真田という一族

 最近はNHKの大河ドラマも昔ほど熱心には見なくなっています。まったく見ない年も少なくありません。去年の「花燃ゆ」などいちどもチャンネルを合わせませんでした。
 今年は「真田丸」で、わりに馴染みのあるテーマであることと、三谷幸喜氏の脚本であることで、見てみる気になりました。とりわけ三谷ファンということでもないのですが、古畑任三郎を愉しんで見ていたのは確かですし、何年か前に映画「清須会議」を観に行ってなかなか面白かった記憶があります。また大河ドラマでは「新選組!」を書いており、いつもながらの大河とは少々毛色が変わっていて、批判する人も多かったものの私は愉しめました。そんなこんなで、三谷氏が真田一族をどんな具合に料理するのか興味を覚えたわけです。
 主人公は真田信繁、古来ずっと「幸村」と呼ばれていた人物です。近年になって、幸村は本当は幸村とは名乗っていなかったのじゃないかという説が有力となり、本名とされる信繁を用いる本が多くなってきました。若い頃は信繁だったが、九度山隠棲後に幸村という号を名乗ったかもしれない、という説もあります。
 確かに幸村という名前は同時代資料には現れず、ずっとあとの軍記物になって出てきたものらしいのですが、何か根拠はあったのかもしれません。真田家の資料にも幸村という名前は出てきます。これを、

 ──真田の本家の資料まで、講談にひっぱられて「幸村」などという名前を載せているのだから嘆かわしい。

 みたいに憤っていた人も居ましたが、本家の資料というものをそう軽視すべきではなく、なんらかの言い伝えがあったと考えるほうが自然ではないでしょうか。
 ともあれ、今年の大河ドラマでは「信繁」の名前で扱ってゆくことになるようです。

 三谷作品は、キャスティングがけっこう独特なのが見どころとも言えますが、この真田信繁に堺雅人氏を宛てたのも意外なところでした。キャスティングに脚本家の意向がどのくらい反映されるものなのか、プロデューサーや演出家の意思もだいぶ入ると思いますが、堺氏の場合は三谷氏の意見があったような気がします。堺氏は「新選組!」では山南敬助を演じており、香取慎吾近藤勇山本耕治土方歳三などに較べても妙な存在感がありました。
 信繁の兄で上田藩祖となる真田信幸役は大泉洋氏で、「清須会議」で羽柴秀吉を演じました。この秀吉像も、従来とは一風変わったイメージがありつつ、それなりに納得できる造形になっていました。ただ大泉氏では秀吉には大柄すぎるきらいはありましたが。
 真田昌幸役に草刈正雄氏を宛てたのも面白いキャスティングです。大河ドラマではありませんが、NHKで昔やっていた「水曜時代劇(新大型時代劇)」の枠で、池波正太郎「真田太平記」を放映したことがあり、草刈氏はそのときにほかならぬ真田幸村を演じていたのでした。おそらくそれを意識したキャスティングであったことでしょう。「真田太平記」の昌幸役は丹波哲郎氏で、昨日の第1回を見た印象では、草刈氏の昌幸の演技は、ある程度丹波氏の線を狙っているのではないかという気がしました。
 他のキャスティングも、「新選組!」のときと同様、いつもの大河ドラマより少し若手役者が多めの陣容であるように思えました。「新選組!」の放映時は、そのことが批判され、

 ──重みがなくて、大河ドラマの風格に欠けている。

 などと言われたものでしたが、考えてみると劇中人物が活躍している年齢は、演じている当時の香取氏や山本氏と近いあたりであったと思います。歴史上の人物というのは、現代のわれわれが思うよりずっと若くして活躍しているようで、例えば自分の年齢を考えても、上杉謙信織田信長が歿した齢をとっくに越していることに驚かされます。

