札幌・小樽 法事の旅 (2012.10.6.〜8.)

I

 2012年10月はじめの連休(6日8日)、法事があって札幌へ行っていました。
 母方の祖母の七回忌、それに祖父の三十三回忌が重なったのでした。どちらか一方だけなら失礼したかもしれませんが、やはり重なっては行かないわけにはゆきません。それに、北海道へ行く機会があれば何度でも行きたい気持ちはあります。
 マダムも同行しました。マダムは私の祖父のことは知らないのですが、祖母にはぎりぎりで対面することができました。2005年の夏、新婚旅行で北海道へ行き、その時に祖母の入院していた病院を訪ねて引き合わせたのでした。海外へ行かなかったのは、翌年の春にスペインへ行くことが決まっていたこともありますが、老齢のため結婚式に出て貰えなかった祖母に新妻を引き合わせておきたいと思ったからでもありました。
 まったくの偶然ながら、祖母とマダムは同じ名前でした。正式には祖母の名はカタカナで書き、マダムの名はひらがなで書くという差はありましたが、そんなことでマダムも少し親近感を持ったようでもありました。マダム自身の祖父母と、私の他の祖父母はすでに全滅していて、最後に残っていたのが札幌の祖母であったという事情もあります。
 祖母はもうだいぶボケていましたが、一応私のことは認識してくれました。ただし10分おきくらいごとに認識し直して、その都度驚いたような声を上げていましたが。
 で、マダムと私と一緒に、古い歌などを歌って30分ほどを過ごしました。それが祖母と会った最後になりました。

 翌年の秋、マダムの両親と一緒にロシアへ旅行しましたが、帰ってくると祖母の訃報が入っていました。しかも、その日の晩に通夜、翌日告別式ということです。ちょっと出席は難しいかなとも思ったのですが、調べてみると飛行機には空きがあったので、駆けつけることにしました。ただしこの時は私ひとりです。
 ロシアから帰るのが一日遅かったら間に合わなかったわけで、なんだか祖母が、私が葬儀に出席できるタイミングを見計らって逝ってくれたような気もしました。
 私はどうもそういう巡り合わせのようで、ずっと以前に父方の祖父が亡くなった時も、その日の昼間に危篤だというので親族一同が病室に集まっていたというのに、所用があってその集まりに行けなかった私が夕方に訪ねるとその場で息を引き取ったという経験があります。母がたまたまその病院で事務をやっていたため、祖父の臨終を看取ったのは医師の他は母と私だけだったわけです。危篤の報を受けて集まった親戚一同の手前、何やら申し訳ないような気がしたものですが、これもなんだか、まったく意識が無かったとはいえ、私が訪ねるのを祖父が待っていたかのように思えたのでした。
 ともあれ最終便の飛行機で札幌へ向かい、通夜と告別式に出て、焼き場から従弟に駅まで送って貰って帰りました。その時は私も仕事があって、長く滞在するわけにはゆきませんでした。
 四十九日の法事の時には、葬儀に出席できなかったマダムが、今度は出たいというので、ふたりで出かけました。この時は、祖父の二十七回忌も併せての法事となりました。
 翌年の一周忌、そのまた翌年の三回忌にも夫婦揃って出席しています。そして今回の七回忌と、考えてみれば私たちは一度も欠席せずに出ているのでした。われながら熱心というか。
 札幌の祖父母には子供が5人、孫が12人居ましたが、12人の孫のうち札幌に住んでいないのが4人、その4人の中で皆勤なのは私だけです。まあ、自由業であるおかげかもしれませんが。
 今回は札幌在住の中でもひとり欠席者が居ました。その従弟とは、マダムがmixi友達で、しょっちゅう呟きにコメントを付け合ったりしています。今回オフで会えると思っていたのに果たせず、マダムは少し残念そうでした。

