日本人と宗教弾圧

 オウム真理教の事件の時、日本の宗教政策についてだいぶ議論されたのは記憶に新しい。
 素人考えかもしれないが、私などが見ると、日本に宗教政策などは無いと言ってよいので、はっきり言って野放しである。
 ヨーロッパで確立された政教分離というのは、本来、キリスト教会が世俗の政治になんやかんやと口を出してくるのを防ぐために行われたものなのだが、なぜか日本では逆に、政治が宗教に対して口を出さないという意味でとらえられているようだ。だから、どんなに破壊的な教義を唱えている宗派でも取り締まることができず、取り締まろうとすればすぐさま「信教の自由の侵害だ」と大合唱が起きる。
 その宗派の人が叫ぶだけなら当然と言えば当然だが、外部で一緒になって叫ぶ人が必ず現れる。往々にして彼らは弁護士だとか、宗教学者だとかの肩書きを持っているが、ほんとに法律や宗教のことをわかっているのかなと思う。
 そんな中で、旧公明党系、つまり創価学会系の代議士がテレビに出てきて、

 ――日本の歴史は、まさに宗教弾圧の歴史ですから……

 などと言っているのを聞き、こんな不見識な男に国政を任せておいて大丈夫なのだろうかと、本気で心配になったことがある。

 どう考えても、日本ほど宗教に対して寛容、悪く言えばアバウトであった歴史を持つ国は珍しいのであって、それを弾圧の歴史などと呼ぶのは、歴史に対する無知でなければ悪意のプロパガンダであるとしか思えない。
 まあ確かに、創価学会が宗祖と仰ぐ日蓮は、その中では比較的迫害を受けた方ではある。日蓮は日本人には珍しいほどに非妥協的な男で、行く先々で舌禍を巻き起こしていたから、石もて追われることもしばしばであった。
 が、それは日蓮の唱える教義が迫害されたと言うよりは、日蓮その人が、人々の耳に逆らうようなことばかり言っていたので憎まれたというだけのことであるような気がする。彼が龍ノ口で処刑されかかったというのも、宗教問題ではなく、誹謗中傷、煽動、風紀擾乱などの罪を問われたのではあるまいか。
 この処刑の時、落雷があって日蓮は危うく難を逃れたと伝えられ、日蓮上人の奇蹟のひとつとされているが、まあそのあたりは伝説でしかないわけで、本当のところはわからない。信者がそれを事実と主張するのは勝手だが。
 ともあれ、結果的には日蓮は首を斬られることもなく、せいぜい佐渡島に流されただけであった。
 これを、例えば生きながら全身の皮を剥ぎとられて処刑されたマニ(マニ教の教祖)などと較べれば、日蓮を扱った鎌倉幕府の寛容さは特記されてよい。しかも幕府はのちに、日蓮を招いて、蒙古襲来の予測を訊ねたりしているのである。

 日本史上、一応宗教戦争と呼べるのは、仏教伝来の際の物部氏蘇我氏の争いくらいなものである。新来の仏教を取り入れようとする蘇我氏に対し、物部氏は、日本にはすでに八百万の神々がいるのだからそんなものは要らないと主張した。
 だが、これとてもあまり教義上の争いだったとは思えないのである。朝廷を牛耳る二大勢力であった物部と蘇我は、いずれ雌雄を決せざるを得なかったわけで、この両者の戦いはむしろ単なる権勢争いと考えるべきだろう。仏教対神道の一大決戦などというものではない。その証拠に、仏教を奉じた蘇我氏が勝ったにもかかわらず、その後神道が廃れた形跡はないのである。世界史で言う宗教戦争とは、そんなものではない。異なる原理同士の戦いであるから、相手を完全に抹殺するまでいつまでも続く。
 負けてなお廃れなかった神道側からの巻き返しの戦争は愚か、ゲリラさえ現れなかった。当時の日本人も、今とあまり変わらず、宗教ということをあまりつきつめて考える習慣がなかったことを偲ばせる。
 その後、聖徳太子などの手によって、神仏習合本地垂迹(ほんじすいじゃく)などの画期的な思想が生まれ、日本人はその後、どんな新宗教がやってきてもそれと折り合いをつけるすべを身につけたのである。本地垂迹というのは例えば、仏教で言うヴィローシャナ(毘婁紗那仏)が日本においてはアマテラス大神として顕現したのだというたぐいの考え方で、これなら両方を矛盾無く受け容れることができるわけだ。
 戦国時代にキリスト教が入ってきたときも、神(デウス)大日如来の垂迹として捉えた日本人が多かったようで、そのため宣教師が首を傾げたらしい。

 ――この連中、いやにあっさりと布教を受け容れたが、ほんとにわかっているんだろうか?

