ミステリーゾーン
概論
推理小説あれこれ
●意外な犯人●

 推理小説は、素朴な「犯人当てパズル」から見るとずいぶんと拡がりを得て、さまざまな種類の謎を要素として持つようになった。「『謎』のいろいろ」の項目で書いたように、誰がやったのか(フーダニット)、どうやってやったのか(ハウダニット)、なぜそうやったのか(ホワイダニット)、さらにはもっと細かい部分の不合理さや疑問点まで、実に多種多様な仕掛けが施されている。
 とはいえ、現代においても、やはり「意外な犯人」のインパクトは大きい。犯人が明かされて、

 ──あっ、こいつだったのか!

 とほぞを噛む、あるいは、

 ──へっへっ、やっぱりこいつか。

 とほくそ笑むのは、依然として推理小説を読む醍醐味と言える。
 とはいえ、推理小説ずれした読者は、どんな登場人物でも一度は疑ってみる習慣がついてしまっているので、「思いもよらなかった」と思わせるのはなかなか困難だろう。
 読者の意表を衝くべく、古来推理作家たちは、ほとんどありとあらゆる犯人像を採用してきた。
 犯人像として、確実に守らなければならない条件がひとつだけある。それは、

 ──種明かしの段階になって初めて登場する人物であってはならない

 ということだ。そこで初めて登場したのでは、いかなる読者の選択肢にも全く含まれようがないわけで、犯人を推理する愉しみが完全に失われてしまう。読者としてはフーンとしか思いようがなく、その場で「駄作」の烙印を捺してしまうことであろう。
 短編だと、正体不明の犯人が正体不明のままで終わってしまうこともないではない(ブラウン神父ものの「金の十字架の呪い」など)けれども、長編でそれをやっては拍子抜けも甚だしい。
 ヴァン・ダイン「推理小説二十則」の中で、「犯人は小説の最初から登場していなければならぬ」としている。「最初から」というのはかなり大げさで、彼の作品からしてそうなっていないのはいくらでもあるのだが、ともあれ中盤までには登場していないと、読者としては納得できない。
 とすると、選択肢は有限になり、片端から疑ってかかればどれかは的中するだろう。そういう中で「意外性」を出すというのは、作家もなかなか大変である。

 近代推理小説の鼻祖であるエドガー・アラン・ポーは、推理小説と呼べるものを5篇書いている。オーギュスト・デュパンものである「モルグ街の殺人」「盗まれた手紙」「マリー・ロジェ」の3篇、それに「黄金虫」「お前が犯人だ」の単発2篇である。
 それぞれに趣向が異なり、後続の推理小説の原型となっているのは大したものだと思う。「マリー・ロジェ」は実際にニューヨークで起こった「メアリ・ロジャーズ殺害事件」の真相を作者自らが推理してデュパンの口説に託したというものであって、やや後世の推理小説とは趣きが異なるのだが、厳密な意味で「推理小説」と呼ぶべきはこういうものであるかもしれない。
 「意外な犯人」ということでは「モルグ街の殺人」と「お前が犯人だ」が該当する。

 「モルグ街」の動物による犯行というアイディアは、そのままの形ではさほど踏襲されていない。おそらくどう書いても「モルグ街」の亜流と見られてしまうだろう。
 ただしバリエーションとしてはドイル「バスカヴィル家の犬」「まだらバンド」「曲がった男」「這う男」などで繰り返し利用している。
 また概念を拡げて、直接責任を問えない犯人ということになると、子供が犯人というのもこのタイプのバリエーションと言えるだろう。ベイリーレジナルド・フォーチュンものに先駆的な前例があるが、有名なのはクイーンの作品で、現代でも初めて読むと驚かされる。もっとも、最近の子供による凶悪事件の数々を思うと、いくぶんやりきれない想いにかられるのだが。
 「お前が犯人だ」は「探偵イコール犯人」という、意外と言えばこれほど意外なものはないパターンである。読者の信頼を裏切るわけで、考えようによってはアンフェアとも言える。
 しかしこの場合、単発の作品であるので、要するに犯人が探偵のふりをしていたということに過ぎず、真の探偵役は別に居た。従ってポーがアンフェアだったと言うことはできないだろう。
 このパターンはその後、ルルー「黄色い部屋の謎」で踏襲されるが、ルルーの場合は犯人が「職業的探偵」だったというだけで、物語の真の探偵役がルルタビーユであることは誰にでもわかるから、これまたアンフェアと言うほどではない。もっともヴァン・ダインは、

