37.近畿山陽三セク旅行


 大阪へ行く用事ができた。
 大阪に2003年11月19日(水曜日)の晩6時頃までに到着していれば良い。
 手帳を繰ってみると、当日はもちろんだが、その前日の火曜日、翌日の木曜日共に予定が入っていない。
 そうとなれば、この機会を逃す手はない。例によって周辺に足を伸ばすことにした。
 私の言う「周辺」というのがどんな概念なのか、微妙なところだが。

 月曜の晩に仕事上の打ち合わせがあったので、それを終えた後、東京発22時00分の「サンライズ」に乗車した。
 JRが久々に開発した電車寝台特急「サンライズ」は、高松発着の「サンライズ瀬戸」出雲市発着の「サンライズ出雲」に運用されているが、岡山までは併結して走るので、どちらとも言い難い。私の乗ったのは一応、岡山以遠は「サンライズ出雲」になる車輌であった。
 「サンライズ」は個室を主体として編成されている画期的な寝台車だが、その中に、指定席特急料金だけで乗れる車輌が連結されている。「ノビノビ座席」と称するもので、名称こそ座席となっているが、実際には船の大部屋みたいなもので、二段式の床が張られていてそこに寝ころぶことができる。JR北海道で運用されているカーペットカーに近い。頭と荷物をつっこむ仕切りだけあるのだった。
 昔は寝台・座席併結列車というのも珍しくなかったが、今はほとんどなくなってしまった。夜行列車で旅をしようと思うと高い寝台料金を払わなければならない。それも、鈍行寝台が全滅し、急行すらも風前の灯火である現在、寝台料金の他に特急料金まで否応なく巻き上げられるシステムになっている。これでは夜行高速バスに客をとられる一方なのは無理もない。
 そこで、JRは窮余の一策として、夜行だが寝台料金不要という車輌をいくつかの夜行列車に連結することにした。皮切りとなったのが、関西圏と九州を結ぶ「あかつき」「なは」レガートシートである。これはまさに夜行高速バスの鉄道版で、リクライニングの深い独立三列シートを設置し、かなり楽に夜を過ごせるようになった。
 JR北海道のカーペットカーも、夜行急行「はまなす」に連結されて好評である。
 こういうことに反応の鈍いJR東日本も、「あけぼの」ゴロンとシートを設置した。ただしこれは新造や改造をしたわけではない。従来型の寝台で、ただ枕もシーツも毛布も寝巻も供さないというものだ。この前青森に行った時にこれに乗ったが、悪くない。時代遅れの開放型寝台車は全部ゴロンとシート化してしまってもよいのではないかと思ったほどだ。
 そして新造の電車寝台「サンライズ」ではノビノビ座席というわけである。
 そんなにお金をかけたくなかったし、山陰まで行くのならともかく岡山で下りるので、私は今回このノビノビ座席を利用することにした。大阪周辺と言いながら岡山まで行く不可解さについてはのちほど判明する。

