「商人」としての豊臣秀吉

 豊臣秀吉(1536-1598)という人物の評価は難しい。
 日本一の出世男であることに間違いはない。乱世の中、最下層の貧民から身を起こして、曲がりなりにも天下を取ったという例は、日本史上彼ひとりである。世界史を見回しても、中国で漢の高祖明の太祖、ヨーロッパでナポレオンくらいしか見当たらない。
 戦国時代は下剋上の世だったと言われるが、全くの徒手空拳から始めて大名クラスまで達したのは北条早雲くらいだろう。斎藤道三もそのように見えるが、最近の研究では道三の事績とされていることは実は父子二代でおこなわれたという説が有力で、そうだとすると美濃を統一し支配した「道三」はもともと土岐氏もしくは長井氏の重臣の息子だということになり、それなりの家臣団などの背景は持っていたと思われる。
 小土豪レベルから一代で大大名にまで拡張したというのであれば毛利氏などの例もあるが、それに較べても秀吉の出世ぶりはずば抜けている。多くの幸運に恵まれたのは確かだが、それらの幸運を常に的確に捉えてのし上がって行ったのはやはり秀吉の努力と才能のたまものと言うべきで、日本史上の偉観であることを否定することは誰にもできないだろう。
 秀吉の作った政権をぶち壊し、秀吉的な生き方を徹底的に否定したはずの徳川政権下でさえ、「太閤記」は多くの読書人にもてはやされた。ましてその徳川幕府が倒れ、立身出世が疑いようもない人々の目標となった明治時代には、秀吉の人気はうなぎ上りとなった。
 第二次大戦後になっても彼の人気はなかなか衰えなかった。戦前・戦後を通して、人気のほどがほとんど変わらなかったというのは彼くらいではないだろうか。
 ところが、なぜか最近になって、かなり評価が下がっているようだ。

 ひとつには晩年におこなった朝鮮出兵のマイナス点が、近年異様に大きく捉えられてきているせいだろう。
 人気の高かった頃でも、朝鮮出兵だけは失敗だったという人が多かったのだが、最近はその失点が、彼の他の功績をすっかり御破算にしてしまっているかのように罵られることも珍しくない。
 韓国人が日本を非難する時に必ず持ち出すのが「日帝36年」「壬辰倭乱(秀吉の出兵)のふたつである。日帝36年のほうはともかく、400年以上前のことを持ち出されてもなあ、と思うのだが、それはそれで先方の考え方なのだからやむを得ないだろう。問題は、ほとんど韓国人になりかわったかのように秀吉を罵倒する日本人が少なくなくなってきたという点で、その中には明らかに韓国におもねっているようにしか見えない発言も多く、何やら情けない。「相手の身になって考える」のは立派なことだが、それは相手に追従するのとは違うはずである。
 朝鮮出兵が秀吉の失点であるには違いない。しかし、その失点のゆえんは「失敗したから」と考えるべきだろう。もし成功していたら失点視する人間は誰も居なかったに違いない。歴史の評価とはそういうものだ。
 「成功すれば他国を侵略してもいいのか」
 という非難の声が聞こえてきそうだが、他国を侵略したそのこと自体をもって失点とされている歴史上の人物というのは、世界中見回してもまず見当たらない。失点とされるのは必ず、「失敗したから」なのである。

 ともあれ、ここ20年ばかり、秀吉を語ろうとすると朝鮮出兵のことばかりがクローズアップされるようになってきた。
 ひきずられるようにして、秀吉の他の業績までも、やや減点されて見られることが多くなってきたように思う。
 それはまた、彼の主君であった織田信長への評価の高まりと歩を同じくしているようでもある。つまり、秀吉のやったことはほとんどが信長によって企画されていたことであって、秀吉は信長のような天才にはほど遠く、信長のエピゴーネンというか劣化コピーとして、信長のプランを矮小化して実現したに過ぎない……というような議論である。
 太閤検地刀狩りも、もとは信長が考えていたことだというし、大坂に本拠を移したのも同様。徳川家康を関東に追いやるのも信長の計画だったという説がある。さらに言えば上記の朝鮮出兵も信長が考えていたことで、信長ならもっとうまくやってのけたことだろう……等々。
 確かに、独創性においては秀吉は信長にかなわなかったかもしれない。信長の敷いたレールをある程度走り続けたのも事実だろう。
 だが、単なる劣化コピーが、信長自身できなかった天下統一を成し遂げることなどできるものだろうか。

