ミステリーゾーン
刑事コロンボ
ピーター・フォーク追悼と「刑事コロンボ」の想い出

 ケーブルテレビのAXNミステリーチャンネルで、2011年6月23日に亡くなったピーター・フォークの追悼特集をやっていたので、録画して少しずつ見ている。
 このチャンネルではしばらく前から『刑事コロンボ』の完全版放送をはじめていたところで、まったくの偶然とはいえ、驚くべきタイミングであったと言える。『コロンボ』のほうは中盤にさしかかったあたりである。
 ピーター・フォークは、調べてみるとずいぶんたくさんの映画やドラマに出演しているようだが、どうしてもコロンボのイメージが強くて、他の映画やドラマに出ているのを見てもコロンボにしか見えないということになっている。しかも故小池朝雄氏による吹き替えがはまりすぎて、日本人としては小池氏の声でないとピンと来ないという状態かもしれない。
 かく申す筆者も、昭和47年にNHKで『刑事コロンボ』の日本語版放送が始まってからずっと見ていた。何しろ当時は筆者も小学2年生で、コロンボ=フォーク=小池朝雄、という組み合わせが完全に刷り込まれてしまったと言って良いかと思われる。

 2年生からあんなトリッキーな刑事ドラマを見ていたとは驚かれるかもしれない。筆者自身、いまウィキペディアでNHKでの放送開始日を見て、そんなに前だったのかとびっくりした。しかし、友達にもけっこう見ているのが居たのは確かである。当時のいちばんの親友だったヨヒトくんもコロンボファンだった。
 最初はもちろん、父が見始めたのを一緒になって見ていたのである。確か土曜日の20時から21時15分という枠だったと記憶している。筆者は2年生の頃はだいたい20時半頃には床に就いていたのだが、土曜日だけは、翌日が休みなので、ちょっとだけ夜更かしを許され、コロンボを最後まで見てから寝て良いことになっていた。
 ちなみに土曜日の20時と言えば、その頃の子供たちの大半は『8時だヨ! 全員集合!』を見ていたと思われる。筆者はその頃から少しばかり反骨の持ち主であったようで、クラスの友達が週明けに、一昨日のカトちゃんがどうした志村がこうしたと話し合っているのを聞いても、そんなにうらやましいと思ったことがない。そしてまた上に書いた通り、コロンボ派の友達も少なからず居たのである。
 しかし年に何回か、親戚が祖父の家に集まる時があり、その時は従弟と熾烈なチャンネル争いを繰り拡げることになった。従弟は『全員集合』派なのである。祖父の家には、茶の間と祖父の書斎と、2台テレビがあったので、別々に見れば良さそうなものだが、茶の間では大人たちが談笑していて気が散ってかなわない。無理にテレビをつけていてもさっぱり音声が聴きとれないのだ。最近の子供なら、
 「ちょっとお、静かにしてよ」
 と大人たちに要求するかもしれないが、40年前の子供はもう少し大人を怖がっていた(うちだけかな)。ともかくそんなわけで、書斎のテレビでどちらの番組を見るか、毎回従弟と争っていたものだ。

 NHKでの放映は2年ほど続き(話数を勘案すると、どうも毎週の放映というわけではなかったようだ)、やがて『警部マクロード』がはじまって『コロンボ』は終わりを告げた。同じ枠なので『マクロード』も見ていたが、これはどちらかというとアクション色の強いドラマで、筆者としては頭脳戦タイプのコロンボのほうが好みだった。
 その後もコロンボのシリーズは制作が続けられており、NHKでも時々放映されていたが、レギュラー放送でなくなってしまったので、ビデオデッキも無い頃のこととて見逃してしまうことが多く、だんだんと興味も薄まってきたのだった。
 NHKの地上波で放映されたのは昭和56年が最後のことだったようだ。そのあとの新作は、『金曜ロードショー』などで放映されたが、あまり見たことがない。
 そんなこんなで、今やっているAXNミステリーでの完全版放送を大変楽しみに見ているのである。
 全話を放映するだけでなく、NHKでの放送時間の枠のためにカットされていた部分もすべて復活させて見せてくれるというのが嬉しいところだ。当然ながらその部分は小池朝雄氏が吹き込んでいないところも多く、銀河万丈氏があらたに声を宛てているようである。コロンボの声にギレン・ザビではいささか響きが深すぎて、聞くとすぐわかってしまうのだが、それはそれでかつてのカット部分がわかりやすくて、かえって面白かったりする。

 『刑事コロンボ』の日本での大ヒットぶりは、多くのパロディがたちまち登場したのでもわかる。マンガでも小説でも、コロンボが元ネタと思われるキャラやセリフがやたらと出るようになった。
 なんと言っても、よれよれのコートボサボサの髪の毛、乗っているのは廃車寸前のプジョー、しょっちゅう繰り返す「うちのカミさんがね……」のセリフ、用が済んだと思ったらすぐ引き返してきて犯人をぎくりとさせる捜査テクニック、メニューに無い時でさえ無理矢理注文する大好物チリコンカン……など、とにかくキャラが立ち過ぎている。
 小説では、都筑道夫『名探偵もどき』の中に「コロンボもどき」が出てくる。それから北杜夫怪盗ジバコもコロンボと対決している。題名は忘れたが宇能鴻一郎のお色気ミステリーにもそれらしき人物が登場していたと思う。登場人物がちょっとコロンボの真似をするなんてのは数え切れないくらいありそうだ。
 マンガでも、モブキャラでそれっぽい人物が出てくることはよくあった。故和田慎二の代表作のひとつ『超少女明日香』にはまさに「コロンボ」という人物が出てくる。容貌はあの通りだが、名前はコードネームだった。
 推理小説ネタのエッセイや評論に登場することも珍しくない。つまり、推理小説として扱って少しも差し支えないほどにプロットのクオリティが高いということである。中には、