 11月の平日という閑散期だけに、乗客は少なかった。ノビノビ座席にも、上下段合わせて10人ほど乗っていたばかりである。
 発車後間もなく、検札が廻って来た。私は3枚の切符を差し出す。「北近畿ゾーン周遊きっぷ・ゆき券」「東京──岡山間指定席特急券」「上郡──福山間乗車券」の3枚だ。
 周遊きっぷの北近畿ゾーンというのは、丹後地方、つまり天橋立なんかがある地方を中心とした範囲で、山陰本線小浜線福知山線などから進入することができる。往復の経路は自由なのだが、今回私は、山陽本線上郡(かみごおり──姫路のふたつ先)から第三セクターの智頭(ちず)急行を経て、鳥取方面から入口駅浜坂へと向かう、おそろしくまわりくどいルートをとることにしたのだ。建物に入るのに、こちら側に正門があるのにわざわざ側面を迂回して裏口に廻るようなルートで、例によってびゅうプラザの女の子を大いに悩ませることとなった。私はよくこういう面倒くさいルートの切符を注文するので、発券に手間取ることが多い。
 しかも、山陽地方の乗り残した鉄道をこの際潰してこようという下心がある。具体的に言うと、倉敷から出ているローカル私鉄水島臨海鉄道、わりに新しくできた第三セクター井原鉄道のふたつである。井原鉄道は岡山県の総社市と広島県の神辺町を結んでいる。神辺(かんなべ)側から戻ってこようと思ったので、そのためには山陽本線を福山まで行かなければならない。福山に停車する夜行には、日程上乗ることができなかったし、その途上倉敷で途中下車する必要もあったから、「サンライズ」に岡山まで乗ることにしたわけである。
 ところが、上記の周遊きっぷの「ゆき券」では、岡山はルートに含まれない。そのため、山陽本線と智頭急行が分岐する上郡から、福山までの乗車券を別に購入した。100キロ以上あるので、倉敷で途中下車することができる。福山から分岐する福塩線の神辺まで通しで買おうかとも思ったのだが、調べてみると、そうすると距離が120キロを超え、運賃がはね上がってしまう。福山──神辺を別に買った方が安くなることがわかった。
 検札の車掌は、3枚の切符を見て少々面食らったようだったが、すぐ納得して検札印を捺してくれた。

 ノビノビ座席はお手軽だが、床が固くて寝苦しい。同じ姿勢で寝ているとあちこちがこわばってくるので、しばしば寝返りを打ったが、からだの接地している面がだんだん痺れてくる。同じ値段なら、「あけぼの」のゴロンとシートの方がずっと寝心地がよろしい。
 あとで思うと、各仕切りに供されている毛布を、上に掛けるのではなく、下に敷けばよかったのだと気がついた。暖房は完備されているから、上に掛けなくても一向に寒くはない。しかしすでに後の祭りで、あんまり眠れずに一夜を過ごし、節々ががたぴし言うような気分で早朝の岡山駅に下り立った。
 6時37分発の各停に乗り換えた。倉敷まで3駅、15分ほどである。寝不足なので、なんだか精神状態が変な感じで、
 「なんの、くらしき(これしき)」
というようなしょうもない語呂合わせが口を衝いて出る。
 倉敷駅の駅前広場はペデストリアン・デッキが拡がって二階建てのようになっている。その中でいちばん場末めいた方向に下りてゆくと、水島臨海鉄道倉敷市駅があった。この鉄道は貨物の取扱量も多く、JRに直行できるような配線になっている。旅客用の駅はJR倉敷駅のかたわらに張りつくように片面だけ用意されている。待合室は何やら無駄に広い感じだった。プラットフォームもいやに長いのだが、2輌編成のディーゼルカーはそのごく一部を使って停車した。ローカルな弱小私鉄と思っていたが、車輌はずいぶん大型のものを使っていて、意外な気がした。
 倉敷市から乗った客は、女子高生がやたらと多く、そのわりに男子が見当たらない。沿線に女子高があるのだろう。
 両端を含めて10個の駅があり、所要時間は24分。全線単線だが、3つ目の西富井、6つ目の弥生、9つ目の水島ときれいに3つおきに交換駅があり、その交換もごくスムーズで、単線の弊を感じさせない。
 さらに驚いたのは、弥生──水島間のかなり長い距離が完全高架となっていることだった。田舎のミニ私鉄という認識は誤りで、非電化単線ながら、れっきとした都市鉄道の観がある。そういえば全線が倉敷市内に含まれているので、市内交通の役割が高く、高架にするのも市からの補助がずいぶんあったのではないかと思う。
 市内と言っても人跡稀な山の中だったりするケースが多いのだが、この臨海鉄道の沿線はずっと市街地で、倉敷市の市街がこんなに広いものだったというのも驚きである。
 事実上の終点は水島で、その先の三菱自工前は、貨物線の途中に工場の従業員の便宜のために仮に設けられたような駅だった。駅前も、ロータリーも商店街もあるわけではなく、道路が並行しているだけ。4分滞在しただけで舞い戻る。
 線路そのものは、まだずっと先まで続いている。この先は川崎製鉄の敷地で、貨物列車がわりと頻繁に往復しているのである。

