「王者」の強さ

 RPGなどの定番では、ラスボスは「魔王」だったりするわけです。時にはその裏にさらに黒幕がいたりすることもありますが、いちおう主人公たちは「魔王」を討伐するために冒険の旅をするというのがお約束になっています。
 当然ながら、魔王というのは他のザコキャラとは卓絶した強さを持っていなければなりません。最大級の呪文を使いこなし、連続攻撃とか全体攻撃とかでこちらに大ダメージを与えてきます。疑いもなく最強の敵と言えます。王者たるもの、最強でなければ人は納得しません。
 ……と考えてきたとき、現実の「王様」はどんなものだろうか、という疑問に突き当たります。
 ファンタジー世界でも、人間側の「王様」は必ずしも「最強の人間」ではないようです。王様が最強なら、王様が軍勢を引き連れて魔王を討伐すればそれで済むわけですが、そうではないからこそ、素性も定かならぬ「勇者」みたいなのに頼らなければならないわけです。
 ましてや現実世界では、王様が個人としてその国で最強、なんてことがあり得るとは誰も思いはしないでしょう。
 いやいや、現実世界では個人の武勇などたかの知れたもので、肝心なのは統率力、「将」としての能力である……と考えてみても、ある国の王様が本当にその国でいちばん統率力や将器にすぐれているのかと言えば、まあそういうケースも稀にあるとはいえ、普通はそのようには思われていないような気がします。
 それなら、「王」の強さとはなんなのだろうか、と考え込んでしまいます。

 の高祖・劉邦が、部将である韓信と会話した話が「史記」に載っています。この会話は、楚王になっていた韓信が謀反を疑われて召還され、淮陰侯に格下げになった騒ぎのときのことらしいのですが、劉邦は天下とりの最大の功臣と言うべき韓信に対して、このときまだどこかうしろめたさがあったらしく、気を遣っていろいろ話しかけたりしたようです。
 そのとき、劉邦と韓信は、さまざまな功臣たちの人物月旦をおこないました。誰某は万の軍勢を率いるに足る将器であるとか、誰某は数千人程度の器量であろうとか、そんな話をしているうち、劉邦はふと思いつき、
 「このわしはどうだろうか?」
 と韓信に訊ねてみたのでした。自分の将器を他人に訊きたがる皇帝というのもおかしなものですが、それまでの韓信による人物評が的を射ているように思えたのかもしれません。
 韓信は答えました。
 「陛下の将器は10万人というところでしょうか。それ以上を率いることは無理でしょう」
 そう言われて劉邦はあまり嬉しくなく、
 「ほう、それではあなたはどうなのだ」
 とさらに問いました。
 韓信はふたたび答えました。
 「多々、ますます善きのみ」
 兵が多ければ多いほど私の将才は発揮されるのです、とぬけぬけと言い放ったのでした。劉邦はさすがにむっとしたようです。
 「それなら訊くが、10万の将でしかないわしの前に、多々ますます善き将であるあなたが、なぜ捕まってここに居るのか」
 「陛下は兵に将たる才はさほどおありではありません。しかし将に将たる器がおありなのです。これは天命であって、人力ではございません。これが今日、私が陛下の前に引き出されている理由です」
 この逸話は、王者の持つべき資質というものをよく表現し得ているように思えます。
 劉邦のライバルであった項羽は、個人的武勇でも卓越していましたし、戦術家としてもなかなかのものでした。項羽の率いていた楚軍では、項羽を超える勇者も将軍も、ひとりも存在しなかったと言って良かったでしょう。
 この事情は、劉邦自身がよく知っており、次のようなエピソードも伝えられます。
 あるとき劉邦は臣下たちの前で、項羽が天下を失い、自分が天下をとったのはなぜだと思うか、と問いかけました。
 臣下たちは、項羽が残忍な性格であったとか、ケチであったとか、いろいろ理由を並べ立てましたが、劉邦は一笑して言いました。
 「卿らは一を知って二を知らん」
 茫然とする臣下たちに、劉邦は説明しました。
 「わしは大軍を率いて勝利することにかけては韓信に及ばぬ。千里の外に勝敗を決する知略にかけては張良に及ばぬ。兵糧をつつがなく届けて事故の無いようにすることにかけては蕭何に及ばぬ。この3人はいずれも人傑である。わしが天下をとったのは、この人傑たちを使いこなしたからだ。それに対し、項羽はたったひとりの范増さえ使いこなせなかった。これこそヤツが天下を失った理由よ」
 范増は項羽の謀臣でした。むしろ項羽の叔父で最初に楚軍を起ち上げた項梁の謀臣と言うべきかもしれません。叔父の寵臣ということで、項羽も范増を重用し、「亜父」とさえ呼んで敬いました。ただ、敬ったわりには范増の助言をあんまり聞かなかったようです。何度も劉邦の危険性を項羽に訴えたのに、項羽の反応はつねに薄いものでした。項羽がを亡ぼしたのちに18人の王を封建したときにも、范増の意見が採用されたようではありません。知恵者の策としてはあまりにもお粗末で、たちまち不満が囂々と湧き上がって、群雄割拠の戦乱状態になってしまうのです。もしこれが范増の意見なのであれば、彼は伝えられるほどの知恵者ではなかったということになってしまいそうです。おそらく項羽は范増に相談することもなかったのでしょう。
 その後も項羽はあまり言うことを聞かず、結局劉邦の謀臣である陳平の反間の策にはまって范増に疑いを抱きます。范増は敏感にそのことを察して項羽のもとを去りますが、故郷に帰る途上で憤死したのでした。
 結局、項羽は自分に欠けた知謀の主を使いこなせなかったことになります。そして、劉邦は確かに、自分よりもすぐれた能力の持ち主を自在に使いこなすことで天下をとりました。王者の資質というのは、要するにそこに尽きるのかもしれません。

