「忍者」随想

 先日、伊賀上野市にある忍者屋敷を訪れた。この街は忍者で町おこしを図っているらしい。市内を通る近鉄伊賀線の電車にも、ピンクや青の装束をまとった女忍者のペイントがされていたりする。忍者屋敷の近くの小学校が、すっかり武家屋敷を模したような建築になっているのを見た時は、正直言ってあっけにとられたものである。こんな遊び心のある小学校で学ぶ子供たちは幸せだと思った。
 忍者屋敷のたぐいは、甲賀にもあるようだし、日光江戸村その他あちこちのアミューズメントパークにもあるだろうと思う。そう珍しいと言うほどのものではないが、私は根が子供っぽく、この種のものが大好きなので、旅行の途中にあったりするとよく立ち寄る。
 そういうところではたいてい、ピンク色などの装束をまとった女忍者が迎えてくれたりする。それで、隠し扉のある壁とか、秘密の見張り場所とか、密書や武器の隠し場所などを案内してくれるわけである。毎日何度もやっているのだろうから、壁の中に隠れることなぞ、ほんとの忍者よりうまいことであろう。
 「どなたか、やってみませんか」
というので、私は名乗りを上げ、隠し扉に挑戦してみた。壁に背中を合わせて、すっと回転させる。回転させるのは簡単だが、それをぴたっと止めるのが難しいのである。私はなんとかうまくやってのけて、女忍者に褒められたけれど、隠し部屋には他に出口がなく、もし察知されて槍でも突き出されたらおだぶつであろうと思われた。

 忍者物語は立川文庫の昔から親しまれ続けている。猿飛佐助霧隠才蔵児雷也風魔小太郎加東段蔵など、庶民の夢とロマンに応じて超人的な忍者ヒーローが次々と誕生した。
 立川文庫の伝統は、戦後になって柴田練三郎らに受け継がれたが、さらにリアリティを持たせて忍者小説を脱皮させたのは、意外にも司馬遼太郎であった。処女長編「梟の城」で直木賞を受賞した司馬氏は、後年の彼からは考えられないことに、当時「忍豪」などと称され、忍者小説に新風を吹き込んだ第一人者として迎えられていたのである。確かに「梟の城」に先立つ処女短編「ペルシャの幻術師」にしても、日本の話でこそないが一種の忍者小説と呼べないこともないし、「梟の城」に続く長編としては、霧隠才蔵を主人公とした「風神の門」もある。
 余談になるが、「梟の城」はすぐに映画化されたが、その時シナリオを書いたのが池田一朗、のちの隆慶一郎であったことを考えると、何やら因縁めいたものを感じる。言うまでもなく、隆慶一郎の作品にも、数多くの現代化された忍者が登場する。司馬氏は忍者を一種の「技術を売る職業人」として捉えたが、隆氏はさらに一歩を進め、天皇以外の何物にも従属しない自由の民として描き出した。

 さて、司馬氏がはじめて導入した概念に、「上忍・下忍」というものがある。この言葉自体は昔からあったようだが、本来の使い方は、上忍とは「すぐれた忍者」の意味であり、下忍は「ダメ忍者」を意味したらしい。司馬氏はこれを、一種の階級の呼称として用い始めたのである。
 つまり、黒装束に身を包んで、ぴょんぴょん飛び回ったり、手裏剣を撃ったり、天井裏に潜んだりする、いわば実行者が下忍であり、上忍は下忍たちを統括する役としたのである。上忍は服部家とか百地家とか、名の知れた土豪たちで、各地の戦国大名から忍び働きを請け負う。そして下忍どもに命じて仕事をさせるというわけだ。言ってみれば人材派遣会社の社長みたいなものである。
 この概念はその後、山田風太郎などの忍者小説にも踏襲され、また白土三平のマンガ「忍者武芸帖」「サスケ」などによって全国的に認知された。山田氏と白土氏は、荒唐無稽に見える各種の忍術に、一見科学的と思われる説明を付加してリアリティを持たせようとした点でも共通している。
 その後、上忍と下忍との間に、現場指揮官である「中忍」というのも導入され、現在に至っているのである。