 倉敷に戻り、どこかで朝食を食べたいと思ったが、乗り換え時間が20分という微妙な長さである。キオスクでパンなどを買ってプラットフォームに下りた。
 倉敷駅のプラットフォームは、下の方に格子壁を模したような化粧板が張られていたりして面白い。古い街並みの残る街である。
 8時35分の徳山行き普通列車に乗る。広島近郊だけ快速になる「シティライナー」だが、私の乗る福山まではまだ各駅停車のままだ。乗客は多く、新倉敷まで坐れなかった。なんとか坐ってからも、客は乗ってくる一方で、この区間の最大の中間駅である笠岡でもさほどの入れ替わりはなかった。笠岡は県境の駅(そして備中備後の国境)でもあり、私の今までの経験から言うとかなり乗客の入れ替わりがあって良いはずなのだが。
 広島県に入ってからの駅、大門東福山では、それぞれ幼稚園の団体なんかも乗ってきて、車内はラッシュ状態となってしまった。福山でちゃんと下りられるだろうかと心配になったほどだが、さすがに広島県第二の都市である福山では、ごそっと下車する。幼稚園児たちも一斉にプラットフォームに吐き出された。
 一旦改札を出て神辺までの切符を買い、福塩線プラットフォームへ上がった。目の前には福山城がそびえている。天守閣は昭和41年に再建されたものとはいえ、これほど駅に近い城は他にはないだろう。ペリー来航時に対応に苦慮した開明的な老中阿部正弘(あべまさひろ)がこの福山城主だったというのは今回はじめて知った。
 駅構内には「いい日旅立ち」が流れている。そういえば倉敷でも流れていた。さらに今回の旅行中あちこちの駅で流れていた。なぜ今さら、と思ったが、JR西日本が、かつての国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンになぞらえて「ディスカバー・ウエスト」なるキャンペーンを張っており、「いい日旅立ち」をテーマソングとしてリバイバルさせていたのだった。歌っているのは山口百恵ではなく、鬼束ちひろによるカバーである。

 福塩線は福山と芸備線塩町とを結ぶ地味な路線で、前に一度乗った時は、こんな路線にはもう二度と乗る機会がないだろうなと思ったものだったが、案外早く機会が訪れた。もっとも神辺には福山から13分ほどで着いてしまうから、福塩線に乗り直したというほどのことではないけれど。
 神辺駅もいかにも郊外といった雰囲気の地味な駅で、井原鉄道はなぜこんなところに出てきたのかと思う。もう一方の端も伯備線の清音(きよね)というこれまた地味な駅だ。井原鉄道は第三セクターであって、その前身は国鉄の予定線であったから、しかるべき大駅(伯備線では総社もしくは倉敷、福塩線では福山)まで直通乗り入れをさせるつもりだったのだろう。伯備線側はなんとか総社まで直通運転しているが、福塩線側は乗り入れできていないから、かなり不便だ。井原市民の便を考えるならば、昔あった井笠鉄道(笠岡につながっていた私鉄)を復活させた方がましだったのではあるまいか。
 神辺から乗ったのは、朝10時台という閑散時間帯であったせいもあるが私ひとりで、この便利とは言えない鉄道の前途が不安になる。
 井原までは立派な高架線が続くが、井原のひとつ手前のいずえまでは、列車は私だけを運んでいたのだった。どう考えても建設費の回収は覚束なさそうである。
 沿線ものどかな田園風景が拡がっているだけで、特に絶景があるわけではない。観光地もない。「子守唄の里高屋」とか「早雲の里荏原」とか、苦し紛れみたいな観光指向の駅名をつけてはいるが、わざわざ訪ねる気になる人がどれくらい居ることだろう。前者は「中国地方の子守唄」の発祥の地で、後者は北条早雲生誕の地ということらしい。確かに早雲は備中伊勢氏の出らしいという説が近年有力にはなっているが、本人が備中で生まれたかどうかは定かでない。むしろ京都で生まれ育ったと考えた方が素直な気もする。

