私の鉄ちゃん歴

 私が鉄道好きになったきっかけというのは、実は自分でもよくわかりません。
 母の証言によると、幼児の頃、列車のオモチャでずっと遊んでいたという話はあるようなのですが、記憶にはありません。それに列車のオモチャが好きな幼児はたくさん居ますが、その子たちがみんな長じて鉄ちゃんになるわけでもありません。
 世に知られた鉄道マニアのかたがたは、いろんな種類の列車がひっきりなしに行き交うような土地に育ったという経歴が多いと言われます。内田百は当時日本の鉄道界の最先端を突っ走っていた山陽鉄道の要衝駅である岡山駅近くに生まれ育ちました。阿川弘之は同様の条件にある広島の出身です。宮脇俊三渋谷で、特急や急行を眼にすることは少なかったでしょうが、地下鉄のくせにビルの3階から発車して中空を走る東京高速鉄道(現メトロ銀座線)や、昔から電車のデザインがしゃれていた帝都電鉄(現京王井の頭線)、それに東横電鉄(現東急東横線)に玉川電車(現東急田園都市線)など、多彩な私鉄に接することができ、それらに対する関心がかきたてられたでしょう。川島令三阪神電鉄沿線育ちで、当然国鉄や阪急も近くを通っていたでしょうから、それらを比較する面白さなどがあったと思います。
 それに較べると、私はそんなに鉄道の錯綜したところに住んでいたわけではありません。札幌に居た頃は記憶にはありませんし、物心ついたのは新潟県の長岡でした。長岡は、東京方面・関西方面・東北方面からの線路が集結するところなので、それなりに鉄道の存在が大きい街でしたが、私はそんなにしょっちゅう列車を眺めに行っていたというわけでもありません。

 長岡で最初に住んでいたのは、新保(にいぼ)というところで、長岡駅からは軽便鉄道に4、5駅ほど乗ったあたりでした。この軽便鉄道──越後交通栃尾線については記憶が残っています。むしろ私のもっとも古い記憶のひとつです。最寄りの駅は下新保で、そこからチョコレート色の小さな電車に乗り、下長岡中越高校前袋町という駅を経て長岡駅に着いたのだと思います。Wikipediaで確認したら、ちょっと記憶と違っていましたが、たぶん廃止直前のデータを元にしているのでしょうから、多少違っていても仕方がないかもしれません。
 矢澤宰「電車」という詩に作曲したとき、この詩で詠われているのが栃尾線(栃尾電車、とも言った)であることに気がつき、それまで難航していたのが一気に曲になった、という話は何度も書いたことがあります。矢澤は長岡の隣町の見附に住んでいました。栃尾電車は見附を通って栃尾まで通じていたのです。矢澤の生きていた頃、見附を通っている国鉄の信越本線はまだ電化されていなかったはずで、従って電車は通っていません。といって詩の内容からして路面電車のたぐいとも思えません。矢澤宰が「電車」について書けたのは栃尾電車だけだったのです。電車の走行音などを模したところで行き詰まっていた作曲は、それに気づいた瞬間、私自身のいちばん古い記憶に結びついて、一挙に音としてまとまってくれたのでした。
 その電車は、長岡駅を越してさらに先へ、悠久山というところまでつながっていました。その終点駅の近くにちょっとした遊園地があり、幼稚園の遠足でも行きましたし、家族でも行った記憶があります。
 もっとも幼稚園に上がった頃には、もう新保には住んでおらず、もっと長岡駅に近い干場(ほしば)というところに住んでいました。大人になってからその辺を探訪したとき、干場の家が本当に駅からすぐであったことに驚いたほどです。