 とは言うものの、中国史においてもそんな「王者の資質」を備えた帝王はさほど多くありません。むしろ自分よりすぐれた臣下に嫉妬し、いやがらせをするばかりか処刑したりしてしまう見苦しい帝王のほうがざらに見受けられます。
 湯王に対して伊尹武王に対して太公望周公旦など、伝説的な創業の帝王にはたいてい、その帝王自身よりも能力の高い補佐役が設定されていますが、このことは中国人が帝王という存在にどういう期待をかけているかを示しています。本人が高い能力を持つよりは、能力者たちをのびのびと活躍させてくれる帝王こそが望ましいのです。そういう場を作るのが、言ってみれば「徳」というものだったのでしょう。ただし、そんな帝王は滅多に居なかったからこそ、伝説上の帝王がそういうことになっていると見るのが妥当でしょう。
 そういえば西遊記三蔵法師にせよ、水滸伝宋江にせよ、中国の物語の主人公はあんまり能力が突出していない、悪く言えば昼行灯みたいなタイプが多いですね。この辺も古来の帝王観に通じるものがありそうです。

 ヨーロッパの場合はどうでしょうか。王朝の始祖は軍人だったりもするので、それなりに器量はあるケースが多かったかもしれません。ヨーロッパの貴族というのは、精神的にも肉体的にも、一般庶民とは隔絶した強靱さを持っていることが期待され、それゆえにブルー・ブラッド──青い血を持つ人々と言われ、つまり生物として別ものだとすら思われていました。王様はいわばその頂点ですから、その国でいちばん強いと考えられていたとしても不思議はありません。
 しかしそれもまあ建前です。実際には軟弱な貴族もいくらでも居たし、暗愚な王様だって珍しくはありません。文字どおりに勇者が王様になったなんてのは、伝説のアーサー王くらいしか居なさそうです。
 ただ、古い時代から下剋上が普通におこなわれ、一庶民でも風雲に乗れば帝王になりうると考えられていた中国あたりに較べると、ヨーロッパの王様や貴族は、やはりある時代まではそこそこ「特別な人」と見られていたように思われます。