 平凡な車窓に寝不足が重なって、後半は少しうとうとした。ふと気づくとだいぶ乗客が増えていたが、ほどなく清音に到着、大半の客は下りて行った。岡山行きの電車がほどなくやってくるからで、反対方向の総社に向かうような人は少数なのだった。
 私も清音で下りて岡山に戻るつもりだったのだが、気が変わって総社に出ることにした。岡山に直行しても、その先姫路方面に向かう列車の便が案外なく、かなり待ち時間がある。総社から吉備線に乗っても、岡山からは同じ列車に乗れることがわかったので、それなら吉備線の方が面白い。
 総社で25分余り待ち時間があったので、駅近くのスーパーマーケットで食糧を補給した。街の中はあまりひと気もなく静まりかえって、何やら不気味なほどだったが、駅に戻って吉備線のディーゼルカーに乗ると、ずいぶん乗客が多い。どこから湧いて出たのだろうかと思った。
 ディーゼルカーは単行(1輌編成)で、しかも端から端まで壁沿いに座席が伸びているロングシートだった。しかも混んでいるとなるとどうもありがたくない。私はなんとか坐れたが、最終的には立ち客もずいぶん多くなった。
 ハイキング姿の年配の客が多く、それがまた頻繁に乗り降りする。吉備線沿線は、造山・作山の両古墳、吉備津神社、それに秀吉の水攻めで名高い高松城跡など、短い路線ながら史蹟の宝庫と言える地域で、史蹟巡りのお年寄りが多いとおぼしい。ハイキングするくらいだから健脚なのだろうが、やはり近くに来たら席を譲るべきだろうかなどと考える。
 史蹟の宝庫ではあっても、車窓はそんなに面白くはない。その上ロングシートだから振り向いて見るのは苦痛だし、反対側の窓のほとんどはブラインドが閉まっていてろくに見えない。さらにこう混むのでは疲れるばかりで、早く岡山に着かないものかと思った。
 「大安寺・岡山間は、住宅密集地のため、トイレは使用できません」とのアナウンス。住宅密集地だとなぜトイレが使用不可なのか腑に落ちない。まさか今どき垂れ流し式なのか? 車内トイレはとっくに全部タンク式になっているものと信じていたのだが……