 祖母はずいぶん最近まで生きていたので、記憶もまだ新しいのですが、祖父となると三十三回忌というだけあって、想い出もだいぶ古びています。私が高校1年の時に亡くなりました。葬儀というものに私がはじめて参列した機会でもあります。学校を「忌引」の扱いで休んだのはこの時だけだったと思います。父方の祖父母が亡くなったのはいずれも大学在学中でしたが、確か祖母はゴールデンウィーク中に亡くなり、祖父も授業の無い期間に亡くなったので、忌引欠席の手続きはしなかったように思います。
 母方の祖父には、子供の頃、なぜだかあちこち連れ歩いて貰った記憶があります。欠かさなかった朝の散歩に同行したこともありますし、祖父母の家からほど近い手稲山に登ったこともあります。手稲山には他の親戚とも連れ立って登ったこともありましたが、祖父とふたりで登った時のことばかり妙に思い出します。
 函館の遠縁──と言っても私にとっての遠縁で、祖父の兄弟だったのだと思いますが──の家を訪ねたこともありました。どういう経緯で祖父と私だけで行くことになったのだったかさっぱりわからないのですが、親を交えずに旅行するのがなんとなく楽しかったようです。たぶん私が汽車好きだったので同行する気になったのでしょう。
 一泊したはずの函館のことはまるで憶えていませんが、道中、汽車──たぶん当時のディーゼル急行「すずらん」だったと思います──がトンネルに入るたびに大騒ぎしていたことばかり思い出します。それからやはり道中、学校の教師をしていた祖父が、「すべって転んで大分県」「山があるのに山梨県」のたぐいの、いかにも学校の先生が言いそうなジョークをいくつも教えてくれて、私が大喜びしたのも記憶しています。
 私が小学校を出るくらいの頃、祖父は札幌から故郷の富良野まで、約200キロの徒歩旅行に出かけました。上にも散歩を欠かさない人であったことを書きましたが、足腰が弱る前に徒歩で故郷を訪ねるのが、以前からの宿願だったのかもしれません。宿願は見事に達成しましたが、その旅行から帰ってきて間もなく癌を発病し、以後数年の闘病を経て亡くなったのでした。ヘビースモーカーでしたので、今から思えば煙草が原因だったかもしれません。徒歩旅行の疲れと、宿願達成の気のゆるみでそれが発症した可能性もあります。祖母もけっこう煙草を吸う人でしたが、祖父が倒れてから完全にやめたようです。
 連れ合いを亡くした男はわりにすぐにあとを追うが、連れ合いを亡くした女は長生きするという傾向があると言います。私の父方の祖父母は前者の好例であり、母方の祖父母は後者を体現していました。父方の祖父は妻を亡くしてからわずか1年半であとを追い、母方の祖母は夫の死後26年生きたのでした。祖父の死後の祖母は、いつ会ってもどこか体調不良を訴えていた感じでしたが、一病息災というのか、特にどこが悪いということもなく長生きしました。とりわけ腹痛を訴えることが多くて周囲は心配していましたが、内臓が悪かったわけではなく、単に宿便のせいだったとわかって笑い話になったりもしました。
 その祖母も93歳で亡くなって、もう6年経つというのが信じられぬ想いです。

