君主と権威

 日本の皇室は公称2677年2017年現在)、いちおう確実と思われる範囲でも1600年ほどの歴史を持っています。
 26代の継体天皇からあとは文献上の系統がはっきりしており、ときに直系ではない場合はあるものの男系継承が続いてきたことがあとづけられるので、まず確実と見なして良いと思います。
 継体天皇とその前の武烈天皇との関係ははっきりしません。継体天皇は応神天皇の5世の子孫ということになっていますが、これは本当かどうかわかりません。継体天皇の生涯を見てみると、コシの国から来て皇位に就いた人のようで、その前の武烈天皇とはあんまり関係が無いようです。まあ応神天皇5世の孫というのが本当であっても、武烈天皇とは10親等(武烈天皇も応神天皇の5世の孫になる)となり、われわれの感覚としてはもう親戚とも呼べない存在です。
 いずれにしろ、日本書紀に記された武烈天皇の悪行の数々を考えても、武烈天皇とはいわば「前王朝のラストエンペラー」という印象が強く、中国の史書によく見られるような、新王朝の史官によって前王朝のラストエンペラーがことさらに悪く書かれるという形式を踏襲しているように思われます。「万世一系」を呼号するのならこういう書きぶりはまずいのではないかとも感じられるのですが、日本書紀の編纂者たちは、誠実に、それまで伝えられてきたことを記録したに過ぎないでしょう。妊婦の腹を割いたの、盲人の脚を断って骨の断面を見たの、罪人の爪をはいでイモを掘らせたのと、どこかで読んだような武烈天皇の残酷物語の存在も、私が日本書紀を政治文書などではなく、「世界にも類を見ないほど誠実な態度で編纂された歴史書」だと判断する理由です。

 その武烈天皇に後嗣がなかったので、大伴金村らが越前から応神天皇の子孫である継体天皇を迎えたというのが公式の経緯になっているのですが、そのわりにはすんなりと大和の地に入ることができず、周辺を転々としています。大和に入ったのは継体19年のことというのですから、またずいぶんと待ったもので、大和にも継体天皇を迎えることに反対していた者が相当数居たということなのでしょう。
 ありようは、やはりコシの国の統治者であったヲホド王(継体天皇)が、弱体化した大和に侵略して大王(おおきみ)の位を簒奪したと見るのが自然だと思うのですがいかがでしょうか。大伴金村などは、大和朝廷内でヲホド王に内通していた連中と考えるのが妥当でしょう。大和に入るまで20年近くもかかっているのは、力攻めを避けて根気強く反対派を説得していたのか、あるいはコシの国の王としての年数を加算しているのか、どちらかでしょう。
 ちなみにコシの国というのは、その頃あったと考えられている大きな国です。いまの福井県から新潟県という、日本海側の枢要部を支配していました。後年、コシの国の領域が、越前・越中・越後の3分国に分けられ、さらに越中から加賀能登が分離しました。
 これらの地域は、のちの農業生産重視の価値観からすれば痩せた土地のように思われます。米どころと言われる越後も、明治以後、寒冷地に適した品種が作られてから躍進したのであって、例えば戦国時代ではたかだか50万石足らずの国でしかありませんでした。
 しかし、当時は陸上交通よりも海上交通のほうがメインであって、その意味ではコシの国は、日本海貿易を一手に支配しており、当時としては随一の富強を誇っていたと思われます。領域の真ん中に突き出た能登半島は、東西方向に進むにも南北方向に進むにも、きわめて有用な中継地であって、大量の財貨が落とされたはずです。そのコシの国の富強ぶりを背景に、大和に干渉してきたのがヲホド王だったのでしょう。
 ヲホド王が応神天皇の子孫だったかどうか、繰り返しますがそれはわかりません。「子孫でもない者が大和の有力者たちに大王として迎えられるはずがない」と主張している本も読んだことはありますが、日本人の性格というのは昔も今もそう変わったものではなく、「空気」に敏感であって、その場の「空気」に寄り添うことを良しとするところがあります。新しい大王としてヲホド王を迎えようという「空気」が金村らによってだんだんと作られてくれば、賛成する者も多くなったでしょう。そんな中から

