晩春山陰紀行 (2011.4.29〜5.3.)

I

 山陰方面へ行って参ります。
 レジャーとしての旅行でもありますが、用事が無いわけではありません。用事にひっかけて何日か骨休めをしてくるという、私にとってはよくあるパターンです。
 出雲大社のすぐ近くに、大社文化ブレイスという文教施設があります。平成21年10月開館と言いますから、まだできて1年半しか経っていない新しい施設です。ここに「ごえんホール」という200席ばかりの小さなホールがあり、明後日(4月30日)の夕方から、Tasty 4というグループが演奏会を開催します。
 この演奏会を聴きに行くというのが、私の「用事」です。

 はるばる島根県までわざわざ演奏会を聴きに行くのは、私の書いたものが演奏されるからではありますが、演奏されるのは「春の情景」という春の歌の編曲メドレーで、初演というわけでもなく、本来なら足代でも出ない限り、現地に赴くほどのことはしなさそうです。
 ただ、Tasty 4というグループに、ずっと以前からの関わりがあるのでした。
 実のところこのグループは、四半世紀近く前に短期間活動して、その後解散してしまっていました。メンバーに言わせると「発展的解散」ということだったそうです。実はその一員が、Chorus STの指揮者である清水雅彦さんで、私が関わったのも清水さんを通してのことでした。
 当時は、清水さんも若く、もちろん私などはもっとぺーぺーでした。最初に知り合ったのは、作曲科の友人の紹介で伴奏を弾きに行った「板橋第九を歌う会」という合唱団でのことでした。私の文章に時々出てくる「川口第九を歌う会」とは全く別団体ですのでご注意下さい。「第九を歌う会」と称する団体は各地にあり、特にバブル期にはずいぶん乱立したものです。板橋の会は、川口のそれのように独立して活動することはせず、行政の管轄下であるとはいえ、バブル崩壊後あちこちの「第九を歌う会」が予算を切られて活動を中止する中、今でも続いているのは立派と言うべきでしょう。私は「板橋第九」には数年関わっただけとはいえ、板橋区演奏家協会に入ることになったきっかけ……というより入る根拠となったのは板橋第九の伴奏をしていたことでもあり、その後の私の人生をだいぶ左右しています。
 清水さんと知り合ったのもやはり大きな転機でした。「板橋第九」の合唱指導のチーフは外山浩爾先生でしたが、もっと若い声楽家連中が補助として代わる代わるやってきては指導していました。私が行っていた頃は、清水さんの他、小島聖史さんとか、大志万明子さんとか、その後いろいろ活躍なさっているかたがたが指導陣に加わっていたものです。
 その中で特に清水さんとの関わりが深まったのは、「板橋第九」に参加していたメンバーが、オフシーズンでも合唱団として活動を続けたいと言い出したことに端を発します。「第九」は、たいてい春頃に団員募集がかかり、6月頃から練習がはじまり、12月に本番を迎えるというスケジュールでやっているので、本番が終わってからの半年ほどは活動停止状態になってしまいます。このオフシーズンを埋める活動をおこないたいといメンバーが集まって、「板橋アルモニー」という合唱団ができました。ここに指揮者として招かれたのが清水さんで、伴奏ピアニストとしては私が招かれたのでした。
 板橋アルモニーは今でも活動を続けていますが、私は十数年前に縁が切れています。合唱団の方向性のようなことが原因だったため、やむを得ぬ仕儀でした。それにしてもかなり長い間、清水さんと共にこの合唱団に関わっていました。なお、板橋アルモニーは最初の「『第九を歌う会』のオフシーズン活動」という趣旨からははやばやと離脱し、次の年の「第九」の活動がはじまってもそのまま続けられましたし、以後ずっと通年合唱団となっています。
 このアマチュア合唱団のため、私はいろいろな曲を編曲しました。私にとっても、合唱曲を書いてゆく上での大きな勉強の機会になったと思っています。この団体のために書いた合唱編曲の集大成が『唱歌十二ヶ月』という曲集になっています。一方清水さんにとっては、いわば「ド素人を教えるためのノウハウ」をずいぶん体得できたのではないかと思います。彼はNHKの合唱番組によく出てきて講評をしたりしていますが、非常にわかりやすく、かつ当たりが柔らかいことで有名です。たぶんそれは板橋アルモニーの指導を通して得た清水さんなりのコツなのではないでしょうか。Chorus STなどでは、番組でイメージされる人格よりもっと短気です(笑)。
 さて、そんなことで一緒に仕事をしておりましたので、清水さんが他で編曲などを必要とする時にも手近の私を起用したのは自然な流れでした。清水さんが指導している磯辺女声コーラス合唱団ユートライ(現在は指揮者が代わっています)のために編曲や、時には作曲をした他、合唱以外の場の仕事も頼まれることがありました。そのひとつが、Tasty 4でした。

 Tasty 4というのは、当時清水さんが、学校で学年の近い人たちと組んでやっていた、声楽家4人・ピアニスト2人のグループです。アンサンブルグループというほどのものではなく、ソリストとして活動している人々がゆるいグループを組んだという趣きでした。若い頃は、例えばひとりでリサイタルを開くのが、実力的にも金銭的にも少々苦しいので、仲間と一緒にジョイントという形で開催することがよくありますが、その仲間がある程度固定されると、これでひとつのユニットということになるわけです。
 とはいえ、コンサートともなると、それぞれがソロで歌って終わりというのはあまりに愛想がないというものです。それで、よくコンサートの最後に、全員参加の、いわばお楽しみステージが置かれます。
 その、お楽しみステージの編曲を頼まれたのでした。
 Tasty 4のメンバーは清水さんの他、ソプラノの栗栖由美子さん、メゾソプラノの大國和子さん、テノールの小濱明さん、そしてピアニストが鈴木真理子さんと鈴木永子さんです。みんなその後大いに活躍している人々です。ちなみに鈴木真理子さんは清水さんの夫人となりましたが、結婚したのはこのグループの活動末期近くのことでした。
 私が関わり始めたのは、このグループの第2回演奏会からのことでした。開催時期が12月だったので、クリスマスソングのメドレーを求められたのです。
 ちょうどその直前にクリスマスソングメドレーをひとつ作っており、しかもうまいことにピアノ連弾による伴奏がつけてあったので、それにちょっと手を加える程度のことをして渡しました。作品リストには「たのしいクリスマス」として載っております。
 それから第3回に秋の歌メドレー「秋の祭典」、第5回に北海道の歌メドレー「白の地平線」、第6回にモーツァルトの作品メドレー「モーツァルトの花束」というのを提供しています。ただしこの最後のものは、企画段階からどうもあまりうまく行きそうもないと思い、やってみるとやっぱりうまく行かなかったという自覚があって、私自身の中では黒歴史化してしまい、作品リストにも載せてありません。この第6回演奏会をもってTasty 4も活動を終えましたが、当時、モーツァルトメドレーが失敗だったせいではないかと思ったりしたものです。
 もちろんそんなことではなく、メンバーそれぞれの活動が多忙になったのが主因でしょう。グループを組まなくてもやってゆけるという感触になってきたのだと思います。

 Tasty 4のメンバーとはそれぞれ知己を得ましたが、栗栖さん・小濱さんにはその後あまり接触がありませんでした。小濱さんは最近少しだけまた顔を合わせる機会ができましたが……
 鈴木永子さんとも接触は無くなりましたが、一昨年の夏、新田恵さんのリサイタルに共に関わったため、久しぶりに再会しています。
 清水さんはもちろんその後も親しくお付き合いいただいていますし、鈴木真理子さんも以前ほどではないにせよちょくちょくお目にかかります。
 大國さんも、板橋アルモニーやChorus STに、ヴォイストレーナーとして来てくれることがあって、時々顔を合わせました。
 ところがこの大國さんが、2010年のはじめに急死してしまったのです。

 あまりに突然の訃報であったので、しばらくは言葉も出ませんでした。
 お弟子さんも多く、友達も多く、家族は居なかったもののいつも賑やかにしている人だったのに、なんと孤独死だったというので、やりきれない気がしたものです。特にその少し前、私の作曲科の同級生のひとりも、同じような状況で孤独死をとげていたので、余計にショックでした。
 家族が居ないところで、長患いもなくぽっくり逝ってしまえば、まあ孤独死ということになるわけですが、最期の時はどんな想いで居たものでしょうか。「これはダメだな」と思うものなのか、それともそんなことを思う間もなく意識が遠ざかるものなのか。
 約束していた用事に姿を見せないので、不審に思った相手が電話してみたところなんの応答も無く、これはまさかと駆けつけてみるとすでに事切れていたということです。まだ50代半ばという若さでした。
 大國さんは島根県の大社町(現在は出雲市の中)の出身でしたが、すでにご両親は無く、ごきょうだいも血のつながっている人は居らず、里帰りの時に寄っていた親戚の人が呼ばれました。遺体をすぐに故郷へ運びたいとの意向でしたが、東京の知人たちが頼んで、葬式ではなく「お別れ会」を催すことになりました。私も取るものも取りあえず駆けつけました。遺体と対面しましたが、それほど長時間苦しんだ形跡が無いようだったので、残念な想いながらも少し安心したのを憶えています。
 あちこちで活動していた人で、関係する団体も非常に多く、歿後わずか3ヶ月の去年4月、それらの団体を集めて早くも追悼コンサートが開催されました。Chorus STも出演しました。東京文化会館の大ホールで、おそろしく盛大な会となっていました。
 それから一年、大國さんの声楽家活動の原点でもあったTasty 4の演奏会が、20年近くの時を経て、大國さんの故郷である大社で開かれることになったわけです。
 大國さんのポジションであったメゾソプラノはもちろん空席になりました。今回そのポジションには、大國さんの弟子で、清水さんの生徒でもあり、かつてはChorus STのメンバーでもあった向野由美子さんが加わることになっています。