 法事はいつも日曜の朝に設定されています。それで、土曜に定期的な仕事が入っている私は、いつも仕事を終えてから空港に駆けつけ、ほぼ最終便かそれに近いくらいの飛行機で羽田を発つことになります。当日早朝のフライトであれば間に合わないこともないのですが、それもあわただしく落ち着かないため、土曜の深夜近くの札幌入りというのが定例になりました。
 飛行機はエア・ドゥを常用しています。安いのですが、羽田の出発ゲートがいちばん隅っこでやたらと歩かされるのが閉口です。
 もっとも、今回はあまり安くありませんでした。連休であったせいです。
 連休であったため、空席も少なく、いつも使っている最終便は1ヶ月以上前の予約でも取れませんでした。その1本前の便となり、おかげでピアノ教室の最後の生徒のレッスンを、早い時刻に変更して貰わなければなりませんでした。
 8日予定の復路に至っては、「28日前割引」が適用できる便が1本も無く、やむなく別のプランで買わなければなりませんでしたが、だいぶ高くついた気がします。9日の午後に仕事があったので8日中に帰らなければと思ったのですが、あとになってよく考えてみると、いっそ札幌にもう一泊して、9日の午前中の便で帰ったほうがかえって安上がりだったかもしれません。飛行機が高いのに反して、宿はえらく安く済んだのでした。連休を外れた平日の飛行機ならだいぶ安くなるはずで、その差はもしかしたら宿代を上回った可能性があります。
 ともあれ、ほぼ満席の飛行機で羽田を発ち、1時間半後には新千歳空港に着いていました。もう飛行機で行き来するのも馴れたはずなのに、やはり「速すぎる」という感覚がぬぐえません。北海道というのは丸一日くらいかけて行くべき土地ではないのかという気がしてならないのでした。
 快速エアポートもかなり混んでいて、マダムと隣り合わせの席には坐れませんでした。
 今まで地下鉄東西線西11丁目駅に近い宿を使うことが多かったので、新札幌で快速エアポートを下り、そこから地下鉄に乗るのが常でしたが、今回は大通駅に近かったので、札幌駅まで乗ってゆき、そこから南北線にひと駅だけ乗りました。もっとも歩けない距離ではないので、ひと駅乗るのに200円かけるのがなんだかあほらしくなり、以後は徒歩で札幌駅に行き来しました。
 大通駅を下りて、1ブロックだけ地下街を歩いて地上に出ようとしたら、地上への出口が閉鎖されているので驚きました。見ると22時半には閉まると書いてあります。この辺、やはり新宿あたりの地下街と同じに考えてはいけなかったようです。3ブロックばかり歩いてみたものの全部出口が閉まっており、このままではすすきのあたりまで出られなさそうな勢いでしたので、仕方なく駅へ戻り、普通に駅からの階段を上がりました。
 宿はネットで探して、えらく安く済みましたが、別にいかにもな「安宿」ではなくて、普通のビジネスホテルでした。朝食がつかないのと、現金払い限定という条件での低料金プランだったようです。マダムは、値段からしてアメニティがろくについていないのではないかと心配して、いろいろ不要なものを鞄に詰め込んでかさばらせていましたが、ビジネスホテルに標準装備されている程度のアメニティはちゃんとありました。それどころか洗面室にホットハンガーまであって、パンツなど洗って掛けておけばひと晩で乾いたので重宝しました。
 「外国の安い宿だと、歯ブラシとかタオルとかついてないんだもん」
 マダムはそう言って口を尖らせました。

