ここで沖縄特産の海ぶどうを買いました。正式名をクビレズタ(前は「クビレヅタ」だったがなぜか「ズ」の表記に改められたらしい)という海藻の一種ですが、近年は陸上で栽培することも多いそうです。球状の小枝がびっしりとついている様子がブドウと似ているので海ぶどうと呼ばれます。プチプチとした食感が面白く、マダムも私も好物なのですが、持ち帰ることを考えると、どのくらい保つのかが気になります。売り子のおばちゃんに訊いてみると、
 「あ〜、これは今朝とったばかりのだから、8日までは大丈夫。冷蔵庫に入れたらプチプチがしぼんじゃうから気をつけて」
 とのことで、びっくりしました。生鮮食品なのに常温で一週間も保つとは、信じられないようなタフさです。あとで添乗員のYさんからも、海ぶどうを買った人は飛行機に乗るときに預け荷物に入れないように注意がありました。飛行機の荷物室は冷蔵庫みたいなものなので、海ぶどうがダメになるというのでした。
 大きいパックと小さいパックがありましたが、どちらも500円です。小さいほうは茎を切ってあるのに対し、大きいほうは茎ごと詰めたのだそうで、
 「茎もおんなじように食べれるから、大きいほうがお得だよ」
 と言われました。なるほどと思い、大きいほうを買いました。帰ってから食べてみると、食感の差は若干あるものの、確かに味や歯ごたえは一緒です。丸いプチプチは実とかではなく、単に丸まった枝に過ぎないので、それも当然なのでした。
 古宇利島をあとにし、屋我地島からはさっきと別の橋を渡って本島に戻りました。また沖縄自動車道に乗り、北中城村(きたなかぐすくそん)にあるリゾートホテルで一泊となります。沖縄のホテルには、大浴場がついているところがあまり多くないそうですが、ここは「ホテル&スパ」とわざわざ名乗っているところで、大浴場が売りでした。別館になっていて、スパだけの客も入れます。もちろん入浴しましたが、風呂としては内地の普通の温泉ホテル並みかなと思いました。スーパー銭湯というほどの設備も無いようです。私らがちょくちょく行っている竜王リブマックスリゾートのほうが、構えはずっと小さいけれど風呂ははるかに充実しています。
 沖縄は基本的にシャワー文化で、浴槽にゆったり漬かるという習慣があまり無いのだとガイドのKさんに聞きました。それだから、このくらいの風呂でも「ホテル&スパ」と高らかに謳い上げ、けっこうな入湯料をとる(宿泊客には1回限りの入湯券が配られますが)ことも問題なくできるのでしょう。ともあれ、ゆっくりと入浴しました。

 3日目である1月2日は、世界遺産めぐりという趣きでした。もっとも県内に世界遺産がいくつもあるというわけではなく、沖縄県内の古蹟をひとまとめにした「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」というひとつの世界遺産として扱われています。グスクというのは城のことで、沖縄の地名で城という漢字が宛てられている場合はたいていグスクと読みます。だから南城(なんじょう)なんかにはかえって違和感を覚え、「はえぐすく」などと読みたくなります。
 まずは問題の首里城公園です。2ヶ月前の2019年10月31日未明、いきなり出火して正殿など3棟が焼け落ちたのでした。民間のイベントに場所を貸したら、そのイベントで使うロウソクの火がもとになって火災になったとか、屋内に張られていた配電線が劣化していて漏電したのだとか、いろんな説があって、原因はいまだにはっきりしません。放火説もあるようです。これだけきれいさっぱり焼け落ちるほどに火災が大きくなったのも、警備員のコミュニケーション不足のせいだとか、スプリンクラーが規定通りに設置されていなかったせいだとか、これまたいろんな説が叫ばれています。
 ともあれ管理責任が国から県に委譲されて間もなくの事件ではあり、沖縄県の管理者意識が低かったのではないかという点は大きく指摘されています。国の管理だった頃には、そもそも火を使うイベントなどに場所を貸すことは無かったと言われ、おそらくそのとおりでしょう。