 伊賀の国というのは面積も狭く、山ばかりで平地に乏しい。そのため農業生産もそれほど上がらず、貧しい国だったようだ。
 こういう土地には、統一的な領主が育ちずらい。戦国時代には、一応六角氏の支配下にあったが、有効支配がどの程度できたか疑わしい。零細な国人領主たちが、あちらの谷に一家、こちらの窪地に一家という感じで散在していただけであろう。
 一方、こうした山地には、古くから修験者たちが住みついて修行をしているという伝統がある。彼らのおこなう修験道というのはひとことでは言いずらいが、荒行によって心身を鍛練し、超人的な能力を身につけようというのが主たる目的と考えられる。この修験道の雰囲気は、貧しい農民たちの間にもしみわたっていたことだろう。
 修験道の「行」は、限りなく忍術に近いようだ。身体を鍛えるということだけではなく、今で言うサバイバル術も含まれているはずだ。水の気がないところで水を手に入れる方法、星を見て方角・時刻・天候などを知る方法、長時間飲まず食わずで辛抱する方法、仲間内にだけわかる暗号術や、薬の調合方法などもすべて修験道の一部であり、また忍術そのものでもある。
 貧しい土地の零細な国人領主が、こういう修験道で培われた技術を売ることで利を得ようと考えるのは、自然であったかもしれない。
 食い詰めた農民の次男坊や三男坊を連れてきて、厳しい訓練を施し、常人には真似のできない、プロとしての技術を各地の武将に貸与して、レンタル料を取る。
 そういうのが、伊賀や甲賀の忍者の発生であったであろう。
 上忍というのは、この国人領主のことを指すわけである。

 忍者屋敷というと、忍者が住んでいた屋敷のように思われるが、中忍や下忍クラスが屋敷など構えられるわけがなく、当然ながら上忍、すなわち国人領主の屋敷であるはずだ。
 彼らは別に、自分が忍術を使ったわけではあるまい。前述のように人材派遣会社の社長のようなものであって、自らどこかに忍び込んだりする必要はなかった。下忍たちの手前、たしなみとして忍術を学んだかもしれないが、われわれのイメージする忍者とは違っている。
 ただ、仕事柄、各地の情報が次々と伝えられてくるだろうし、多くの機密文書のたぐいも集められたことだろう。そうなると、敵方の諜者にとっては食指の動く話である。
 忍者屋敷のからくりは、それらを撃退、あるいは防御するために設けられたのであって、正しくは「忍者返しの屋敷」と呼ぶべきかもしれない。忍者でない、普通の武将の住む屋敷にも、そういう工夫の施されたものはいくらでもあっただろうと思う。

 それにしても、忍者というのは歴史において、どの程度の役割を果たしたものだろうか。
 猿飛佐助や霧隠才蔵の活躍譚を読んで、この連中がこれほどすさまじい能力の持ち主なら、なんで駿府城に忍び込んで家康の寝首を掻けないのかと、じれったい想いをした人も多いだろう。何しろ家康方の忍者の頭領、服部半蔵は、再三再四に亘って、彼らに翻弄されてばかりいるのである。
 佐助や才蔵はまあ架空の人物としても、忍者というのは苛酷な訓練で超人的な力を身につけたはずなのではないか。そんな超能力があるのなら、なんだってやってのけられたのではあるまいか。
 ところが、家康は愚か、名の知れた武将で、忍者に暗殺されたと考えられるものはまるで見当たらないのである。どうもそうではないかと疑わしい者は何人かいるけれど、本当に数えるほどだ。
 暗殺の痕跡を残さずに殺す術がなかったとは言えないし、武将の側でも、忍者に暗殺されたなどとは家の恥になるため公言できなかったろうが、大抵の武将の死因にはさほど疑問がないというのが実際のところだ。暗殺されたにしても、忍者にではない。
 現代の諜報部員に、007号のごとくめったやたらと人殺しをするなどという者が、実際にはいないのと同様、当時の忍者も、暗殺など滅多にやらなかったのではないかと思う。彼らの仕事は、現代の諜報部員と大体同じようなもので、何よりも情報収集とその分析がほとんどだったに違いない。敵方の忍者と戦うことくらいはあったかもしれないが、それ以外に人を殺傷するようなことはまずなかったであろう。
 張り込みや尾行といった、現代の刑事にも似た、地味な仕事が多かったのではないか。