 法事をおこなうお寺は、一周忌の時と同じで、あたりの様子にも憶えがありました。ホテルから徒歩で20分ほどでした。
 今までは遠縁の人も少し出席していましたが、今回は直系の子と孫だけで20人、並べられた低椅子もこぢんまりとして見えます。孫の代で夫婦で出席しているのは、私のところと、少し前に結婚したばかりの従妹だけでした。もっとも札幌在住の8人の従弟妹のうち、結婚の経験があるのは3人だけで、うちひとりは1年かそこらで別れてしまいました。いちばん下でももう30過ぎですから、改めて考えると妙に独身率の高い親族一同です。札幌在住以外の孫4人でも、私の妹がまだ独身ですので、現在結婚しているのは半分以下に過ぎません。今どきらしいと言えば今どきらしいのですが。
 法事そのものは、30分ばかりの読経と焼香でわりにあっさり終わりました。そのあとでお斎(とき)となりますが、これがいつもやたらと豪勢なのでした。北海道の法事というのがそういうものなのか、私の母方の家だけの流儀なのかよく知りませんが、とにかく二ノ膳つきの、とても食べきれないほどの量が並んでいます。二ノ膳だけで充分一食まかなえるくらいの分量です。仕出し屋のほうも心得ていて、刺身や酢の物など、ナマモノに近いものは主膳に並べ、二ノ膳にはある程度保存の利く料理をつけていました。しかも最初から紙箱に入っていて、その紙箱をすっぽりと安定させて入れるための紙袋まで用意されており、どう見てもお持ち帰り推奨という体裁でした。最近は衛生面がうるさくなって、料理のお持ち帰りを拒否している店や仕出し屋が多いのに、この至れり尽くせりさは低温低湿の北海道ならではでしょうか。
 予想通り、主膳だけで充分満腹になり、しかもこの7日が誕生日にあたった私の妹と、誕生日前日にあたっていたもうひとりの従妹のためと称してショートケーキまで出てきたので、二ノ膳のほうは手をつけずに持ち帰ることにしました。
 あとは持ち寄った供物の菓子などを騒ぎながら分配したりして、お開きとなりました。次の法事は祖父の三十七回忌となるか、祖母の十三回忌となるか、いずれにしろ4〜6年後ということになります。今回の出席者がその時またみんな顔を揃えられるかどうか、すでに高齢の人が多いのでなんとも予想しづらいものがあります。

 祖父母の墓に詣でたかったので、従弟のクルマで連れて行って貰いました。墓参りに行く人が他に居なかったのがむしろ意外でしたが、クルマでも小一時間かかるので、そうそうは行けないのかもしれません。公共交通機関は無いことはないのですが、路線バスは一日4、5便があるだけで、しかも70分以上かかってしまいます。まずクルマ無しで出かけるのは現実的でない場所なのでした。
 札幌から(正確には小樽から)日本海に沿って北上する国道231号線、いわゆるオロロンラインに面した霊園で、石狩川の河口にほど近い高台にあります。海を見下ろせる風光明媚な場所ですが、海近くの高台だけに風が強く、ロウソクや線香の火が点けづらいのが玉に瑕でしょうか。
 法事で使った仏花を少し分けて貰ってきていたのでそれを供花し、風に苦労しつつ線香に点火して供えました。
 伯母のひとりは同じ霊園の、少し低い場所に自分の墓を買ったそうです。祖父母に見下ろされている場所だと言っていました。祖父母の墓の隣が空いているようでしたが、すでに持ち主が居たそうです。この霊園は、墓所購入から墓石を建てるまでの有効期限が設定されていないので、空き地のままにしてある墓所も多いようでした。
 帰りには佐藤水産「サーモンファクトリー」に立ち寄って貰って若干の土産物を買い、クルマを走らせて貰った従弟の実家である叔母の家に立ち寄りました。私の両親と妹もそこに滞在していたのでした。お斎の二ノ膳であった折り詰めをみんなで食べ、それからまた従弟のクルマで手稲駅まで送って貰い、あとは電車で札幌駅に戻り、宿に帰りました。
 今度はそれほど遅い時間でもなかったし、けっこう満腹でもあったので、地下鉄に乗らずに、腹ごなしがてら歩くことにしました。大通公園のテレビ塔や噴水などがライトアップされていてとてもきれいでした。マダムは大通公園がはじめてではないはずなのですが、パリエクス・アン・プロヴァンスモンペリエ(いずれもフランスで彼女が滞在したことのある街)を思い出すと言ってしきりに感激していました。

(2012.10.9.)

