霧雨の墓参行 (2017.8.15.〜16.)

たんばらラベンダー号と碓氷鉄道文化むら

 2017年8月15日(火)にはマダムの父方の祖父母のお墓参りに行きました。毎年墓参行の話を書いていますけれども、前橋市にあって、少しく遠出になります。
 例年、高尾にある私の父方の祖父母の墓参りとつなげて行っているのですが、それだと行程が限られてしまって、少々飽きました。お墓参りが飽きたなどと言うとバチが当たりそうですけれども、ともあれ少し趣向を変えてみたいと思い、今回は高尾へはゆかず、前橋だけのつもりで旅程を考えました。
 午後にお墓に行って、それから前橋駅前のビジネスホテルに投宿するというところは変えません。去年などはそこも変更して、桐生で泊まったりしましたが、前橋の定宿は、ほんの2軒先に天然温泉(スーパー銭湯)があるのが嬉しく、そこはやはり動かせないと思いました。桐生でも同じような温泉施設を見つけて行ってみたところ、コミュニティバスで30分近くかかり、しかも戻りのバスがえらく早じまいであわただしく、今ひとつ使い勝手が悪かったのです。
 つまりは午前中に高尾に行く分を他に振り替えるということになります。そのつもりで時刻表を眺めていたら、面白い列車が見つかりました。

 その列車とは、臨時快速「たんばらラベンダー号」。夏のあいだ、上野から沼田まで走っている列車です。これの何が面白いかというと、「リゾートやまどり」と同じ車輌を用いている点です。それでは「リゾートやまどり」とは何かというと、JR東日本高崎支社ご自慢の行楽用電車で、ゆったりとした3列シート、余裕のあるレイアウト、展望車みたいなフリースペースなどを備えた、かなり豪華な車輌なのでした。
 通常は高崎支社内で、吾妻線上越線を走っていることが多いのですが、ときどき別の名前になって支社外に走り出したりします。「たんばらラベンダー号」もその運用のひとつで、沼田からバスで50分ほどのところにある玉原高原への観光を主目的に設定されています。玉原は普通「たまはら」と読みますが、「たんばら」という読みかたもあるそうです。玉原高原は冬季にはスキー場となるのですけれども、夏季の客寄せとして、ゲレンデの広大な斜面にラベンダーなどの花を植えているわけです。
 この「たんばらラベンダー号」に乗りたいと思いました。赤羽発が8時10分なので都合は良さそうです。せっかくの豪華車輌ですから、いっそ沼田まで行ってラベンダーを見てきたいとも思ったものの、沼田からさらにバスで50分となると、お墓参りの時間が無くなりそうです。マダムに聞くと、高崎タワー美術館で開催している美術展を観たいと言ったので、高崎までの指定券を買っておきました。高崎まででは1時間半あまりしか乗っていられないので、少々物足りないのですが。
 言い忘れましたが「たんばらラベンダー号」は全車指定席です。しかし指定席券というのは、SL列車などの特別なものを除いては基本的に520円(閑散期は安くなる会社もある)で、最近首都圏の中距離電車に増殖している簡素なグリーン車の料金よりも安いのでした。首都圏の普通列車のグリーン料金は、いちばん安い「土休日、50キロ以下、事前料金」で570円です。
 指定席券は早々と買っておいたのですけれども、問題は乗車券です。いくつかの選択肢がありました。おなじみ青春18きっぷを利用するというのが一案。ただ高尾を経由せずに前橋に行くとなると、実はちょっと採算ラインを割ります。青春18きっぷは11850円で5枠分ですので、1枠(ひとり1日)につき2370円以上の運賃を使わないと元が取れないことになります。本州のJR3社の幹線区であれば141キロ以上、地方交通線区であれば129キロ以上に相当します。赤羽から前橋まで(「たんばらラベンダー号」には赤羽から乗るので)の営業距離は108.6キロ、運賃にして1940円に過ぎません。川口から赤羽までの130円を加え、高崎で下車するために高崎〜前橋を別立てにすれば、なんと逆に安くなってしまいます(赤羽〜高崎が1660円、高崎〜前橋が200円なので、合計すると1860円となり、直行の1940円よりも80円安くなる)
 夏休み期間中は、「休日おでかけパス」が平日でも使えるのでこれを使うことも考えられますが、「休日おでかけパス」は青春18きっぷの1枠分よりやや高い上に、群馬県に入ると使えなくなります。その分は追加で払わなければならないので、これは却下でしょう。
 それなら普通に運賃を払うという方法で良さそうですが、なんだか面白くありません。
 あれこれ考えたあげく、やはり青春18きっぷを使うことにして、その代わり午前中は、高崎タワー美術館でなく、横川碓氷峠鉄道文化むらを訪ねてみようと思いました。マダムに諮ってみるとそれで良いとのことでしたし、横川までの往復を加えれば間違いなく採算ラインを上回ります。
 鉄道文化むらは、長野新幹線北陸新幹線長野止まりだったときの名称)の開通により横川〜軽井沢間の碓氷峠越えの区間が廃止されたあとに、横川駅の操車場のスペースを用いて作られた施設です。横川駅の構内には、碓氷峠越えのために全列車に連結されていた数多くの電気機関車を停泊させるべく、広大な操車場が設けられていました。
 私はこの区間が廃止されてから、2度ばかり横川駅を訪れていますが、いつもあまり時間が無くて、鉄道文化むらに入園する機会が無かったのでした。この際なので立ち寄ってみようと考えたわけです。