 岡山着12時07分、10分あまりで姫路行きの電車がやってくる。
 山陽本線の岡山──姫路は、今まで何度も往復したことがあるのだが、昼間に鈍行で旅するのは今回がはじめてだということに気がついた。いつも夜行などで通り過ぎていたのである。
 あらためて乗ってみると、なかなかいい感じである。特に県境付近などはずいぶんとひなびた雰囲気があって、一級幹線の沿線とは思えないような車窓風景だった。
 兵庫県に入って最初の駅が上郡。ここから智頭急行に乗り換える。
 智頭急行は、大阪周辺と鳥取とを短絡する路線として、第三セクターながらJRの特急が頻繁に乗り入れている幹線鉄道である。こんな路線ですら国鉄時代は大赤字が予想されて工事が凍結されてしまっていたのだから救いがたいものがあった。国鉄に任せておいたら、鈍行がしょぼしょぼと走るだけのローカル線になっていたことだろうが。
 ともあれ現在は京都から「スーパーはくと」が7往復、岡山から「スーパーいなば」が5往復乗り入れて賑わっている。
 しかし、私の乗るのは鈍行列車だ。鈍行列車は上郡駅のプラットフォームの一部を切り欠いた片隅にひっそりと発着している。肩身の狭そうな居候という趣きである。
 始発駅はローカル線っぽいのだが、いざ走り出せば、非電化単線とはいえ、線路はがっしりと太く、トンネルの口径は広く、いかにもお金のかかっていそうな高架橋が蜿蜒と連なって、堂々たる高規格路線であることがわかる。
 私の坐った席からは、各駅のプラットフォームに設置されている、近隣の名所案内板がちょうど見易かった。特急に乗って猛スピードで通過するのでは、そんなものを見ているわけにはゆかない。
 まずしばらくは赤松円心の故地がアピールされる。南北朝時代の武将で、楠木正成らと共に鎌倉幕府打倒に起ち上がったが、建武の御新政に飽き足らず後醍醐天皇を見限って足利尊氏に与した男である。このあたりの山城にこもって、新田義貞の追討軍をさんざんに悩ましたのだった。郷土の英雄ではあろうが、一般には梟雄、どちらかというと悪役として知られている。
 佐用(さよ)でJR姫新線と交差する。芸備線と共に中国山地縦断線の一翼を担う路線だが、山地にある町や村同士を直結するような輸送需要は少ないらしく、あまりぱっとしない。運行も小間切れになって、今や全線を通して運転する列車とて走っていないのだった。後発の智頭急行の方が威張っている感じだ。
 佐用を過ぎると今度は宮本武蔵がらみの案内が多くなる。兵庫県から岡山県に入った最初の駅は、その名もずばり宮本武蔵。この近くが武蔵の生誕の地とされている。「宮本」という駅名になるはずだったが、それだけではインパクトが弱いというので「武蔵」までつけてしまったのだ。人名をとった駅名は少なくないが、姓名を丸ごとつけたというのは珍しい。安田財閥の総帥「次郎」の略称からつけられたJR鶴見線安善(あんぜん)駅がそれに準ずる程度だろうか。
 私の乗った列車は宮本武蔵の次の大原止まりであった。その先へ行くためには1時間以上待たなければならない。大原は古い宿場町であり、街並みも保存されているらしい。少し歩き廻ってこようと思って駅舎を出た。
 街並みの保存は駅からそう遠くなかったが、近代住宅も混在しているのでややとりとめがない。何よりがっかりしたのは、せっかく本陣やら脇本陣やらが残っているのに、中の見学ができず、門の外から眺めるしかなかったことである。これでは仕方がないではないか。
 武蔵関係の遺跡(?)も少なくはないのだが、大原駅近くよりもやはり宮本武蔵駅近くに集中している。歩いて行けないことはないが、そちらまで行くとなると時間がやや心許ない。それに武蔵の本来の史蹟よりも、おそらく吉川英治の小説に基づいてあとから作られたものが多いのではあるまいか。
 古い建物を模したようなおしゃれな喫茶店でもあれば入りたかったが、それどころか普通の食堂すらろくろくない。観光客を惹きつけるほどの整備はまだされていないようだ。いい加減にひとまわりして、駅に戻り、あとはずっと本を読んでいた。

 特急を2本見送り、15時23分発の鈍行でふたたび智頭急行の旅を再開する。線路はほどなく山深い県境地帯へ突入し、かなり長いトンネルを抜けると鳥取県に入った。そういえば智頭急行は3つの県にまたがっているのだ。県境を越える第三セクターというのは利害関係が対立したりして、なかなかうまくゆかないのが普通で、新幹線の開通で第三セクター化した東北本線などは青森県と岩手県の折り合いがつかず、一本の路線なのに「IGRいわて銀河鉄道」「青い森鉄道」の2社に分裂してしまった。3県にまたがる智頭急行が無事開業できたのは、実は結構驚くべきことなのである。
 ほどなく、智頭急行の終点・智頭に到着。特急はこのまま鳥取まで突っ走るが、鈍行は早朝などを除きここでJR因美線のディーゼルカーに乗り換えなければならない。接続は良く、駅の外に出ているほどの時間はなかった。
 因美線のディーゼルカーは2輌編成だったが満員近い。例によって高校生がぎっしりと詰まっている。座席にあぶれた男子生徒の多くは床に直接坐り込んでいる。頭に剃り込みを入れたり、やたらと幅広のズボンを着用したり、なんだか都会ではあまり見かけなくなったツッパリみたいなのがむやみと多いようだ。乗降口の附近にもたくさんうごめいているのでなんとなく剣呑である。