 信長が本能寺で殺されず、もっと生きていたら、天下統一が本当にできたかどうか、ということを考えなければならないだろう。
 本能寺の変の時点での他の戦国大名たちの動向を見てみよう。武田家はすでに信長によって亡ぼされている。上杉家謙信亡き後のお家騒動(御館の乱)の余波がおさまっておらず、後を襲った景勝越後国内をまとめるのに手一杯だ。毛利家は他ならぬ秀吉に攻め込まれて気息奄々というところ、信長がもう少し生きていれば、滅亡はしないまでも2カ国程度に押し込められていただろう。
 四国の長曽我部に対しては、信長の息子の信孝を総大将とし、丹羽長秀が指揮する大軍がまさに送られようとしていたところだった。おそらくこれもほどなく制圧されたに違いない。
 手つかずだったのは関東の北条家、そして東北・九州である。とはいえ上杉・毛利・長曽我部を屠った後の信長に、彼らが対抗できたかどうか疑わしい。
 だから、外部にはもうほぼ敵がない状態であったと考えられる。それなら天下は統一できたか。
 そう簡単にはゆかないのである。

 はたして、明智光秀の謀反は、光秀個人の責任のみに帰すべきことだったろうか?
 光秀に黒幕が居たのではないかという説は根強い。朝廷説、足利義昭説、徳川家康説、さらに羽柴秀吉説など、いろんな可能性が示唆されている。
 逆に言えば、それだけ信長の生存によって迷惑をこうむる者が多かったということでもある。
 しかもこれらの説を見ると、いずれも信長の外敵ではなく、信長政権の内部と言ってよい人間が黒幕に擬されていることに気がつく(足利義昭だけはこの時すでに信長のもとを離れていたけれど)。
 長年信長に仕えた林通勝佐久間信盛が容赦なく追放されたのは、本能寺の変の2年前(1580)のことである。信長の発した折檻状には重箱の隅をほじくるような、些細な理由、遙か昔の理由がずらずらと並べられていた。その程度のことで粛正されるのでは、次は我が身かもしれないと戦慄した部将がたくさん居たことだろう。光秀以外でも、柴田勝家も、佐々成政も、前田利家も、そして羽柴秀吉も、顧みてみればヤバい履歴が少なからずある。粛正される心当たりがなかったのは、重臣中では丹羽長秀と池田恒興くらいだったのではないか。
 信長は、若い頃は辛抱強く機会を待つところもあったが、齢を重ねるに従って粘りがなくなってきている気がする。人間五十年、その数字に自らが近づくにつれて焦りが出てきたのだろうか。行動は苛烈さを増し、部下たちからすると付き合いにくい上司となっていただろう。役に立たないと見るや、過去の功績も何も考慮せずにボロきれのように打ち捨ててしまう主君の下で、まともな神経で居られるものではない。

 荒木村重がまず叛旗を翻した。村重の謀反は後世の眼から見てほとんどなんの計画性もなく、理由さえ定かでない。当時も不可解そのものだったらしく、信長自身

 ──何が不服なのか。

 と再三使者を遣わして訊ねている。それに対する村重の返答はいかにも不得要領だ。おそらく、政略・戦略といった冷静な次元の話ではなく、精神病理に属する事情だったように思われる。普通の感覚の持ち主であった村重は、信長の苛酷な要求に堪えきれずに、あえなく心の梁を折ってしまったのではあるまいか。
 これが1578年のことで、この時信長が部下の扱い方について反省していればまだ良かったのだろうが、むしろ逆に、より締め付けを厳しくしなければならないと思ったようで、2年後に林・佐久間の追放劇となる。
 村重同様古典的教養人だった光秀が次に暴発して、今度は成功した。
 が、たとえ光秀が失敗していたとしても、やがて第二第三の光秀が次々と出現した蓋然性はきわめて高い。
 「次は自分かも……」
 と恐怖し、
 「みすみす理不尽に粛正されるくらいなら、いっそ……」
 と決意する部将が相次いだのではないか。
 だとすると織田信長はたとえ本能寺を免れたとしても、天下を統一する前に、内部崩壊してしまいかねない危険にさらされていたとも思われるのである。
 天下を統一するためには、やはり秀吉という人格が必要だったのではないだろうか。