 日本では、天皇はもともと武事とは無関係という印象があり、実際武人としても有能であったと見られるのは神武天皇と、せいぜい景行天皇くらいなものでしょうか。応神天皇雄略天皇もけっこう武断的であった感じですが、本人が軍勢を率いて戦いに赴いたイメージはありません。
 それでは、歴代の征夷大将軍はどうでしょうか。この地位はいわば武人の頂点ですから、それなりの猛者が揃っていても良さそうです。
 が、鎌倉・室町・江戸の各幕府の歴代将軍を眺めてみても、そんなに強そうな人は見当たりません。
 源頼朝は政治家としては凄腕に思えますが、武将として有能であったかどうかは微妙です。個人的に強くもなかったでしょう。武将としての能力を言えば、義経はもちろん、範頼にも劣ったのではないかと思います。
 続く頼家実朝も、あっさりと刺客の手にかかって命を落としています。抵抗して大立ち回りを演じた形跡もなく、武芸をたしなんでいたとは思えません。
 それ以後の公家将軍、皇族将軍たちに至っては何をか言わんやです。
 足利尊氏はみずから兵を率いて転戦していますから、将器はそれなりにあったのでしょう。しかし、彼自身が率いた軍勢は、実のところあんまり好成績を挙げていません。劉邦ではありませんが、尊氏の将才はせいぜい中程度と思われます。彼が天下をとれたのは、無類の気前良さで恩賞をばらまき、味方を増やしたことに尽きます。
 息子の義詮も戦乱の中に生きた人なので、そこそこの将器はあったかもしれませんが、目覚ましいエピソードは伝わっていません。3代義満からは守成の君主でしょう。
 足利将軍の中では、13代の義輝剣豪将軍の異名を持ち、塚原卜伝から免許皆伝を受けています。後年、将軍や大名にはわりと簡単に免許皆伝が与えられるようになりますが、剣術というものの初期であるこの頃は、まだそう軽々しいものではなかったでしょう。義輝の将としての能力がどの程度であったのかはわかりませんが、個人的戦闘力に関してのみ言えば、歴代征夷大将軍の中で最強だったかもしれません。最期は松永久秀の軍勢に攻められて、十数本の太刀をとっかえひっかえ自ら戦いますが、力及ばず斃れます。個人の剣の腕前など、軍勢の前には無意味だという証左ではありますが、なすすべもなく殺されてしまった源頼家や実朝などに較べれば、だいぶ頑張ったと言えましょう。
 徳川将軍では、それなりに鍛えていたのではないかと思われるのは初代の家康と最後の慶喜、次点で8代吉宗くらいでしょうか。曲がりなりにも軍勢を率いたことがあるのは家康と秀忠、それに慶喜と、その前の14代家茂(実際には長州へ向け進軍する前に大坂で病死したが、いちおう軍旅の途中だった)だけでしょう。
 まあ個人技でも将才でも、徳川将軍中では家康が最高点でしょうが、戦闘力では武田信玄上杉謙信にはかなわず、戦略眼や政治的ヴィジョンでは織田信長豊臣秀吉の後塵を拝する人物ではあります。さりとて足利尊氏のような気前良さもありません。家康が天下をとったのは、つねに強者の側に居たという巡り合わせの良さと、人柄の持つ安心感といったところだったのではないかと私は考えています。あとはとにかく「生きた」ということに尽きるでしょう。家康が50歳くらいで死んでいたら、徳川幕府は決して成立しなかったと思われるからです。
 三幕府と関係のない征夷大将軍はどうでしょう。初代征夷大将軍の大伴弟麻呂は、60過ぎてから桓武天皇に任命された人で、当時としてはもうヨボヨボの爺さんだったでしょう。次が有名な坂上田村麻呂ですが、名声のわりにさほど華々しい武勇伝があるわけではありません。しかし部下たちにはもちろん、敵将にも慕われたようですので、将としての器量は大きなものがあったのではないかと思います。
 3代目の文室綿麻呂薬子の変で田村麻呂と敵対し、やがて田村麻呂の口利きで赦されてその副官になった人物です。田村麻呂ほどではないにせよそれなりの将器はあったのでしょうか。
 藤原純友の乱を鎮圧した4代目征夷大将軍藤原忠文についてはまるでイメージが湧きません。そもそも純友の乱を収めたときの称号は征西大将軍でした。
 5代目が朝日将軍こと源義仲木曽義仲)で、この人は強そうです。個人技でも将としても、かなりのレベルだったのではないでしょうか。京都の大飢饉が無く、敵対した義経があんな破格の名将でなければ、ああも短期間で没落することはなかったかもしれません。
 鎌倉幕府から室町幕府への過渡期に、何人かの皇族将軍が居ます。有名なのは護良親王です。この人は比叡山で僧兵の頭みたいなことをしていただけに、武芸は達者だったようなイメージがあります。そのあとの、南朝方が立てた征夷大将軍たちについては、触れる必要は無いでしょう。
 こうしてみると、武人のトップである征夷大将軍といえども、個人的戦闘力が高そうな人は数えるくらいだし、戦略戦術にすぐれていた人もごく一部、武士たちをまとめあげる将器にしても幕府創始者の3人の他は初期の数人に見られる程度というていたらくです。平時の将軍であれば武人と言うよりは政治家であってやむを得ないとはいうものの、日本史はこんなことで良かったのだろうかと、ちょっと心配になります。

 各国の王にしろ日本の征夷大将軍にしろ、要は個人的な武勇とか卓越した戦略眼などは特に求められていなかったというのが正しいのかもしれません。それでは何が大切だったのかと言えば、「続くこと」であったのではないでしょうか。
 王家の血筋が続くこと、将軍家が続くことこそ大事なのであって、その中の個々人の器量などは、あるに越したことはないが実際問題さほど期待されていなかったというのが歴史の真実だったのだろうと思います。
 創業の帝王には、確かにそれなりの器量が求められたでしょうが、歴代の子孫たちともなれば、国を運営する仕事などはその能力を持った官僚などが担当すれば良いし、どこかと戦争するなら有能な将軍を抜擢すればそれで良かったのです。戦後その有能な将軍がのさばるようであれば、いろんな手練手管を用いて失脚させたり処刑したりと、そういうことも官僚たちがちゃんとやってくれたことでしょう。
 そうであってみれば、「王者」の座などつまらぬものであるような気もしてきます。

(2017.1.21.)


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