 いずれにしろ一刻も早い原因究明と再発防止策の施行が求められます。ところが、最高管理責任者である県知事玉城デニー氏は、そういう決意表明をするより先に、再建のための国費投入や寄付募集などを言い出して、大いにヒンシュクを買ったのでした。もともと米軍基地の辺野古移設を阻止するという、ほとんどワンイシューで当選してしまった知事であり、県政をあまりかえりみずに海外旅行ばかりしていると批判の多い人ではあります。責任者としての自覚がいまひとつ欠けているように見えるのも無理はないかもしれません。
 さて、正殿附近は焼けてしまってまだ立ち入り禁止ですが、首里城公園そのものはほぼ80%くらいまで見学可能になり、今回のツアーでも規模を縮小して立ち寄ったのでした。
 入口にあたる首里杜館(すいむいかん)から、広福門あたりまでは入れます。その先に正殿の正門というべき奉神門がありますが、そのあたりからは工事用の衝立が立てられていました。燃えた建物を外から覗くことはできますが、なるほど見事に焼け崩れています。こんなになるまでどうして消火できなかったのかと思います。
 奉神門から王様と王妃様がお出ましになるというイベントがありました。通り道には観光客がぎっしりと詰めかけており、ほとんどの人がスマホをかざしているのがかえって面白かったりしました。
 琉球古楽研究会の人々による奏楽の中、赤と金の衣装をつけた王様と王妃様がしずしずと登場し、広場まで歩いてゆきます。もっとも、お付きの人などが居ないので、それほどリアリティはありません。王様と王妃様が、誰も連れずにふたりだけで散策するなどということは絶対に無いでしょう。それに、門から出るところの階段がけっこう高さがあり、王様のほうはともかく、王妃様は下りるのにだいぶ苦労なさっていました。たぶん、本当は王妃様がご自分でその階段を上り下りするようなことはなく、常に駕籠などを用いられていたのだと思われます。
 王様の衣裳は本物が残されていて、それを着用しているそうですが、王妃様のお召し物は残っていないばかりか資料すら無く、他の貴人の女性の衣裳を参考にして、なかば想像で仕立てたそうです。焼失した正殿自体がそんな感じで、このあたりが沖縄の「なんくるないさー」精神であろうかと思わず笑いが出ました。
 なお王様と王妃様は、毎年オーディションで選出され、一年間さまざまなイベントに出演するのだそうです。
 BGMたる琉球古楽ですが、前項でも書いた琉球音階(ドミファソシ)はまったく使われておらず、律音階(ドレファソラ、もしくはレミソラシ)が主であるようでした。琉球音階はあくまで庶民の歌う民謡などに使われる旋法であり、王宮では中華風の律音階がメインだったのでしょう。そして、全楽器がまったく同じ旋律を重ねて演奏しています。専門用語で言えばモノフォニーというヤツです。和音という感覚は無かったのでしょうか。
 ところで首里城公園の基地である首里杜館ですが、「すい」というのは首里のこととして、「杜館」がなぜ「むいかん」となるのか考えてみました。「杜」の字の音読みはトですので、「むい」となるのは音読み由来ではなさそうです。あれこれ考えていて、不意に「もり」が「むい」になるのだろうと気がつきました。琉球語には母音が少なく、アイウの3種類しかありません。助詞の「の」が「ぬ」になってしまうように、オ段はウ段に変わります。エ段もイ段に変わりがちですが、エの発音はわずかながらあるようです。このため、「どぅ」とか「てぃ」とかの、標準語には無い発音が現れてきます。また、ラ行の子音はしばしば欠落します。「もり」の「も」が「む」と母音転換され、「り」の子音が落ちれば「むい」となります。
 琉球語沖縄弁)というのはヤマトンチュー(内地人)にはほとんど聞き取れず、ほとんど外国語のように聞こえます。系統(語族)は同じでも日本語とは別の言語と見なすべきではないかという意見も唱えられたことがあります。しかし、注意深く音韻を調べてみれば、やはり日本語の一方言と考えるのが妥当だということに、最近では落ち着いたようです。ただ、かなり古い時期に内地の言葉と分かれたため、奈良時代・平安時代の発音から独自変化した言葉が多く、それで通じづらいのだろうということです。現代の日本人がタイムマシンに乗って過去へ行ったとして、通訳無しで話が通じるのはせいぜい室町時代ころまでだろうと言われています。
