悪霊にされた男──菅原道真

 天神、天満宮などと称する神社は全国に数多いが、これらの祭神は言うまでもなく、菅原道真(845〜903)である。
 菅原氏は代々秀逸な学者が輩出した学問の家柄であり、道真はまさに学問のサラブレッドのような存在であった。11歳の時にすぐれた漢詩を作って周囲を驚嘆させ、27歳の時には渤海国の使者を接待する責任者となって、その天才的な詩才と語学力を賞賛された。
 讃岐守に在職中、時の権力者藤原基経が、宇多天皇との間に「阿衡(あこう)の議」なる悶着を起こした。これはその時代が過ぎてみれば実にばかばかしい騒ぎなのだが、宇多天皇の即位にあたって、藤原基経を関白に任命することになった際、その勅書の中に、
 ──阿衡の佐(たすけ)をもって卿(けい)の任となす
 という文章があったもので、基経がへそを曲げてしまったのである。
 阿衡というのは、中国の(いん)王朝の始祖、(とう)を補佐した建国の大功臣・伊尹(いいん)に与えられた称号で、その意味では別に問題がなさそうなのだが、古来、この称号は一種の名誉職で、あまり実権のないものとされていたため、
 ──わしを実権から遠ざけようと言うのか。
 ──そちらがその気なら、いいだろう、もう政務など見てやるものか。
 と、すねた基経がサボタージュをはじめてしまったのである。
 ほとんど言いがかりとしか言いようがないのだが、宇多天皇は藤原氏との関係が薄かったので、どうやら、最初が肝心だとばかりにガツンとやられたらしい。
 「阿衡」は実権のない名誉職だ、いやそんなことはないと、時の学界は大いに紛糾した。いつの時代でも、学者というものは枝葉末節のつまらぬことに大騒ぎするものである。
 この時、道真は讃岐の国から基経に説得の手紙を送り、天皇との和解の労を執った。
 結局、宇多天皇が勅書を出し直すことでこの騒ぎは集結したが、これはいわば天皇の敗北である。宇多天皇が藤原氏に対し、不快の念を覚えたことは言うまでもない。
 宇多天皇は藤原氏に対抗できる腹心を育てようとした。この時白羽の矢が立ったのが、天才を謳われた菅原道真だったのである。
 道真は讃岐から中央に呼び戻され、宇多天皇の寵臣となった。
 基経の死後、跡を継いだのが子の藤原時平である。宇多天皇は、道真の地位を時平とリンクさせて次々と進めた。明らかに、時平と同等の地位につけることによって、藤原氏を抑えようとしたのである。
 だが、藤原氏が黙っているわけはなかった。
 宇多天皇が醍醐天皇に譲位し、道真は右大臣に昇進した。門閥のない学者が大臣になるのは実に異例のことで、藤原氏はもう辛抱できなくなったのだろう、天皇廃立を図ったという罪を道真にかぶせ、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷した。左遷とは言い条、実際には流罪であり、道真は九州の大宰府に泣く泣く去り、その地で怨みを飲んで病死した。
 京で道真が丹精していた梅の木が、主人のあとを追って九州へ飛んでいったという「飛び梅」の伝説は有名である。
 
 さて、話はこれで済まなかった。
 道真が死んだあと、京には不吉な事件が相次いだ。
 疫病がはやり、道真の政敵だった時平の一族が次々と死んだ。
 人々は、死んだ道真が悪霊となって祟っているのだと噂した。
 悪霊の破壊力はすさまじく、時平自身を襲わず、周囲の者を倒すことで時平に恐怖を与え、さらに京の街には大地震、大火事、落雷などが相次いだ。
 朝廷はあわてて、道真の名誉回復宣言を行い、正一位太政大臣の位を追贈した。それが効いたか、さしもの悪霊の猛威も次第におさまったのだった。
 祟り神は、祭り上げてしまうのが日本人の叡知である。道真の悪霊をなだめるため、都の北方の北野にほこらが建てられ、懇ろに祭祀が行われるようになった。これが京都に今も残る北野天満宮であり、菅公=天神様は、学問の神様として崇敬を受けるようになったのはご存じの通りである。

 以上が、よく知られた菅原道真のプロフィールなのだが、さて、本当に彼は悪霊になるほどの怨みを飲んで死んだのだろうか。
 私は数年前に大宰府を訪れ、政庁跡を見たり、当時の大官の生活の再現展示を見たりしたのだが、どうも、道真がそれほど困窮と悲惨のうちに世を去ったとは思えなくなってしまった。
 大宰権帥という役職だが、これはもちろん右大臣に較べればはるかに低い地位ではあるが、決して下っ端ではない。当時、大宰府はいわば九州総督府である。(とお)の都とも呼ばれ、京都の朝廷が直接支配できない九州を代行支配する政庁であった。平安日本の数少ない軍隊も、そのほとんどが大宰府に属していた。もちろん、大陸や半島の動きに備えるためである。
 その大宰府の長が、大宰帥(だざいのそち)である。権帥のというのは「代理」「補佐」程度の意味だが、実は「権」のつかない大宰帥というのは親王の遙任職となっており、実際には現地へ赴かない。つまり、道真の就いた役職は、九州総督代理であり、しかも総督は現地に居ないのだから、事実上のトップ、言ってみれば九州王なのである。
 生活がそれほど困窮していたとは思えない。当時の地方官の収入は莫大なものだった。現に天平12(740)年、大宰府に赴任した藤原広嗣(ひろつぐ)は、その財力と軍事力に頼って叛乱を起こしている。
 都で右大臣にまで昇りつめた高名な学者を、九州の人々が粗略にしたはずはない。道真は存外、心安らかな日々を送っていたのかもしれないのである。