 というわけである。

 少なくとも本地垂迹説以降、日本史には深刻な宗教対立というものがほとんど見当たらない。
 逮捕されたり追放されたりした宗教人はもちろん決して少なくはないが、上に述べた日蓮の場合と同様、その説くところの教義が問題になってのことだとはとても思えないのである。宗派同士の小競り合いくらいはあったろうが、時の政権が組織的に宗教弾圧をしたというケースは、徳川時代のキリシタンくらいしかないのではないか。

 戦国時代には、本願寺を頂点とする一向宗が猛威を振るって、どこの戦国大名もその対策に苦慮した。
 一向一揆の弾圧もあったし、門徒の大虐殺も方々で見られた。もっとも大規模にそれをやったのは織田信長である。
 これは、一見宗教弾圧のように見える。
 だが、その実態は似て非なるものである。
 信長にしても、武器を取って抵抗した一揆勢を徹底的に叩きつぶし、何度も皆殺しをしているのは事実だ。
 だが例えば、戦闘が終わってから、村々に密偵を放って門徒をあぶり出す、などという面倒なことをした形跡はない。平和時に、村々で門徒狩りをさせたというような事実もない。
 信長が問題としたのは、あくまで武装勢力としての現実的なパワーだけであって、それが自分に抵抗した場合容赦はしなかったが、人々が内心で何を信じようが、あまり興味はなかったようである。
 他の戦国大名はもっと妥協的である。一揆が勢力を増すと、領民が年貢を納めなくなるのだからこれは死活問題だ。だから取り締まりはしたが、たいていの場合一揆と折り合いをつけて、なんとか波風を立てないようにしたケースが多い。
 一向宗そのものを禁じた戦国大名は、ほとんど居ないはずである。
 例外として、島津氏だけは法的に禁止し、一向宗徒への迫害は江戸期を通じてキリシタンへのそれよりも苛酷だったというが、それをもって日本の権力者が宗教弾圧ばかりしていたと一般化するわけにはゆくまい。

 キリシタンへ禁制は、確かに苛酷であった。
 豊臣秀吉26聖人の処刑あたりから弾圧が始まるわけだが、ただ秀吉にしても、キリスト教そのものを禁じたわけではない。宣教師が商人と結託して不正を行う(実際、日本人奴隷の売買が半ば公然と行われていた)のを取り締まっただけのことで、後の徳川幕府による組織的迫害のようなことをおこなったとは思われない。秀吉も信長と同じく、人々が内心で何を信じようが、あまり興味はなかったのではなかろうか。
 そのあとの徳川幕府の弾圧は、いろいろな本にも書かれている。特に故遠藤周作氏はクリスチャンの立場から、繰り返し禁教下の悲惨な迫害の模様を描き続けた。
 遠藤氏の文章の力はさすがに偉大で、読む者は、日本のキリシタン迫害こそ世界に類のない残虐な宗教弾圧だったように思わせられてしまうのだが、世界的な標準から見た場合、果たしてそれほどひどい弾圧であったのだろうか、と私などは疑問に思ってしまうのである。
 キリシタンの廉で処刑された者は多かろう。苛酷な拷問も行われたであろうし、拷問の途中で死んでしまった者もたくさん居たであろう。そういう悲惨なことが少なからずあったことは私も認める。
 しかし、異教徒や異端に対するそういった仕打ちは、ほとんどどこの国でも同じように行われてきたことだ。少なくとも日本人のやり方が特に残虐であったとは思えない。ヨーロッパの教会の異端審問の残酷さはよく知られている。
 ヨーロッパのことを言えば、魔女狩りがもっとも猖獗をきわめたのは、意外にも中世ではなく、近世と言ってよい17世紀のことである。ほぼ同じ頃に、日本のキリシタン禁制もピークを迎えている。試みにこの両者を較べてみるとよい。