 秀吉は信長の生前、信長の方針に唯々諾々と従っていただけのように見えるが、実はそうでもない。
 信長を遙かに凌駕したと思われる点もあるのである。
 そのひとつに、経済観念というか、経済現象に関する理解というポイントがある。
 信長自身、戦国大名としては経済感覚の発達した男ではあった。商業の盛んな尾張を領していたせいもあろう。領内の関所を撤廃して通行を自由にしたり、楽市楽座制を敷いて流通を盛んにすることで自分自身も潤うということを理解していたきわめて稀な武将であった。
 そういう点、信長は大名としては傑出していたが、しかしやはり所詮は大名である。商人的な考え方は乏しかった。
 これに対し、秀吉は、発想そのものが違っている。
 秀吉は「水呑み百姓の子」などとよく言われるが、伝えられる履歴が正しければ、その出発点は農民というよりは商人である。自ら土を耕したことなどはほとんど無かっただろう。義父との折り合いが悪くて寺に入れられ、やがてそこも飛び出して針の行商人になったわけだから、子供時代を除いて、農民としての生活は経験していない。秀吉の出自については近年、謎の多い漂泊民・山窩(さんか)の出身だったなどという異説も唱えられているが、だとするとますます彼を「農民の出」と規定するのは無理があることになる。
 実家こそ農家だったかもしれないが、彼自身は商業というなりわいの中で育ったと考えなければならない。そう考えると納得できることも多いのである。彼が信長のもとで最初に才覚を顕したのが、(まき)奉行であるとか普請奉行であるとか、どちらかというと経済官僚的な仕事によるものであったこともうなづける。
 さらに典型的な商人発想として、秀吉の戦争のやり方そのものがある。

 秀吉はたいてい、カネを湯水のように使って戦争をしている。
 有名なのは兵糧攻めで有名な鳥取城でのことだが、彼は相場を遙かに上回る、とてつもない高額で附近の米を買い占めた。あまりの高値に、籠城側から大切な米を売りに来たという話もあるくらいだ。
 水攻めの高松城でも同様。川をせき止めるためには大量の土嚢が、しかも短時間に必要だが、秀吉はなんと、土嚢一俵に対して米一俵に匹敵する値段をつけて附近住民から買い上げた。俵に土石を詰め込んで持って行きさえすれば、米一俵分の代金が貰えるのだから、これは行かないほうが馬鹿である。何十万俵という土嚢が瞬く間に集まった。
 それにしても、こういうやり方をするためには巨額の軍資金が必要だ。秀吉はそんなに潤沢な軍資金を信長から貰っていたのかというと、そんなことはない。
 その証拠に、信長の他の部将、柴田勝家も、丹羽長秀も、明智光秀も、こんな豪儀な真似はしていないのである。むしろみんな軍資金には苦労していることが多く、
 「なにゆえ猿めのところだけ、あのようにいつも銭がうなっておるのじゃ」
 とうらやましがられ、不思議がられている。
 つまりこの「銭で戦さをする」方式は、秀吉独特の戦法であって、信長の着想ではなかったことが明らかである。信長が同じことを考えていれば、配下の部将たちに対して、同様の作戦指導をしたはずだ。
 それでは、秀吉はそのカネをどこから調達していたのか。