 真田一族というのは、さまざまな伝説に彩られていて、かえって実像が見えづらくなっているところがあるかもしれません。
 とにかく、徳川家康の差し向けた軍勢を2度にわたって完膚無きまでに撃退した上に、大坂夏の陣では家康の本陣への直接攻撃を敢行し、あわや家康を討ち取る寸前まで追いつめたという殊勲を上げています。江戸時代においても、敵ながらあっぱれという評価がなされていましたし、江戸幕府が倒れてからはさらに人気が高まりました。その結果真田十勇士といった「秘密戦隊」も創作され、そのメンバーである猿飛佐助霧隠才蔵にはスピンオフの物語も作られました。真田幸村と言えば、講談の世界では諸葛孔明楠木正成と並び、知勇を兼ね備えた名将として、人々の憧れの的になったのです。
 いまだに、「信長の野望」などのゲームでは、幸村のパラメータはずば抜けて高い価に設定されていますし、架空戦記(歴史シミュレーション小説)の世界でも、真田一族が味方した側が必ず勝つ筋書きになっていることがほとんどです。真田が活躍しないとおさまらないプレイヤーや読者が尽きないということでしょう。
 そんなに強いなら、天下取りのレースの決勝戦に名を連ねても良さそうなものですが、そんな気配はありません。物語上の真田一族は、実像よりはるかにふくらまされた像を結んでいると言って良いでしょう。

 真田昌幸の父・幸隆は、武田信玄に仕えて活躍した武将です。本来、信濃と上野のあいだあたりを本拠としていた豪族ですので、譜代の家来ではなく、信玄が諏訪・村上・小笠原などの各族を蹴散らして信濃の大部分を領有してから以後に傘下に入った、いわば外様だったはずです。
 昌幸は幸隆の三男で、武藤家に養子に入っていましたが、長兄と次兄が長篠の戦いで戦死してしまったため、急遽真田家を嗣ぐことになったのでした。機敏で洞察力の鋭い昌幸は信玄に重宝され、次の勝頼の代には重臣のひとりと見なされるようになりました。
 勝頼が織田信長に攻められて窮地に陥った際、昌幸は自分の本拠地である上信地方に勝頼を招き入れ、捲土重来を謀ろうとしたと言われています。これが実現していれば、歴史はまた違った様相をおびていたのかもしれません。しかし結局、勝頼は外様である真田に頼ることをせず、同族である小山田信茂の居城である岩殿山城(大月)にこもろうとし、信茂に裏切られて行き場所を失い、自害するはめになります。
 武田が亡びると、昌幸は一旦信長に降伏し、滝川一益の与力となりますが、数ヶ月も経たないうちに信長は本能寺で斃されます。滝川一益はその後神流川の戦い北条軍にボロ負けし、落魄して関東を立ち去ります。
 この混乱した情勢下で、昌幸は旧武田家臣を取り込もうとした形跡があり、実際その一部を麾下におさめています。しかし自前で充分な勢力を形成するには時間が足りなかったと言えるでしょう。一益が退去し、信長から甲斐を与えられていた河尻秀隆も殺害されて、上野・甲斐・信濃の三国は事実上無主の地のようになり、上杉景勝北条氏政・徳川家康がそれぞれに牙爪を伸ばしはじめるのです。
 上野はほぼ北条が、甲信は徳川が押さえた状態になりました。上杉はまだ御館の乱の余塵がおさまっておらず、あまり積極的に動けなかったのでしょう。旧武田家臣の多くは徳川の傘下に入り、昌幸の思惑どおりにはなりませんでした。
 たぶん昌幸は、上杉・北条・徳川のいずれにも属したくはなかったのでしょうが、こうなってしまっては仕方がありません。この三強のあいだを微妙に泳ぎまわりながら生き残りを策すことになります。後年の言動から、徳川嫌いであったように思われていますが、特にそういうわけでもなく、家康に臣従していた時期もあります。それに本当に徳川嫌いであれば、長男の信幸の嫁に本多忠勝の娘を迎えたりはしないでしょう。
 要するに、どう行動すれば生き残れるかということをひたすらに考えていたに違いありません。それと共に、自分が切り取った土地を決して手放さないという意地もあったようです。徳川勢を破った第一次上田合戦も、かつてみずから攻め取った沼田城を理不尽に奪われそうになったところから起こりました。土地に執着するあたりは、古い型の戦国武将であるとも言えます。
 昌幸の戦いかたは、つねに自軍が有利になるように敵を誘導し、敵が大軍であることの優位をあまり活かせないような形を強いて、伏兵や奇襲で撃破するという方法です。つまり地勢を知り尽くした場所では強力無比でしたが、例えば平地での会戦でそれほどの軍略の冴えを発揮できたかというと、やや疑問です。ただ、徳川勢を、続いて北条勢をも撃退したことで、稀代の戦上手という評判は高まったことでしょう。
 秀吉は昌幸を「表裏比興の者」と呼んだと言われます。「比興」は「卑怯」と似た言葉ではありますが、この当時としてはむしろ褒め言葉であったという説もあります。煮ても焼いても食えない、というようなニュアンスでしょうか。
 関ヶ原の戦いのときは、昌幸と幸村(信繁)が西軍につき、信幸が東軍につくことになりました。これは一族の生き残りの策としては当然の配慮で、蜂須賀家生駒家九鬼家なども父子で東西に分かれています。勝ったほうが負けたほうの助命を嘆願するという仕組みです。
 ただこのときの昌幸の戦いぶり(第二次上田合戦)が、あまりに見事であり、徳川秀忠率いる中山道部隊の大軍を完璧に足止めして、関ヶ原の決戦に間に合わないようにせしめたため、隠居するだけでは許されず、信繁もろとも九度山に追放されるはめになったわけです。信幸が必死に嘆願して、ようやくその辺に落ち着いたと見るべきでしょうが、扱いとしてはそういう嘆願者を持たなかった長曽我部盛親などと大差なく、かなり厳しい処分だったと言えるでしょう。それだけ家康が昌幸を怖れたということでもあるかもしれません。