 ──犯人が捜査側の人間であってはならない

 とも言っているが。
 それまですでにいろんな事件を解決し、読者の信頼をかちえてきた「名探偵」が犯人、となるとやや怪しくなる。オルツィ「隅の老人」クイーンドルリー・レインが有名だ。一節によるとクイーンはその結末を書きたいがために、わざわざレギュラーのエラリー・クイーン(作中の作家探偵の方)とは別にレインを創出し、4篇もの長編を書いたのだそうである。エルキュール・ポワロが生涯の最期にあたって同じ手段を執ったのもよく知られている。
 ちなみに、小説の前半でシリーズ探偵以外の人物が探偵役のような顔をして事件を切り回している場合、それが真犯人である確率はかなり高いように思える。ポワロものの「三幕の悲劇」明智小五郎ものの「化人幻戯」などはそんなわけで、あまり意外感がなかった。
 シリーズものでない作品としては、アイリッシュ「幻の女」がこのパターンで、これはふたりの人物が別々に捜査をおこない、最後に一方がもう一方を真犯人として告発する。シリーズものでないため、読者はふたりのどちらを信用するべきか迷うことになる。「化人幻戯」も、明智を使わずに単発の探偵役を投入すれば、「幻の女」に近い緊迫感が得られたかもしれない。

 それから意外と言えば、語り手イコール犯人というものだろうか。言うまでもなくクリスティの有名な作品が典型。これはかなりアンフェアだとして非難されたが、効果は抜群であった。この作品のポイントは、犯人は語り手であるだけではなく、探偵助手の役割をも引き受けているというところにある。語り手兼探偵助手、つまり「ワトスン役」である。
 クリスティの作品があまりに衝撃的だったせいか、以来このパターンを用いたものはあまりないはずだ。どうアレンジしても、クリスティのパクリだと言われてしまうに違いないので。
 語り手ならざる探偵助手が犯人、というものであればいくつか思い浮かぶけれども。

 被害者イコール犯人というのもある。これにはふたつのタイプがある。
 ひとつは、被害者が別人で、当初被害者と思われた真犯人は姿を隠したというもの。このタイプだと、被害者が別人だとわかった時点で、ほぼ犯人の見当がつくことになる。だからどの時点で別人であることを明らかにするかというタイミングが難しい。ドイルの長編が典型的な作品であろう。
 もうひとつは、連続殺人の中で、かろうじて一命をとりとめた被害者のひとりが真犯人というもの。一命はとりとめても、ある程度の重傷を負っていたりするのがミソで、そんな人物がまさか犯人のわけがないと考えてしまうところにトリックがある。しかし、わりとよく使われた手なので、もはや「連続殺人で一命をとりとめた被害者がいれば、それが真犯人」というのはほぼ見え見えになってしまった。
 そこでこの変形として、連続殺人の途中で本当に殺されたはずの人物が真犯人、というのも書かれた。クリスティ「そして誰もいなくなった」がこのパターンである。
 また、事件が発生するより前に死んだ人物が真犯人というのもある。その場合、計画者と実行者が別というのが一般的だが、毒殺など遠隔的な殺人であったり、いわゆる「プロバビリティの殺人」──張っておいたトラップがうまく作動すれば犯行成功、作動しなければ何事も起こらないという、半ば偶然頼りの犯行──であれば、死んだ当人が実行犯ということも可能だ。「子供が犯人」のところで触れたクイーンの作品が典型。つまりこの作品は「意外な犯人」という点では二重の仕掛けを施しているわけで、それだけに印象深いのである。

 小説上でのポジションにおいて意外性を追求するとなると、大体こんなところで網羅されているだろう。あとは、一旦容疑の対象になったのちに否定されるが、やはりその人物が犯人だった、などの手段で、推理作家は犯人の正体を韜晦しようとする。
 ところで、あるマンガでこんなのを読んだことがある。
 「『犯人は、アナタです』
 名探偵はそう言って、ページの外を指さした。
 ついに出現、『読者が犯人』!」
 この作者はもちろんパロディのつもりで描いているのだが、読者をひっぱりこむというのは、実は実験的な作品としてはちゃんとある。
 中井英夫「虚無への供物」を読んだ時、私は少なくとも部分的には、「読者が犯人」として告発されている気分を感じた。それがどういう意味であるかはここでは詳述しないが、この作品が上述のマンガよりは遙か以前に書かれているのは確かで、マンガはパロったつもりで外してしまったようだ。
 さらに「読者が被害者」というブラウン「うしろを見るな」という短編もある。正確には「読者がこれから被害者になる」話だが、ここまで来ると推理小説の範疇を超えますね。

(2003.4.9.)


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