 そして、あの頃と同じく、私の編曲メドレーで全員演奏をすることになったのでした。
 「春の情景」という春の歌メドレーは、清水さんはTasty 4のために最初作成したと思っていたようですが、そうではなく、別のちょっとしたミニコンサートのために作ったものです。編成もピアノ伴奏がひとり、歌い手は3人というものでした。その後Chorus STで再演した際、四部合唱に変え、伴奏もピアノ連弾にしてあったので、今回そのまま使える状態になっていたわけです。ただ、Tasty 4は「ソプラノ・メゾソプラノ・テノール・バリトン」という普通の四重唱編成でなく、バリトンが居なくてテノールがふたりという変則的な形ですので、四部合唱そのままではちょっと歌いづらかったかもしれません。
 ともあれ、私がはるばる出雲まで出向こうと考えたのは、青春時代の追憶につながりそうなイベントであったからです。

 大國さんとお目にかかる機会は少なくなかったものの、仕事の場で一緒になることは意外と少なかった気がします。あまり仕事を介さないお付き合いでした。
 また、ニアミスの多いお付き合いでもありました。全然別件で知り合った人が、意外にも大國さんの弟子であったり、同郷の後輩とかであったり、伴奏に行っていたり、というケースが、不思議なほどに多かったのです。近いところではうちのマダムも、大國さんのところへレッスンを受けに行く友達に、伴奏者としてついて行ったことがあるそうで、もちろん私と知り合うよりずっと前の話です。
 ただ一度だけ、一緒に日帰りの旅をしたことがありました。
 『幼年幻想』という歌曲集は、新潟の鈴木紀久代さんというソプラノ歌手に委嘱されて書いた作品ですが、この紀久代さんが大國さんの弟子でもありました。ただし、それは上記の合唱団ユートライがらみだったので、そんなに意外な話というわけではありません。
 紀久代さんが最初のリサイタルを開くにあたって、私に歌曲集を委嘱してきたわけですが、師匠である大國さんにも賛助演奏を依頼したのでした。それでふたりながら新潟へ出かけることになったのですが、どうせ行くのなら同じ便にしましょうということで、待ち合わせて新幹線に乗ったわけです。道中なんの話をしたか忘れてしまいましたが、ひとつだけ、当時NHKで「名探偵ポワロ」が放映されはじめていたところで、
 「ポワロの吹き替えをするなら熊倉一雄さんしか居ないと前から思ってたんですが、ドンピシャでした」
 と私が力説していたことだけ、妙に鮮明に記憶しています。

(2011.4.28.)

II

 4月28日(木)は、マダムは仕事とフランス語の学校があったので、先に家を出て、東京駅で落ち合うことにしました。私は晩まで特に予定がなかったため、こまごまとした用事を済ませたり、前項のブログを書いたりして過ごし、22時半過ぎてから出かけました。わりと長い旅行になるのでキャリーバッグを持った上、マダムのスーツケースも運んでゆくことになっていたため、かなり大荷物になりました。
 乗るのは、夜行バス「ドリーム323号」です。山陰に行くのに京阪地域までの夜行バスに乗るというのは、私ひとりならよくやりますが、マダムと同行するにあたっては本意ではありませんでした。最初は乗り換え無しで行ける寝台特急「サンライズ出雲」に乗るつもりだったのです。これに乗ると、松江には9時30分、出雲市にも9時58分に到着しますから、29日がまるまる使え、松江市内の観光をするにしても、美保関とか日御碕とかに行くにしても、動きが取りやすいはずです。
 ところが、「サンライズ出雲」の切符が発売になる3月28日午前10時、駅の窓口に行った私は、全部売り切れと言われて愕然としたのでした。前の客がちょっと手間取っていたのは確かですが、時計を見るとまだ10時03分でしかありません。ゴールデンウィーク前夜の寝台特急の切符は、なんと3分足らずですべて売り切れてしまったのです。「サンライズ出雲」にはひとり用個室、ふたり用個室、「ノビノビ座席」と称するごろ寝スペースなどが連結されていますが、全部ダメでした。

 キャンセル待ちをすれば、2枚くらい入手できたかもしれませんが、連番で取れるとは限りませんし、「サンライズ」のキャンセル待ちをしているうちに他の交通手段も塞がってしまうと元も子もありませんから、ショックを受けつつも列車で行くことは諦めました。
 飛行機は最初から選択肢にも挙げておらず、直通の寝台列車がダメとなると、次に考えるのは直通の夜行バスです。マダムは夜行バスが好きで、ひとりで青森まで往復してきたりしたこともあるくらいです。私の感化ではありません。
 松江や出雲市に行く直通の夜行バスは存在します。JRバス一畑バスが共同運行している「スサノオ号」です。ところが、非常に長距離であるだけに、発車時刻が19時台と、えらく早いのでした。マダムが学校を終えた頃には、もうとっくに出発しています。学校を休みたくはないというので、これを使うわけにはゆきません。
 結局、京都まで「ドリーム」で行って、京阪神地域と山陰を直通する特急「スーパーはくと」に乗り換え、その後鈍行を乗り継ぎながら目的地へ向かうことにしました。松江着は14時台になりますので、あんまり市内観光に宛てられる時間も無くなってしまいましたが、レンタサイクルなどを借りて走ったりすることはできるでしょう。「スーパーはくと」は一度乗ってみたい列車でもありましたし、まあ次善のスケジュールというところです。

 「ドリーム323号」の東京駅発車は23時30分。マダムとは無事に落ち合えました。
 東京駅八重洲南口の夜行バス乗り場はえらくごった返していました。夜行バスで出かけようとする人がやたらと多いことがわかります。思うに、これは「サンライズ」以外の夜行列車が全滅したせいでしょう。九州特急はもちろん、大阪行きの急行「銀河」、大垣行きの快速「ムーンライトながら」などまで片っ端から廃止されてしまったので、時間を無駄にしたくない旅行客はバスを使わざるを得ないのです。新幹線や飛行機なら速いから時間が無駄にならないと考えるのは大きな間違いで、睡眠時間をまるまる移動に宛てられる夜行列車とは較べものになりません。せめて多客期くらい運転しても良いと思うのですが、かろうじて「ムーンライトながら」が臨時運転されるくらいで、受け皿には小さすぎます。「銀河」でも残っていれば、私も「サンライズ」がダメだった瞬間にその可能性を考えたでしょう。JR経営陣には、サンライズ型を増備して夜行列車を復活させていただきたいと願います。
 「ドリーム323号」も満席でした。夜行バスは独立三列シートで楽ではあるのですが、混んでいると椅子のリクライニングをフルに利かせるのに気が引けてしまうのが欠点です。フルリクライニングだと、かなりからだを伸ばすことができて、横臥に近い姿勢をとれるのですが、うしろに他の客が居るとなんとなく悪いような気がしてしまうのでした。
 途中渋滞が発生しているらしいとのことでした。29日になると大変だろうとは思いましたが、28日の晩からすでに渋滞になっているとは、ゴールデンウィークを甘く見ていたかもしれません。列車なら渋滞知らずだよな、と、つい思ってしまいます。
 首都高速に乗った途端にノロノロ運転になってしまったので、どうもいやな予感がしました。