 15日の朝7時半、微妙に雨が降りそうな空模様の下、家を出ました。この時期なのに暑くないのはありがたいのですが、お墓参りで雨に降られるのは閉口です。土も砂埃もべとべとの泥になってしまいますし、荷物を置くだけでも容易ではありません。お墓に着くまで降らないでくれることを祈るばかりです。
 京浜東北線電車で赤羽に行き、「たんばらラベンダー号」に乗り換えます。少し時間が早すぎたようですが、乗り遅れるのに較べればずっとましです。
 幅の広い3列シートは快適そのものですし、シートピッチも非常に広くとってあります。私たちの座席は8番だったのですが、なんとそれで端から2番目です。1輌に座席が9列しか設置されていないわけで、フリースペースをとってある点を差し引いても、ひとりあたりのスペースは中距離電車の簡素グリーン車はもちろん、たいていの特急のグリーン車をも上回ります。こんな車輌に、運賃と指定席券だけで乗れるのだから夢のようです。
 大宮で下りて行った乗客が居たので驚きました。豪華車輌にちょっと乗ってみたかったというところでしょうか。520円なら、そんな気まぐれも許されそうです。
 快速電車ですから、ちょくちょく停まります。熊谷までは湘南新宿ラインの特別快速と同じ停車駅で、そこから先は深谷本庄のみ停車で高崎へ。全席売り切れと繰り返しアナウンスしていましたが、高崎までずっと空席だったところもいくつか見受けられました。高崎から乗るという人も居たのかもしれません。
 9時43分高崎着。やはりいささか物足りなく思えます。沼田まではあと40分くらいですが、やはり終点まで乗ることにしておけば良かったと後悔しました。玉原高原まで行かなくとも、ただ乗って行って戻ってくるだけでも良かったと思います。こういう列車には、5〜6時間くらい乗り続けたいような気がします。

 横川行きの電車は10時22分なので、高崎で一旦改札を出ました。タワー美術館へは行かないことにしたのですけれども、いちおう場所を確認しておこうと思いました。確認も何も、東口を出て真正面に見えます。ペデストリアン・デッキがかなり広域に張りめぐらされていて、タワー美術館にも地上に下りずに移動することができます。マダムが観たがっていたのは、「アートになった猫たち」という展覧会で、さまざまな形で猫が描かれた絵画、特に日本画を中心に展示してあるのだそうです。今回は縁が無かったようですが、マダムは後日ひとりでも観に来たいみたいな様子でした。
 横川までの路線は、いまなお信越本線と称していますが、もはや信濃へも越後へもつながっていないので、詐称に近い路線名と言えます。東北本線鹿児島本線と違って、「その先の線路が別会社になってしまった」というのではなく、物理的にその先の線路が無くなっているわけで、そろそろ横川線とか安中線とか改称したほうが良いと思います。
 新潟側のほうも、もはや信濃の国からはほぼ駆逐されてしまったのですから、中越線長岡線に改称して良さそうです。あるいは宮内〜新潟間は新幹線に合わせて上越線としてしまい、直江津〜宮内だけを柏崎線とか。また、長野県内に未練たらしく残っている篠ノ井〜長野間も、篠ノ井線に含めてしまったほうが案内上便利でしょう。
 ともあれその、30キロ足らずになってしまった詐称信越本線の電車で横川へ向かいます。
 ここまで来るうちに、雨は本降りになってきたようです。景色にもかなり濃い霧がかかって、榛名山の姿もよく見えません。松井田を過ぎて登りにかかると、さらにガスが濃くなってきました。