 実は、借金なのだ。
 あたりの豪商から、莫大な借金をして戦費に充てていた。
 基本的には農民的発想である武士の考え方からは、この方法は出て来ない。返せなかったらどうするのだと考えるのが普通だろう。
 だが、それは考える必要がないのだ。というのは、これは投機だからである。貸す方の豪商にとっては、事業に対する出資に相当する。使い込みの穴埋めをするための借金とは根本的に違う。
 単なる借金と、投機のための出資金との違いを理解していた武将は、この時期には秀吉ただひとりだったと思われる。
 例えば1万貫のカネを借りて、2倍にして返す約束をする。その1万貫を使って戦争に勝ち、新たな領地を手に入れれば、2万貫を返すことくらい容易になる。
 現金で返さず、新領での商売独占権を期限を区切って与えるという方法も秀吉はしばしば採っている。貸した分くらいは簡単に回収できる。
 そのために秀吉は、新領があまり荒廃しないような戦い方を心がけた。商業活動がすぐ再開できる状態にしておかないと困るのである。だから、田畑を荒れさせる野戦は滅多にやらずに、他に影響を及ぼさず狭い領域でけりのつく城攻めに持ち込もうとしたし、信長がよくやったような火攻めはほとんどしなかった。それらは人道的な配慮というより、商売上の配慮であった。
 「自身も農民の子であった秀吉は、農民たちが苦しむのを嫌った」というような甘ったるい話ではないのである。
 もし戦争に負けたらどうするか。

 ──その時は、自分も生きていないから、借金の取り立てようもない。

 と秀吉は考えていたはずだ。貸す側だって、貸し倒れになる危険は当然考えて賭けに出ているのだ。彼らは秀吉にカネを貸しているというよりも、値上がりを期待して秀吉という株を買っているのである。
 株と言えば、秀吉のやっていることは、近代的な株の売買とも酷似している。
 手持ち資金が100万円あったとして、200万円の借金をして300万円分の株を買う。その株が50%値上がりしたところで売れば450万円になるから、借金を返すと差し引き250万円、つまり元本が2倍半になって戻ってくることになる。借金に利子がついたとしても、株の値上がり率をずっと上回る利益が転げ込むのは間違いない。
 一郡一国を攻め取るとなれば、値上がり率は50%どころではない。豪商たちが競って投資するのも当然だ。そればかりか、投資が無駄にならないよう、秀吉が事業に成功する(戦争に勝つ)ためのあらゆる援助を惜しまない。例えば必要物資もすぐ揃えてくれるし、その輸送などにも積極的に便宜を図ってくれることになる。
 秀吉が常に潤沢な軍資金で戦えたのは、そういう集金システムを独力で開発していたからなのである。

 信長には、この発想はなかったようだ。
 堺に強引に矢銭2万貫を課したのでもわかる通り、信長の考え方は、基本的にはやらずぶったくりである。信長の強大な権力にすりより、便宜を図って貰おう(というより、なるべく害を受けないようにしよう)とする商人は居ても、商人たち自身が積極的に投資したくなるような仕組みにはなっていない。その辺が「大名」である信長の限界であろう。「必要があれば取り上げる。いやなら死ね」という態度を、ついに崩すことがなかった。
 秀吉は、上の土嚢の例でもわかる通り、人を使う時には必ず賃金を払った。一方的に徴発したり収奪したりすることはまずなかった。あくまでギヴ・アンド・テイクなのであって、これは本然的に収奪機構である「大名」の考え方ではない。商人の発想に他ならない。
 商人は、自分も儲けるが、取引相手にも得をして貰いたいという気持ちがなければ務まるものではない。自分だけいい目を見ようとする連中は、長い商売は続けられないものだ。信用こそが物を言う世界である。
 後年になって、秀吉は多くの大名たちを圧迫した。四国全域を支配しかかっていた長曽我部元親土佐一国に押し込め、九州を蚕食していた島津家薩摩・大隅に押し戻し、東北制覇に乗り出していた伊達政宗岩出山に丸め込んだ。しかし、彼ら服従を誓った大名たちに対しては、ちゃんとアフターケアをしている。
 有名な話だが、島津家は九州の半分ほどを支配したことがあったため、その時に家臣団が膨れ上がってしまっており、薩摩と大隅だけではとても彼らを食わせてゆけないと秀吉に泣きついた。秀吉は、石田三成らを遣わして、懇切丁寧に経営術を指導させた。その結果驚くほど収入が増え、多数の家臣を養うことができたので、島津家は秀吉や三成に大いに感謝した。のちに関ヶ原島津義弘が西軍に与したのもそのためである。
 秀吉は彼らの野望を封じこそしたものの、損はさせなかった。その点が徳川家康などとは根本的に違うところだ。彼に逆らわない限り、彼も裏切らなかった。秀吉の「商道徳」は筋金入りだったと言える。