 長岡駅から乗った国鉄の列車については、おぼろげに記憶があります。
 まず「白鳥」です。母の実家のある札幌へ行くために乗りました。まだディーゼル特急だったと記憶しています。
 それから、父の実家のある東京へは何度か行きました。その往復で、特急「とき」「いなほ」「はくたか」に乗っているのは確かです。「とき」は水上に停まって高崎を通過し、「はくたか」は高崎に停まって水上を通過し、「いなほ」は水上と高崎両方に停まった……という風な記憶があるのですが、定かではありません。その後時刻表などを見たら、越後湯沢大宮にも停車していたようでもあるのですが、どうもそのあたりは憶えていません。
 急行「佐渡」に乗ったこともあります。それから、どういうわけだか高崎線が不通になっていて、両毛線に乗ったということもあったようです。
 母方の祖母に連れられて、金沢のほうへ行ったこともあるはずなのですが、行き帰りになんという列車に乗ったのかは憶えていません。親戚が七尾線高松駅近くに住んでいたようで、陽が暮れてから中津幡とか本津幡とかいう駅に停まったことは記憶しています。
 長岡に住んでいたのは、新保と干場を合わせて2年足らずですが、けっこういろんな方向へ旅していたようで、これが私の鉄道好きの原点だったのかもしれません。
 読んでいた絵本も、「きしゃ でんしゃ」というたぐいのものが多かったような気がします。「のりもの あいうえお」みたいな本があって、「る」の項にはループ線が出ていたり、ワ行の「い」の項には移動図書館なんてのが出ており、どんなものなのだろうと不思議に思ったのを憶えています。そうそう、阿川弘之の童話「きかんしゃ やえもん」も愛読しました。というかそれが阿川弘之作と知ったのはずいぶんあとのことです。

 幼稚園年長組から東京に出てきましたが、少しでも広い社宅に空きが出るとすぐ引っ越していたので、私は千歳船橋田無吉祥寺と引っ越し、小学校も3箇所に行っています。
 千歳船橋はもちろん小田急の駅で、このあたりで行き交うロマンスカーの姿をしょっちゅう見ていたのは、確かに私の鉄道好きには資しているような気がします。一般車はもう大半が、その後トレードマークのようになった白地に青線の電車になっていましたが、青と黄色に塗り分けた旧型電車もまだ少し走っていたと思います。
 千歳船橋はいまも昔も各駅停車しか停まらない駅(短期間、区間準急が停まることがありましたが)でしたが、新宿に出たりするときには隣の経堂「快速準急」に乗り換えることがありました。快速準急というのはその頃の小田急でしか見たことがありません。いまの急行とほとんど変わらない停車駅でした。
 この時期から、私は時刻表を眺めるのが大好きになっていました。年代としては1970年前後で、まだ長距離の特急も長距離の急行も長距離の鈍行もいくらでも走っていた時代です。残念ながら国鉄の準急というのはもう無くなっていましたが、紙面は行き交う列車の愛称名であふれ、まだ見ぬ遠い地名に憧れを抱いたものでした。修学旅行列車荷物列車などの時刻も載っていました。私もいずれこういう修学旅行列車に乗るのだと思うと楽しみでなりませんでした。
 なお荷物列車というのは、貨物列車とは別です。いまの宅急便の祖先とも言える鉄道小荷物(チッキ)搬送専用の列車が荷物列車なのです。個人の荷物を取り扱うため、停車駅や停車時刻を時刻表に記してあったのでした。
 家にあった時刻表は、新しいのを買うと棄てられてしまいましたが、祖父の家には古い時刻表がそのまま残っていて、改築するので荷物を整理した際に貰ってきてしまいました。私の手許にあるいちばん古い時刻表で、1970年7月号です。大阪万国博に向かうための臨時列車がたくさん掲載されている号でした。
 ちなみにその次に古いのが1978年8月号で、たぶんその頃から私が自分の小遣いで時刻表を買いはじめたのでしょう。中学2年のときです。

