源氏の相克と修禅寺

 先日、仕事の関係で修善寺に立ち寄る機会があった。修善寺には修禅寺がある。どちらも「しゅぜんじ」と読むが、町の名は修寺で、寺の名が修寺なのである。
 言うまでもなく、修禅寺では2回、源氏嫡流にまつわる惨劇が起こっている。
 源範頼(みなもとののりより)が建久4年(1193)に、そして源頼家(みなもとのよりいえ)が建仁4年(1204)に、この地で斬られているのだ。
 範頼は頼朝の異母弟であり、頼家は長男である。
 この時代の源氏という家系の中での骨肉の争いは、見ているとほとんど暗澹たる想いにかられてしまう。なぜこの一族はこれほどまでに殺し合わなければならなかったのだろう。
 一方の平氏は、一族内の結束が大変固かった。
 ――平氏にあらずんば人にして人にあらず
 と、傲慢なセリフを吐くことができたのは、一面では、平氏が身内を大事にし、一族の端まで、生活に困るようなことがないよう気配りしていたことを示してもいる。
 こういう温かみが、源氏にはまったく見られないのだ。

 保元の乱(1156)では、源氏・平氏とも一族内で敵味方に分かれた。源氏は、崇徳上皇側に為義(ためよし)とその8男の為朝(ためとも=鎮西八郎)が、後白河天皇側に為義の長男の義朝(よしとも)がついた。平氏は、上皇側の忠正(ただまさ)と、その甥である天皇側の清盛(きよもり)が対立した。
 この乱について詳述するのは差し控えるが、要するに後白河天皇の即位を不服とした崇徳上皇の思惑に、公家たちの権勢争いがからみ、それぞれが武士団を雇って実力衝突したという、面白くもおかしくもない騒動である。しかし、それまで公家の用心棒的存在に過ぎなかった武士階級が、はじめて社会的なパワーを持ち始める契機となった事件として、歴史の教科書には必ず取り上げられる。
 後白河側の参謀総長の立場にあった藤原信西(ふじわらのしんぜい)はおそろしいほど頭の良い男で、武家が将来侮りがたい勢力になることを予見していたと思われる。それで、一族の中に内紛の種を仕込んでおこうとしたらしい。保元の乱の戦後処理で、為義の処刑を息子の義朝に、忠正の処刑を甥の清盛に命じた。なんとも残酷な仕打ちだが、それにしても叔父を斬るのと父親を斬るのでは話がだいぶ違うのであって、この命令に唯々諾々と従った義朝には、やはり源氏独特の骨肉の情の薄さがあったように思えてならない。
 義朝の三男が、頼朝である。
 頼朝が殺した同族のリストは長いものになる。叔父行家(ゆきいえ)、従弟義仲(よしなか)、弟の義経範頼、そしてそれぞれの縁者も殺しているから、まさに血塗られた将軍である。いちいち理由はあったものの、家族や親族をこれほど殺戮しなければならぬほどのことがあったのかと、戦慄さえ覚える。

 義経については、すでにこのシリーズで扱ったから詳述は避けるが、私は義経が追われ、殺されたことについては、かなり義経自身にも原因があったと思っている。何より、全くの政治音痴で、兄頼朝の立場その他をまるきりわかってやれず、勝手に後白河法皇から高位を貰ったりしている。それが頼朝の関東武士の中での立場を悪くするなどということは思ってもみなかったのだ。
 政治音痴だということは一面ではさわやかな人柄ということでもあり、後世の人気が抜群なのもわかるし、義経個人の運命に対しては満腔の同情を惜しむものでないが、しかしやはりある面、彼の死はやむを得ないものだったと言わざるを得ない。
 しかし、範頼の死は、まったく理不尽に思える。
 範頼は義経の陰に隠れて地味な印象があるが、実際には平氏追討軍の総大将であり、堅実で重厚な人柄で関東武士たちをよく掌握した。派手なばかりで人望のない義経とは対照的である。義経の一ノ谷での鵯越え(ひよどりごえ)の奇襲攻撃が成功したのも、範頼の率いる主力軍が平氏の軍勢をよく引きつけて、戦線を膠着させていたからなのだ。
 彼は、義経が没落した理由をよく知っていた。だから、決して独断専行をせず、何事も頼朝の指示を仰ぐようにした。常に控えめで、目立つことを怖れ、なんとか頼朝の逆鱗に触れずに天寿をまっとうしようと努力した。
 徹底的に恭順を示し、小心翼々と保身を図っていた範頼だったが、その彼にしてなお、斬られなければならなかったのである。
 その理由して伝えられるのが、まったく言いがかりというか、言葉尻をとらえられたというか、気の毒としか言いようのないものであった。
 有名な曾我兄弟の仇討ち(1193)は、頼朝が富士山麓で巻き狩りを行っている最中に起こった。この時代いやになるほどよくあった土地争いがこじれての事件だが、弟の十郎時致(ときむね)は勢い余って頼朝の寝所に侵入してしまった。
 これが鎌倉に、頼朝が寝所で殺されたという噂となって伝わり、幕府は大騒ぎになった。
 その時、留守役として鎌倉にいた範頼は、すぐさま頼朝の妻子の許へ駆けつけた。兄嫁の北条政子に、彼はこう言って力づけた。
 「この範頼がおります限り、たとえ噂のような大変事になりましょうとも、ご心配はご無用ですぞ」
 まことに頼り甲斐のある言葉だが、鎌倉に帰った頼朝はこの言葉に咬みついた。
 ――自分が、頼朝に代わって将軍となるつもりか。
 というのである。
 範頼は思いもよらぬ詰問にあわてふためき、すぐさま異心のない旨の誓紙を差し出した。
 ところが、この誓紙の署名に「源範頼」と書いてあったことに、再び難癖がつけられた。「源」の姓は源氏の棟梁のみが使うべきで、臣下の身で用いるのは僭越であろうというのだ。やはり将軍の座を狙っているに違いない。
 要するに、理由などはどうでもよかったので、何がなんでも範頼を斬らなければならなかったとしか思えないのである。
 その後もなんだかんだとごたごたがあり、結局範頼は修禅寺に押し込められ、梶原景時(かじわらのかげとき)に不意を衝かれて、応戦もできずに殺害されてしまう。
 死ぬ直前、範頼はつくづく、源氏の家などに生まれた不運を呪ったのではないだろうか。