 ともあれ、経済というものをこれほどに理解し活用し尽くした武将は居なかった。この点に関しては織田信長など足元にも及ばない。ましてや他の武将には、秀吉が何か魔法を使っているとしか思えなかっただろう。
 小田原攻めの際、秀吉は日本史上前代未聞な22万という軍勢を催した。北条氏は、それを聞いてもさほどには怯えなかった。小田原城はどれほどの大軍に攻められようと、力押しでは決して落ちない自信があったし、22万などという軍勢が長期間滞陣できるほどの兵糧など運べっこないと思ったのである。
 しかし、あては見事に外れた。兵糧どころか、建築資材から日用品、娯楽用品に至るまで、一切の事故なく運ばれ、分配されていたのだった。北条家は、秀吉政権の輸送力に敗れたと言ってよい。小田原城を開く時、北条氏政・氏直父子は、狐につままれたような想いだったであろう。
 元来日本人は、戦争をするにしても輜重(しちょう)というものに無関心で、その癖(へき)は第二次大戦時まで続いていた。私事になるが、筆者の祖父は戦争中陸軍の技術将校で、主に戦車とか輸送の関連の仕事をしていたが、軍の上層がこの分野にきわめて冷淡だったのを晩年に至るまで憤っていたものである。
 その点秀吉は、日本史の中で突然変異的に輜重感覚が鋭かった。これもまた、商人としての感覚のたまものだったのではないか。

 商人感覚ゆえの失敗もある。
 秀吉の一生の不覚は、家康を亡ぼせなかったことだろう。そのためにせっかく統一した天下を、自分の死後家康に奪い取られてしまうのである。
 ふたりが真正面から対峙したのは小牧・長久手の戦いの時だけである。秀吉はこの時に家康を叩き潰しておくべきだった。
 兵力には大差があり、秀吉が本気で攻めれば叩き潰すことは充分可能だった。ほとんど唯一の本格的戦闘がおこなわれた長久手では家康が勝っているが、局地戦に過ぎない。秀吉自身が采配を振ったわけでもなかった。
 だが、その局地戦の結果を見て、秀吉の商人的損得計算が動いた。一気に攻め込めば勝てることは勝てるだろうが、こちらの損害も大きい。それなら無理押しをせずに、政略的に相手を下したほうが諸事都合がよい。
 そこで、秀吉は家康の同盟者であり、そもそもこの戦いを始めた張本人であった織田信雄を追い詰め、単独講和を結んでしまった。家康は戦いを継続する理由がなくなって、軍を引いた。同時に、秀吉は家康を潰す機会を永遠に失った。長い眼で見ると、大きな損になっている。
 家康に対しても、秀吉は損にならないようさまざまにケアしている。島津と同じように、それで牙を抜いたつもりだったのだろうが、残念ながら徳川家康という男は、そういう心遣いをありがたく思うような感受性を持っていなかった。経済への理解など、秀吉は愚か信長にも遠く及ばなかった家康は、ただただ恥をかかされたという恨みだけで凝り固まり、秀吉の死を待って復讐する機会を窺っていたのである。