 バスでも列車でも、夜行の場合はひと続きに眠るということがなかなか難しく、途中何度か眼が醒めましたが、やがて明るくなってきました。4月29日(金)の夜が明けたわけです。
 マダムがちょっとカーテンを開けて外を覗いていました。私は真ん中の列だったので、外の様子を伺うためには、窓際の人がカーテンを開けている時に透かし見るようにするしかありません。マダムの開けた隙間からかいま見ると、高速路線バスのバス停らしきものが過ぎ去ってゆくのが見えました。漢字二文字で、うしろの「津」だけわかりました。京都着は7時17分の予定ですから、すでに明るくなっていることを考えると、「草津」でしょうか。しかしなんとなく「岩津」と読めたような気がしたのが不気味でした。岩津であれば、まだ名古屋附近にすら達していないことになります。
 そのうちマダムが表示を見て、
 「そっち行くと、刈谷だって」
 と呟いたので、やれやれと思いました。やはりバスはまだ、東名高速から抜けていないのです。
 京都駅では「スーパーはくと3号」に乗り換えるにあたって、けっこう余裕をとっていました。ゆっくり朝食でも摂ろうと考えていたのですが、この調子だと朝食の時間を捻出するどころか、乗り継ぎ自体ができなくなりかねません。ここからでもスムーズに行けばと思いましたが、走り出したと思うとすぐスピードを落とすことが繰り返されます。これは無理かな。計画を練り直したいところですが、これほど遅れるとは予想しなかったので、時刻表は荷物室に預けたキャリーバッグの中に入れてあります。やきもきしながら京都到着を待つしかありません。
 名古屋からは名神高速ではなく、東名阪に入りました。そのほうが空いているという判断だったのでしょうが、それからもあまり快速に走るという感じはなく、四日市から新名神に。甲南パーキングエリアで予定外の休憩をとったりしたので、余計に到着は遅れることになりました。とはいえ、そろそろ休憩を入れないとエコノミー症候群になる客も出そうです。
 草津からは京滋バイパスに入り、京都駅に着いたのはすでに10時を過ぎていました。かれこれ2時間50分ほどの遅れです。特急列車などでこんな遅れが出れば、特急料金を払い戻すことができるのですが、バスでは残念ながらそうはゆきません。
 もちろん予定していた「スーパーはくと3号」はとっくに出発してしまっています。新快速や普通列車を乗り継いで岡山から来る「スーパーいなば5号」に乗り換えるという手も検討してみましたが、おそらくそれも間に合わないと思われます。スーパーはくとの次の便、5号に乗るしかないでしょう。松江着は16時20分、ほとんど夕方になりますが、やむを得ません。
 ところで「スーパーはくと」も「スーパーいなば」も、智頭急行という第三セクター線を通る特急です。智頭急行にこだわらず、こうなった以上、岡山まで新幹線で行き、伯備線の特急「やくも」に乗り継ぐという選択肢も当然考えられます。おそらくそれがいちばん早いでしょう。
 昔の周遊券であれば、それが可能でした。出発点から周遊範囲に入るまで、いくつかの乗車経路が指定されており、その場の事情や気分で経路を変更するのも自由だったのです。ところが今回作った「山陰周遊きっぷ」は──「山陰」だけではありませんが──「ゆき券」「かえり券」を別にあつらえなければならず、これは一旦経路を決めると変更が利きません。「前の周遊券よりも、往復の経路が随意に設定できるので、自由度が上がった」とJRは自画自賛していましたが、利用者から言わせて貰えばはるかに不自由になったとしか言いようがありません。今回のような場合に、旅の途上で智頭急行経由を伯備線経由に変更することは、絶対不可能ではないにしても、非常に面倒くさい手続きを必要とするようになってしまいました。
 ともあれ、京都駅ビルで軽く遅い朝食を摂り、駅弁を買って10時51分発の「スーパーはくと5号」に乗り込みます。細面の瀟洒な特急で、いちど乗りたいと思っていて今まで果たせませんでした。今回「サンライズ」がダメになった時に、「スーパーはくと」を考えたのはそのためで、しかもどうせ乗るなら全区間を乗り通したいと思ったので「ドリーム」を京都までの乗車にしておいたのでした。こうなってみるとそれで正解でした。京都以西も名神高速が大渋滞で、「ドリーム」に大阪まで乗ることにしていたら、午前中に着けたかどうかわかりません。運転手も、大阪までの客に、京都下車を薦めていました。

 「スーパーはくと」は京都から大阪・神戸・姫路を経て、山陽本線上郡から智頭急行に入り、鳥取を経て倉吉まで走ります。約3時間半、新幹線以外では短距離の列車が増えた昨今としては、まあまあの乗りごたえを感じられます。
 この日の乗車率はかなり高く、一輌増結していたにもかかわらず指定席は満席、自由席では立ち客も見受けられました。増結車は2号車と3号車の間に連結され、「増2号車」と表示されていましたが、車内アナウンスでこれを「まし2号車」と言っていたので、思わず笑ってしまいました。関東だったら「ぞう2号車」と読むでしょう。しかし考えてみると、「ぞう2号車」だと「12号車」などと間違えやすそうで、「まし2号車」のほうが確実に聞き分けられるようにも思えます。とはいえ、「2号車よりはまし」みたいにも感じられて、やはりどこか笑えます。
 非電化区間を走る列車なので当然ディーゼルカーですが、京阪神地域では電車と遜色ない走りっぷりです。複々線になっているところでは新快速電車と同じ「外線」を走りますので、「内線」を走る各停や快速とデッドヒートを繰り拡げたりもしました。新快速の停車駅がだんだん増えてきたため、京都・新大阪・大阪・三ノ宮・明石・姫路……という飛ばしっぷりも痛快です。高槻尼崎神戸を通過する時にとりわけ感激があります。
 姫路までは88分、ここまでは平均時速89キロで飛ばしてきたことになります。驚いたことには、姫路まででも下車客がけっこう居るのでした。京都から姫路までは、新快速が15分おきに走っている区間であり、所要時間はほとんど変わりませんので、わざわざ特急料金を払って乗るほどのことはなさそうですが、湘南新宿ラインなどでグリーン車に乗るみたいな感覚かもしれません。千円足らず払って良い座席に坐ろうというわけです。しかし、関西の場合は新快速自体がけっこうグレードの高い座席ですから、関東の電車の普通車とグリーン車ほどの格差はないように思います。
 さて、「スーパーはくと」はその先もなかなか快速で、単線の智頭急行線内に入ったらスピードが落ちるかと思いきや、末期の鉄建公団が惜しみなく技術とカネを注ぎ込んだ高規格路線であるため、さほど減速もしないので感心しました。前にこの路線に乗った時は、のんびりと鈍行で旅しましたし、運転区間の関係で途中の大原で街を歩いたりもしましたので、余計に「スーパーはくと」の速さが感じられます。
 智頭から再びJRに入ります。ここは因美線というローカル規格の路線で、線路が見るからに細くなり、列車の揺れも明らかに大きくなりました。やや減速を余儀なくされた感じですが、それでも制限速度いっぱいで一生懸命走っている印象です。
 鳥取から山陰本線に入りますが、この路線は図体こそ大きいものの、京都附近と電車特急「やくも」が乗り入れる伯耆大山―西出雲の電化区間を除いては、どこをとってもローカル線風情満点な路線です。故宮脇俊三氏など「偉大なるローカル線」と呼んでいました。因美線沿線とさほど差のない車窓を眺めつつ、14時23分、倉吉に到着しました。
 乗り継ぎに少し時間があるので、一旦改札を出て、遅ればせに歯を磨いたり洗顔をしたりします。すでに朝食や昼食も食べているので、本当に遅ればせなのですが、やはり顔を洗っておかないと少々気分が悪かったのでした。マダムなどは洗面所で服まで着替えていたようです。
 「スーパーはくと5号」の到着からすぐに出る普通列車もあるのですが、次の快速「とっとりライナー」に途中の御来屋(みくりや)で抜かされ、米子到着は「とっとりライナー」のほうが早くなるので、倉吉で待ったわけです。14時57分、2輌編成の「とっとりライナー」がプラットフォームに入ってきました。山陰本線の列車は「嵯峨野線」と呼ばれている京都附近以外、ほとんど2輌編成というのがスタンダードで、特急すら例外ではありません。「スーパーまつかぜ」「スーパーおき」などが2輌で走っているのを見ると、