II

 札幌で母方の祖父母の法事を済ませた翌10月8日、大通公園近くの宿をチェックアウトしたマダムと私は小樽に向かいました。
 マダムを小樽に同道したことは一度あるのですが、祖母の四十九日の時で、もう12月で天気も悪く、滞在時間もあまり長くありませんでした。前年、小樽商大グリークラブのOB会を指導していた関係で小樽を訪れる機会があり、もういちどマダムを連れてきてやりたいと思ったので、今回また法事にひっかけて行くことにしたわけです。
 帰りの飛行機を晩に取っていましたが、出発予定時刻は21時という遅い時間です。連休のため、エア・ドゥに関する限り、それより早い便は、1ヶ月以上前の時点で、本当に全然空いていなかったのでした。帰宅は午前様になりそうですが、一方陽が暮れるまで小樽に滞在しても間に合いそうです。幸い天気も好く、のんびりと過ごせそうです。
 宿を8時過ぎに出て、札幌駅まで歩きました。前夜と違って荷物が多かったのと、途中でコンビニに寄ったりしたのと、マダムが大通公園で写真を撮りたがったりしたのと、信号にやたらとひっかかったりしたのとで、意外と時間を食い、心づもりにしていた電車を逃してしまい、30分ほど待つはめになりました。札幌〜小樽間は、日中だと30分ヘッドで快速エアポート、区間快速いしかりライナー、そして各駅停車が1往復ずつ走っていて決して不便ではないのですが、どういうわけだか朝は便が少なく、8時42分を逃すと次は9時13分まで無いのでした。

 駅構内のコーヒーショップに入って時間を潰しましたが、プラットフォームに上がるとえらく行列ができていたので驚きました。新千歳空港から快速エアポートとして走ってくる電車で、指定席であるUシートが札幌を過ぎると自由席になります。座席が少し上等でシートピッチも広いため、狙う人も多く、乗り込んでみると坐れなかったのでがっかりしました。もっとも、次の桑園で並びの席が空き、幸いその先は坐ってゆくことができました。
 日中の快速エアポートは、小樽まで快速のままで走りますが、朝のこの便(3853W)は札幌から各停になります。銭函までは駅間距離が短く、走ってはすぐ停まる感じですが、銭函を過ぎると次の朝里までいきなり9キロ近い長距離になります。このあいだにかつて張碓(はりうす)という駅があったことは前に書きました。海水浴場があっただけでどこにも道路がつながっておらず、大都市の通勤圏内の秘境駅として有名になり、秘境駅マニアがよく訪れるようになったものの、何しろ路線そのものは5分にあげず列車が行き交う繁忙区間であるため危険が多く、はねられて命を失う人まで出るに及んで、ついに廃止され、完膚無きまでに痕跡を消されたのでした。少しでも痕跡を残しておくと、今度は廃駅マニアが寄ってくると判断されたのでしょう。マニアと呼ばれる中にはいささか非常識な手合いも多いので、やむを得ないことです。
 海岸線すれすれを走り、反対側は断崖絶壁というこのあたりは、通勤圏内にもかかわらず函館本線随一の景観を誇る区間です。函館本線といえば大沼駒ヶ岳の雄姿、渡島半島の寂しげな海岸線、超閑散区間というべき長万部倶知安間など、ローカル線的な車窓の魅力にもあふれているはずなのに、私の見た限りいちばん胸を打つ車窓はこの区間だったのでした。並行する道路が視界に入らないという要因が大きいのかもしれません。交通量の多い札樽国道は断崖の上を通っており、列車の窓からはまったく見えないのです。
 9時58分、小樽に着きました。途中の駅で下りた乗客も少なくはなかったのですが、小樽駅に下り立った人は相当に多く、なんだか東京近郊の、例えば高尾駅あたりの雑踏を連想するほどでした。連休末日だったので、近場からの行楽客が多かったようです。
 大きな荷物はコインロッカーに預け、身軽になって駅を出ました。