 10時56分、雨のしと降る横川駅に到着し、駐車場をはさんですぐの場所に見える鉄道文化むらの門をくぐりました。鉄道文化むらの性格上、屋外展示が多いので、雨模様はありがたくありません。
 11時に「峠の湯」までのトロッコ列車「シェルパくん」が発車するようで、入場ゲートはその対応にも追われていました。これは2キロほどの線路を残したところにトロッコ列車を走らせているものです。終点の「峠の湯」には日帰り温泉施設が設置されています。あくまでも園内遊具の扱いで、まず入園料を払い、それから乗車賃を払い、温泉施設の入場料はまた別に払うわけです。だいぶがっちりしています。
 そちらも心惹かれるものがありましたが、やはりお墓参りの時間が無くなりそうなので諦めました。その代わり、園内の外周を1周するミニSL列車「あぷとくん」には乗ってみました。こちらも別立ての乗車賃が必要で、シェルパくんとの規模の差からするといささか高い気がしましたが、蒸気機関車の鳴らす汽笛の音は本物です。プラットフォームの隅に、バケツに入った石炭が置かれており、見てみると最近の蒸気機関車に使われている無煙炭や豆炭ではなく、昔ながらの無骨な石炭でした。煙突から吐く煙も、無煙炭だと白い水蒸気ばかりなのですが、黒煙が混じっています。
 「この石炭は実際使ってるものですか」
 と老機関士に訪ねると、そうだとの答えでした。
 他の展示はかなり駆け足で見ただけでしたが、懐かしい車輌、どこかで見た車輌、話に聞くだけの車輌などが、ほとんど無造作と言えそうな配置で展示されていました。もっと時間があればと思わざるを得ません。また落ち着いて来てみたいものです。

 横川と言えば「峠の釜めし」で有名です。かつては下りの全列車が、機関車を連結するために横川には5分以上停車しましたから、そのあいだに「峠の釜めし」を買い求める旅客が多く、知名度・品質ともに日本の駅弁のナンバーワンクラスだったと言って良いでしょう。
 横川〜軽井沢が廃止されることになって、「峠の釜めし」はどうなるんだ、と心配した人もずいぶんたくさん居たようです。閉口する国道や、近くを通る高速道路のサービスエリア、また峠の向こうの軽井沢などでも売ってはいますが、やはり主力は横川の駅売りだったでしょう。
 廃止前と廃止後で、売り上げがどのように変化したのか、詳しいデータは持っていませんが、「峠の釜めし」の製造元であるおぎのやは、必死で生き残りを模索したようです。高崎駅構内にも支店を開いたり、鉄道文化むらの至るところに出張販売所を設置していました。プラットフォームでの販売は無くなりましたが横川駅構内にも販売所があります。
 おぎのやの本店は、横川駅の改札を出るとすぐ正面に見える小さな食堂です。こんな小さな店が、全国的に有名な駅弁を一日何百食何千食も作っているのかと驚くほどです。その本店で昼食をとりました。
 食べたのはもちろん「峠の釜めし」です。と言うか、本店では夏休み期間中、釜めしと麺類以外のメニューは出していないらしいのでした。
 かつての駅売りのと同じ、ひとり用の容器に入った、ほの温かい釜めしが運ばれてきました。この容器、もちろん持ち帰っても構いませんし、見るとついつい持ち帰りたくなるのですが、うちにはすでにあるし、このまま家に帰るわけでもないので重くてかないません。残念ながら断念します。
 戻りの電車まで少し時間があったので、本店の斜向かいにある「おぎのや資料館」を見学してみました。係員も居らず、客が勝手に入って見学するだけの簡単な施設でしたが、なかなか面白く、マダムなど写真を撮りまくっていました。おぎのやをモデルにした「釜めし夫婦」なるテレビドラマがかつて存在したことをはじめて知りました。池内淳子さん主演だそうで、放映はなんとちょうど半世紀前、昭和42年だったとか。どこかにデータが残っていたらちょっと見てみたい気もします。