 30分ほどで郡家(こおげ)に到着。列車はそのまま鳥取まで行くのだが、私はここで下りた。郡家からはやはり第三セクターの若桜(わかさ)鉄道が分岐している。今まで近くを通ってもなぜか乗る機会がなかったので、この機会に乗ることにしたのだ。
 若桜鉄道は、もとは赤字で廃止対象になった国鉄若桜線が転換したものだ。同じ第三セクターでも、未成線が完成開業した井原鉄道や智頭急行と違って、どこか侘びしさがある。
 郡家駅は若桜鉄道の起点駅であるというのに、自前の駅舎もなく、切符も売っていない。どこから乗るのだろうとしばらく探し廻ってしまったほどだ。ほとんどの列車が鳥取から直通するので、郡家に駅舎など設ける必要はなかったのかもしれないが、何やらしょぼくれた観があるのは否めない。切符はそもそも発行しておらず、全部車内での現金精算なのであった。
 途中の駅もあまり手を加えていないようだ。八頭高校前(やずこうこうまえ)と徳丸という新駅ができたくらいで、駅名板さえ国鉄時代のままではないのかと思われた。
 そして駅には「乗って残そう若桜鉄道」などと、国鉄末期の赤字ローカル線で決まって見られたキャッチフレーズのポスターが掲げられている。沿線にさしたる街もなく、観光地もなく、どうも存続も覚束ない状態なのではないだろうか。場所が近いだけに、同じ第三セクターの智頭急行と較べて、光と影というような印象を受けてしまう。
 若桜に着く頃にはすっかり暗くなっていた。どんな街並みなのかよくわからないままに、すぐ折り返す。郡家を通り越してそのまま鳥取まで直通するのだった。帰りも高校生が多かったが、高校の先生らしき大人たちもだいぶ乗っていた。大人たちがクルマを使わず鉄道に乗っているのは何よりのことである。

 鳥取着18時19分。駅近くのビジネスホテルに投宿。ビジネスホテルだが大きな浴場がついていたのは嬉しい。
 チェックインの時、
「朝食はどうしますか? 6時45分からですが」
と訊かれて、私は反射的に
「じゃあお願いします」
と答えて朝食代550円を払ってしまった。私としては大失態で、この時ちゃんと時刻表を確認しておけばよかったのである。あとで見てみると、なんと鳥取発6時55分の列車に乗らなくては、あとの接続がガタガタになってしまうことが判明した。鳥取から豊岡あたりまでは、山陰本線の中でも運転本数が少なく、しかもその少ない列車同士の接続状況がきわめて悪いのだった。
 プラットフォームまでは5分見ないと危ない。駅そばではあるまいし、いくらなんでも5分で食べるわけにもゆかない。私は涙を呑んで朝食を諦めた。時刻表を軽視したのでバチが当たったのだろう。

 翌朝、朝食バイキングの準備を始めている食堂を恨みがましく眺めながらチェックアウト。6時55分の浜坂行きディーゼルカーに乗った。浜坂は温泉が有名である。本当は昨夜もここまで来て泊まりたかったのだが、松葉ガニの季節になったせいか宿代が急に跳ね上がっていたので断念したのだった。代わりに鳥取駅でかにめしの駅弁を仕入れて来ている。
 浜坂では50分くらい待たされる。それなのに鳥取発の次の列車に乗るともう間に合わないのだった。かにめしは昼食に廻すつもりなので、時間があるのを幸い、このあたりで朝食をとりたかったが、しかるべき食堂は見当たらない。仕方なく売店でパンなどを買って食べた。
 浜坂からふたつ目の餘部(あまるべ)を出ると、有名な餘部鉄橋にさしかかる。日本海に面した寒々とした集落、その上はるか高いところに鉄道の陸橋が架かっており、車窓から見ているといきなり空中に飛び出したかのように見える。これより高度のある橋は日本中にいくつもあるけれど、ほとんどは山の中の渓谷に架かっているもので、この餘部鉄橋のように景色の照準が遠くない。海を背景としたこの鉄橋からの風景は、ことさら心細さをそそるのである。
 もっとも、1986年にこの鉄橋から、強風に煽られたお座敷列車が転落し、6人の死者を出す大事故となったため、今は柵がつけられていて、それほど怖くはなかった。しかも鉄橋自体の老朽化が進み、2010年頃までにはコンクリート化されるという。そうなればいわば平凡な高架線になってしまい、いささか残念であるが、まあ安全には換えられまい。私が餘部「鉄橋」を通るのもたぶんこれが最後だろう。