 田無に越したのは小学2年の夏休みのことでした。西武新宿線は、まだ濃いベージュに朱色のラインをあしらった古い電車が走っていました。ときどき少し新しい、黄色のラインの電車も見かけました。
 千歳船橋で着いていたピアノの先生のところへ通っていたので、よく新宿まで出ました。3年生くらいのときにはひとりで行ったこともあったので、いま思うと親もよく平気だったものです。西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下街サブナードができたのは私が5年生の頃で、3年生の頃といえばまだ地上を歩いて乗り換えていました。新宿駅北側ガード下はいかにも汚く、落書きが書きなぐられていましたし、西口あたりも怪しげな店が軒を並べている状態でした。
 田無からはたいてい準急に乗りました。当時の準急はいまの準急と急行を兼ねていて、田無以西各停というのと上石神井以西各停というのがあり、上石神井以西各停のがやってきたときはなんだかハズレを引いたような気がしたものです。急行というのは滅多に走っていませんでした。たぶん通勤時間帯だけだったのだと思います。鷺ノ宮停車で上石神井通過というのと、鷺ノ宮通過で上石神井停車というのと、鷺ノ宮と上石神井両方に停車するというのがありました。いちばん最後のは準急と変わらないのでつまらなかったのですが、ときどき乗れた急行は毎回そのタイプで、鷺ノ宮や上石神井を通過するという気分は結局ほとんど味わえなかったのだったと思います。
 友達と、
 「田無からノンストップの列車が走ればいいのにな」
 などと言い合っていました。私が田無から転出してしばらくのち、特急(現「小江戸」)が走りはじめましたが、これは田無も通過だったので意味無し。相当あと、私がすっかり大人になってから、快速急行「川越号」が走りはじめ、これがかつての夢のとおり、高田馬場〜田無間ノンストップという電車だったのですが、短期間で消えてしまいました。
 それと、田無に住んでいた頃の想い出の列車としては、ハイキング急行「おくちちぶ」「おくむさし」があります。休日だけの運転だったのか、それとも季節運転だったのか忘れましたが、西武新宿から秩父へ直行するのが「おくむさし」、池袋発のが「おくちちぶ」でした。「おくむさし」は平日には絶対に味わえない、田無〜所沢間ノンストップという心地良さを味わうことができましたが、飯能から先が各駅停車だったのが残念でした。その点「おくちちぶ」は飯能から先も急行運転してくれて、なかなか乗れなかっただけに憧れていました。途中停車駅は確か高麗・吾野・正丸・芦ヶ久保・横瀬で、こういう停車パターンの電車はその後の西武には存在しないと思います。

 吉祥寺に引っ越した頃から、鉄ちゃん仲間ができはじめたと記憶しています。田無では、西武の電車について意見を言い合う友達は居ましたが、鉄道全般について盛り上がれるという友達は居ませんでした。
 吉祥寺の小学校には6年生のときに通っただけでしたが、そのクラスメイトのひとりは、鉄仲間である上にマンガを描くのが趣味という点でも気が合い、私が中高一貫校に通うようになってからもちょくちょく会っていました。
 修学旅行列車に乗るのを楽しみにしていた修学旅行ですが、私の小学校での修学旅行の行き先は日光で、残念ながら国鉄ではなく東武の電車を使いました。しかし6000系セミクロスシートの快速で、これはこれで鉄ごころをくすぐるものがありました。私はすっかり東武快速のファンになり、このあと何度となく乗りに行くことになります。この春(2017年)のダイヤ改正で快速が完全消滅したのは慚愧の念に耐えません。

 私が家族と離れてはじめて長距離の列車に乗ったのは、中学2年の夏休みのことでした。札幌の母の実家に行った帰りに、ひとりで帰ってみたいと頼んでみたのです。親は諒解してくれましたが、ただし必ず指定券をとるように厳命されました。
 はっきりとは憶えていませんが、確か急行「すずらん」から青函連絡船、そして急行「十和田」に乗り継いだのではなかったかなと思います。「すずらん」は当時の函館〜札幌間急行、「十和田」は上野青森間の常磐線廻り急行でした。1970年代の夏休み中の急行列車はどれも混雑していて、指定券をとることを厳命されたのも無理はありませんでした。「すずらん」も「十和田」も連絡船もほぼ満席で、ろくろく身動きもとれず大変だった記憶があります。
 それにしても、その後、「青春18きっぷ」を使って小学生がひとり旅をするような話を聞くと、ずいぶんゆるくなったものだと思うのでした。

