「六公四民」の実態

 テレビ時代劇「水戸黄門」の人気は衰えない。最初は助さん格さんだけをお供に連れていたものが、うっかり八兵衛、風車の弥七、かげろうお銀、飛び猿と次々に同行者が増え、ほとんど団体旅行の趣きを呈してきた。芸達者なレギュラーが増えて、助さん格さんのせっかくの強さが目立たなくなってきたようであるが、それはさておき。
 「水戸黄門」が他の人気時代劇、例えば遠山の金さんなどと異なるのは、たいていの時代劇が江戸市中を舞台にしているのに対し、全国各地を旅するところである。次のシリーズではおらが村にも黄門様ご一行が来るかもしれないとなれば、人気がいつまでも続くのも当然であろう。
 描写が史実とまったく違うなどというのは、あまり問題ではないようだ。黄門様が旅したのはせいぜい江戸と水戸の間くらいなものだという「史実」を完全に無視しているのはもちろん、風俗などどう見ても黄門様の生きた元禄頃のものではなく、江戸時代も後期の化政時代以降のものらしいという点も、ドラマの人気にいささかも影響していない。時代劇というもの、リアルさなど大して必要ないようだ。

 さて、黄門様の活躍に欠かせないのが、悪代官である。権勢を頼んで庶民をいじめ、過酷な年貢取り立てをして、嘆願する百姓を水牢に漬けたり、娘をかたにとってもてあそんだりする極悪な役人がいなくてはならない。それを黄門様が懲らしめるのが嬉しいところで、悪代官がいなければ黄門様の漫遊記もちっとも面白くない。
 ではあのような悪代官が本当にいたのかというと、これまたすこぶる怪しい。いなかったとは言えないが、ごくごく少なかっただろう。代官というのは土地の管理人に過ぎず、その土地を所有しているわけではない。問題が起こればすぐに更迭、ひどい時には切腹させられるのだから、どうしたって事なかれになってしまう。庶民をいじめるなどとんでもない話だ。
 庶民の方だって黙っていじめられているような存在ではない。もっとしたたかで狡猾で強欲なものである。江戸時代の庶民のバイタリティは、現代よりずっと強靱なものだったように思う。

 「六公四民」という言葉がある。お米の収穫の6割を年貢として納め、自分の手元には4割しか残らない。江戸時代を通じて、これが大体標準的な年貢率だった。
 ――だから江戸時代の農民は非常に貧しい暮らしをしていました。
 というような意味のことが、歴史の教科書に書いてあったし、先生にもそう教えられた人が多いだろうと思う。
 ただ、観光旅行で田舎の昔の庄屋屋敷などを見ると、案外な豪邸で、本当に農民はそんなに貧しい暮らしをしていたのかな、と感じた人も少なくないだろう。
 昔の農民が貧しかったという、いわゆる「貧農史観」は、最近になって全面的に見直されつつある。江戸幕府を倒した明治政府の意図的なプロパガンダがあったらしい。さらに、マルクス主義では発展段階説を採るので、昔はひどかったとしないと論理が成り立たなくなるから、当然このプロパガンダを継承した。歴史学界がほとんどマルクス主義一色になった時期があって、それによって「貧農史観」は定着していたようだ。
 ただ、「六公四民」イコール「過酷な年貢」イコール「庶民の貧困」と考えると、当然ながらいくつかの疑問が発生する。
 ――江戸時代は、人口の8割を占める農民は収穫の6割もの年貢を取られて困窮し、わずか1割の武士が支配階級として暴政を行っていました。
 という話を聞いたある留学生が歴史の先生に質問した。
「その頃日本は、米をどこに輸出していたのか?」
先生は、その質問の意味さえしばらくわからなかったらしい。
 この説明をそのまま受け取るなら、農民から搾取した6割の米を、人口の2割に過ぎない非農民が消費しなくてはならない。しかし人間の胃袋の大きさは、そんなに違うものではない。とすると米は食べきれないはずだから、どこかに輸出でもしないと大量に剰ってしまう。その留学生は、当然の疑問を口にしたのだった。
 もちろん、当時の日本は鎖国していたのだから、米を輸出していたはずがない。鎖国というのも近年では実状が見直されつつあるが、いずれにしても米のような生活必需品を輸出入していたなどということはあり得ない。
 ということは、どこかに間違いがあるとしか考えられない。
 「六公四民」を再検討し、本当に昔の農民は貧困だったのかを考えなければならない。