 ──コロンボが毎回犯人を追いつめるやり口は実にきたない。思わず犯人に同情したくなる。

 などと憤慨している向きもあるのだが、確かに「これで本当に陪審員を納得させられるのか?」と思われる解決のこともままあるとはいえ、このたび見返してみて、コロンボはおおむねフェアではないかと感じた。
 ちなみにコロンボという名前は、アメリカ大陸を発見したコロンブスと同じである。イタリア語読みすればコロンボとなり、イタリア系移民の子であることは劇中でも何度か言及されている。ただし演じているピーター・フォークはロシア系ユダヤ人と東欧系ユダヤ人を両親に持ち、南欧系の血は流れていないようだ。いずれにしろUSAの上層階級を構成しているWASP(ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント)からすると若干下に見られる階層であり、そういう出身の警察官が軽侮を受けながらセレブでエスタブリッシュな犯人たちを追いつめてゆく、というあたりに、日本人の感覚ではつかみきれないようなカタルシスがあるのだろうと想像する。

 最晩年のピーター・フォークはアルツハイマーを患い、自分がコロンボであったことも忘れていたとのことである。
 役者にとって、ひとつの役柄ばかりが固定イメージになってしまうことが良いのか悪いのか、それはわからない。自分の職業に引き写してみた場合、あまりひとつの作品ばかりで固定イメージを持たれてしまうのは少々当惑する。渥美清氏だって内心、

 ──俺は寅さんだけってわけじゃないんだがなあ。

 と思っていたような気がする。ピーター・フォークもそんなところがあって、コロンボのことは自分の代表作と認めつつも、どこか離れたいという気持ちがあり、アルツハイマーに罹病した時その気持ちが出てきたのかもしれない。

 ところでAXNの追悼番組では、『名探偵登場』などの出演映画を放映していた。テレビで流れているのをちょっと横目で見たことはあるのだが、ちゃんと最初から最後まで見たのははじめてのことだった。
 この映画は言ってみれば推理小説というジャンル自体のパロディみたいなものである。5人の世界的名探偵が、全員同伴者連れである大富豪の屋敷に招かれ、推理競争をおこなうという趣向なのだが、まともなミステリーだと思って見ていると思いっきり肩すかしを食らわせられる。
 5人の名探偵は、エルキュール・ポワロのパロディであるペリエ警部、ミス・マープルのパロディであるミス・マーブルズチャーリー・チャンのパロディであるワン警部、サム・スペードのパロディであるサム・ダイヤモンド(これがフォークの役)……もうひとりのチャールストン氏だけ元ネタがわからない。どなたかご存じでしたらご教示を。
 サム・スペードと言えばハードボイルド探偵の元祖で、言葉も行動も荒っぽいので有名。フォーク演じるダイヤモンド探偵もその通りの役柄なのだが、なにぶんにもコロンボの印象が強すぎて、「てめえ、黙ってろ」みたいなしゃべりかたが違和感ありまくりである。今回は字幕付き原語放映だったが、確か小池朝雄氏が吹き替えた日本語版もあったはずで、それだともっと違和感を覚えたかもしれない。フォークが芝居しているというより、コロンボが劇中芝居しているようにしか見えないような気がする。
 『名探偵登場』ではフォークは5人の探偵の中のひとりを演じていたわけだが、同じ監督(ロバート・ムーア)・脚本(ニール・サイモン)で『名探偵再登場』なる映画も作られている。追悼番組ではこちらも放映された。『再登場』ではフォークが主演で、やはりパロディ的なハードボイルド探偵を演じる。具体的には『マルタの鷹』『カサブランカ』ハンフリー・ボガードをパロっているのだとか。いっそのこと、コロンボのセルフパロディをやったら良かったのにと思ったりする。

 ともあれ、ミステリードラマのひとつの典型を作ったという点で、『刑事コロンボ』はずっと語り継がれてゆくに違いないし、それと共にピーター・フォークの名も(本人がどう思っていたかは別として)朽ちることがないだろう。
 いま見ると、本当に丁寧に作られていると思う。最初から犯人がわかっているのはつまらない、という向きもあるかもしれないが、これは倒叙形式ミステリーと言って、推理小説では昔からあるスタイルである。シャーロック・ホームズと同時代に活躍していた、オースチン・フリーマンの創出した名探偵ソーンダイク博士の物語などがこの倒叙形式を採っている。
 この形式は、毎回のテレビシリーズに大物ゲストスターを出演させる方便として採用されたそうだ。犯人捜しの趣向だと、ゲストスターが犯人かそれに近い重要な役割を果たしていることがバレバレになり、あまり面白くないという判断である。犯人が完璧とも思えるアリバイ工作や隠蔽工作をおこなったのを、どこからどうやって崩してゆくかという点にワクワクするのもミステリーのひとつの立派な愉しみかたなのである。わが国の『古畑任三郎』もこのスタイルをそっくり受け継いだ。
 ただ、この方式だと犯人のほうに感情移入しやすくなりがちで、上記のように憤慨する人が出てきたりするわけだが、それを救っているのがコロンボのキャラクターというものだろう。形式の確立、キャラクターの確立ともに、やはりエポックメイキングなドラマであったと言える。
 ピーター・フォーク氏よ安らかに。そしてコロンボよ永遠に。

(2011.8.7.)


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