 翌年の夏休み、上記の鉄仲間の友人とふたりで南東北を旅行したいと言ったときは、わりとすんなり許可が下りました。確か車内泊が3回、駅泊が1回という、けっこうな強行軍だったと思うのですが。
 行程は完全に憶えてはいませんが、確か晩に発って、まず当時のいわゆる「長岡夜行」と言われた高崎線の夜行普通列車に乗り、小出で下りて只見線の一番列車に乗り換えたのだと思います。只見線で会津若松へ出て、鶴ヶ城を見に行ったのは確かです。それから磐越西線猪苗代に出て、野口英世記念館に立ち寄り、バスで裏磐梯へ行き、五色沼のユースホステルで宿泊しました。
 翌日、またバスで米沢へ抜けたのは確かですが、この先のルートがはっきりしません。とにかく確か全部で6泊7日くらい、東北地方南部をうろうろして帰りました。私のはじめての、自発的な大旅行でした。
 その夏も札幌へ行ったのですが、またひとりで帰りたいと言ったら、今度は指定券をとれとは言われませんでした。このときは「ニセコ」から連絡船、「くりこま」「まつしま」を乗り継いだような気がしますが定かではありません。
 これらに先立ち、中学の修学旅行がありました。私の中学の旅行先は東北で、東北新幹線が開通する数年前であったため、往路は特急「はつかり」一ノ関まで乗り、復路は青森から寝台特急「ゆうづる」に乗りました。修学旅行で寝台特急に乗るのは嬉しかったですね。いまなら往復とも新幹線で、あんまり面白くなさそうです。

 高校1年の夏休みには、今度はひとりで北海道を旅しました。札幌に母の実家という基地があったからできたことではありますが、このときは7泊くらいした記憶があります。ユースホステルに3泊、駅泊が1回、車中泊が3回ありました。駅泊というのが、オホーツク海に面した寂しい無人駅の待合室でのことで、夏とはいえおそろしく寒く、ユースホステルで使うスリーピング・シーツにくるまってがたがた慄え、ひと晩中まんじりともしなかったものです。いまは無き湧網線能取駅でのことでした。
 石勝線の開通する直前の話で、だからこのとき夕張まで行ったのですが、そこから道東方面に抜けるということはできませんでした。
 さらに高校2年の夏休みのときは、従弟とふたりで紀伊半島を旅行しました。紀伊半島は眺めが良いのですが、主要部分に関しては紀勢本線を行ったり来たりするしか仕方がないというのが欠点です。しかし当時かろうじて残っていた寝台鈍行「はやたま」に乗ることができたのは嬉しい想い出です。また、いまは紀州鉄道しか無くなりましたが、当時和歌山の南のほうに固まっていたミニ私鉄(紀州鉄道・有田鉄道・野上電鉄)をまとめて乗り潰したりできたのは幸いでした。この旅行では、帰り道に、当時一日一往復しか運転していないということで名高かった清水港線にも乗ったのだと記憶しています。

 中学・高校にも鉄仲間は居ましたが、彼らと大きな旅行に出たことはありません。しかし、一日使って「百円玉旅行」はしたことがあります。
 これは、東京近郊区間では乗るルートにかかわらず最短距離で運賃を計算するというルールを利用だか悪用だかした遊びで、隣の駅までの切符を買っていろんな路線に乗って廻るというものです。当時国鉄の初乗りが100円だったのでそう呼ばれました。同じ駅を二度通らないというのが鉄則です。
 どこからどこまでの切符を買って、どのように廻ったのか、まったく憶えていないのですが、成田線八高線にも乗ったような気がします。また学校の入試休みか何かで平日にやっていたものだから、途中で鉄道公安官に不審訊問されたのも憶えています。
 学校が休みなので百円旅行をしている、と説明すると釈放してくれましたが、本来はルールの悪用であり、中高生くらいがやるならともかく、いい大人が同じことをするのは推奨できません。いまでもたまにやりたくなるのが困るのですが。