 ──お聞きになられたか。実はヲホド様は、ホムダワケのみかど(応神天皇)の5世のお孫様だったという噂ですぞ。

 なんて話がささやかれるようになると、たちまちそれが公式見解になったことと思われます。
 本当のことだったかもしれず、ためにする作り話だったのかもしれません。「万世一系」なる建前を維持するためには大問題ですけれども、私はその点はどうでも良いという立場です。とにかく、継体天皇以降は皇位継承の道筋がすべて可視化されているので、それで充分です。継体天皇の即位は507年ということになっていますので、皇室の歴史は「少なくとも1610年間」ということで、世界最長の君主家系であることには違いありません。

 現存で世界最長であるのはもちろんですが、過去を見ても、これほど息の長い君主家系は見当たらなさそうです。
 エチオピアアビシニア)皇帝も長い歴史を持っていたと言われます。最後の皇帝はハイレ・セラシエ1世で、1974年にクーデターによって廃位され、翌年殺害されました。その後イランパフラヴィー2世も追放され、かくして「エンペラー」の位で遇される君主が日本の天皇だけになったわけです。
 ハイレ・セラシエ1世は「ソロモン朝」の皇帝です。ソロモン朝というのはなんと古さも古き、旧約聖書に出てくるソロモン王シバの女王とのあいだに生まれた子が開祖になっていると伝えられる王朝です。これが本当だとしたら、ソロモン王というのは紀元前11~10世紀の人と言われていますので、その血筋は日本の皇室を4世紀ばかり上回る長さを持っていることになります。
 ただし、ずっと君主の座にあったというわけではなく、エチオピア帝国の原型であるアスクム王国がはじまったのは紀元前5世紀頃と考えられています。つまりソロモン王の時代から500年くらい経って、ようやく王様になれたということであるようです。もちろんソロモン王の子孫というのはいわば建国神話であって、これまた本当かどうかはわかりません。
 それにしても紀元前5世紀からということは、もしソロモン朝がそのまま続いていれば、日本の皇室の実質のみならず公称に迫る長さということになりますが、残念ながら10世紀頃に一旦亡ぼされます。それでも同一家系が1500年近く君主の座にあったのだから、凄いことではあります。
 アスクム王国を亡ぼしたザグヴェ朝は、300年ほどのあいだエチオピアに君臨しますが、やがて王位争いなどによって弱体化し、イクノ・アムラクという人物に亡ぼされます。このイクノ・アムラクが、かつてのアスクム王室の子孫であると自称していたのでした。
 イクノ・アムラクは単なる国王ではなく、「ネグサ・ナガスト」という称号を名乗りました。これはアムハラ語で「王の中の王」を意味し、それならまあ皇帝に相当するだろうということで、皇帝もしくはエンペラーという訳語が使われました。それゆえイクノ・アムラクがエチオピア初代皇帝ということになります。その前のザグヴェ朝の後期の王もネグサ・ナガストを称していたとして、エチオピア帝国の濫觴を引き上げる説もありますが、まあ一般にはイクノ・アムラクがネグサ・ナガストを名乗った1270年をエチオピア帝国の成立と見るのが普通です。
 日本で言えば鎌倉時代、ちょうど元寇のちょっと前の頃ですが、この帝国は栄枯盛衰をいろいろ経験しつつ、1851年までとりあえず続きました。実際には皇帝不在という期間がけっこうあり、ほとんど勢力を失っていた時代もあったようですが、それにしても580年は続いたわけで、立派なものです。
 この最後の頃は群雄割拠で、皇帝はほとんど力を失っていました。ヨハンネス1世などは、短期間だけ在位してはすぐ退位し、数年経ってまた別の勢力に祭り上げられて復位するといったことを繰り返していました。日本で言えば皇室よりも、足利幕府の末期みたいなことになっていたようです。
 そんな状況にけりをつけて全国を統一した、織田信長豊臣秀吉を合わせたような人物がテオドロス2世で、1855年から1868年にかけて帝位に就いていました。ソロモン朝とは血縁が無かったようで、彼の治世のことは「テオドロス朝」と呼ばれます。しかしこれまた信長や秀吉と同じく、その権勢も一代限りで、次の帝位はギヨルギス2世という人物に受け継がれます。このギヨルギス2世、なんとはるか昔に亡びたはずのザグヴェ朝の後裔だったということで、その治世は「近代ザグヴェ朝」と呼ばれます。
 そのあと「ティグレ朝」ヨハンネス4世が皇帝になったりして、エチオピア帝国はかなり渾沌とした状況に陥っていたのですが、1889年に至って、ようやくソロモン朝の後継者であるメネリク2世が即位し、途中イタリアに征服されて中断することはあったものの(というか、イタリア王ヴィットリオ・エマヌエレ3世が、19361941年の5年間、エチオピア皇帝を兼任した)、1974年まで続けることができました。
 これを考えてみると、いわば神聖家系であるソロモン朝帝室は、前身のアスクム王室から数えれば、確かに息が長いし、一旦帝位を追われても、また奪回している点、なかなかしたたかでもあります。ただ日本の皇室のように続いているかと問われれば、ちょっと首を傾げたくなるところではあります。

