三江線の廃止

 話は少し前のことになりますが、今年(2018年)の3月末、ひとつのローカル線がひっそりと姿を消しました。広島県三次島根県江津を結んでいた、JR西日本三江線です。
 中国地方には何本かの「陰陽連絡線」と呼ばれる路線があります。その中には智頭急行伯備線のように特急がじゃんじゃん走る幹線級路線もあり、三段スイッチバックで有名な木次線のようなのどかなローカル線もあります。津山線や、芸備線の広島側のように、非電化単線ながら快速を何本も走らせて頑張っているところもあります。
 その中でひときわ地味だったのが、山陽側では福塩線、山陰側では三江線でした。
 三江線は陰陽連絡線の中では新しい路線です。開通年は1975年で、これより新しいのは智頭急行だけでしょう。JR線に限れば最新です。
 中国地方で最大の川である江川(ごうがわ)に沿って敷かれたわけですが、途中に難工事が多く、1920年代から50年近くをかけてようやく開通した路線です。三次〜口羽三江南線と、江津〜浜原三江北線に分かれていた時代が長く、そのあいだの約30キロがようやく結ばれたのが上記の1975年でした。それなのに、着工から開通までかかった年数より少ない42年半ほどで廃止となってしまったのです。
 北海道白糠線とか美幸線なども同様で、ようやく開業したと思ったらほどなく廃止の憂き目を見ましたが、三江線は全長108キロという長大路線であるだけに、ひときわ哀れさを催します。
 
 長い期間をかけて開通したわりに、三江線は最初からあまりぱっとしない印象でした。
 宮脇俊三氏が『最長片道切符の旅』を試みる少し前に開通したので、氏は最長切符のルートとしてここを入れていますが、乗客がまあまあ居たのは従来から南線・北線として走っていた三次〜口羽、江津〜浜原間だけで、肝心の新線である口羽〜浜原はほとんどがら空き状態であったようです。路線は開通しても、人の動きはあまり変わらないらしい、と宮脇氏はがっかりしていた様子です。
 三江線が開通する前、宮脇氏は想定時刻表のようなものを作っていたそうです。未開通路線のダイヤを予測するのは氏の趣味みたいなもので、それが昂じてのちに『線路のない時刻表』みたいな本を出すことになりました。その予測ダイヤでは、1本くらい急行が走ることになるだろうと考えられ、「ごうがわ」という愛称名まで考案していたとのことですが、蓋を開けてみると急行などは全然通らず、それどころか線内を完走する列車すら1本も無い状態で、これまた大いにがっかりした模様です。かつての深名線朱鞠内のように、当初の三江線は全列車が浜原で乗り換えるようになっていたのです。
 要するに、そもそも輸送需要があんまり無い路線であったというほかありません。広島から直通列車が走っていればまだやりようもあったかもしれませんが、三次駅でスイッチバックになるためそれもほとんどありませんでした。もう一方のターミナルである江津というのもなんとも地味な街で、地元民以外は、かなり地理に詳しい人でも「どの辺だっけ?」と首をかしげたくなるような小都市に過ぎません。松江とか出雲市などの、島根県の主要部分に通じる路線ではなかったのが残念なところでした。
 江川の水運を代替するつもりで敷かれたに違いありませんが、開通したときにはすでに鉄道は貨物輸送の主役ではなくなっていました。それでもトンネルなどで短絡していればまだ良かったのですが、そういう近代的工法を用いられたのは口羽〜浜原の新線部分だけで、あとは昔ながらの、川に沿って曲折する敷きかたをしていたために、直線距離で60キロほどのところを108キロも要することになっており、時間短縮効果も得られませんでした。
 そういう敷きかたであるせいで、豪雨や積雪などで不通になることも多く、現に今年も1月から2月にかけて運転休止していました。時刻表を見ていても、索引地図の中国・四国地方のページで、三江線が不通という注意書きが記載されていることが実にしょっちゅうあったような気がします。遠回りで鈍足で、よく不通になるのでは、とても好んで利用する気にはなれますまい。
 当然ながら、国鉄改革のときには廃止対象路線にピックアップされました。この路線が生き残ったのは、並行する道路が未整備であったという、それだけの理由でした。
 輸送密度は80人/日くらいだったというのですから、これはもう鉄道として残す意味は無いと言えそうです。長い路線だけに保線費も動燃費もかさみ、列車を走らせれば走らせるほど莫大な赤字を垂れ流すばかりでしたから、JR西日本としてもこれ以上維持できないということになったのでしょう。

 一体に、昭和40年以後くらいに敷かれた路線というのは、敷設工事が国鉄の管轄ではなく鉄建公団に移管されたせいもあり、トンネルや高架線をふんだんに使って、線形も良く線路も立派です。まあそのために鉄建公団に払う使用料が跳ね上がり、国鉄の赤字がさらに深刻になったということはあるのですけれども、ともかく高速運転にも耐えるように作られています。だから特急を通すのも自在であり、智頭急行はまさにそういう使われかたをしています。地域の輸送だけでなく、都市間を直結するためのバイパスとしての利用方法がメインとなっています。
 しかし、それ以前にかなりの部分が開通していて、最後の貫通部分だけ新しいというタイプのローカル線は、残念ながらそういう使いかたができません。昔の工法は、お金のかかるトンネルなどは極力掘らないようにして、地形になるべく逆らわずに線路を敷くというものでした。川沿いなどになると敷地も充分にとれませんので、路盤は貧弱、線路も軽く細いものを使うのが常でした。
 三江線のほかには、只見線などが好例です。ここも、最後に残った大白川只見間だけは立派な線路になっていますが、あとはほとんど軽便規格であるため、スピードが出せません。また三江線と同様、しょっちゅう不通になります。現在もバス代行輸送になっており、しかもここ7年ばかり不通になったままです。
 戦前の鉄道建設思想として、貧弱でもなんでも、とにかく路線網を充実させることを焦眉の急とするという「建主改従」方針が支配的だったため、全国にこういうローカル線はいくつもあります。新規敷設は徐々にということにして、幹線の高規格化を優先させようという「改主建従」主義を唱える政党もありましたが、あまり主流にはなりませんでした。
 三江線も、そういう時代に着工されたもので、智頭急行のような全線高規格というわけにゆかなかったのが敗因だったと思われます。