 ──特急も落ちたものだなあ。
 ──どこが「スーパー」なんだか。

 といった感慨がこもごもに湧いてくるのでした。

 米子で2分の乗り換え、松江には定刻16時20分に到着しました。陽が長い季節になりましたし、だいぶ西に来ているので、日暮れまでは間がありそうですが、市内見物をするにはいささかあわただしいようです。
 荷物をコインロッカーに預けようとしたら、私のキャリーバッグがロッカーに収まらないことが判明し、仕方なくレンタサイクルの事務所までころがしてゆきました。マツダのレンタカー事務所で自転車も貸しているというところだったので、係員が
 「責任は持てませんが……」
 と渋るのを押して、事務所に置かせて貰うことにしました。
 松江の街は、宍道湖と海をつないでいる大橋川を渡る何本かの橋の前後を除いては、ほとんど起伏が無く、自転車で走りやすい土地でした。
 松江城や武家屋敷なども訪ねてみたかったのですが、何しろ時間がないので、マダムの意向を汲んで小泉八雲にポイントを絞りました。小泉八雲記念館と、その隣の旧居跡のみ訪ね、他はすべて捨てたわけです。もっとも駅と八雲記念館は、松江の中心街の南端と北端に位置しているようなものなので、「街の風情」のようなものは途中で充分に感じられました。
 マダムは島根県を訪れたのははじめてだそうで、はじめて訪れる人によくあるように、いささか大げさなイメージをずっと持っていたようです。というのは、以前の教科書や資料集に、よく「日本一の過疎地帯」として、島根県の匹見町(現益田市内)の廃屋写真が掲載されていたもので、県内はどこも過疎で、人跡稀な状態になっているとばかり思っていたのでした。だから、松江市内を自転車で走りながら、
 「ずいぶん都会じゃない」
 と驚いていました。現地のかたには申し訳ないことながら、知らない人間のイメージなんてこんなものだったりします。
 ちなみにその匹見町──というか益田市匹見地区──ですが、教科書であまり過疎を強調されたせいか、その後工芸などをやる若い人がかなり移住し、今では「木工の町」としてそこそこ有名になりました。もう「日本一の過疎地帯」などという不名誉なタイトルをかぶせられることは無いでしょう。
 小泉八雲ことラフカディオ・ハーンについては、私は文学史上のひと通りの知識はありましたが、そもそも何国人で、何歳くらいまで生きたか、日本語はどのくらい解していたのかというようなことはよく知りませんでした。有名な『怪談』にしても、八雲が自分で日本語で書いたものなのか翻訳されたものなのかという点すら曖昧でした。記念館で、家族に宛てた手紙などを眺めて、ようやく人物像がはっきりしてきた感じです。松江に骨を埋めたのだとばかり思っていましたが、亡くなったのは東京でのことだったというのもはじめて知りました。
 松江に住んでいたのは、思ったより短期間だったようです。しかしここで日本人の妻をめとり、長男をもうけたということで、やはり思い出深い地であったのでしょう。英語教師としての辞令なども展示されていましたが、明治20年代で月給200円くらいだったようなので驚くべき高給取りです。たぶん今の200万円くらいに相当するでしょう。
 面白かったのは特製の机でした。八雲は少年時代の事故のため片眼が失明しており、もう片方も極度の近眼だったので、顔を書物や原稿用紙に非常に近づけないと文字を読んだり書いたりすることができず、そのためおそろしく高い机を作らせて、そこで読書や書き物をしたそうです。旧居にレプリカが置いてあり、添えられた椅子に坐ってみました。八雲は小柄な人で、身長で言えば私よりマダムのほうが近いのですが、マダムが机の前に坐ると、ほとんど高窓から部屋を覗き込んでいるみたいな姿勢になりました。これで読むほうは良いとしても、原稿を書くのはだいぶ疲れる作業だったのではないかと思います。

 マダムが堀川地ビール館に寄りたがったので、八雲旧居のあと行ってみましたが、そこはすでに閉まっていました。一畑電鉄松江しんじ湖温泉駅に立ち寄ってから松江駅に戻ります。時間に余裕があった時点では、宿泊予定地の出雲市まで、一畑電鉄で行ってみようと考えていたのですが、もう無理そうです。しかし一応駅は見ておきたかったのでした。
 学生時代に山陰を旅した時に、当時は松江温泉駅と言ったこの駅も訪れました。確かその時は雑居ビルみたいなところだったような記憶があるのですが、すっかり再開発されて、広大なバスターミナルに隣接したモダンな建物になっていました。駅舎の前に足湯のコーナーがあり、温泉好きなマダムが早速漬かり始めました。私も隣で足をお湯に漬けましたが、そろそろ時間が迫ってきました。18時40分発の特急「やくも19号」に乗るつもりだったのに、すでに18時半に近くなっています。マダムをせかしてふたたび自転車を走らせてゆくと、宍道湖大橋にさしかかった頃、大きく真っ赤な夕陽が宍道湖の上に映えて、見事な光景になっていました。完全なサンセットではないものの、いいタイミングだったと思います。
 大急ぎで自転車を返して、松江駅に駆け込んだのがちょうど18時40分、それから改札を通ってエレベーターなりエスカレーターなりに乗ったところで間に合うはずはありません。やむなく「やくも19号」は諦め、次の19時07分発の特急「スーパーまつかぜ9号」に乗ることにしました。プラットフォームに上がってみると、「スーパーまつかぜ9号」も、その前に出ているべき普通列車も、なんだか遅れているようです。結局普通列車は発車を遅らせて、特急を先に通すことにしたようですが、それならなぜ「やくも19号」は時間通りに行ってしまったのかと恨みがましく思いたくなりました。
 35分ほどで出雲市に到着。予約しておいたホテルは駅の目の前でした。翌30日はTasty 4の演奏会なので、このホテルに2連泊する予定です。

 ホテルで夕食はついていないので、チェックインしてから食事に出ました。出雲市駅は北口のほうが繁華街になっているようでしたが、私たちのホテルは南口で、あまり飲食店の姿は見えないように思えました。回転寿司の店があったので、そこに入りましたが、関東では馴染みのないチェーンで、なかなか美味しくいただきました。
 それからホテルの隣にある「らんぷの湯」という温泉に立ち寄りました。例によって大深度地下から汲み上げた都市温泉ですが、店名どおり照明がランプ風の電灯ばかりなのが売りです。いろんな種類の浴槽があるわけではなく、サウナなどもごく狭いものでしたが、じっくり汗を流せました。

 4月30日(土)の朝、朝食を摂りにホテルのロビーに下りてゆくと、以前Chorus STのメンバーであったやのくんとばったり出逢ったので驚きました。彼は清水雅彦さんの関係する演奏会でよくスタッフをやっていますし、奥さんの佐保子さんは故大國和子さんの弟子でもあり、秘書と間違えられるほど事務的な作業を頼まれていた人でもありますから、Tasty 4のコンサートにあたって東京から駆けつけたのは自然な話ですが、私たちと同じ宿に泊まっているとは思いませんでした。
 彼らは私たちより少し遅く活動開始するつもりだったようですので、また後で、という感じで別れを告げ、部屋に戻って身支度をし、9時12分の一畑電車に乗りました。
 途中分岐駅の川跡(かわと)で出雲大社前行きの支線に乗り換えます。最初の予定では、ここで一本やり過ごして、次に来る急行「大社号」に乗ろうかと目論んでいたのですが、それは取りやめました。というのは、前日のサイクリング中、マダムが急ブレーキをかけた時に衝撃が加わったようで、しきりに首の痛みを訴えるもので──首の痛みは前からあったもののそれが悪化したようなので──早く薬局に立ち寄りたかったのです。川跡駅前にはなんにも無さそうで、たぶん大社前まで行ったほうがありそうだったので、すぐに接続する電車に乗り換えたのです。
 思った通り、出雲大社前の駅を出るとすぐに薬局が見つかりました。湿布薬と鎮痛剤を買って、その場で貼ったり服んだりしてひとまず落ち着きました。
 大社前の駅で、Chorus STの団長である田川くん夫妻と待ち合わせています。彼らは飛行機で米子まで飛んでレンタカーを借り、前夜は松江市内に泊まったそうです。「大社号」に乗るつもりだったので、その到着時刻に落ち合うことにしていました。おかげで彼らを待たせることなく薬局に立ち寄れたのは幸いでした。
 ちなみに田川くんは運転ができず、クルマを動かすのは奥さんのすずりんです。彼女はChorus STの古株であり、もちろん私も結婚のはるか前から知っているだけに、田川夫人などと呼ぶのは勝手が違います。旧姓にちなんだこの名前で呼ぶことにします。
 「大社号」が到着して間もなく、私の携帯電話が鳴って、大鳥居のところに着いた旨を田川くんが伝えてきました。一畑電鉄の出雲大社前駅は、大鳥居より内側にありますので、ほどなく落ち合うことができました。クルマは大鳥居の外の道の駅に駐めてきたそうです。この日は、このまま4人で行動しました。