 9時45分、豊岡着。ここで北近畿タンゴ鉄道に乗り換える。昔は国鉄宮津線だった。工事が進んでいた福知山──宮津間が先に第三セクター宮福鉄道として開業し、その後宮津線も三セク化されて宮福鉄道と合併し、北近畿タンゴ鉄道となったのである。そのため、第三セクターには珍しく、複数の路線を持つ鉄道となっている。この他には三陸鉄道(北リアス線、南リアス線)と平成筑豊鉄道(田川線、糸田線)、土佐くろしお鉄道(中村線、ごめん・なはり線)があるくらいだ。
 乗り換え時間は3分だったが、例によって第三セクターの乗り場は駅の片隅の遠い場所で、私が駆け込むと同時に発車ベルが鳴り出した。
 北近畿タンゴ鉄道の列車は、単行ディーゼルカー、つまりレールバスだったが、窓が大きくて車内が明るい。全席転換クロスシートの快適な車輌だ。
 はじめはがら空きだったが、木津温泉あたりから乗客が増えてきた。わりと大きな駅である網野では、カニの箱を抱えたお年寄りがたくさん乗ってきて、にわかに車内が生臭くなる。
 野田川という駅は昔は丹後山田といい、以前はここから加悦(かや)鉄道というごく短いローカル私鉄が出ていた。宮津線の天橋立以西は列車の運転も少ない閑散線区であり、その途中駅から出ていた加悦鉄道はご多聞に漏れず経営難で廃止されてしまったが、健在なうちにいちど乗ってみたかった路線のひとつである。丹後山田改め野田川の駅から、どのように出ていたのかと思ってあちこちを見廻してみたが、さっぱりわからない。いずれ廃線探訪でもしてみたいものだと思う。
 天橋立でだいぶ客が下りた。私はそのまま乗って西舞鶴へ向かう。
 宮津ではしばらく停車した。宮福線との分岐駅で、向こう側に宮福線のディーゼルカーが停まっていた。宮津線の車輌とは形や色が違っているし、「北近畿タンゴ鉄道」の略称KTRではなく、MFというイニシャルがペイントされていた。むろん「宮福」の頭文字である。合併するにあたって特に改装などはしなかったようだ。
 11時46分西舞鶴着。10分の乗り換えで舞鶴線の普通電車に乗る。この電車は綾部からそのまま山陰本線に乗り入れて福知山まで行くので、福知山から宮福線を往復してこようと思っていた私にとっては都合が良い。
 この電車の中で、鳥取から携えてきたかにめしを食べた。

 周遊きっぷは、ゾーン内の特急に乗ることができる。北近畿ゾーンには北近畿タンゴ鉄道の全線が含まれているから、その特急にも乗れる。というわけで、福知山からは「タンゴエクスプローラー1号」に乗った。わずか3輌だけのミニ特急だが、車輌はハイデッカーで非常にカッコよい。これに乗れたのは嬉しかった。
 宮福線全線30.4キロを25分で駆け抜ける。非電化単線の特急としてはなかなかの健闘だ。ただ、そのスピードと、ハイデッカーで窓の位置が高いため、通過駅などはだいぶ見逃してしまった。
 宮津からは鈍行で戻る。さきほど宮津線から見た宮福線のプラットフォームに行った。宮福線プラットフォームに通じる跨線橋はなんだか変な形をしていた。宮福線側は付け足しのように折れ曲がっていて、まるで宮福線を継子扱いしているかのようである。「国鉄(JR)宮津線」と「宮福鉄道」だった時代の名残なのだ。
 特急が25分で来た行程を、鈍行は41分かけてのんびりと戻る。沿線には酒呑童子で有名な大江山などがある。宮津線沿線には山椒大夫の屋敷があったとも言うし、伝説と関係の深い鉄道と言えよう。
 雨がだいぶ繁くなってきた。