 上で、ヨハンネス1世時代のソロモン朝を、末期の足利幕府に喩えましたが、エチオピア皇帝の座が意外と安定しなかったのは、やはりその位置が皇室よりも武家政権に近かったからではないかという気がします。
 皇室のこの世界史上で異常なほどの長命さは、早い時期から「君臨すれども統治せず」を実行していたからだと私は考えています。天皇は、ただそこにおわせばそれで良いので、行政や司法などに関与すべきではないというコンセンサスが、日本では自然に出来上がっていました。
 思えば邪馬台国卑弥呼も、自分自身が行政をおこなっていた感じではなく、神官としての役割に終始していた雰囲気があります。ヒミコの名称は、女王(ひめみこ)もしくは日巫女(ひのみこ)が訛ったものだと思いますが、いずれにしろ統治には直接タッチせず、実際の政治は弟とか重臣とかに任せていたのではないでしょうか。
 魏志倭人伝の記述でもうひとつ言えば、倭の地にあるいくつかの国では、「官」(と書いてあるがたぶん国の長)の名前はさまざまですが、「副」の名前がいずれも「卑奴母離」と書かれています。これはヒナモリとしか読みようが無く、個人名ではなくて「夷守」という役職名だったのだろうというのが定説です。それぞれの国の統治機構などについてはつまびらかにしませんが、なんとなく印象として、「副」である夷守のほうが実際の地方行政をおこなっていたのではないかと思われます。「官」のほうは土着の豪族の長で、お飾りみたいなものだったかもしれません。
 上にひとり祭り上げておき、その人は実際にはなんにもせず、副官的立場の者が実務を取り仕切る……という形態が、日本ではどうも上代から普通に見られたのではないかという気がしてなりません。つまり権威と権限の分離ということです。
 実は権威と権限の分離こそが、組織を長持ちさせる秘訣だとも言われます。権限を持つ者はそれをふるってどんどんものごとを進めますが、当然ながら反対者も次々と現れます。しかしその反対者が組織自体を潰すことがあっては元も子もありません。そういうとき、権限者とは別の、権威のみ持つ存在が居れば、その人の鶴のひと声で反対者が納得してしまうということが起こりえます。
 しかし、そうわかっていても、権威と権限の分離に成功した組織はほとんどありません。人情のしからしむるところとして、権力を持つ者はたいてい権威を身にまといたがりますし、権威を持つ者はついつい権限も手に入れようとしたがるものです。つまり、祭り上げられていることに満足できず、自分の権威を笠に着てあれこれと自分の希望を通そうとしたがるのです。足利義昭などにその典型的な姿を見ることができます。
 天皇の中にも、ときにはそういう「意欲的」な人が居ました。しかし権限の掌握に成功した天皇は桓武天皇あたりが最後でしょう。無理を通そうとすると、後嵯峨天皇後醍醐天皇のように、戦乱をまきおこしたあげくに追放されるはめに陥ったりしています。後醍醐天皇は宋学(朱子学)を学んで、中華皇帝と日本の天皇を同一視するという錯覚に陥り、時代錯誤な天皇親政をおこなおうとした人で、いわば天皇の中では異端児でした。
 ほとんどの天皇は、実権を他の実力者に委ねることで満足していました。満足というか、天皇というのは神事で非常に忙しく、地下(じげ)の政治に関わっている暇など無いというのが実態です。
 実権者は藤原氏、平氏、源氏、北條氏、足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏と次々チェンジしても、天皇の家系が変わらなかったのは、まさに権限を持たずに権威だけ保持していたためでしょう。
 その意味では、世界史的に天皇がキングやエンペラーに相当する存在なのかどうか、やや疑問でもあります。祭司王(プリーストキング)や教皇(ポープ)に近いのではないか、という説もあるくらいです。実際、中国に対して「日本国王」を称したのは足利義満でしたし、江戸時代初期の宣教師は徳川家康を「国王」、秀忠を「皇帝」と書いています。天皇の存在は宣教師たちの眼には映っていませんでした。
 こういう日本独特の統治機構については、外国人にはなかなか理解して貰うのが難しいかもしれません。ただ、現存する「国王」、少なくともヨーロッパに関しては、ほとんどが「君臨すれども統治せず」という立場に移行しています。日本ではまさにそれを、少なくともここ1200年くらいは続けているのだ、と説明すればわかりやすいでしょう。さまざまな悲喜劇や試行錯誤を繰り返してヨーロッパ勢がようやく到達した「君臨すれども」の境地を、日本ははるか昔から実現していたのでした。
 「君臨すれども」になって、権限をふるわなくなったヨーロッパの王室は、今後は後継者が居なくなったというような事態にならない限りは廃止されることは無さそうです。英国・スペイン・オランダ・ベルギー・デンマーク・スウェーデン・ノルウェーの各国の王様たちは、ぜひ日本の天皇を見習って、政治に対する色気など見せないことをお奨めします。
 それに対し、あいかわらず権威と権限を併せ持った専制君主である中東あたりの王室は、あまり長持ちしないような気がします。石油が尽きたら終わりでしょう。つい先日もサウジアラビア王家で、凄惨と言えるほどの粛正劇が繰り広げられました。わりに開明的と言われたムハンマド王太子が、政策に反対しそうな保守派の連中を片端から粛正したのでしたが、そんな強権を振るうこと自体、あんまり開明的とも思えません。高齢の現サルマーン国王亡き後を見据えてのことだったのだと思いますけれども、こういうことをしていると反撥も大きなものにならざるを得ません。それは王室を揺るがすほどになるかもしれません。
 しばらく前にはネパールの王室内で殺し合いが起こったあげく、王室そのものが終わってしまいました。これについては毛沢東主義者の暗躍もあったとされ、単純に王室内での内訌の果てとばかりは申せませんが、それにしてもあんな醇朴そうな国であんな事件が起こるとは驚きでした。隣のブータンではまだ王室は健在で、美男美女の若い国王夫妻は日本にもお越しになって大人気でしたが、ネパールの悲劇を繰り返さないことを祈るばかりです。