 何はともあれ出雲大社にお詣りします。最近は何やら「縁むすび」の御利益ばかり強調され、出雲空港なども「縁むすび空港」などと愛称をつけて便乗している始末ですが、もちろん祭神は大国主命(オオクニヌシノミコト)、伊勢神宮天照大神と並ぶわが国最大の神様ですから、それだけではありません。なお「大國」の苗字も当然ながら大国主命にちなんでおり、この辺にはたいへん多い姓となっています。直接の子孫一族というわけではないかもしれませんが、歴史のある時期に大国主命を慕ってこの姓を名乗ったのは間違いないでしょう。
 縁むすびが強調されるのは、大国主命が日本神話上でもとりわけ艶福家で、ヤガミ姫スセリ姫ヌナカワ姫タキリ姫カムヤタテ姫など多くの女性と交わっては子を作っているところに由来すると思われます。ただ女性から見るとどう考えても浮気者で、芦原醜男(アシハラシコオ)などという別名があるのは「醜男」というのが「強い男」を意味すると共に、やはり女性たちの恨みがこもっているという説もあるくらいですから、はたして縁むすびの神様として適確なのかどうかは微妙な気がします。
 私たちは幸い4人とも既婚者でしたので、さしあたって私は「仕事上での人との良い出会い」を祈念して参拝しました。残念ながら巨大な本殿は遷宮のための工事中で、詣ったのは小振りの仮殿に過ぎませんでした。本殿は再来年の5月に遷宮完了とのことです。
 宝物殿を拝観したり、境内でおこなわれていたお神楽をしばらく見物したりしてから大社をあとにし、正門前のそば屋に入りました。ガイドブックなどに必ず記載されている有名な店だけに、昼前からすでに行列ができていましたが、入ってみると座席配置は広やかで配膳も早く、名店と言われるだけはあると思いました。すずりんとマダムは三色割子、田川くんと私は五枚割子を注文し、デザートにそばの実のアイスクリームを各夫婦1個ずつあつらえました。
 コンサートは16時からですが、まだ少し時間があります。雨が落ちてきて、雷まで鳴り始めたので少々困惑しました。天気予報では、30日の山陰地方は晴れ、次の5月1日が雨となっていたのですが、いささか外れたようです。
 参道にあった、ちょっとオシャレな喫茶店で時間をつぶしているうちに、晴れ間が出てきたのでまた外に出ましたが、その後またしても雨が降ってきました。
 「日本海側の雨は油断できないんだ」
 金沢出身の田川くんが言いました。

 さしあたって、大國さんのお墓に詣でることにしました。墓地の位置、墓地の中のお墓の位置については、あらかじめ地図を貰ってきています。
 お墓に供える花を買おうと思い、喫茶店の店員に地図を見せて訊いたところ、
 「お花屋はないですねえ……こっちの道の先のほうにスーパーが一軒ありますけど……少し遠いですよ」
 との答えでした。実際行ってみるとそんなに遠くはありません。
 「田舎の人間は歩かないから、このくらいの距離でも遠く感じるんだよね」
 「かと思うと『すぐそこ』ってのが、『クルマですぐそこ』のことだったりね」
 などと話しながら歩きました。実際の話、最近は小学生などでも、都会の子のほうが足腰が強かったりするそうです。
 供花を持って墓地へ行くと、ほとんど探すまでもなく、一基だけやたらと色とりどりの花が飾られたお墓があったので、大國さんのお墓はすぐにわかりました。Tasty 4の面々ややのくん夫妻などは昨日から大社入りしているので、すでにお墓に来ているはずですし、東京から他の合唱団のメンバーも演奏会を聴きに来ているそうです。お花壺はぎっしりで、新たに挿すスペースが無いほどでしたが、私たちは無理に押し込みました。
 そのお墓には大國さんと、30年ばかり前に亡くなったお母様が葬られていましたが、その他にも「大國家之墓」と彫られたお墓がいくつも見つかりました。やはりこの辺では多い姓だということがわかります。

 お墓参りのあと、まだ時間があったので、旧国鉄大社駅跡や、すずりんがクルマを駐めた道の駅などを訪れました。旧国鉄大社線の終点であった大社駅は、寺院風のいかめしい駅舎で、新潟の弥彦駅と共に全国の鉄道ファンには有名でしたが、一畑電鉄の駅と違っていささか大社まで遠すぎ、不便なためにあまり利用者が無くて廃止されてしまいました。しかしこの駅舎だけは惜しむ人が多く、取り壊されずに原状のまま保存されています。プラットフォームもそのままで、D51が一台駐まっていました。昔は長大な急行列車が蒸気機関車に牽かれて発着したものなので、SLが飾ってあるのはそれで良いのですが、うるさいことを言えばD51というのは貨物列車専用の機関車だったので、大社駅に出入りしていたかどうかはわかりません。
 道の駅は、よくある産品直売所併設スタイルのものではなく、小ミュージアムといった趣きの施設でした。演奏会場の大社文化プレイス・ごえんホールはすぐ隣です。私は道の駅の休憩室でネクタイを締めました。特に舞台に呼ばれたりはしませんが、一応紹介はされるということでしたので。

 15時45分くらいに会場に行くと、もうかなり客が入っていました。最終的には200ほど置いた座席が、ほぼ9割方埋まっていたようです。大國さんが存命で出演するというのならともかく、地縁のない場所で演奏会をやってこれだけ埋まるというのはすごいことです。
 演奏会は三部構成で、まずTasty 4本来のメンバーである栗栖由美子さん、清水雅彦さん、小濱明さんと、大國さん・清水さんの弟子で今回代役のような形で入った向野由美子さん、それにもうひとり、大國さんとずっと同級生だった親友の娘さんで、今は歌い手になっている金築(かなつき)礼子さんが賛助出演者として、それぞれ1〜3曲ほど独唱しました。第二部は全員舞台に登場し、トークを挟んで、それぞれが大國さんとの想い出につながる曲を一曲ずつ歌います。そして第三部が全員演奏で、私の編曲した春の歌メドレー『春の情景』でした。第二部のトークがだいぶ長くなったようで、全体で2時間20分くらいになっていました。
 向野さんは大國さんの十八番であった『カルメン』ハバネラを第二部で歌いましたが、聴いていた人は(お世辞半分かもしれませんが)、
 「カコちゃん(大國さんのこと)がそこに居るのかと思った」
 と言いました。彼女ももうかなりキャリアを積んだメゾソプラノ歌手であるわけですが(ちなみにすずりんの中学・高校の同級生です)、亡き師の十八番をここで歌うのはやはり恐ろしかったようです。しかし、
 「今朝の夢に、大國先生が出てきたんです。まったく唐突だったんですが、今まで聞いたことないくらい優しい声で、『向野、向野』って呼ばれました」
 とあとで語っていました。ちゃんと見守っていたのだろうなと思います。ハバネラを歌う時には「降りて」きていたのかもしれません。
 『春の情景』については、大國さんがそこで歌っていないのが私にはなんだか不思議な気がしました。しかし代わりに入った向野さんの上に、やっぱり「降りて」いたように思えます。

 終演後、出演者と主要スタッフ、関係者、そして大國さんのご親戚などが集まって、会館の別室で打ち上げ会がありました。東京から聴きに来ていた板橋アルモニーなどのメンバーは先に帰ってしまいましたが、田川くん夫妻と私ども夫婦は出席しました。東京勢は、あと会場スタッフをしていたやの夫妻と、ステージマネージャーをしていた中尾さんが居ました。中尾さんは合唱指揮者協会で事務をしていますが、本人はハンドベルの名手で、YDと称するハンドベルグループを率いています。今年末、Chorus STとジョイントコンサートをすることが決まっています。
 大社側のスタッフは、ほとんどが大國さんの同級生のかたがたでした。大國さんは大社小学校大社中学校大社高校と進んで東京に出てきた人でしたが、こういう土地では大半の人が同じような経歴を辿るもののようです。ほとんど12年間同じ学校に居るようなものです。小学校は一学年3クラス、中学と高校は6クラスだったそうで、7年目に編入を受け入れて生徒数が倍になる12年制の学校と言っても大げさではないかもしれません。それではクラスが違ってもほとんどの人は知り合いになるでしょうし、その結びつきもことのほか強いものになるに違いありません。中には、さらに幼稚園の2年まで一緒だったという人も居ました。会場が満席近かったのは、それが理由だったのです。
 私は子供の頃、父の転勤などに伴って、けっこう転々と引っ越していましたから、こういう、土地に根を張った人間関係というものにきわめて乏しく、うらやましい気がしました。
 また、親戚のつながりも相当に強固であるようです。時と場合によってはそれはかえって煩わしいものになりかねませんが、大國さんは早くにご両親を亡くされただけに、そういう親戚同士の紐帯が心強かったことでしょう。
 いろいろ話もはずみ、気がつくと一畑電車の終電はとっくに出てしまっている時刻になっていました。すずりんの運転するレンタカーで、出雲市駅前のホテルまで送って貰いました。彼らはその翌日から、広島へ向かうつもりだとのことでした。
 ひとまず今回の私の「用件」は終わりました。このあとは、山陰がはじめてというマダムを案内して、鳥取砂丘天橋立を見物する予定です。

(2011.5.3.)