 ユースホステルではなくビジネスホテルというものにはじめて泊まったのは、大学に入った春休みのことでした。その春休みに、報告がてらということだったかやはり札幌へ行き、その帰り、ちょうど三陸鉄道の開通日であったので乗りに行ったのでした。途中で下りて竜泉洞を訪ね、その日のうちに釜石まで行き、釜石ステーションホテルに泊まったのでした。予約はしておらず、飛び込みで
 「部屋はあいてますか」
 と訊ねるとき、かすかに声が震えていたのを憶えています。ホテルのベッドに寝ころびながら、なんだか自分が急に大人になったような気がしたものでした。人により、「自分が大人になったような気がした瞬間」はさまざまでしょうが、私はこのときのことだったとはっきり言えます。
 これですっかり馴れてしまい、大学在学中も休みになるたびにあちこちに出かけ、その都度あちこちの宿に飛び込みで泊まりました。最初はステーションホテルだけでしたが、だんだんそんなものの無いところで、つまり日本式旅館にも泊まるようにもなりました。深浦大畑などの宿が印象に残っています。ただ、泊まる場所が見つからず駅で過ごさざるを得なかったようなこともあるし、相当長いこと歩きまわったこともあるので、いまでは飛び込みで宿を探す気力はありません。それにインターネット経由で予約して行ったほうが宿泊料も安くなることが多く、最近はほぼ事前予約しています。
 ともあれ私はワイド周遊券と安宿を頼りに、日本全国の鉄道に乗って廻りました。ワイド周遊券はいま考えても非常に使い勝手の良いフリーパスで、何より入口・出口の経路がいくつも用意されて、その中からそのときの気分で選べば良かったというのが、私のような旅行者にはありがたいことでした。その後「周遊きっぷ」になったときには、往路・復路をあらかじめ決めなければならず、自由度が格段に落ちたものでした。同じように感じた人が多かったようで、周遊きっぷはあまり利用者がおらず、いつの間にか廃止されてしまいました。ワイド周遊券のままにしておけば良かったのに、と思った人は少なくなかったでしょう。
 北海道道南東北みなみ東北北陸信州北近畿南近畿山陰四国九州と、私はほとんどすべてのワイド周遊券を使ったことがあると思います。片道が飛行機になる「立体ワイド」は使っていませんが。

 大学を出てから、しばらく学校の講師はしましたが、非常勤なので毎日通勤する必要はなく、私はなるべく世間の人が休まないような時期を狙って旅をするようにしていました。そうすると、どこへ行ってもすいているのです。あまりにシーズンオフ過ぎて、見たいと思ったところが閉まっていたなんてこともありましたが、それでもゆったりとくつろげるメリットのほうが大きかったと思います。
 が、しかし、鉄道旅行も近年、だんだんとつまらなくなってきたように思います。要因はいろいろありますが、いくつか挙げてみると……

 ・長距離列車が無くなった。長距離を走るのは新幹線ばかりで、5時間6時間と揺られていたい在来線の列車がほとんど姿を消した。

 ・新幹線のおかげもあって、在来線のダイヤがあまりにシンプルになりすぎた。いろんな種別の列車が抜きつ抜かれつというダイヤの面白さが皆無になり、鈍行と、せいぜい快速が決まったパターンで走るばかり。

 ・普通列車がロングシートばかりになった。かつてはのんびりと「汽車旅」を楽しめた紀勢本線山陰本線などは、いまや目も当てられないほどの惨状。せっかく風光明媚なところを走っても、山手線に何時間も乗っているような感覚でしかない。

 ・夜行列車が壊滅。少し前までは寝台列車でなくとも、四国内夜行とか九州内夜行がけっこう走っていたのに、それらも全滅してしまった。「ムーンライトながら」などはときどき復活するが、多客期のみなので私が利用したくならない。

 ・かつてのワイド周遊券に匹敵するような使い勝手の良いフリーパスが無い。各JRでフリー切符のたぐいはいろいろ出しているが、その有効範囲や有効期限など、あまり私の希望と合っていない。

 一方で、JR九州の「ななつ星」を皮切りに、ツアー用の豪華列車なんてのはいろいろ出てきています。しかし、自分でルートを選べないお仕着せの鉄道旅行など、私はまっぴらです。
 最近の若い「乗り鉄」たちは、どのあたりが面白いと思って列車に乗っているのでしょうか。いちど正直なところを訊いてみたいものだと思っています。

(2017.5.31.)


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