 忍術の種類として火遁(かとん)の術とか水遁(すいとん)の術とか言うが、これらはいずれも「遁法」、つまり逃げるための術である。危地に陥れば、何よりも逃げ隠れするというのが忍術の極意なのであって、戦うのは他にどうしようもなくなった時のみであったと思われる。一般の武士ともっとも違うのがそのあたりである。
 戦国時代の武士というのは、個人営業主のようなところがあって、それぞれが武田とか、上杉とかいう大企業の系列下に入っていたのだと考えるとわかりやすい。親会社のやり方が自分の営業に差し支えると思えば、さっさと系列を離れて別の大企業(=大名)に属したし、それが特に道徳的な面から非難されることもなかった。
 個人営業であるから、宣伝も個人的におこなわなければならない。派手な馬印や甲冑が多用されたのも、すべて宣伝のためである。戦国時代の武士は、徳川時代のそれのような奥ゆかしい存在ではなかった。戦場でより目立った業績を上げ、親会社からの待遇を少しでも上げて貰おうとしのぎを削ったのが戦国武士だ。
 したがって、敵に遭って逃げ隠れするなどというのはもっとも忌むべき振る舞いであり、たとえ自分が殺されても、遺族のために堂々と戦わなければならなかった。天晴れな死に方をした武士の遺族は、それだけ優遇されたのである。
 その点、忍者というのは、派遣会社の社員に過ぎない。ある大名のために働いているとしても、それはその大名に雇われているわけではないので、大名が契約した上忍に命じられてやっていることであり、その関係は間接的である。彼らのサラリーは、あくまで直属の上忍から支払われるのだ。
 当然ながら、大名に対して自分をアピールする必要は全くない。忍者の境遇を抜け出て、正式に仕官しようとでもいうのなら話は別だが、忍者をやめるのは大変なことであって、普通はそんなことを考えたりしなかったであろう。
 ひとりの忍者を育て上げるのに要する費用や時間のことを考えると、上忍の立場から言えば、そう簡単に死なれては困るのである。だから、危なくなったらすぐ逃げるというのが至上命令とされたことは想像に難くない。
 忍術を用いて暗殺をおこなうことは可能だったろうが、戦国武将たるもの、万一の備えがないわけがなく、たとえ首尾良く暗殺を遂行しても、生還は難しかっただろう。あたら手練れの忍者を失うに決まっているような仕事を、上忍たる国人領主が請け負ったとは思えないのである。
 忍者同士の派手な格闘など、まず小説や映画だけの話であったろうと考えられる。

 服部半蔵正成は実在の人物であり、有力な伊賀の国人であった服部党の党首である。つまりかなり格の高い上忍と言える。
 織田信長が本能寺で討たれた時、同盟者であった徳川家康は、ごく少人数の供だけを連れて堺に遊んでいた。変事を伝え聞いて、家康はもはやこれまでと思い、明智光秀の手に掛かる前に腹を切ると言い出したのを、まわりの部下たちが押しとどめ、まずは三河に帰って武備を調え、信長の弔い合戦に臨むべきであると諫めた。
 この辺が事実であったかどうかわかったものではないが、とにかく家康は伊賀越えをして三河に帰還することにした。現在のJR関西本線あたりのルートをとろうとしたのではないかと思う。
 この時家康に従っていた豪商の茶屋四郎次郎は、途中経路に当たる伊賀の国人領主たちを味方に付けるため、莫大な金銀をばらまいた。
 服部半蔵はそれ以前から家康に仕えていたようで、いつ頃知り合ったのかはよくわからないが、この伊賀越えに際しては彼の人脈も大いにものを言ったことであろう。
 おかげで家康は無事三河に帰り着いた。この時別ルートをとった穴山梅雪が途中で命を落としていることを考えると、一か八かの賭けであったと言えよう。
 これ以後、半蔵は家康に優遇された。今もその名が残る半蔵門は、彼の名を記念したものである。

 が、伊賀(甲賀も)忍者そのものは、のちに徳川幕府が確立されてゆくに従って、その地位を落としてゆく。
 徳川時代には「お庭番」という名で呼ばれたが、文字通り庭師程度の役目しか与えられず、禄もごく低くなってしまった。要するに、丸抱えにされてしまった忍者集団というのは、あまり役に立たなかったのではないだろうか。
 繰り返すようだが、忍者の主な使命は情報収集であり、そのためには独立機関であることが必要だったのである。
 どの大名にも直接には属していないからこそ、各地の大名の情報を集めることができたのである。敵対する大名の双方と契約していた上忍もいたであろう。そうなれば、両方の機密情報がどんどん入ってくる。
 幕府に丸抱えされた忍者たちは、もはや他の大名のところに出入りしている忍者と連絡を取り合うということもできなくなり、ものの役に立たなかったような気がする。
 禄を保証されているのだから、術の鍛錬もおろそかになったろうし、結局そのうち、ただ幕府に飼われているだけの穀潰しになってしまったに違いない。
 忍者も、乱世でこそその真の力を発揮できる、戦国の徒花であったのかもしれない。 

(1998.11.29.)


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