 13時10分の電車で横川をあとにします。横川から西松井田にかけて、下り傾斜が非常に大きいことにはじめて気がつきました。クロスシートだとわかりづらいようです。また登りより下りのほうが同じ傾斜でも感知しやすいらしく、往路にはあまり感じませんでした。この傾斜のため、現在でも高崎→横川は約34分、横川→高崎は約31分と3分の差がついています。
 高崎では26分の待ち合わせで、両毛線電車に乗り換えます。高崎駅ではまた改札外に出て、アイスクリームを食べました。墓参行では高崎で時間をとることが多く、その他でもなぜか高崎に立ち寄ることが増えて、高崎駅構内はすっかりお馴染みになってしまいました。
 ところで上越線方面の電車が、高崎駅からあまり出なくなっていることに気づきました。日中などは特に、両毛線の電車に乗って新前橋で乗り換えるようにという案内が多くなったようです。上越線電車は新前橋に発着するわけです。高崎〜新前橋の輸送需要を細かく調べての判断でしょうが、とにかく短距離の乗り継ぎが多くなりました。
 14時21分前橋着。14時30分に中央前橋駅行きのシャトルバスが出るのですぐにバスターミナルへ。シャトルバスは10分ほどで中央前橋に着き、上毛電鉄の電車が14時45分発……と、この流れはすっかり馴れてスムーズになりました。実は高崎から直接中央前橋に行く方法とか、前橋から直接霊園に行く方法とか、いろいろ検討してみたのですが、いずれもあまり芳しくありませんでした。高崎から中央前橋に向かうバス路線はありましたが、時間も運賃もだいぶかかります。前橋から霊園と同じ名である「亀泉」に向かうバス路線も見つけましたが、バス停から霊園へは、いつもの上毛電鉄・心臓血管センター駅からの距離よりさらに歩かなければならないようでした。かなり大きな霊園であって、至近を通るバス路線が全然無いというのは信じがたい気がします。心臓血管センター駅のほうも、私たちは毎回利用していますが、他にこの駅から霊園に向かっている、あるいはその逆に歩いている人に行き遇ったことがほとんどありません。クルマでの来場を前提としているのでしょう。
 私たちのお墓参りは、運の悪いことに雨がいちばん繁くなっている頃に当たってしまいました。まあそれでも、この日は都内でも出水があったと言いますから、まだましだったのかもしれません。
 お墓の前にビニールシートを敷き、その上に荷物を置いて、傘を差し掛けました。荷物が泥だらけになるのは回避できましたが、濡れてしまうのはいかんともしがたい状態です。
 幸い、わりと最近に人が詣ったのか、そんなに草むしりをしたりする必要はありませんでした。ごくざっと掃除をし、お供え物を並べ、線香に火を点けて置きます。線香は立てる形ではなく、覆いの下に横に寝せる形なので、雨でもいちおうは燃えてくれましたが、それ以前に着火させるのに難儀しました。
 手を合わせて、お目もじする機会の無かった義理の祖父母を弔いました。

 中央前橋に戻り、再びシャトルバスに乗って前橋駅に戻って、定宿であるコンフォートホテル前橋に投宿します。去年は桐生に行ってしまったので2年ぶりです。
 2年前は夕食をとるにあたって、マダムがネットで見つけた店に行こうとしてタクシーに乗り、すぐ近くに着けてくれたはずなのにしばらく迷い歩き、あげくにその日は貸し切りで入れないことが判明したりして、しかも今回と同じく雨が激しかったのでひどい目に遭いましたが、そのとき結局入った前橋駅前の商業施設「エキータ」の中の店に今回も行くことに最初から決めておきました。
 ただ「エキータ」は、駅前の一等地にあるのに、テナントがどんどん撤退して、がらんとしたスペースがやたら目立つ建物です。半分以上が空いていると思います。どうしてそうなってしまうのか、前橋におけるJRの地位が想像もつかないほど低いのか、それとも駅前一等地ということであまりに調子に乗った家賃を設定した酬いなのか、よそ者にはさっぱりわかりません。
 そんな状態なので、一昨年入った店も撤退していたら目も当てられませんので、宿に行く前にいちど確認しておきました。
 宿で一憩し、2軒先の温泉施設でからだをほぐし、それからエキータの中の店に向かいました。料理はとても美味なのに、客が少ないようで心配になります。
 20時になると、その店ともう一軒、チェーンの居酒屋だけはまだ営業しているようですけれども、建物全体の終業がアナウンスされていました。それを聞き、エキータが寂れている理由に、ひとつだけ思いあたりました。つまり、閉店が早すぎるのです。
 前橋には、いまや東京に通勤する人もずいぶん住んでいます。ホームライナー型特急「スワローあかぎ」を走らせなければならないくらい、無視できない数字になっているはずです。そういう人々が、長距離通勤の果てに前橋まで帰ってきて、駅前で飲むなり食べるなり買い物するなりして帰宅するという行動を考えると、20時閉店ではとても間に合いません。せめて22時、できれば23時くらいまで、東京との時間差分だけ遅くまで開いていないと役には立たないでしょう。テナントが商売にならずに軒並み撤退したのはそのためではないでしょうか。
 もちろん、遅くまで店舗が開いていれば、今度は不良のたまり場になったりして治安の問題が出てきます。そしておそらく、エキータはそちらの問題を優先したのでしょう。その結果、県庁所在地のJR駅前一等地なのに空きだらけという、不可解な惨状を呈してしまったのではないかと思います。