 まず、小樽市総合博物館に向かいます。去年も訪ねましたし、道順などはよく憶えています。というか小樽駅周辺の地理はだいぶ頭に入りました。小樽の市街地は、小樽駅周辺、南小樽駅周辺、小樽築港駅周辺などを要にして拡がっており、南小樽や小樽築港のあたりは全然知らないのですが、小樽駅にはもう5、6回下り立っています。
 総合博物館には本館運河館がありますが、本館はもともと北海道最古の駅のひとつ手宮駅の跡地に作られたもので、しばらく前までは鉄道記念館と称していました。そのため鉄道関連の展示が多くなっています。
 幌内(ほろない)の鉱山から掘り出した石炭を、手宮まで運び、そこから船に積み替えて全国に送り出したというのが北海道の鉄道の濫觴です。まだ東海道本線すら全通しておらず切れ切れに建設している頃のことで、鉄道はまさに当時の最新テクノロジーでした。本州の鉄道が英国、九州の鉄道がドイツの方式を採り入れたのに対し、北海道はアメリカ式で、機関車も貨車も客車も、どこか西部劇に出てきそうなスタイルであったようです。
 幌内駅も手宮駅もすでに現存しません。北海道の開拓にあたって、鉄道の果たした役割は非常に大きかったのですが、道民は鉄道に対して冷淡でした。それもまたアメリカ式と言えたかもしれません。
 道民の鉄道への冷たさについては、何度か考察したことがありますが、たぶん北海道の鉄道というものが、国や企業の殖産事業のために建設されたもので、沿線住民の便宜といったことをあまり考えていなかったことが大きな理由のひとつだったのではないかと私は考えています。
 隣の東北地方では、「悲願何十年」といった路線がいくつもあって、住民が嘆願を繰り返してようやく開通したというケースが多く、それだけに愛着もあったのだと思います。国鉄末期の赤字ローカル線整理の時にも、大半の路線が第三セクターなどとして生き残りました。
 それに対して、北海道の赤字ローカル線は、逆にほとんどがすんなりと廃止されてしまいました。隣接した両地方のこの状況はまことに鮮やかな対照を見せています。北海道のローカル線の収支係数が、東北地方とは較べものにならないくらい悪かったということもありますが、やはり住民に根を持った路線でなかった点が大きかったのでしょう。一日数往復だけ、さほど便利でもない時間にのろのろと走るだけというところが多く、私の乗った限りでも、ふだんは空気を運んでいるのだろうと思われる路線が大半でした。これでは、道路さえ通れば、もう列車に乗る気はしなかったに違いありません。
 そういう道民の空気を反映して、道庁も鉄道への補助には非常に不熱心です。空港と道路の拡充には熱心ですが、鉄道などは札幌周辺を除いては滅んでも構わないと思っているのではないかとさえ感じられるほどにおざなりで、そのためたったひとつの第三セクター鉄道であったちほく高原鉄道も、経営が立ちゆかず廃業してしまいました。全国の国鉄転換による第三セクター鉄道で、路線を切ったところはありますが、完全に廃業してしまったというのはここだけです。
 そんな北海道で、鉄道記念館など作られても少々白々しい気がしないでもありません。ディーゼル急行ちとせ、特急北海、客車急行宗谷が並んでいる野外展示は壮観で、去年来た時にも感動しましたが、その感動は懐かしさだけではなく、どこか列車たちの「無念さ」のようなものがそこはかとなく混じっているようです。今回行ってみると、係のおじさんがたったひとりで「北海」の塗装を塗り直していました。動けなくなった特急列車をそんなに念入りに化粧してやるくらいなら、走っていた頃にどうしてもっと大切にしてやれなかったのかと、少しばかり腹立たしいような気持ちさえ感じたのでした。

 去年は時間が早すぎたのですが、今回は館内展示を見ているあいだに、ミニSLを運転する時刻になったので、マダムと一緒に乗ってみました。本館近くの停車場と、私たちが入ってきた東側の入口近くにある停車場のあいだの200メートルばかりを往復するだけの遊戯施設ですが、機関車の切り離し、転車台での方向転換、迂回線を通っての機関車の移動、推進運転による機関車の付け替えなどを実演してみせるところが面白いのでした。マダムもこういうのが好きで、眼を輝かせていました。3輌の小さなトロッコ風客車を牽引していましたが、満席で立ち客も出るくらい混んでいました。
 階上の科学展示室でもしばらく楽しみ、同じ入場券で入れる手宮洞窟にも行きました。壁画が発見されたところです。1600年前という時代にしては稚拙すぎないかというのが私の感想でした。1600年も前なら稚拙でもあたりまえだと言う人は、古代人を舐めすぎています。