 そういえば「大」という字を琉球語では「うふ」と読むことが多いようです。「大きい」はいまでは「おおきい」と読みますが、旧仮名遣いでは「おほきい」であり、平安時代くらいまではofokii、もしくはopokiiなどと発音していたと思われます。この発音が沖縄に残り、内地では「ほ」をオ音便化するほうに変化しましたが、沖縄ではその変化が起こらず、ただオ段がウ段になる変化だけがあったために「うふ」という発音になったわけです。
 こういう比定作業はなかなか愉しいのですが、深入りすると長くなるので別の機会にします。ともあれ、琉球語は日本語の方言であることが証明されたわけですが、それにしてもフランス語ルーマニア語くらいには違うのではないかという気がします。どちらもラテン語系ですが、いまではまるで違う言葉になっています。
 ただ、このことから、琉球王国というのも日本と別の国だったのではなく内地の「藩」と同じようなものだったのだ、と主張する向きが最近ありますが、それはちょっと違うように思います。同じ言葉を使っているのだから同じ国であるはずだ、というのは、国籍と民族と言語がほぼ一致している日本人特有の思いこみであって、別の国でも同じ言語を用いるということは、英国USAドイツオーストリアなどの例を挙げるまでもなく、いくらでもあります。
 近年、中国共産党などの意を受け、沖縄独立論といった分断工作がおこなわれるようになって(玉城知事もたぶんそれに乗っかっています)、危機感を覚えた人たちが「沖縄はずっと昔から日本の一部だ」と言いたいために言語を論拠にしているのだと思います。確かに分断工作はけしからんことだと思いますが、琉球王国が金沢藩とか仙台藩とかと同格の単なる「藩国」に過ぎなかったように言うのは、やはり歴史に対して無礼な主張であるように思えます。琉球王国はもともと誇りある一個の独立国であって(長いこと薩摩の属領みたいに扱われていたことは別としても)、明治になってお互い納得の上で日本に併合されたということで良いではありませんか。もと琉球国王には侯爵の位が与えられ、上級華族として鄭重に遇されました。さすがに沖縄に置いておくと不穏が予想されたので、東京に招かれてそこで生涯を送りましたが、歿後はちゃんと王家の墓である玉陵(たまうどぅん)に埋葬されています。

 その玉陵が次の見学地で、首里城公園から徒歩で移動できます。「うどぅん」は「お殿」だろうなと、こんどは容易に推察できました。殿というといまでは「主君」の意味に感じられますが、本来は「宮殿」「宝物殿」というように建物を指します。立派な建物である「殿」に住める立場の人だから「殿様」と呼ばれるだけの話なのでした。沖縄では墓所のことも「殿」と呼び、王家の墓なので敬称の「お」をつけて「お殿」、それが母音変化で「うどぅん」になり、さらに中国で皇帝の顔を「玉顔」と言ったり皇帝の肉体を「玉体」と言ったりするのに倣って「玉」をかぶせ、訓読みして「たまうどぅん」となったわけです。「うどぅん」に陵の字を宛てたのは意訳というところでしょう。
 ツアーの中で、うちのマダム他何人かが
 「多摩饂飩?」
 と不敬な勘違いをしていました。
 石造りの立派な墓陵であるわけですが、歴代の王様から王妃、王族までが全員一箇所に入っているのは、なかなか良心的な王朝であったと思います。同時期の中国では、明の十三陵と言うように、皇帝ひとりにつきばかでかい墓陵をひとつずつこしらえるという浪費をやっていました。まあ、狭い沖縄島で、王様が崩御するごとに玉陵並みのお墓を造っていたら、そのうち人の住む場所が無くなってしまいそうですが。基本的には、破風墓の巨大なものと考えれば良さそうです。

 玉陵を出て、識名園(しきなえん)までバスで移動します。ここはいわば離宮で、王様たちがちょくちょく来てくつろいでいたほか、重要な客を案内したりもしたようです。わざわざ海が見えないように樹木を鬱蒼と植えたり、遊歩道をやたらと曲がりくねらせたりしています。ガイドのKさんによると、沖縄ではだいたいどこに居ても少し高いところへ登ると海が見えてしまうのだけれども、海が見えないところがあるくらいの広さはあるのだということを来客にアピールしたかったとのこと。また、歩道が曲がりくねっているのも、園地の面積を実際よりも大きく見せたいがための工夫なんだそうです。外国人から侮られまいと、涙ぐましい努力をしていたようです。