 権威だけを持ち権限を持たないという存在が、基本的に長持ちするという例は、中国史上にもあります。他ならぬ王朝のことで、さすがに千年は保ちませんでしたが、それに準ずる790年の長きにわたる命脈をたもちました。もちろん中国史上最長です。
 最初の270年ほどを西周と呼びますが、この期間はいちおう天下王朝としての名目を備えていたようです。周は封建制を採っていたので、まわりに100以上の国が存在していましたが、それらの国からは宗教的敬仰心と臣下の礼を向けられており、国同士の争いごとがあれば裁定をおこない、不穏な動きがあれば王軍を動かして鎮圧するなど、まさに実質的な王としての役割を果たしていました。むろん権限と権威を兼ね備えた存在でした。
 ……とは言ってみたものの、実は西周時代の文献というのはほとんど無く、謎の時代となっています。その前の(殷)代のほうが、青銅器に鋳込まれたり甲骨片に刻まれたりして、よほど文献史料が多いくらいなものです。一節には10代厲王の時代に起こった大乱で、書物がほとんど焼失してしまったからだと言われるのですが、周の初期の人々が、商代の象徴であるかのような「文字」を使うことを嫌ったからかもしれません。だから上に書いたようなことは想像に過ぎないのですが、その後の様子から見てまずこんなところだったと思います。
 12代幽王のときに周は一旦亡び(紀元前771年)、その子の平王洛陽に遷都してからが東周となります。平王が国を保ったにあたっては、諸侯の助力によるところが大きく、このあたりから周王朝の実質的な権力は低下の一途を辿ることになります。
 エポックメイキングな出来事として、紀元前707年に、桓王の軍が、荘公の率いる軍勢に敗北したという事件がありました。いちおう洛陽遷都から春秋戦国時代がはじまるとされていますが、実質的な春秋時代の開幕はこの戦争と言えるかもしれません。
 王の軍が諸侯の、それも連合軍でもなんでもない単独の軍に敗れるのでは、もはや王はその権勢を失ったと見て良いでしょう。実際、それからあとの周は縮小の一途を辿ります。
 それでも中原諸国の君主たちは、周に遠慮して王を名乗るのは避けていましたが、南方のは、周から貰った爵位が子爵に過ぎなかったことに腹を立てて、みずから王を自称しました。ちなみに公侯伯子男という「五爵」は周に由来します。
 ただ、楚王も、周王のもうひとつの称号である「天子」は名乗らなかったようです。天から使命を受けてこの世を統治するのが「天子」であり、こればかりは周王の専管事項であると思われていたのでしょうか。周王が全然天下の統治などしなくなっても、「天子」の地位を窺う者は現れませんでした。たぶんその辺が、古代中国の宗教的感覚だったのかもしれません。戦国時代後期には、多くの国の君主が王を称しましたが、それでも「天子」を名乗った者は居ませんでした。
 春秋戦国期の周は、版図もごく小さなものとなりましたので、他の国の邪魔にはなりません。だから潰されることもなかったと言えます。そして、宗教的権威だけを持っていたがゆえに長持ちしました。小さな神社をわざわざぶちこわして人々のヒンシュクを買う者が滅多に居ないようなものです。わが後嵯峨天皇や後醍醐天皇のごとく、ときどき勘違いした周王が、諸侯に対して偉そうなことを命じてきたりもしたようですが、諸侯は特に逆らうということもなかったようです。あまりに無理難題であればスルーしました。スルーされても罰を加える方法は周王にはありません。逆にそんなことでカチンと来た諸侯も、周王に対して軍を動かしたりすれば、他の国々から総スカンを受けるに決まっているので、放っておくに限るのでした。これこそ、権威のみ持つ者の強みでしょう。
 それを考えれば、戦国の勝者であるが、周を亡ぼしてしまったのは、いささか浅慮であったようです。すでにいくつかの強国を亡ぼして肥大化した秦としては、もう周の権威も必要ないと判断して潰してしまったのでしょうが、いざ天下をとると、わずか15年かそこらで滅亡してしまいました。
 もし秦が、天下をとりつつも、周を重んじてその臣下の態をとり続けていたらどうであったでしょうか。あたかも皇室と徳川家のように……。
 秦そのものはそう長持ちしなかったとしても、その後の中国史全体が、だいぶ様相を変えていたのではないかと思えてなりません。
 ともあれ周王朝が、中国史上では破格の800年近い命脈を保ち得たのは、実質的な力は持たずに権威だけを保っていたからだと考えて間違いはなさそうです。