 福知山着14時25分。夕方に大阪に着くには少し時間があるが、そろそろ大阪へ向かうことにする。福知山線廻りの特急「北近畿14号」に乗った。周遊ゾーンは篠山口(ささやまぐち)までであり、そこから先は特急料金を払わなくてはならない。それもばかばかしいし、大阪にそんなに急ぐこともないので、篠山口で下りた。ここからは「丹波路快速」も頻繁に出ている。
 篠山口駅の周囲をちょっと歩いてみたが、なんにもない駅前だった。デカンショ節で有名な篠山はこの近くであるわけだが、駅はあくまで篠山「口」であり、篠山の街とは少し離れているようだった。雨も鬱陶しいので、早々に駅に戻って電車を待った。

 大阪で用を済ませ、枚方の知人宅で一泊し、翌日帰ったが、この日も例によって私は素直でない帰り方をした。京阪電車京都まで出たのはまあ当然なのだが、普通なら京都から新幹線に乗って帰るものを、私はわざわざ京都駅に背を向けてJR奈良線で奈良の手前の木津まで行き、関西本線に乗って名古屋へ出て、そこから東名高速バスに乗ったのである。周遊きっぷのかえり券をそういうルートにしたもので、切符をあつらえる時、びゅうプラザの女の子はこちらでも悪戦苦闘を余儀なくされていたのだった。まあ、たまにこういうややこしい注文をする客が居た方が、彼女も勉強になって良いのではないかと思う。

 今回は井原鉄道智頭急行若桜鉄道北近畿タンゴ鉄道と、第三セクターにずいぶん乗った。
 第三セクター鉄道というのはそもそも国鉄時代に大赤字路線だったので廃止が予定されたり、着工したものの大赤字が予想されたので建設が中止になったりしたところを、地元の自治体などが引き取って存続させたものである。
 国鉄がやってダメだったものを引き受けてもやはりダメだろうと予想されたが、案に相違して、一番乗りの三陸鉄道が大健闘し、なんと黒字を計上するまでになった(現在は少々苦しくなっているようだが)。やりようによってはなんとかなるものだということがわかり、各地で自治体が名乗りを上げた。
 しかしその「やりよう」がなかなか難しい。ブームに乗って設立したものの、だいぶ苦戦しているところも多いようだ。
 今回乗った4線のうちでは、阪神地域から山陰地方へ抜ける最短ルートを確保した智頭急行と、天橋立や奥丹後半島といった大観光地を抱える北近畿タンゴ鉄道は、当面安泰だろう。というか国鉄時代、どうしてこれらが大赤字だった(智頭急行の方は、大赤字が予想された)のか理解できないほどだ。
 しかし、若桜鉄道は「乗って残そう」のポスターが目立つ事態に陥ってしまっている。このように、沿線にさしたる観光地もなく、沿線人口もさほど多くなく、しかも盲腸線になっている路線は、第三セクターでもどこもかなり苦労しているようだ。観光客を誘致できる施設の開発、それから沿線住民に日常的に乗って貰えるだけの利便性をなんとか図らなければなるまい。そんな場所では、大体住民はマイカー移動があたりまえで、鉄道に乗るなどということは滅多になかったりするのだ。
 井原鉄道の方は、開業からそれほど経っていないこともあり、どうなるかまだわからない。さしたる観光地はないものの、一応井原市という中枢都市を持ち、盲腸線にもなっていないから、そこそこの成績を上げられる条件はある。しかし、清音、神辺といった地味な駅を起終点とし、近隣大都市である岡山や倉敷、福山などから乗るのが不便だというのはかなりのデメリットだ。私の乗った感じでは、時間帯のせいもあったろうが、どうもあまり繁盛しているように見えない。今後いろいろ工夫して利用増を図って貰いたいものだ。
 ひとことで第三セクターと言っても、立地により経営により、さまざまであると実感した旅であった。

(2004.1.8.)


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