 魔女狩りでは、まず密告などによって、魔女(=異端者)の容疑のある者(女とは限らない)をどしどし逮捕する。そして、拷問によって魔女であることを白状させる。
 否定し続ける限り拷問が続くので、最終的には認めてしまうしかない。そうでなければ否定したままの拷問死となる。認めれば、処刑である。
 つまり、一旦容疑をかけられれば、死を免れるのは容易なことではなかった。
 これに対し、キリシタンの疑いが持たれた場合、例えば踏み絵などの審問が行われる。絵を踏めば無罪放免である。キリスト教は本来偶像崇拝を否定しているのだから、偶像に過ぎない絵を踏んでも一向に問題はないはずなのだが、なかなか心情的にはそうもゆかない。だがとにかく、形だけでも踏み絵を踏めば、帰ってよろしいということになる。内心の信仰など問題にしてはいないのである。
 そういう妥協のできないかたくなな信者は、拷問にかけられ、棄教を迫られることになるのだが、同じ拷問でも魔女狩りのそれとではまったく段階が違うことにお気づきだろうか。魔女狩りの拷問は、異端を確定するためのものであり、キリシタン禁制のそれは、確定した異端者を改心させるためのものなのである。
 異端者をそこまでフォローするというのは、世界的に見ればごく珍しいことであって、たいていは問答無用で処刑してしまう。キリシタンへの拷問は、普通なら処刑されている段階で行われているのだ。
 法的に禁じられている宗旨への信仰を公然と露呈した者への対応としては、すこぶる寛大であるように思えてならない。拷問のどこが寛大だと言われるかもしれないが、問答無用で殺してしまうのに較べれば、助かる可能性を残しているだけ遙かにましである。そのあたりを現代の感覚で論ずるべきではない。
 ましてや、踏み絵を踏むとか、寺に参詣するとか、いわば現実的な妥協をしつつ、内心でキリスト教を信仰しているという人たち(実際これが大多数だったと思う)へは、ほとんどおとがめがなかったと思われるのである。
 幕末から明治にかけて、外国人宣教師たちは、日本のキリシタンが2世紀半の弾圧に耐えて生き延びていたことに驚愕したと言うが、それは日本人信者の信仰が堅固だったというより、世間に波風を立てない限りにおいては、人々の内心などにあまり関与しなかった幕府の(宗教政策という見地から見ての)いい加減さによっているのではあるまいか。
 遠藤周作氏の文学者としての業績は充分賞賛した上で言うのだが、日本人が異教に対して特別に残酷だという印象を多くの読者に与えてしまった点は、大いなる罪だったのではないかと思う。
 繰り返すが、悲惨なこと、残酷なことがたくさんあったことは疑いない。しかし、それを言い出すなら、他の国々には悲惨で残酷なことがもっとずっとたくさんあったろうと言っているのである。

 従って、「日本の歴史は宗教弾圧の歴史」と言うのであれば、世界の歴史は遙かに深刻な宗教弾圧の歴史だったのであり、それを併せて言ってくれたのであれば、私も納得しただろう。しかし冒頭の代議士は明らかに、日本の歴史は「世界に冠たる」宗教弾圧の歴史であるという口調だった。一歴史愛好者としては、それには断固として異議を申し立てたい。
 新興宗教団体の破壊的活動でさえ、宗教がらみだということで取り締まりに及び腰になっている日本政府の態度は、とても歴史を通じて宗教弾圧をおこなってきた民族の政権とは思えない。本当に弾圧の歴史だったのなら、もっと手馴れた対応をするはずである。

 宗教に関わる文章を発表するのは少々剣呑な感があるが、別に特定の宗教を中傷しているわけではないので、ご容赦願いたい。ただ、どんな宗派にせよ、破壊活動はご免こうむりたいものだ。

(1998.9.28.)


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