 義経の死をもって、頼朝の酷薄さを言うのはやや一方的な感があるが、範頼の死に関しては、やはり頼朝は冷酷な男だったと考えざるを得ない。
 とはいえ、頼朝の性格的な問題にすべてを帰してしまうのも、少々無理があるかもしれない。
 私はこの事件に、この時期の鎌倉政権の脆弱さを感じる。
 頼朝は決して、専制君主ではなかった。ありようは、関東武士連合の盟主であるに過ぎない。いや、盟主と言うより、名誉会長のようなものでしかなかったのではないか。
 平治の乱(1159)で伊豆の蛭ヶ小島に流罪となった頼朝は、自前の兵力などまったく持ち合わせていなかった。ただ、ようやく自らの力と権利意識に目覚めた関東武士たちが、自分らの団結の旗頭として貴種である源氏の嫡流を担ぎ上げただけのことだ。つまり、自分たちの中から誰か盟主を選んだのではお互いやりずらいので、一応誰もが文句を言わない盟主として、頼朝を戴いたのである。
 逆に言えば、源氏の嫡流でさえあれば、誰でもよかったとも言える。手近なところにいたので頼朝を担いだのであって、それが義経でも範頼でも、関東武士たちにとってはさほどの違いはなかったと思われる。
 頼朝は、そういう自分の立場の不安定さをわかりすぎるほどわかっていた。
 自分がいわば「象徴」に過ぎないことを充分に認識し、関東武士たちの機嫌を損ねないように、終生据わりのよい旗頭の役を演じ続けたのである。だからこそ、勝手に高位を貰ったりして関東武士たちの神経を逆撫でするような振る舞いの絶えない義経に我慢がならなかったのだ。
 そういう頼朝の立場からすると、義経よりは、徹底的な恭順を示している範頼の方が、より危険であったとも言えるのだ。
 義経は関東武士たちに不人気だったので、義経を担いで頼朝を追い落とそうという勢力はまず考えられなかった。あるとすれば奥州の藤原氏だけである。
 だが、範頼は平氏追討の総大将として武士たちの多くと陣を共にし、人望を得ている。戦争には弱い頼朝と違って、武人の信望を集めるだけの実績もある。つまり、頼朝に不満を抱く連中が担ぎ上げても、まったく不思議はない人物だったのだ。
 だから、頼朝はどうしても範頼を消さねばならなかった。
 頼朝がと言うより、正確には頼朝に密着しすぎて、今さら頼朝とたもとを分かつわけにはゆかなくなった勢力が、と言うべきかも知れない。言うまでもなく、その最大のものが、北条氏である。
 この頃、まだ北条氏の勢力も確固としたものにはなっていない。三浦、畠山、千葉、比企、安達などといった強大なライバルがそこかしこに割拠している。それらの豪族たちが範頼を担いで立ち上がったら、できたばかりの鎌倉政権などひとたまりもなく滅亡してしまう。
 北条氏にとって、自分たちに敵対しそうな勢力が担ぎうる存在は、絶対に生かしておくわけにはゆかなかったのだ。
 それにしても、離れ小島に流罪にするくらいでも目的は達し得たであろうに、騙し討ちに近いやり方で殺害するというのは、やはり源氏の骨肉の劫の深さを感じずにはいられない。