 食事を終えて宿に戻り、自分たちの部屋に荷物を置いてから、下のフロアの別の部屋に出かけました。
 実は、マダムの両親が同じ宿に泊まっていたのです。ここまではまったく別行動で、両親のほうは朝早くからクルマでの家を出て、軽井沢で一日を過ごし、翌日にお墓参りをするつもりで、途中に位置する前橋で泊まったとのことでした。しばらく前に、私たちと同じ宿をとったと聞いて、マダムは絶句していました。
 しかしそうなれば、知らん顔をしているわけにもゆきません。軽井沢のお土産もあるとのことだったので、前々日に会ったばかりでしたが挨拶に行ったのでした。
 しかしその価値はあったと言うべきでしょう。私たちは翌日、富岡製糸場の見学に行くつもりだったのですが、マダムの両親も、すぐに霊園に向かうのではなく、一旦富岡製糸場に同行することにしたそうです。義母はいちど訪ねているのですが、義父がはじめてで、行ってみたかったようです。
 それで富岡まで、義父のクルマに乗せて貰えることになったのでした。上信電鉄の片道分が節約できますし、時間もだいぶ短縮できるでしょう。実はもともと、2日目は一昨年も使った「ぐんまワンデー世界遺産パス」という切符を使おうかと思っていたのです。群馬県内の全鉄道路線に乗ることができるフリーパスですが、富岡まで往復するだけでは元が取れないため、そのあと終点の下仁田まで往復しようかとか、いろいろ考えていました。しかし片道クルマに同乗させて貰えるのなら、その切符を買う必要も無くなりました。従って、スケジュール的にもだいぶ余裕ができます。ありがたく同行させていただくことにしました。

(2017.8.16.)

富岡製糸場と高崎市タワー美術館

 8月15日(火)に、碓氷峠鉄道文化むらに立ち寄ったのち、前橋市にあるマダムの父方の祖父母のお墓参りを済ませた私たちは、定宿である前橋駅前のビジネスホテルに投宿しました。
 マダムの両親も、行程はまったく違うのですがこの宿に泊まっており、翌16日(水)の午前中、一緒に富岡製糸場の見学に行くことになりました。両親はクルマで来ているので、つまり私たちがクルマに同乗させて貰うということです。本来は前橋から高崎までJRで移動し、上信電鉄の電車に乗って行くつもりでした。ここを高速道路を走るクルマに乗せて貰えば、時間的にも費用的にも助かります。
 世界遺産となった富岡製糸場へは、実は一昨年の墓参行のときに立ち寄るつもりでした。ところが、一昨年のときも雨が降っており、しかもあちこちの道路や列車運行が寸断されるような豪雨でした。富岡製糸場は、上州富岡駅から1キロほど歩く位置にあり、天地をひっくり返したような豪雨の中を1キロも歩くのはイヤだったので、諦めて見学は見送り、終点の下仁田まで行って昼食を食べて帰ってきただけだったのでした。
 16日の朝も、雨脚はだいぶ激しくなっていました。15日のあいだも降ったり止んだりで、お墓参りのときは苦労しましたが、それでもそんなに大降りにはなっていませんでした。まあ東京都内では相当な大降りになり、場所によって出水したりしていたそうですが、私たちは幸いそこまでの降りにはぶつかりませんでした。  しかし翌朝の雨の勢いは、一昨年を髣髴させるほどで、もし予定どおり電車で行くことになっていたら、一昨年と同じく断念したことになったかもしれません。クルマに乗せて貰うのはその意味でもありがたかったのでした。

 関越自動車道から上信越自動車道に入り、富岡インターチェンジで下りました。上から見ると富岡の市街というのが思いのほか広かったので驚きました。ローカル私鉄沿線の街だからと言って舐めてはいけないようです。
 なにしろ世界遺産ですから、そこらじゅうに表示があり、迷う心配はありませんでした。ただ駐車できるところを探してかなりぐるぐると走り回るはめになりました。ずいぶん遠いところから、富岡製糸場見学者用駐車場、みたいな看板を上げた駐車場があちこちに出現したのです。そのうち定額300円という安いところを見つけたのですが(「無料市営駐車場」というのもあったのですが、無料なのは最初の20分だけでした)、もう少し近くに無いかと考えてさらに走らせたところ、いずこも満車でした。定額500円というのが正門近くの相場であるようで、最初に見つけた300円のところは裏側に当たっていたようです。結局そこに駐めることにしたのでしたが、もういちどそこに辿り着くまでに相当手間取ってしまいました。
 正門で入場料を払って中へはいると、ちょうどガイドツアーの客集めをしていました。それはまた別料金がかかるようでしたが、はじめて来たことでもあり、参加してみることにしました。料金を払うと、博物館や美術館の音声ガイドのような小型受信機を渡されました。ガイドが声を張り上げなくとも、イヤホン越しに声がよく聞こえます。富岡製糸場の見学コースは、屋外から建物外観を見るだけのところも多いので、ガイドの声が聞こえづらい場合もあるのだと思います。
 プロローグというか概説を聞いたあと、東置繭所のレンガ積みの説明を受け、さらに検査人館女工館を外から眺めての説明、繰糸所だけは中に入って説明、それから病院ブリュナ館などの説明を受けて、40分ほどでガイドが終わりました。