 そもそも、根っからの学者であった道真に、それほど権勢欲があったとも思えないのだ。
 当時の学問というのは詩文ばかりではなく、政治学がメインであって、もちろん道真には天下経綸の志があったには違いないのだが、政治学と実際の政治はまるで違う。宇多天皇の寵愛に応えて政務を取り仕切ったものの、道真にとっては、むしろ自分の学問の無力さを思い知らされる日々ではなかったろうか。
 気の遠くなるほどの根回し、雑務、政争の連続に、ほとほと嫌気がさしていたと見た方があたっている気がする。当時の政治は、現代以上に根回しが重視されるものだった。それなしには何事も始まらない状態であった。
 実際のところ、道真が政権中枢にいた間にやった業績として注目されるのは、遣唐使の廃止くらいで、他に大したことはしていない。ポスト藤原のホープとして華々しく登場しながら、実はほとんど何もできなかったのである。
 実際の政治の場に疲れ果て、学問三昧の日々を懐かしく思うことはなかったろうか。

 でっち上げの罪状というのも、どうも怪しい。
 天皇廃立は大逆罪である。当時の日本では死刑は廃止されていたが、他のどんな地域のどんな時代の王朝でも間違いなく死罪に相当する。中国なら生きたまま四肢を引き裂く車裂きの刑が相場だ。その罪状に対して、大宰権帥、事実上の九州王への左遷という処置は、あまりに軽すぎる。無実の罪を着せた時平が気がとがめたからだなどという人がいるが、でっち上げにしても誰が納得できただろう。
 時平が道真を陥れたということはあったかもしれないが、ことの真相はまるで違っていたのかもしれないという疑いが生ずる。
 
 以下は、私の推理である。
 道真の唯一の業績と言ってもいい遣唐使廃止。実はこれがヒントになるのではないか。
 遣唐使が廃止されたのは、当時の中国を支配していた唐王朝がかなり弱体化し、もはや多くの財政支出や人的犠牲を払ってまで続ける意義が失われたと判断したからである。最近では、民間航路が充実してきたので、国家事業としての遣唐使の必要性がなくなったのだという説もある。
 いずれにしても、唐王朝の実状は、かなり詳しく日本に伝えられていたと思われる。
 唐は、875年頃に始まった「黄巣(こうそう)の乱」で、屋台骨ががたがたになっていた。黄巣の反乱軍から帰順した朱全忠が唐にとどめを刺すのは907年のことである。
 当時の唐と言えば、現在のアメリカなどよりはるかに日本にとって大きな存在だった。その唐がどうなるのか、日本の朝廷や知識人は非常な興味を持っていたはずである。
 大陸の情勢は、当然ながら京都よりは九州にいた方がよく見える。卓越した学者で、中国語もペラペラであった道真としては、京都で不毛な政争に明け暮れているよりは、九州で大陸の行く末を観察することの方が魅力的だったのではないだろうか。
 そして、そのことを、彼を寵愛した宇多上皇も、醍醐天皇も、よくわかっていたと思われる。
 ──どうも時平たちが何かとうるさいことでもあるし、どうだ道真、大宰府へ行ってみる気はないか?
 そんな打診があったとしてもおかしくはない。
 しかし、右大臣の職にあった者が地方へ転出するなどとは大変なことである。そこで、時平らの策動に乗ったという形をとったのかもしれない。ことによると、左遷の筋書きを書いたのは道真自身だったという可能性もないとは言えないのである。

 残念ながら道真はからだが弱く、九州へ行って2年後に病死してしまった。風土が合わなかったのだろう。
 道真としては納得ずくの最期だったかもしれないのだが、京童たちはそうは思わない。彼らは、九州など熊襲(くまそ)の住まいする辺境の蛮地だと思っているから、そんなところに左遷された右大臣様はどんなにか無念であったろうかと同情したのである。
 そこへ、度重なる天変地異、それに藤原氏への反感などが積み上げられて、配流の先で憤死した悲運の宰相という道真像が作り上げられ、さらに都で大暴れする悪霊にされてしまった。天神信仰はその結果として始まったのであるから、全国の天満宮に参詣する人々の群を見て、道真はあの世でさぞかし不本意な想いをしているのではなかろうか。
 大体、怨霊とか悪霊とかいうものは、そんな風に作られるものらしい。
 

(1997.11.19.)


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