 さて、頼朝のあとを継いだ二代将軍頼家もまた、そういう複雑な関東事情に翻弄されて22歳という若さで非業の死に斃れたのである。
 よく言われるのは、頼家が頼朝以来の重臣たちをないがしろにし、旧来の慣習などを無視して独断専行したため、将軍の座を追われたというものである。
 だが、20歳そこそこの青年が、それほど独断専行で政治を行えただろうか。独裁というのはおそろしく忙しく、高度な知的能力を必要とされる作業である。しかも、慣習を打破してそれを行うためには、とてつもない意志の強さと思想的基盤、そして時間が要る。頼家が将軍職にあったのはわずか4年(朝廷から正式に征夷大将軍に任じられてからはたったの1年)、しかも17歳から21歳という時期である。こんな若者が、自分の意志で独裁などを行えたとはとても思えない。
 たとえ我の強い若者で、重臣の意を無視した振る舞いが多く、そのため将軍職を解かれたとしても、別に殺されなくともよかっただろう。それが、叔父の範頼同様、修禅寺に押し込められ、入浴中に斬り殺されてしまう。
 頼家の死は、関東の豪族の主導権争いに巻き込まれてのことだというのが正しいらしい。
 彼は母親(北条政子)の実家の一族である北条氏を排斥するために、比企氏を重用したと言われている。
 逆である。比企氏が頼家を担いで、北条氏を追い落とそうとしたのである。
 比企氏は頼家の乳母の一族で、また彼の正室辻の方の実家でもある。この時代、乳母の存在が非常に大きなものであったことは、歴史作家の永井路子氏らの考証で明らかになりつつある。当時の乳母というのは、母親に代わって母乳を与えるだけの存在ではない。その夫は傅人(めのと)として若君の教育にあたり、子供は学友、また第一の側近として若君に仕える。一族こぞって若君をバックアップするのだ。
 それほど関係の深い一族である上に、正室の実家なのだから、比企氏は頼朝における北条氏と同じ、いやもっと権勢に近いところにいることになる。北条氏に代わって幕政を壟断しようと考えても不思議はない。
 しかし、北条氏の方が手早かった。先制攻撃で比企氏を滅ぼし、頼家を将軍職から追い、代わって実朝(さねとも)を三代将軍とした。そして実朝の乳母は、政子の妹、つまり北条氏なのである。
 頼家は出家させられ、幽閉されたが、それでも北条氏は安心できなかったようだ。他の不満分子が彼を担ぐことを怖れ、殺してしまった。彼の母親が北条氏の人間であることなど、一族全体の自己防衛から見れば些細なことだったのである。これをもって北条政子が、
 ――権勢のためにわが子をも殺させた冷酷非情な女。
 と見られているのも気の毒な話である。
 なお、頼家の息子の公暁(くぎょう)が実朝を暗殺したわけだが、この事件の黒幕は長らく北条氏だと考えられていたが、最近では三浦氏であるという説が有力だ。公暁の乳母こそ他ならぬ三浦氏の女であり、彼らは公暁を担いで北条氏を打倒しようともくろんだに違いない。しかし、実朝と同時に暗殺されるはずだった北条氏の棟梁義時(よしとき)が生き延びたのを知り、あわてて計画を変更し、身を寄せてきた公暁を殺して首を義時に差し出して事を収めたのである。
 かくして、清和源氏嫡流の血は絶えた。
 担がれる立場というのも、楽ではないなと思う。
 範頼も、頼家も、実朝も、公暁も、みんな関東武士たちの勢力争いに巻き込まれて命を落としたと言ってよい。
 だが、そうは言っても、やはり源氏という家系に宿命的につきまとう陰惨さは否定できない。

 もっとも、こういう、身内に冷たい源氏という家系がが長く政権を担当してきたのは、あるいは日本にとっては幸いだった可能性もある。
 平氏のように、ひとりが成り上がれば一族みんな出世するというのは、実は半島・大陸系の社会慣習なのだ。中国では、出世した人間が自分の肉親の便宜を図るのは正義とされている。その正義を認証しているのが儒教である。
 ところが、この「正義」は、困ったことに近代社会では受け容れられない。汚職と見なされる。
 日本でも名門校への縁故入学、一流会社への縁故入社などは後を絶たないが、少なくともそれがいかがわしい、不正なことであるという認識は社会一般にある。ところが、中国では今もってそうしたことは「正義」であると考えられていて、そういう社会通念が、近代化の大きな妨げになっているのである。
 平氏が長く天下を取っていたら、日本もそうなっていたかもしれない。今となっては判断のしようもないけれど。

(1998.4.28.)


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