 私は確か三江線には2回乗った記憶があります。
 どちらも三次からの乗車でした。三次駅の0番線から、ひっそりと発車しました。
 0番線というのは通常、1番線のプラットフォームの一部を切り欠いて、編成の短いローカル線などを発着させるために設置されます。昔はいろんな駅にありましたが、最近はローカル線の廃止が進んで、だいぶ減ってきています。成東駅で久しぶりに見て嬉しくなったりしました。
 私が乗ったときも、ほかの乗客はごく少ない状態でした。早朝の便であったせいもあるでしょうが。
 満々と水をたたえた江川に沿って、私の乗ったディーゼルカーは悠然という調子で走りました。言い換えればごく遅いスピードで、ということでもありますが。
 山の気が存分に感じられて、乗って良かったという気になります。
 しかし、そのうち退屈してきます。沿線には市政の敷かれた街はひとつもありません。ずっと同じ調子の川沿いの景観が続き、ほとんど変化というものが感じられないのです。
 私が乗ったときには、もう途中での乗り換え必須ではなく、江津まで直通していましたが、それだけに乗り下りの刺戟さえ無く、朝早い出立であったこともあって、だんだん眠くなってきます。朝の便につきものの、中学生や高校生などの通学生もろくろく乗ってきません。
 2回とも、「ふと気づくともう江津が近くなっていた」という趣きであったような記憶があります。江津という街も、少なくとも三江線側から入ってくると、市街地はごく薄く、ちょっと家が多くなってきたと思ったらすぐに終点という感じでした。
 所要時間は、約3時間半。いかにもローカル線らしい風情はあるものの、どうにも変化に乏しい路線というのが正直な感想でした。

 三江線が無くなるのは、もちろん寂しい気がします。しかし、大半、空気を運んでいるだけというような路線は、やはり廃止も仕方がないのかな、と思います。
 すでに形としては完成しており、どこかまで延長すればなんらかの展望が開けるという路線でもありません。大金をかけて線形や路盤を近代化するほどの必要もなさそうです。とにかく当初から、三次あるいは広島と江津を行き来したいという輸送需要はほとんど無かったと考えられます。そんな区間になぜ鉄道を敷いたかと言えば、上に書いたとおり、水運の肩代わりを狙ってのことだったでしょう。その水運も、完成する頃には充分にトラックなどでまかなえるようになっていました。
 よほど便が良いとでも言うのだったら、誘発効果で乗客も増えたかもしれません。しかし結局、108キロの距離を3時間半かけて走るような鈍足列車でしたし、便数も一日4、5往復に過ぎませんでした。とても誘発効果を期待できるようなダイヤではありません。
 残念ながら、三江線は生まれ落ちたときからすでに「要らない子」だったと言わざるを得ないのでした。
 第三セクターとしての引き受け手も現れませんでした。廃止が決まってからはお別れ列車を運転したりして多少のにぎわいを見せたこともあるようですが、それも一時的なものに過ぎません。
 いかにこの区間の輸送需要が無かったかということを如実に表す事実があります。それは、三江線廃止後の代替バスの走りかたです。
 普通、鉄道路線が廃止されれば、しばらくはそのあとを同じようなルートで走るバス路線が設置されるものです。湧網線の跡地のように、すでに直通できるバス路線が無くなってしまったところもありますが、そこだって廃止後しばらくは網走から中湧別までのバスが走っていました。
 ところが、三次と江津を結ぶバス路線は設置されなかったのです。石見交通江津川本線大和観光川本美郷線備北交通作木線の、会社も異なる3つの路線を乗り継いで、ようやく三江線の役割を代替できることになっています。これらのバス路線でも、経由していない駅がいくつもあり、そういうところはデマンドタクシーが設定されています。要するに、バスですら直通の必要がないほどに、三次〜広島方面と江津とを行き来する人が誰も居なかったということです。
 むしろ、42年以上も、よく頑張ってくれたと称えるべきなのかもしれません。
 JR西日本では、すでに可部線の非電化部分が廃止されています(その後、2駅ほど電化されて復活しましたが)。このたび三江線が廃止され、次に危ないのは名松線あたりでしょうか。
 JR東日本では、岩泉線が廃止されたほか、東日本大震災で被害を受けてBRT(バス高速輸送システム)で代用している各区間の復旧のメドがほとんど経っておらず、下手をすると鉄道としてはそのまま廃止されかねない状態です。国交省の役人が
 「鉄道を復活させる必要があるのか? BRTで充分なんじゃないか?」
 と発言したそうですが、霞ヶ関で椅子を温めている連中の認識はそんなものなのでしょう。
 JR北海道はこれからもあちこち廃止したくてうずうずしている感じです。札沼線の末端部分、日高線鵡川以遠、それに石勝線夕張支線はすでに廃止が日程に上がっている状態でしょう。
 国鉄改革での赤字線廃止からすでに30年近くを経過して、ふたたび鉄道線の廃止が話題に上るようになってきました。田舎の輸送は、やはりクルマに委ねるしかないのでしょうか。

(2018.4.26.)


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