 富岡製糸場は世界遺産登録のとき、ユネスコの委員会で全会一致で選定されたそうです。これは保存状態の良好さが大きな決め手になったとのことです。1987年に操業を停止してから、最後の所有者であった片倉工業株式会社の手により、完全に操業当時の姿のままで維持管理されてきていました。非常に広大な敷地なので、維持だけでも年間1億数千万円かかったと言います。2005年に国指定史跡となり、片倉工業は土地と建物すべてを富岡市に寄贈しました。まるきりタダというわけではなかったようですが、捨て値のようなもので、維持管理にかかる費用が相当に負担だったのではないかと想像されます。
 当時の姿のままというのは素晴らしいことですけれども、内部を見学できる建物がごく限られているのは残念です。屋内まで見学路を設けるためには、相当な補修とか安全対策が必要になるので、大変とは思いますが、この工場での「生活」まで理解させようと思えばそれが必要ではないでしょうか。私はどうも、日本の世界遺産なるものは、海外のそれに較べて、「見せかた」があまりうまくない気がしてなりません。
 まあそれにしても、富岡製糸場の歴史的意義は動かしようもありません。ここは日本初の一大近代産業施設であるとともに、全国に近代産業を広めるための学校でもありました。実際、施設内に学校が敷設されていた時期もあるようです。
 まず国の肝煎りで近代文明の「見本」を形づくり、そこでとにかく「近代人」を速成し、その「近代人」たちを全国津々浦々に放って地方の端まで近代文明を行き渡らせよう……というのが明治政府の大方針で、その意味では富岡製糸場は帝国大学などとも共通する意味合いを持つ施設であったようです。
 この秋には「紅い襷(たすき)という、初期の富岡製糸場を舞台とした映画も封切られるそうで、東置繭所の一角ではその映画の特別展も開催されていました。横田英という、初期に工女をしていた女性が、晩年になって『富岡日記』という回想録を執筆しており、それが映画のネタ本であるようです。回想録の中の、彼女がはじめて製糸場を見て仰天する場面のページも展示されていました。富岡の町そのものは、英がそれまで住んでいた地方の城下町に較べてもひなびた感じがしたそうですが、そこに突如現れた、レンガ造りの城とも見まがう巨大建築物に、これは夢の中なのではないかと疑ったと言います。彼女がここで働いたのは1年半ほどで、「卒業」後は郷里へ戻って紡績の指導にあたりました。