 御殿(うどぅん)という建物がつまり離宮なわけですが、これも御多分に漏れず何度も焼失して、復元されたものです。部屋には畳が敷かれていましたが、使われていた時代に本当に畳敷きであったかどうかはわかりません。少なくとも、最近はやりの「琉球敷き」ではなく普通の敷きかたをしていました。
 少し南下して、南城市役所の近くにあるユインチホテルというところで昼食となり、そのあと最後の見どころである斎場御嶽(せいふぁーうたき)に行きました。「せいふぁー」とは日本語とは思えないような響きですが、斎場がなぜせいふぁーになるかは、そんなに難しい音韻転換というわけでもないようです。本当は「せい」ではなく「すぃー」だったんではないかという気もしますが、固執はしません。
 沖縄では巫女が重んじられ、ユタが有名ですが、特に選ばれて王宮に迎えられた巫女をノロと言います。そのノロの中でも最高位だったのが聞得大君(きこえおおきみ)で、場合によっては王様よりも権力があったと言われます。その聞得大君の即位式がおこなわれる聖地がこの斎場御嶽なのでした。
 乱暴に比較しますが、聞得大君というのは大和朝廷における斎宮(いつきのみや)のような存在で、それよりももっと神に近いイメージだったように思われます。いずれも、神と結婚したという名目で、未婚の皇女・王女が就任しました。斎宮もアマテラス大御神の言葉を伝える巫女ですので、その言葉はある意味現職の天皇よりも重かったことでしょう。
 そう考えれば、つまり斎場御嶽とは、伊勢神宮なのです。
 神宮のような人工的な建造物が置かれず、自然の巨石や鍾乳石などを神の座として用いているあたり、原始的な神道と共通する気分を感じます。沖縄には内地と違うさまざまな文化が息づいていますが、根っこのところではやはり通じるものがあるように思われました。
 なお聞得大君に選出された女性は、この中にある大庫里(うふぐーい)という場所でひと晩寝なければならなかったそうです。それによって、神と交わったということになったのでしょう。まさかたったひとりでということはないでしょうが、それにしても鬱蒼とした亜熱帯雨林に覆われた岩場で、あんまりひと晩を過ごしたいと思うような場所ではありませんでした。蚊なども多かったのではないでしょうか。

 最後に立ち寄ったのは「道の駅豊崎」で、ここで買い忘れた土産物などを補充して貰おうというもくろみだったのでしょう。ところが、最後の最後でアクシデント。なんと道の駅は、営業していなかったのです。今年から正月の三が日は休業することになったそうで、添乗員のYさんも唖然としていました。ツアー会社にはまったくその情報は入っていなかったようです。去年までは休業ということはなかったとか。
 それにしては駐車場にたくさんクルマが駐められていましたが、これはどうやら、国道の反対側にある「沖縄アウトレットモールあしびなー」の客であろうと思われました。アウトレットモールの駐車場に収まりきらないくらいお客が押しかけていたのでしょうか、あるいは道の駅の駐車場だと料金がかからないからかもしれません。
 結局トイレに行くくらいで切り上げ、早めに空港へ向かいました。道の駅豊崎から那覇空港までは目と鼻の先です。
 帰りの飛行機もほぼ満席で、行きも帰りも客が多いせいか遅れが累積したのでしょう、25分ほど出発が遅れました。しかしおかげで、空港の待合室から、鮮やかな落日を眺めることができました。初日と2日めは曇りでしたが、最終日は雲が多いとはいえ晴れていて、ようやく海も美しいマリンブルーを見せてくれました。その締めくくりにこの落日を眺められたのは至福であったと思います。
 帰ってくると、やはり断然寒くて閉口しました。同じ国内に行ってきたとは思えないほどの温度差です。私の持論ではありますが、日本は広いのだなと、あらためて思いました。

(2020.1.5.)


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