 この段階では、まだ信繁の非凡さは人に知られるに至っていません。彼は人質としてまず上杉景勝の春日山城に、それから秀吉の大坂城に常駐していたので、父ほど土地への執着は無かったでしょう。むしろ都会人としての感性と教養を身につけた若者であったと思われます。
 実際、東西手切れが近くなり、大坂から誘いの手が伸びるようになった頃、臨終近い昌幸は、
 「わしが達者なら、徳川を破ることができるのだが……」
 と述懐します。信繁が、その策を教えてくれるよう頼むと、昌幸は
 「そなたには無理だ」
 と言うのでした。
 つまり、真田安房守(昌幸)が大坂方に加わったと聞けば、大坂に勝ち目があると思う大名が増える。人は勝ちそうなほうにつきたがるものだから、徳川方も動揺する。そこにつけ込んで少しずつ敵方を減らしてゆきつつ、高齢の家康の死を待つ……というのが昌幸の策で、信繁にはそこまでの知名度が無いのでこの策は使えないというわけです。

 信繁が大坂に入ったのは、父への相反する想いからであったかもしれません。父の遺志を嗣いで徳川にひと泡吹かせてやろうという気持ちと、「そなたには無理だ」と言い置いて逝った父に反抗して自分の軍略を見せつけてやりたいという気持ちが、ないまぜになっていたのではないでしょうか。
 また、それはそれとして、自己表現の場を見つけたいという想いがあっただけかもしれません。自分にどれほどの才略があるのか試してみたい、という気分は、大坂方に加わった多くの武人たちに共通していたように思われます。
 ともあれ信繁は、冬の陣では出城(真田丸)を築いて徳川勢を寄せつけず、夏の陣ではハートランド・アタック(心臓部直撃戦法)によって家康の心胆を寒からしめたわけですので、父親譲りの名将であったことは間違いありません。ただ、これまた父親と同様、属した陣営にとって外様の立場であったために、肝心要のところで起死回生の戦略を主君に用いて貰えず、結局は亡びるしかなかったという点が悲劇的であったと言えましょう。

 とはいえ、信幸のほうの家系は江戸時代をしのぎきって明治を迎えられたのですから、信繁も以て瞑すべきというところでしょう。真田家全体からすれば、信繁の生涯は、家を出た次男坊が好きなように生きて果てたということであって、家系そのものが消滅してしまった長曽我部などに較べれば、ある意味恵まれていたと言えるかもしれません。
 父と弟が敵方にまわってしまった信幸の気苦労は並大抵のものではなかったでしょうが、ともあれ幕末まで一度の国替えにも遭わず、真田の血脈を上田に定着させたのは、信繁とは違う見事さであったと思います。「真田太平記」はむしろそういう信幸に焦点を当てた物語になっていましたが、さて今回の大泉洋氏はどんな信幸を演じることになるのでしょうか。

(2016.1.11.)


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