 ちょっと気になったのが、製糸場で働いていた女性たちのことを、上にも書いたように「工女」と呼んでいることです。
 「工女」などという日本語はここに来るまで聞いたことが無く、どう考えても「女工」でしょう。
 現に、製糸場の建物群の中にも「女工館」というのがあります。まあこれは、われわれの考える「女工」ではなくて、初期に技術指導に来ていた4人のフランス人女性たちの宿舎であったのでそう呼ばれたらしいのですが、とにかく「工女」ではATOKでも反応しません。
 思うに、「女工」とするとすぐに「女工哀史」という言葉が連想され、劣悪な待遇下で長時間労働を強いられたり、すぐ肺病か何かになってろくな治療も受けさせられずに命を落としたりと、「あゝ野麦峠」ばりの悲惨でネガティブなイメージがつきすぎたことを慮って、聞き慣れない「工女」に呼びかたを変えたのではないでしょうか。
 私の記憶を辿っても、紡績女工というのはつねにネガティブなイメージで語られてきていた気がします。富岡製糸場にしても、稼働している頃は「女工哀史」の総本山みたいな印象がくっついていて、「現在では工程がすべて自動化されていて、決してかつてのような悲惨な女子労働者が働いているわけではない」というような、言い訳じみたアピールがされていたように思えます。「かつては悲惨」であったことは前提とされていたのです。
 最近、軍艦島端島)の炭坑で朝鮮人労働者が奴隷のような強制労働を強いられていたという韓国側からの言いがかりが激しく、韓国ではそれを前提とした映画まで作られて大いに人気になったようです。慰安婦の問題とは違い、昭和30年代まで稼働していた端島炭坑は、まだ当時を記憶している人がたくさん居て、日本人からは失笑を買っています。端島での労働は確かにきつかったものの、それに見合うだけの高給が支払われており、島内には映画館や娼館などレクリエーション施設も完備して、宿舎には常に最新の生活用品が揃い、同じ時期のたいていの日本国民よりもずっと良い生活をしていました。朝鮮人労働者だけその恩恵にあずかれないなんてこともあり得ない話で、実際3つあった娼館のうちひとつは朝鮮人専用だったという話もあるくらいです。
 われわれは端島に関する韓国側の認識違いや歴史歪曲を笑っているわけですが、はたしてそれを笑う資格があるのだろうか、とも思います。韓国が何かにつけ「日本がすべて悪かった」と難癖をつける姿は、少し前までのわれわれが「戦前はすべて悪かった」と片づけていた姿と、どこか二重映しになっているような気がします。
 産業革命を成し遂げた英国でカール・マルクスが眼にしたのは、まさに劣悪な環境で長時間労働をさせられ、強大な資本家に搾取されている労働者たちの姿でした。その中には子供や女性も多数含まれていました。マルクスはその自分の見聞をもとに『資本論』を書き、発展段階説を組み上げました。
 戦後半世紀近く、マルクス主義史観が世間を覆っていた時代、近代産業の黎明期には、必ず悪辣な資本家と苛酷に搾取される労働者が居なければならないということになっていました。日本でもその図式が機械的にあてはめられ、「炭鉱労働者は悲惨だった」「紡績女工は悲惨だった」等々のステレオタイプなイメージがつけられてしまったように思われます。
 富岡製糸場はもともと資本家が興したものではなく、政府によるパイロット事業だったのですから、従業員をそんなに酷使したわけはありません。しばらくは電気照明も無かったのですから夜遅くまで作業するなんてことができるわけもなく、就業時間は厳格に定められていました。肺病に罹って死んでしまった女工も確かに居たかもしれませんが、それは戦後抗生物質が普及するまで日本中どこでも見られたことです。製糸場では最初から病院も用意されており、一般の国民よりむしろそのあたりは厚遇されていました。体調が悪かったりした場合は寮の自室ではなく病院で休むように奨励されていたこともはっきりしています。病気の早期発見にも役立ったでしょう。
 当初(明治5年頃)の女工の給料は月2円だったそうです。ガイドのおじさんは「いまで言えば2万円くらいですかね」と言っていましたが、それで「大変な薄給」だなどと思っては勘違いをします。制服も食事も寮も、つまり衣食住すべてが無料で支給され、医療費もタダだったわけですから、2円というのはまるまるの儲けです。
 いまの2万円というのも、米価などの物価指標で言えばそうなるのかもしれませんが、明治初年の1円が現在の1万円程度の価値であったとはとうてい思えません。私は戦前の随筆などを読んで、昭和初期の1円が現在の5千円くらいに相当しそうだなと感じたことがあります。それより半世紀前のお金の価値がその倍くらいなものとは考えられず、少なくとも1円が現在の2万5千円、ないし3万円くらいの価値(というか「使いで」)はあったと思います。『坊っちゃん』の冒頭に、ばあやの清から貰った3円を便所に落としてしまう話が出てきますが、ここが3万円ではあまりインパクトが感じられず、やはり10万円近い大金であればこそ、清と主人公の関係とか、主人公の性格とかがくっきりと描かれることになります。
 そして当時の富岡などでは、さしてお金を使うようなところも無かったでしょうから、女工たちは貰った給料をほとんど使わずに貯めておいて、家に持って帰ったものと思われます。
 公平な調査によって「女工哀史」史観に歪められていない実態が明らかになるのは喜ばしい限りですが、だからと言って女工を工女と呼び替えるようなやりかたも、姑息だなあと思わざるを得ません。
 ただ、全国に設置された紡績工場の中には、本当に劣悪な待遇であったところも確かにあったのでしょう。これは、いまでもブラック企業というものが存在している以上、当時まったく無かったとはもちろん言いきれません。そういうところばかりのサンプルを集めてゆけば、「女工哀史」が出来上がるというのも充分にあり得ることです。
 だから「女工哀史」が嘘だったとは言いませんが、マルクス史観のバイアスがかかった眼でサンプルを集めたために、いささか偏ってしまったというのが妥当な解釈だろうと思います。

 短時間ですが、いろいろと有意義な見学でした。義父のクルマで上州富岡駅まで送って貰い、マダムの両親と別れました。両親はこのあと、お墓参りをして帰るとのことでした。
 私たちのほうはひとまず上信電鉄の帰りの切符を買ってから、昼食をとりました。駅前にはあんまり飲食店が無く、200メートルほど離れた国道まで出ます。四つ角の一角一角に飲食店が建っており、その中で「ソースかつ丼」の幟(のぼり)が立っている食堂に入りました。「急行食堂」という面白い屋号の店でした。
 卵をからめないカツ丼は、福井県あたりが有名ですが、群馬県でもポピュラーで、いままで下仁田でも桐生でも食べました。いずれもソースかつ丼を名乗っていますが、ソースの種類はいろいろで、下仁田のはけっこう濃厚なだし汁のようなソースであり、桐生のは普通のウスターソースみたいなあっさりした味でした。富岡で今回食べたのはその中間くらいな感じで、マダムの評によると、
 「このメニューにある、ポークソテーに使っているソースをそのまま使っているんじゃない?」
 ということでした。
 ソースかつ丼の他に、この店はオムライスも名物だそうなので、その2品を注文しました。オムライスのほうは家庭で作るような昔懐かしいケチャップ味で、製糸場が稼働していた頃は女工もよく食べに来ていたそうです。
 駅に戻り、13時58分の電車で高崎へ。
 高崎からは、マダムの祖父が東京へ出るときに使っていた八高線で帰途につこうと思っていましたが、どの便に乗るかは特に決めていません。当初はなぜか、富岡のあとでまた下仁田まで往復してくるというような予定を立てていたのですが、それをやめたので、少し時間が空きました。
 それならいっそのこと、前日マダムに諦めて貰った高崎市タワー美術館の展覧会を観に行けば良いのではないかと思いつきました。どんな美術館かは知りませんが、おおかた1時間半もあれば廻り終わるでしょう。それからちょっとお茶でも飲んで、17時07分発の八高線に乗れば、好い頃合いに帰宅できそうです。