 信長は、一個の思想家であったから、その思想に適わないものに対しては極度に憎悪し、粉々に打ち砕かなければ気が済まなかった。
 しかし秀吉は、
 「一緒に儲けましょうや」
 という商人感覚で敵対する相手をも取り込んでゆき、驚くほど短時間で天下を統一してしまった。
 天下を取った秀吉は、何度かにわたって「金賦り(かねくばり)という行事をやっている。大名たちを集めて、手ずから大判小判をばらまいたのである。いかにも成金、いい気なものだとばかりに嘲弄的に紹介している本が多いのだが、少なくとも秀吉が自分だけ小金をためこむようなケチな男でなかったことはわかるし、
 「一緒に儲けましょうや」
 という姿勢をあくまで貫いていると言える。
 政治的効果としては竹下内閣がやった「ふるさと創生一億円」みたいなものだったと思われる。一切、使い道に注文をつけずに、地方自治体に一律に補助金を出したようなものだ。信長だったら、もしやるにしても使い道にいちいち注文をつけただろう。まして家康がこんなことをしているところは想像すらできない。
 秀吉の個々の政策に関しては、信長が先鞭をつけたものが多かったかもしれない。しかし、その基礎的スタンスとなると、信長と秀吉とでは大違いだったと言わねばならない。エピゴーネンとか劣化コピーとか呼ぶのは大いに的を逸している。

 ついでながら触れておくと、太閤検地というのは年貢の公正を図るために必ずやらなければならなかったことだ。農民を重税で苦しめる政策だったなどというのは無理に難癖をつけているようなものである。隠し田が発見されたりして、農民の租税負担が重くなったということは確かにあっただろうが、人々は税額が多いことよりも、税が不公平であることにこそより強い怒りを感じるものだ。全国一律に基準を設けたことで、不公平感が大いに減じたのは確実である。基準はかなりきめ細かく、それぞれの田には等級がつけられたので、地味の痩せたところや寒冷地などが不利になったわけでもない。
 刀狩りも、「農民の抵抗力を奪って、二度と自分の地位を脅かすような出頭人が出て来ないようにした」と悪意を込めて評されることが少なくないけれども、これは信長が始めた兵農分離政策の最終段階と見るべきだろう。上記のような評は、領主の恣意で働き盛りの壮丁を兵にとられることが、どれほど農民たちの負担になっていたかを想像することができない手合いの言というほかないであろう。まったく、理屈というのはどうにでもつけられるものだと嘆息したくなる。

 朝鮮出兵も、実はそれまでの延長上にあったと言えなくもない。
 この挙の責任を秀吉ひとりに押しつけるのは不公平と言うべきで、むしろ人々の膨張的気運を抑えきれなかったのだと考えたほうがよいだろう。みんなと一緒に儲けよう、一緒に幸せになろうという意識がしみついていた秀吉には、人々の夢と希望を圧殺する冷血さを持ち合わせなかった。
 ひとつの国が出来上がってゆく時には、膨張の時期の後に、必ず圧殺の時期が訪れる。
 膨張の時期には、人々の欲望がなまの形でひしめきあい、しかもそれらの欲望はたいがいかなえられてゆく。より多くを求め、より多くを獲得してゆくことができる。
 だが、いつまでもその状態ではいられない。欲望の発散が、国としての適正規模を超え始めたら、トップにいる者は一転して圧殺に廻らなければならない。今までの功臣忠臣を容赦なく切り捨て、人々の成長意欲を打ち砕く冷酷さが為政者には求められる。
 日本史で言えば、明治維新の頃が好例であろう。維新を成し遂げたエネルギーは、その後も沈静化することなく、当時の国力を全く無視した征韓論などの形で沸騰し続けていた。政府にそれが受け容れられないと見るや、各地で士族の叛乱が頻発した。明治政府はそれらをひとつひとつ叩き潰し、ついには維新の最大の功労者であったはずの西郷隆盛をも滅殺せざるを得なかった。彼らの圧殺を担当したのは、西郷の盟友であった大久保利通だった。大久保のことを冷血漢として嫌う向きが多いが、彼が居なければ明治日本は空中分解していたことだろう。
 秀吉も、東北の諸大名が服属し、天下統一を成し遂げた時点で、圧殺へと方向転換するべきであった。だが、彼にそんな冷酷さはなかったのである。
 人々が望むのであれば、秀吉はそれを叶えてやりたかった。日本国内にすでにフロンティアがなくなったのであれば、眼を海外に向けるというのも、商業的感覚の発達した秀吉にとっては、それほど飛躍した考え方ではなかったのだ。