 運河に沿って、街の中心部に戻りました。
 去年来た時に、倉庫街の中の寿司屋が気に入ったので、マダムを連れてゆくことにしていました。回転寿司なのですが、1500円だか払うと、最上級の絵皿を除いては食べ放題になるのでした。頼んだところ、最初にじゃがバターと8貫入りの寿司桶が運ばれてきて、それが言ってみれば「基本セット」という感じだったのでした。あとは何皿食べても良いという不思議なシステムで、はなはだ印象的でした。
 それでマダムを同道したのですが、店はすぐに見つかったものの、食べ放題という表示がありません。店に入ってメニューを見ても食べ放題のコースなどは無いようでした。おばさんに訊いてみると、
 「あ〜、今年はやってないんですよ」
 と簡単に逃げられてしまいました。採算が合わなくてやめてしまったのかな。さんざん「食べ放題の寿司」を吹聴してマダムを連れてきて、朝食もできる限り少なめに抑えさせていたのに、なんだか面目を失った気分です。
 とはいうものの、ネタは東京に持ってくれば一流店でも通用するくらいの鮮度ですし、「寿司屋通り」の店などに較べればはるかに安く済みます。けっこう満腹するまで食べて、ふたりで3180円だったかでしたから、上記の食べ放題の場合とさほどの差はなかったのでした。小樽に来たら倉庫街の回転寿司、というのは半ば私の固定観念になっています。
 満腹してから、博物館の運河館のほうに入りました。こちらには去年は来ていません。
 こちらは、小樽の街としての歴史を展示した部分と、自然誌の展示の部分から成っていました。シンプルながらなかなか奥深い内容であったと思います。
 縄文時代の火の熾(おこ)しかたを模式的に再現するアトラクションがありました。木の棒を摺り合わせたり、弓で回したりするあの発火方法です。本当に火が出るわけではなくて、木の棒代わりに金属棒を使い、それらを摺るとデジタルの数字で秒数と温度が表示されるというものでした。温度が「440度」まで達すると発火したと見なされ、表示板に炎のアイコンが点灯します。
 マダムがえらく張り切って、私がそろそろ行こうと促すのも聞かずに棒を摺り合わせ続けていました。私はなかばあきれて、中庭へ出て待っていましたが、5分ほど経ってから、やっと発火できたと言いながら、マダムがよろよろと出てきました。頑張りすぎて手の皮をすりむいたということです。

 運河館も古い倉庫の一角を整備して使われていましたが、同じブロックの倉庫が観光案内所のようになっています。その一室では、写真展がおこなわれていました。デジタルカメラ全盛の昨今、あえてフィルム写真にこだわった人たちのグループで、一風変わった「ルール」を設定して撮影会をおこなっているのだそうです。
 ルールは撮影会の都度少しずつ違うようでしたが、今回の写真展の展示については、

 ──定められた起点(小樽市内の7つのJR駅……銭函・朝里・小樽築港・南小樽・小樽・塩谷・蘭島)から出発して、2時間以内に36枚撮りのフィルムを使い切る。
 ──撮影に失敗してもなんでも、ごまかさずに36枚の写真を撮影順に並べて展示する。

 ということだったそうです。見ていると、なるほどちょっと失敗かな、と思われる写真もありましたが、なかなか面白い構図が多くて愉しめました。そういえば、アングルの片隅に置いた電柱などにピントを合わせ、背後の景色をぼんやりとにじませるなどという凝った撮りかたは、デジカメだとむしろやりづらいかもしれません。
 部屋の中には出品者たちが居て、いろいろ説明をしてくれました。私が
 「張碓駅がいまでもあったら大変でしたね」
 と言うと、出品者はアハハと笑い、
 「どこにも行けませんからねえ」
 と答えました。