 上にも書きましたが、タワー美術館というのは高崎駅の東口に出ると真正面にあり、ペデストリアン・デッキで直接2階に入れます。いまやっているのは「アートになった猫たち」という企画展です。主に日本画で猫が描かれているものを展示していました。
 歌川国芳という浮世絵師のことはほとんど知らなかったのですが、ひたすらに猫を愛した絵師であったようで、作品のどこかに必ず猫が描かれていたそうです。ほとんどトレードマークのようになっていて、猫の意匠の浴衣などを「国芳柄」などと呼んだこともあったとか。また、絵の中で顔がわからない人物が居ても、「一緒に猫が居るのでこれは国芳本人だ」とわかるのだそうで。
 最近はやりの、猫耳をつけた人物の絵も、江戸時代から普通にあったらしいのが、笑えるというかあきれるというか。つい
 「日本人って……」
 と嘆息したくなります。まあ本来は、松平定信寛政の改革のときに、役者絵や美人画の制作や販売が一律に禁止され、それならばというので役者や美人を猫に見立てて描いて禁制の裏をかこうとした……というのが興りだそうですが、すぐに「猫人間」そのものが独立した画題となりました。猫耳少女といえば現代の「絵師」の好んで描く画題ですし、異世界ものライトノベルでも猫の獣人は鉄板設定です。どうも猫人間は、200年以上の伝統を誇るわが国特有のキャラクター造形であるようです。
 猫に堪能して、美術館を出ました。

 駅構内のコーヒーショップで一憩したのち、予定どおり17時07分の八高線に乗りました。お馴染みのキハ110系ディーゼルカーですが、白地に赤帯という、八高線ではあまり見かけない塗色になっていました。
 何度か書いたことがありますが、八高線や小海線のディーゼルカーは、あまり必然性がわからない3列座席(2+1)になっていて座席数が少なく、坐れないことがよくあります。往路に乗った「たんばらラベンダー号」「リゾートやまどり」)の3列座席のようにゆったりしたものではなく、4列であるべき座席をひとつ取り除いたという配置です。座席の数を減らすのは、立ち客の収納数を増やしてたくさん乗せられるようにするという理由が大きいはずですが、キハ110系が走っているような路線で、そんな都会のラッシュ並みの混雑があるとも思えません。なんのために座席数を減らしたのか謎なのです。
 今回も、高崎から乗ったときにはだいぶ客が多く、坐れませんでした。もっともいままでの経験から言うと、高崎線から分かれてすぐの北藤岡群馬藤岡でどっと下りるのが常だったのですが、この日はなぜか大きなスーツケースなどを抱えている人が多くて、短距離客とは思えませんでした。実際、群馬藤岡を過ぎてもなかなか車内は空きません。結局、マダムと向かい合わせで坐れたのは、いい加減終点も近い小川町でのことでした。
 終点の高麗川川越線電車に乗り換え、さらに川越・武蔵浦和・南浦和で乗り換えて、21時頃に帰宅できました。
 ところで、この日も青春18きっぷを使ったのですが、高崎から川口までなので、はっきりと採算ラインを割っています。八高線経由なので、経路どおりに運賃計算をすれば、2370円という採算ラインには届かないまでも、届かない額は僅少で済むのですが、前に書いたとおり高崎は近郊区間に含まれているので、運賃は最短経路、つまり高崎線経由で計算されます。それでずいぶん割り込んでしまいました。どこかで途中下車すれば元は取れたかもしれませんけれども、だいぶくたびれていて、あまりその気にはなれませんでした。
 これではどうももったいないので、最後の5枠目を使うときには、できうる限り長大なルートを巡ってくることにしたいと思っています。一日で巡って来るには驚くべき長大さ、というよりむしろ壮大ささえ感じられるルートを発見したので、遠からず決行する予定です。
 また、今回割愛した、私の祖父母の墓がある高尾にも、近いうち行ってこなければならないなと思います。

(2017.8.17.)


トップページに戻る
「時空のコーナー」に戻る
「途中下車II」目次に戻る