III

 4月30日(土)Tasty 4の演奏会の後、打ち上げで話が尽きず、つい終電を逃して(ちなみに出雲大社前駅からの終電は21時34分発です)田川くん夫妻にクルマで送って貰った私たちは、出雲市駅直近のホテルで2泊目の夜を過ごしました。
 翌5月1日(日)は8時55分という早めの列車、特急「スーパーまつかぜ6号」に乗って鳥取まで戻ります。マダムのためにもう少し遅い列車にしてやりたかったのですが、これに乗らないと以後の接続ががたがたになり、この日のメインである鳥取砂丘に滞在する時間がきわめて中途半端なものになりそうでしたので、のんびりしている(本人の主観では大いに急いでいるつもりらしいのですが)マダムをせっついてホテルを出ました。
 天気予報は外れて、雨にはなりませんでしたが、その代わりというか、おそろしく風の強い日でした。ホテルを出て数十秒で駅に入ると、風のため列車が50分くらい遅れているという案内をしていて、ぎょっとしましたが、幸い(?)それは反対方向の列車の話で、私の向かう鳥取方面の列車はほぼ定刻で動いていました。
 鳥取は何度も通ったことがあるし、駅前の温泉付きビジネスホテルに泊まったこともあるのですが、街を歩いたことはありません。砂丘については、従弟の父方の実家があって、中学校に上がる前の春休みに、従弟にくっついて鳥取へ行ったことがあり、その時に確かに訪れたはずなのですが、まるで記憶がありません。要するにはじめて行くようなものです。
 キャリーバッグをコインロッカーに入れようとしたらやっぱり無理で、駅の手荷物預かり所まで行って預かって貰いました。もう少し小さめの──せめて400円のロッカーに入る程度の──キャリーバッグを購入すべきかな、と思いました。


 そんなことをしていたら、ほどなく砂丘行きのバスの発車時刻となりました。このバスは周遊券で乗ることができるので助かります。
 10分ほど走ると早くも市街地を抜け、北側にある斜面を登ると、間もなく砂丘に到着します。
 すぐには砂丘に出ず、土産物屋やビジターセンターみたいなのをひとまわりしてから、さしあたって昼食を摂ることにしました。砂丘会館という大きな店の食堂は混んでいるようだったので、何軒か隔てた、洋食屋の趣きのある店に入りました。私は野菜カレー、マダムは「らっきょうキッシュとシーフードグラタン」を注文しました。そういえば鳥取はラッキョウの産地としても知られます。マダムの取った「らっきょうキッシュ」は、「ラッキョウが苦手な人にもお勧め」と謳っているだけあり、あんまりラッキョウ感が無かったようで、ラッキョウ好きのマダムとしては少々物足りなさげでした。

 食事を済ませてから、階段を上って砂丘に出ます。
 急に、ほとんど日本離れした光景が眼に飛び込みました。
 マダムは思わず「うわ〜」と叫びましたが、私もこんな規模のものとは思っていませんでした。
 位置的に言うと、バス停や観光施設があるのは砂丘の東端にあたります。そこから東西約16キロくらいに渡って砂丘が拡がっているわけですが、私はもう少し起伏に乏しい地形を想像していました。ところが、すぐに急な下り坂になっており、左下にはスリバチ状の池が水を湛えています。その向こうには相当に高い砂の丘──だから砂丘というわけですが──がそびえており、その斜面に張りつくようにして人々が登ったり下りたりしていました。見ていても距離感があまりつかめません。
 丘の尾根(?)の向こうは海になっています。砂だけの「山並み」と海との鮮やかなコントラスト、それが鳥取砂丘の魅力というものかもしれません。
 歩き出してみると、砂はさらさらとして、容易に靴の中に入ってきます。サンダルに履き替えたり、裸足で歩いている人も少なくありません。マダムもビジターセンターでサンダルを借りていました。風が強いので、細かい砂粒が巻き上がります。尾根筋に出ると風はいよいよ強く、ほとんど砂嵐と言いたくなるほどの勢いで、ぱちぱちと肌に衝突するので閉口しました。しかし風紋がきれいにできる状態でもあり、良い日に来たと言えるかもしれません。
 尾根の海側は急斜面になっており、海岸まで下りて行っている人も何人も居ましたが、登ってくる時のことを考えると、予定した時間には足りないような気がしたので、下りたがっているマダムを制止して、丘のピークへと向かいました。
 ピークまで登って西側を見ると、しばらく砂丘が続いた先に港湾施設が見えました。本当の沙漠であれば、そこからさらに見はるかす砂が続いているのでしょう。沙漠の旅人はさぞうんざりすることだろうと想像します。アレクサンダー大王の軍勢があれほど迅速に各国を征服できたのは、途中が沙漠ばかりで、なんとか早く次のオアシス国家に辿り着きたいと必死になって走っていたからだという説を読んだことがあります。
 元の入口あたりに戻ると、すでに一時間くらい経過していました。距離感がつかめないので、時間の感覚もおかしくなります。

 入口近くに、ラクダが4頭ばかり飼われていました。ふだんは客を乗せて闊歩したりもするようですが、この日は風が強すぎるので、乗って写真を撮らせるだけの営業をしていました。
 「写真を撮らないなら近くへ寄ってもいいですよ」
 とおじさんに言われて、脚を畳んで休んでいる1頭の側に近づいてみました。
 ラクダの眼をはじめてよく見ましたが、話に聞いている通り瞳が横長なので、少々異様な、しかし何やらのんびりした雰囲気を強調しているようでした。砂嵐を防ぐために睫毛が非常に長く、そのためとても優しそうな顔に見えます。
 ラクダのコブに水が入っているわけではないということは、さすがにもうだいぶ知られていると思いますが、それでは何がなんのために入っているのかを説明できる人はまだ少ないかもしれません。解剖してみると、脂肪のかたまりだったそうです。われわれだとおなか周りあたりにつきがちな体脂肪のほとんどを、背中にまとめて担いでいるわけです。「水」説のなごりか、「脂肪を分解して、水が飲めない乾燥時に水分補給をする」ということを言っていた学者も居るようですが、実のところ水分補給とはあんまり関係ないようです。いちばん大きなメリットは断熱材としての役割だとか。沙漠の直射日光による猛烈な暑さから身を護るのが、コブのいちばんの存在理由であるらしい。脂肪の多い太ももやお尻などがひんやりしていることが多いのでわかる通り、動物の脂肪は熱を遮る性質があるのです。
 ふさふさとしたたてがみや体毛も断熱のためです。あんなに分厚い毛皮をまとっていては暑くて仕方がないだろうというのは人間の感覚で、人間は全身から汗をかくため、暑いところで毛皮などをまとっていると蒸れて大変なことになってきますが、ラクダはほとんど汗というものをかかないそうで、いろんな点で沙漠という苛酷な環境に見事に適合したからだを持っていると言えるでしょう。
 マダムもはじめてラクダを間近で見て、気に入ったようでした。

 サンダルを返し、多少土産物なども買ってから、リフトで展望台へ行きました。展望台は一段高い崖の上にあり、その近くにもバス停があるので、そこから直接乗ってしまおうと思います。
 リフトは2人掛けのロマンスリフトで、終点近くで係員がカメラを構えています。写真を撮ってそれをすぐ終点に転送し、専用のパッケージにプリントして1000円ばかりで希望者に売るという、よくある商売をしているのです。私たちが写ったのを見ると、表情はなかなかにこやかで悪くないのですが、土産物を買った時に入れて貰ったポリ袋を抱えたさまが、どう見ても近所のスーパーに買い物に行った帰りみたいな風情に見えて、旅情も何もあったものではなかったので、買わずに通り過ぎました。
 あまり時間がありませんでしたが、建物の5階くらいの高さにある展望台まで一気に駆け上がり、しばらく望遠鏡で砂丘の様子を眺めたりしてから下におりました。ほどなくバスがやってきました。
 20分足らずで駅に戻ります。バスを降りて駅舎のほうへ歩き始めた途端、前方でバシッという衝撃音が聞こえました。
 音のしたほうを見ると、はらはらと何かが地面に舞い落ちるのが見えました。葉っぱかと思ったのですが、もう少し重みがありそうな音でした。近寄ってみてみると、小鳥が気を失って地面に落ちていました。地下道へつながる階段の入口で、透明なアクリル板のフードのようなものがついているので、小鳥はそこを通り抜けるつもりでアクリル板に激突してしまったのでしょう。
 ぴくりとも動かないので、死んだのかと思いました。近くに植え込みがあったので、
 「埋めてやろうよ」
 とマダムが屈み込み、小鳥を持ち上げようとすると、小鳥は驚いたように一瞬激しく羽ばたいて、また動かなくなりました。どうも脳震盪でも起こして気絶しているだけのようですが、このまま歩道に落ちていたら誰かに踏んづけられて本当にお陀仏になりかねないので、植え込みのところに持って行って、埋めることはせず、ただ横たえておきました。鳥の種類は私にはよくわかりませんが、帰ってから図鑑を見ると、ウグイスのように見えました。まさにウグイス色の体色に、特徴的な眉毛のような白い羽毛が生えていたので、たぶんそうでしょう。
 預けていた荷物を受け取りに行ったのち、マダムが
 「さっきの鳥、どうしたかな」
 と言い出したので、もう一度植え込みのところに戻ってみると、小鳥はもう居ませんでした。猫に持ってゆかれたとか、誰かが気づいて連れて行ったとも思えないので、たぶんしばらく草や土に触れているうちに息を吹き返して飛んで行ったのでしょう。マダムはひどく安堵し、そして
 「鳥取で鳥を救うなんて」
 と繰り返して感動を噛みしめていました。