 革命などで王様や皇帝を追い出したり殺したりした国の中には、

 ──やっぱり王様が居たほうが良かった。

 と反省しているところもあると聞いたことがあります。選挙で選ばれる「大統領」ではどうしても、国王とか皇帝とかが持つ圧倒的権威というものを持ちようがありません。と言って、今さら王様やその子孫を復帰させたとしても、すぐには国民の尊敬を受けるというわけにもゆかないでしょう。
 一旦王制を廃止して、わりと近年戻した国にスペインがあります。長くスペインに君臨した独裁者フランコが、死に際して、王制に戻すよう遺言したということです。フランコという人物に関しては毀誉褒貶いろいろありますが、本人の意思としては、困難な時期を自分が泥をかぶっても乗り切り、まっさらになったところで王様に政柄をお返しするというつもりだったに違いありません。果敢に反対者を弾圧し続けた「暴君」であったかもしれませんが、一方では比類無き「忠臣」であったかにも見えます。一旦廃止した王制を「戻す」ためには、フランコ並みの深慮遠謀が必要ということでもあるでしょう。
 しかし、戻しても良いのはやはり「君臨すれども……」派の王様、つまり立憲君主だけでしょう。中東式の専制君主は、現に続いていて国民もいちおう納得しているところ以外で、今後あらたに「導入」もしくは「復活」するわけにはゆかないと思います。
 こうして見ると現在主流である「共和制」という体制が、本当に政治体制として最終的な結論になりうるのかどうか、いまだ疑問を残すところ無しとは言えないように思えてきます。SFなどで、遠い未来の、銀河系規模の文明時代であっても、「帝国」と「共和国」しか無かったりするので、作家の想像力というのも大したことはないのだなあと思ったりしているのでした。

(2017.11.11.)


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