 秀吉自身が采配を振るっていたとしたら、もしかしたら朝鮮出兵も別の形をとったかもしれない。だが、すでに日本の最高支配者になってしまっていた秀吉は、日本を離れるわけにゆかなかった。
 そこで軍司令官として、子飼いの部将をふたり任命した。加藤清正小西行長である。
 加藤清正については、後世も納得する者が多い。戦闘者としては類を見ないほどの猛将であり、行政官としてはきわめて細心で土木建築にも長じている。敵を粉砕することにも、占領地に軍政をおこなうことにも、卓越した手腕を発揮するはずだ。
 だが、小西行長をそれと同格の司令官にしたことについては、疑問視する人があとを絶たない。行長は元の名を魚屋(ととや)弥九郎と言い、薬種を主にした商人の伜である。後世伝えられるほどの軟弱な武将というわけではなかったが、そんなに戦争がうまくはない。関ヶ原でも、共に戦った石田・宇喜多・大谷などの諸将の軍に較べ、いまひとつ精彩がなかった。
 が、秀吉の根本的な商人流発想を理解していたのは行長のほうであり、清正は結局農民的発想から抜けきれていなかった。清正は15歳くらいの時から秀吉の幕下に入ったが、それまでは農民として生活しており、農民的なものの考え方の基本的枠組みはすでにできてしまっていたと思われる。秀吉にとって清正が、単独で大戦略を託するには心許ない存在であったろうことは想像できる。
 むしろ秀吉が大戦略を託したのは行長のほうであり、ただ行長だけでは実戦上頼りないので清正をつけたというのが秀吉の本意だったのではないだろうか。
 このふたりがうまく協力すれば、秀吉自身が采配を振るったのと同様の効果が得られたかもしれない。だが、ふたりは反目してばかりいた。同格であったことがむしろ災いしたと言える。
 商圏を確保しつつ軍を進めてゆくという、秀吉の従来からの基本的戦略、そして行長がおこなっていた行動を、清正はついに理解しなかった。敵将を亡ぼし、敵の土地を奪えば勝ちだという、農民とそこから発生した武士の考え方から脱却することはなかったのである。
 行長にとって不幸だったのは、当時の李氏朝鮮が、ほとんど商品流通というべき機構を持っていなかったことだろう。すでに商業ネットワークが全国的に張り巡らされていた日本国内とは異なり、朝鮮の人民には、商人からものを買うという感覚が稀薄だった。商圏も何もあったものではない。唯一交渉できるのは李氏の朝廷だけだったろうが、清正が暴れ回っている状態下で朝廷と交渉するのは不可能に近い。
 要するに、秀吉的な戦争設計が、商業感覚の格段に稀薄な李氏朝鮮ではまるで通用しなかったのである。

 朝鮮出兵に失敗したことで、秀吉の「魔力」が切れた。
 当時の多くの人々には、まだ商人的発想が乏しかった。だから秀吉の戦法は、小西行長とか石田三成とかを除いてはほとんど誰も理解できなかったろう。何か奇妙な魔法を使っているようにしか思えなかったに違いない。
 その魔法が成功し続けている限り、人々は受け容れる。
 が、ひとたび失敗を見ると、我に返ることになる。
 骨の髄から農民的発想であり、強大ではあってもなんら神秘的なところが感じられない徳川家康のもとに、やがて多くの武将がなだれを打って転がって行ったのも、無理はない。昔ながらの「年貢収奪機構」の上に乗っているほうが、農民の中から生まれ、農民の発想を受け継いできた武士たちにとっては、「安心」できたのである。
 その結果、天下統一者が本来しなければならなかった「圧殺」の役割は、家康が果たすことになった。そのためにどうしても家康のイメージが暗くなってしまっている。これはある意味、もともとやるべきだった秀吉から押しつけられた役目みたいなところがあり、家康本人としてはのちに豊臣家を亡ぼしながらも、どこか秀吉に勝ち逃げされたような気分だったのではないかと想像される。

(2004.10.25.)


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