 鳥取発16時22分。山陰本線の鳥取以西はほとんど鈍行ばかりになり、運転本数も減り、しかも短距離列車が大半になります。浜坂まで45分ほど走り、そこでまた鈍行に乗り換えて豊岡へ。このあたりは駅ごとにと言って良いほど温泉場はあるし、漁港もあっておいしい魚は食べられるし、夏は海水浴もできると言うのに、このさびれようはどうしたものかと思います。
 有名な餘部(あまるべ)鉄橋もこの区間にあります。下りの場合はトンネルを出てすぐ、上りの場合は餘部駅を出てすぐ、いきなり空中に投げ出されたかのような感覚に襲われる高い鉄橋にさしかかります。高さだけならもっと高い鉄橋もあるでしょうが、直下が集落、その向こうが海というアングルの妙で、視界に遮るものが何もなく、旧国鉄の車窓でもこれほど怖い場所は無いと言われたほどです。
 が、しばらく前に、強風に煽られて列車が吹き落とされ、6人の死者を出す事故があってから、鉄橋には柵がつけられて、すっかり安全な印象になってしまいました。さらに鉄橋そのものが老朽化しているというので、コンクリート製の堅固な橋に付け替えられ、今ではなんの変哲もない高架線という趣きになりました。安全のためには致し方ありませんが、またひとつ鉄道名所が減ったのは寂しい気がします。
 城崎温泉を過ぎて、18時34分に豊岡に到着しました。この日はここで宿泊します。特に趣向があって豊岡泊を選んだわけではなく、次の日に天橋立に行くにあたって、北近畿タンゴ鉄道のターミナルである豊岡に泊まっておけば便利かなと思っただけのことです。城崎でも良かったのですが、志賀直哉の私小説に出てくるような古い温泉町だけに、老舗みたいな敷居の高い旅館がほとんどで、あまり廉価で泊まることができそうにありませんでした。豊岡ならその点、安いビジネスホテルもいくつもありますし、夕食を摂れる店も多いと思われます。

 また駅前すぐのホテルに投宿しました。フロントに手作りらしいグルメマップがあったので、一息ついてからそれを片手に出かけました。そのホテルに宿泊していると告げるとなんらかのサービスが受けられるという店もいくつかあります。そういう店をいくつか検討しているうちに、たいていは飲み屋などが名を連ねる中、「旬菜ダイニング」という触れ込みになっている店を見つけました。マダムはこの手の店が好きなので、早速行ってみることにしました。
 まだ19時過ぎというのに早くも寝静まった観のある商店街をしばらく歩き、市役所近くまで行ってちょっと道を折れたところに店がありました。入ってみても他の客はおらず、店の人も姿が無くて、坊やがひとりこっちを見ていました。
 「ごめん下さい」
 と声をかけると、坊やはちょこちょことひっこんでゆき、まだ若いシェフが顔を出しました。
 着席すると、シェフの奥さんらしい女性が注文を取りに来ました。アラカルトで注文するよりもセットのほうが手っ取り早いと思ったのですが、あまりのひと気の無さにちょっと気後れして、
 「このセット、できます?」
 とおそるおそる訊いてみました。
 奥さんは軽く首を傾げ、
 「すみません、ちょっと訊いてきます」
 と厨房にひっこみました。なんだか心許ない雰囲気です。
 やがて戻ってきて言うには、
 「材料の関係で、いくつかのお料理は差し替えになるんですけど、それでよろしければ……」
 この日は日曜日ですし、何しろゴールデンウィーク中で、市場も開いていないのかもしれません。もちろん否やはなく、それで注文しました。
 予想外に──というと失礼かもしれませんが──上等な料理だったのでマダムも私も驚きました。コースの組み立てはフレンチ風でしたが、肉料理のあとにパスタが出たあたりはむしろ懐石の考え方(最後のほうで「お食事」と称してかやくご飯なんかが出てくる感覚)かもしれません。全体的に地場の食材を用いていて好感が持てます。
 私たちの食事の後半くらいになって、やっと他の客が入ってきたので、少しほっとしました。客が私たちだけで気詰まりというほどのこともないのですが、こんな良い料理を出す店に閑古鳥が啼いているようでは、いくら連休中でも困ったものだと思っていたのでした。
 ホテルの名を告げることによる「なんらかのサービス」は若干の割引でした。ワンドリンク無料とか、お通し無料とか、店によって違うようです。満腹して外に出て、静まった街を少し遠回りして宿に帰りました。

 5月2日(月)は9時50分の列車で出立です。前日より1時間遅く、朝の用意も余裕があるだろうと思っていたのですが、あいにくと起床したのも1時間遅かったので、ほぼ同じようにばたばたしました。女性の支度にはどうしても時間がかかるものです。男はその点お手軽なもので、10分もあれば荷物をまとめられます。私は起床からチェックアウトまで5分という記録があります。
 北近畿タンゴ鉄道の乗り場が、階段を昇り降りしなくても良い場所であったので助かりました。以前JRの列車から数分で乗り換えなければならなかった時はえらく走らされ、不便な駅だと思ったものですが、駅の外から乗り込むのは楽な形になっていました。
 最初はがら空きでしたが、京都府に入って、久美浜あたりから少し客が多くなりました。私たちは転換クロスシートを向かい合わせて坐っていましたが、元に戻して並んで坐ることにします。キャリーバッグが大きいので、膝がつかえて坐りづらいのですが。
 奥丹後半島は、よく「弁当忘れても傘忘れるな」と言われるほど雨の多いところですが、この日はよく晴れていました。ところが私は緑色のビニール傘を後生大事に持っています。うっかり折り畳み傘を家から持ってくるのを忘れてしまったため、大社で雨に降られた時に、供花を買ったスーパーで買い求めたものです。ビニール傘ではなく、せめて折り畳みの傘にすべきでした。山陰一帯が雨と予報されていた1日も晴れ、2日もこんな好天では、邪魔でしかありません。キャリーバッグに入れてしまうには長すぎるので始末に負えないのです。
 天橋立駅には10時57分に到着しました。キャリーバッグは例によってコインロッカーに入らないし、鳥取駅のような荷物預かり所も見当たらないので、駅の案内所で荷物預かりをしてくれるところを訊ねてみました。駅前通りのいくつかの土産物屋で預かってくれるそうですので、そのうちの一軒を訪ねました。傘ももちろん預けてしまいました。荷物を預けた客が店で買い物をすると、一割引いてくれるとのことです。
 天橋立は学生時代に山陰を旅した折りに立ち寄りました。その時は確か、遊覧船に乗っただけだったと記憶しています。今回は少し時間をとってありますので、またぞろ自転車を借りて走り回ってみることにしました。
 レンタサイクルをしている店はたくさんあるようです。ほとんど海辺で高低差のないところなので、自転車が便利なのでしょう。しかしこれから訪れる人に私がご注意申し上げたいのは、あわてて借りないようにということです。店によって料金がえらく違うのです。例えば、駅から海岸へ向かって歩き始めると、すぐ目につくレンタサイクルスタンドがあるのですが、ここは2時間まで400円、以後30分超過ごとに150円加算、となっています。こんなところで借りては高くつく上、30分ごとに時間を気にしなければならず、のんびりとできません。智恩寺の門前に行けば、終日400円というような店がいくつもあるのです。確実に2時間以内にここを立ち去るつもりの人以外は、そういう店を探したほうがお得です。
 私たちも「終日400円」の土産物屋で自転車を借りました。

 まずは智恩寺に参拝します。ここは文殊菩薩をご本尊とすることで有名です。「文殊の智恵」という言葉で知られる通り、文殊菩薩は知力を司る菩薩なので、絵馬なども合格祈願の札が圧倒的に多いようでした。附近の茶店には「智恵だんご」や「智恵餅」が売られていますし、「文殊」というのは町名にもなっています。かつては「文殊」という特急も走っていました。思えばレンタサイクルの料金が違うのも、訪れる者の智恵を試しているのかもしれません。
 廻旋橋を渡ると松並木に入りますが、本体に入る前にもうひとつ大天橋というのがかかっています。いずれも短い橋とはいえ、渡るのは川ではなくれっきとした海峡であるところがロマンティックです。
 廻旋橋と大天橋に挟まれた洲に、日本三景の碑とか日本三景の松とかがあるわけですが、その洲は宮津湾側に細長く延びて、はまなすの小径というのが通っています。実際には水路に面した石垣の上をゆくだけで、柵も無く、時に松の枝が無遠慮に突き出していたりして、決して安全とは言えない「小径」でした。名前の通り、沿道にはハマナスの群生地があるらしいのですが、よくわかりませんでした。開花時期は4月下旬から6月初旬というので、時期的にはドンピシャのはずであり、案内図によると「かわいいピンク色の花が一面に咲き誇」っているはずなのですが、ピンク色のものを見つけて近寄ると目印用のビニールテープだったりして、ハマナスらしき花はまったく見当たりません。今年は寒さが長く続いたのでまだ開花していないのでしょうか。
 松葉が頭に刺さったり、自転車の車輪が砂地にめり込んだりと、さんざんな想いで元のところへ戻り、大天橋を渡りました。