 小樽で北一硝子の次くらいに店舗の多い大正硝子店をいくつか覗きました。いや、店舗数は大正硝子のほうが多いかもしれません。北一はどの店舗も構えが大きいので、総売り場面積では大正をはるかに上回ることでしょうが。大正硝子は、いろいろな小物を、種類ごとに別の店舗で売っている感じです。
 その大正硝子の本店その他5軒ばかりが連なっている通りがあるのですが、於古発(おこばち)という、運河に注ぐ小さな川に面しています。歩きながらふとその川面を見下ろすと、鮭が無数に散らばっているのが眼に入りました。
 変な言葉遣いのようですが、散らばっている、としか言いようのない様子です。川の水量は大したことがなく、あちこち泥が見えているのですが、その泥に乗り上げるようにしてすでに絶命している鮭もたくさん居ました。一方、水のあるところでばしゃばしゃと元気に銀鱗をきらめかせて跳ね回っているのも数多く居ます。
 鮭が自分の生まれた川に必ず帰ってくるというのは有名な話ですが、実際にその遡行をこの眼で見たのははじめてのことで、少なからず驚きました。
 生きているのも死んでいるのも併せて、見渡す限り鮭だらけみたいな状態です。これだけの数の鮭が、この全長わずか2キロあまりしか無いような小さな於古発川から巣立ち、そして戻ってこられるものだとは、信じがたいような気分でした。
 せっかく生まれ故郷の川に戻ってきても、このように河口近くで力尽きてしまうのが大量に居るということなのでしょう。やはりはじめて見たマダムは少々気味悪がっていましたが、水質の汚染で魚が死んだとかいうのではなくて、これは自然の摂理というものです。上流にまで辿り着いて無事産卵を済ませられるのは、ほんの数えるほどに過ぎません。
 なお、川に遡行しはじめた鮭は、もう体力を失って、からだに脂分などがほとんど無く、食べてもあんまりおいしくないそうです。アイヌは主に川で鮭を獲っていたようですが、食生活はややつまらないものだったかもしれません。
 入った店の店員が客と話しているのが耳に入りました。
 「いや〜、今年は多いね〜。あれ今はまだいいけど、そのうちすんごい匂いになるんで困るんさ」
 跳ね回っていた元気の良い鮭も、うまく遡行できないと、数日で死んでしまいます。大量の鮭の死骸から、猛烈な臭気が立ちのぼって大変なことになるようです。処理しないと蠅なども大量発生するでしょう。鮭の遡行を見られることなど滅多にないので、私などは単純に喜んだり感動したりしていますが、観光で訪れただけの者にはわからない地元の苦労もいろいろとあるに違いありません。

 マダムの要望で有名な菓子屋へ行ったりしていると、そろそろ陽が暮れてきました。ぶらぶらと駅へ帰り、荷物を取り出して、18時04分の快速エアポートに乗って、直接新千歳空港へ向かいました。だいぶ小樽の街を堪能したと思います。
 夕食は空港のラーメン屋で済ませました。ラーメン屋と簡単に言っても、新千歳空港には「ラーメン道場」と称する一角があり、道内の7、8軒の有名ラーメン屋の支店が軒を連ねています。それぞれの店の客引きもかまびすしく、空港の中でそこだけが異様に活気にあふれている観がありました。
 帰りの飛行機は往路と同じくほぼ満席で、その乗客たちが押し寄せるモノレールも混雑していました。零時半過ぎにやっと帰宅できましたが、やはり札幌でもう一泊すれば良かったかな、と思いました。

(2012.10.10.)


トップページに戻る
「時空のコーナー」に戻る
「途中下車II」目次に戻る