 まず、6割の年貢というのが、それほどに苛酷であるかどうか。
 自分の作った米の半分以上を搾取されると考えると、ひどい話だという気がするが、よく考えてみると、現代でも高額所得者は、6割どころか8割近い所得税をとられる場合がある。年収が10億あれば、手元に残るのは2億かそこらだろう。八公二民である。
 高額所得者ならそれでいいが、低所得者には厳しい税率だと思われるかもしれない。
 ところが考えなければならないのは、年貢というのは土地にかかる税なのであって、土地の所有者が払うべきものである。近代的な土地所有の観念とは違うが、ともかく年貢を払わなければならないのは、自分の土地を持って農業を営んでいる、自作農以上の農民である。地主から土地を借りて耕作している小作人は、地主に小作料は納めなければならないが、年貢を取られるということはない。
 自作農、つまり土地持ち農民は、生産手段と労働力を自前で持っているのだから、マルクス主義では「プチ・ブルジョワジー」に定義されるべき存在である。れっきとした「経営者」なのである。経営者にもピンからキリまであるものの、普通どんな小さな会社だって、社長の地位にある者を「低所得者」とは呼ばないだろう。
 小作人は今で言えば、歩合制の従業員に相当する。小作人に土地を貸している地主が経営者である。実のところ、江戸期の農村の争議は、領主や代官と農民との間より、地主と小作人との間に持ち上がっていた場合の方が多いようだ。現代の企業内争議と変わらない。
 さらに、水呑百姓というのがいる。自作農以上に雇われて耕作する季節労働者で、われわれのイメージとしては最下層の貧民のようだが、最近の研究では、相当富裕な水呑百姓がいたことがわかってきた。実は、水呑百姓というのは、今で言うパートタイマーなのである。別に本業を持ち、アルバイトとして農作業を手伝うというケースが多かったようだ。ただ、自分の土地を持っていないというだけで、江戸期の制度では水呑百姓に分類されてしまっている。実態は商工業が本業だったりしたらしい。しかし、彼らも基本的には年貢を払わない。
 こう考えてくると、6割という年貢率が、それほど苛酷だったとは思えなくなる。充分その負担に堪えられる者からしか取ってはいなかったのである。

 次に、本当に6割の年貢を搾取されていたのかどうか。
 年貢のもとになるのは、言うまでもなく「検地」である。検地台帳には、耕地の広さはもちろん、土地の質、陽当たりの善し悪しなどまで克明に記録され、一定区画の土地からどれだけの収穫が見込めるかが算出される。この数字は実に細かく、何合何勺まで求められていたりするが、もちろんそれは建前に過ぎず、毎年それだけの収穫があるわけではない。
 さて、この「検地」は大事なことだから、どこの藩でもきちんと記録してある。ある学者がそれらの記録を収集し、一箇村あたりどのくらいの間隔で検地が行われたかを確かめた。
 その結果、江戸期270年を平均して、ひとつの村につき「2回」という数字が出たという。
 これがどういうことかおわかりだろうか。
 今で言うなら、「会計監査」が135年に一度しか入らないということなのだ。
 さらに、クロヨンとかトーゴーサンとかいう言葉をご存じだろう。サラリーマンは収入の9割から10割を全部つかまれてしまうが、農家所得は4割とか3割しか把捉できないと言われる。田舎のあぜ道を、やたら高級なクルマが走っているのでびっくりした人も多いはずである。
 現代ですらそうなのだ。江戸時代の経理技術で、農家所得を完全に把捉するなどということは不可能であったろう。
 135年に一度の会計監査。そしてあまり精緻とは言えない経理技術。
 はっきり言って、脱税のし放題である。
 まじめな代官は、これではいかんと思って、脱税を取り締まり、検地を再施行しようとする。すると農民はいわば既得権を侵害されるというか、甘い汁を吸えなくなる。それで力一杯抵抗する。
 「悪代官」の正体は、実はそういうまじめな役人であった場合が多い。

 江戸期の農村は、教育水準もかなり高く、農民出身の学者もたくさん出現している。
 それだけの余裕があったのである。
 もちろん、現代に較べて豊かであったかどうかは別問題で、不作の年は餓死者も出たし、今その暮らしに戻れと言われても、われわれは堪えられまい。
 しかし、同時代の例えば中国やヨーロッパの農村と較べてどうだったかと言えば、どうもはるかに豊かな生活をしていたように思われる。勉強すればするほどそう思えてくる。
 ――1840年代に、住む場所を自由に選べたとすれば、
 と、ある海外の女性歴史学者が発言している。
 ――私が貴族階級であるなら、英国がいい。庶民であったなら日本で暮らしたい。
 日本の庶民に栄光あれ!   

(1998.2.2.)


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