 渡ってすぐのところに、茶店があったので、そこで軽く昼食を摂りました。店の中と外に席があり、外の席では七輪がいくつか置いてあって、干物などを買って自分で焼いて食べられるようになっていました。マダムが早速ハタハタの干物を買って焼き始めましたが、坐った席の七輪の火力がどうも弱いようです。他の席の七輪は炎が見えるくらいなのに、われわれのところは上に手をかざしてもそんなに熱くないありさまでした。店の女の子に言って、炭を取り替えて貰いましたが、やっぱりなかなか熱くなりません。たまりかねて、他の席が空いたのを幸いそちらに移動しました。
 そんなことをしていたので、けっこう時間を食いました。とにかく松並木の終点まで走ってゆき、折り返してきてから、ビューランドに向かいました。そもそも天橋立の真価は、松並木の中を散策することではなく、松並木を遠方から見た時の眺望の風情にあるのではないかと思います。北側の傘松公園からの股覗きが有名ですが、駅のある南側のビューランドからも股覗きができます。傘松公園から股覗きをすると、松並木が天に連なる橋(つまり天橋立)に見えるそうですが、ビューランドからだと昇龍の姿に見えるとか。傘松まで行っていると時間が足りないので、ビューランドから股覗きをしてみることにしたわけです。荷物を預けた土産物屋で、ここのモノレール・リフトの割引券を貰っていたことでもありますし(もっとも、その割引券は駅にもあったし、そこらじゅうで配っているようで、乗車券売り場の列に並んでいる人はたいてい持っていました。当然、割引率などは大したことがありません
 モノレール・リフトと書きましたが、そういう名の乗り物があるわけではありません。40人乗り、20分間隔運行のモノレールと、ひとり乗り、随時運行のリフトが並んでいて、どちらに乗っても構わないというシステムです。他に道路は無く、自転車も駐めてゆくしかありません。
 駐車場のほうに行くと、整理員のおじさんが、
 「あ、自転車ならそこに駐めて」
 と言いました。示されたのは民家の軒先で、確かに「駐輪場」と札が立っていたから問題はないものの、この家の人は迷惑なんではないかと思ってしまいました。
 「あのおじさんが、この家の人だったりして」
 と私が冗談を言うと、マダムは妙に乗ってきて、リフトの誘導員はそのおじさんの弟じゃないかとか、いろいろ想像をふくらませはじめました。
 リフト(とモノレール)を下りるとすぐ園地になっています。股覗きをしてみたら、一応龍の形が見えました。さっきのはまなすの小径のところが腕(前足?)で、智恩寺のあるあたりを頭と見立てるのでしょうか。なるほどとは思ったものの、頭が天井(こちら側の陸地)につっかえていて、少々天に昇るには苦労しそうな龍でした。
 サイクルカーという空中自転車のアトラクションだけ乗ってみました。ふたり乗りで、ペダルをこいで中空に設置されたレールの上を一周してくる、遊園地にはよくある乗り物です。やたらと張り切って猛スピードを出している若者も居ましたが、速かろうが遅かろうが一周しかできないので、ゆっくりこいだほうが得な気がします。外側でペダルをこいでいると、下の地面が足下に隠れてしまっていきなり空中に放り出されるように思われるところがあり、ごく小さな遊具とはいえけっこうスリリングでした。高所恐怖症の人は内側に乗ることをお奨めします。

 ビューランドから下山し、自転車を返して、近くの喫茶店で一服したのち、荷物を受け出しに行きました。いくつか買い物もします。
 天橋立駅を15時10分の列車で発つつもりだったのですが、少しのんびりしてしまい、次の15時58分のに乗りました。予定していた10分発は「タンゴ浪漫2号」と愛称がついていて、普通列車ではありますが、途中まで特急で来ているため当然特急用車輌であり、しかも景色のいいところで適宜一時停車してくれるなどのサービスのある列車でしたから、乗ってみたい気はしたのですが、まあどうしてもというほどのことでもありません。
 ただ、「タンゴ浪漫2号」に乗らないのであれば、次の宮津宮福線に乗り換えたほうがルートとしては簡単になります。福知山まで直行し、あとは京都なり大阪なりにどうにでも出られるからです。ところが、ここはすでに「山陰周遊きっぷ」の周遊区間ではなく、すでに帰途になっているため、経路変更ができません。それで、「タンゴ浪漫」の行程どおりに西舞鶴まで行って、JR舞鶴線綾部へ出て、そこから京都へ……というややこしい道順をとらなければなりませんでした。まったく不自由になったものだと思います。
 とはいえ、宮津湾に沿った車窓は、午後の穏やかな陽光を浴びて、ローカル線ならではの実に駘蕩とした時間を味わいました。汽車旅の至福を感じるのはこういう時です。

 西舞鶴では少し時間があったので駅前をぶらつき、17時05分の「リレー号」に乗りました。綾部と福知山で特急と接続する列車のことをこう呼んでいるだけで、単なる普通列車です。綾部で下りて「きのさき20号」に乗り換えました。
 綾部は私の先祖が居た土地ですが、駅から外へ出たことはありません。いちどゆっくり歩いてみたいと思っています。もっとも、同じ綾部市でも、九鬼氏綾部藩ではなく、その隣の山家(やまが)という、粟粒のような小さな藩(一万石と言いますから、大名としては最小で、それより減ると大名ではなく旗本になってしまいます)の藩士であったそうです。山家という駅も綾部の隣にあり、特急は停まりませんが、今まで意識して通ったことがなかったので、通過する時に様子を見たいと思いました。
 「きのさき20号」が綾部を発車してから、通過駅を見逃さないようにきょろきょろと景色を見ていましたが、もうそろそろかな、と思った頃に検札が来ました。周遊きっぷでは、周遊区間の特急の自由席にはタダで乗れるのですが、往復経路の特急券は別に買わなければなりません。綾部での乗り換え時間が少なかったので、まだ特急券を買っておらず、車内で買う必要がありました。お金や車内補充券をやりとりしながら、私はなおも絶えずきょろきょろしていたので、車掌にはさぞ挙動不審者に見えたことであろうと思います。
 幸い、すべて済んでからやっと山家駅を通過しました。のどかそうな、どこにでもありそうな平凡な農村です。ここが私の家の発祥の地であると考えても、あんまりぴんと来ません。やはりいちど、ゆっくり歩き回ってみなくてはと思います。

 京都着18時49分。この駅を発ったのが4月29日の10時51分でしたから、3日と8時間ぶりに戻ってきたことになります。
 帰りも夜行バスに乗ることにしてありました。これは当初からの予定で、最終ランナーを新幹線であわただしく済ませたくないのと、「銀河」などの在来線列車もすでに無いということを考えると、夜行バスがいちばん良いと考えた次第です。同行者がバスに弱いようだったらさすがにそんなことは考えませんが、マダムは人並み以上の夜行バスファンですから、これはもう決まったようなものです。
 バスが発車する23時00分までは時間がありますので、地下街で夕食を摂り、それから京都タワーの地下にある大浴場へ行って旅の垢を落としました。この大浴場、私は今まで全然知らなかったのですが、実は夜行バスファンの間ではよく知られた存在だったようです。朝に到着してすぐひと風呂浴びるというのが「通」だったようで。ただしまともな料金だと750円、割引券(あちこちで配っている他、webからも入手できます)でも600円というのは、ジャグジーなども備えていないただの風呂としては少々高めかも。特に目下のところサウナも使用停止状態なので、せめてサウナが復活するまでは少し料金を下げて貰いたいように思われます。
 終業時間の20時半ぎりぎりまで居て、それから外へ出てコーヒーなどを飲んで時間をつぶしました。
 バスは、名神高速が混んでいるとかで、到着が遅れました。少しは空いているかと思いきや、やはり満席でした。もうはやUターンラッシュが始まっているのかと驚きましたが、Uターンというよりも、これから京阪神地域を発って旅行に出るという人もだいぶ居たのではないかと思います。5月2日は今年のゴールデンウィーク中唯一の平日であって、普通に仕事のあった人も多かったはずです。仕事を終えてから夜行バスで出かけて、3日〜5日の三連休を遊ぶ、という人が多くても不思議ではありません。
 案の定、上りの東名高速はさほど混んではいなかったようで、東京には定刻、というより少し早めに到着しました。首都圏への本格的なUターンラッシュが始まったのは、この日──3日の午後くらいからだったようです。往路の夜行バスだけはえらいことになりましたが、おおむね良い行程であったと思います。

(2011.5.4.)


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