LAST EMPERORS

第13回 天祚帝(遼)・欽宗(北宋)の巻

 今回扱うのは北宋と、その宿敵のであるが、この両国の最終皇帝はちょっと微妙である。
 北宋の欽宗(きんそう)は、女真族政権「金」の攻撃を受けて、急遽父の徽宗(きそう)のピンチヒッターとして即位した男で、いわば非常時内閣の首班という感じである。実際に北宋を亡国に追い込んだのは徽宗なので、この親父の方を扱った方がよいかもしれない。
 一方の遼も、北宋に先んじて金の攻撃にさらされ滅亡するが、天祚帝(てんそてい)が国都を脱出した後、燕京(現在の北京)で天錫帝(てんしゃくてい)が即位している。ただし天錫帝はすぐに死んでしまい、あとはお定まりの、有力な部将たちがそれぞれに皇族を担いで皇帝を称せしめるという状態にもつれ込んでしまう。天錫帝が死んだ時、天祚帝は亡命先でまだ生きていたのだから、まあ天祚帝がラストと見てよいかもしれないが、即位したのは天錫帝が最後である。
 というわけで多少うやむやな感はあるが、とにかくこの2国の末路に至る歴史を概観してみよう。

 中国は常に北方の騎馬民族の存在に脅かされてきた。古代の(てき)族に始まり、秦漢期には匈奴(きょうど)が猛威を振るったし、五胡十六国の時代にはその匈奴をはじめとして鮮卑(せんぴ)や(きょう)などの北方異民族が乱入してきた。
 これらの北方騎馬民族は、万里の長城を越えて中国本土に入って来ると、なぜかことごとく漢化してしまい、中国式の国家経営をおこなわざるを得なかった。他に国家のモデルがなかったのだから仕方がない。中国本土には、遊牧のできる大草原などというものはないので、それまでのやり方を押し通すわけにはゆかなかったのだ。
 それに一旦きらびやかな中国文明に触れてしまうと、その魔力にずるずると引きずり込まれるのもやむを得なかった。史上、中国本土を支配しながら漢化しなかったのは、中国に進出する前に西方のイスラムやヨーロッパの文明を知っていたモンゴル族だけだったのである。
 などの大中華帝国も、その王朝は漢化した鮮卑であろうと言われているが、そうなるとまた別の北方民族が現れて、その脅威に苦しむことになる。隋唐期には突厥(とっけつ)が北の災いであった。これはトルコ系の民族であるとされている。トルコからここまで出張ってきたのではなく、突厥その他のトルコ系民族が西へ移動して、オスマン・トルコ帝国や現在のトルコ共和国を作ったのである。

 常に選手交代がおこなわれているのでわかる通り、遊牧民族というものは、栄枯盛衰が実に激しい。ひとりの英傑が現れると一挙に拡大して大帝国を作り上げるが、後継者に人を得なければあっという間に解体してしまうのである。土地に縛られないため、離合集散が著しくダイナミックなのだ。そもそも民族という観念もあまりないようで、有利となれば誰のところへでも集まってゆくのである。
 そんななかで、国家のシステム化に成功したものだけが、長期に渡る帝国を維持することができる。あいにくモンゴル以前の政権にとっては、国家のシステム化のモデルが中国しかなかったので、つまりは漢化した民族のみ長持ちしたということになる。北魏がそうであったし、隋も唐もそうだと言えよう。
 五代期には、北方の雄は契丹(きったん)だった。ここでも、前回名前を挙げた耶律阿保機(やりつあほき──エリュー・アポチとでもいう発音だったのだろう。アポチと言えば現代の韓国語で「父」であり、もしかすると「エリュー家の親父」というほどの意味だったのかもしれない──)という英雄が現れて、急速に成長して大帝国となった。
 彼は916年に皇帝を称している。後梁末帝と晋王李存勗(りそんきょく──のちの後唐荘宗)がしのぎを削って争っている最中のことで、耶律阿保機はその混乱に乗じてまんまと皇帝におさまったのだろう。中原が平穏であれば、北方異民族のこの僭称を放ってはおかないはずだからである。
 926年に耶律阿保機は没し、太祖と追号される。後唐の荘宗が配下の将軍に殺されたのと同じ年である。子の耶律徳光(やりつとくこう)が即位して太宗となった。

 前回に記した通り、後唐を亡ぼした石敬瑭(せきけいとう──後晋高祖)は、兵を挙げるにあたって契丹の力を借りた。その条件として、燕雲(北京附近)13州の割譲と、年々の歳幣、それに契丹の臣と称することなどを約束したのである。なお、領土を割譲されて間もなく、契丹は遼という国号を建てた。中国本土に進出するに当たって、中国式のシステムを採り入れたのであろう。このことが、遼を長持ちさせることにつながったとも言える。
 しかし跡を継いだ出帝の周辺は、
 ──屈辱的な約束など守る必要はない。
 と気炎を挙げ、一方的に歳幣を減額し、臣とも称さなかった。怒った遼の鋭鋒をはね返すだけの実力が伴っていたのならそれもよかろうが、実力がなければただの外交音痴である。はたして激怒した太宗はたちまち国都開封を陥として、後晋を亡ぼしてしまった。
 このあと、北漢劉崇(りゅうすう)も、後周に対抗すべく遼を頼り、これにより遼はさらに3州の割譲を得た。そして後周を継いだ宋との間で、この「燕雲16州問題」は最後までしこりとなって残ったのである。
 遼にとってみれば、燕雲16州は正式に割譲を受けた領土であり、新興勢力の宋などにとやかく言われる筋合いはない。しかし宋から見ると、そこは歴代の統一王朝が支配していた固有の領土で、遼は弱みにつけ込んでそこを不法に占拠しているのだから、なんとしても追い出さねばならない。
 ちなみに、この宋の論法は現代の中国まで受け継がれているから、注意が必要である。「過去の王朝が支配した領土はすべて現在の中国の固有領土である」というのは、中国人の抜きがたい信念なのだ。満洲チベットはそういう論法で中国領となっているし、台湾問題もそれに近いし、モンゴル全土が中国領であるべきだと主張しているのも、かつての王朝の本拠地だからである。極端な説になると、インドシナ半島朝鮮半島沖縄樺太シベリアなどまで一切合財中国固有の領土だなどというとんでもない主張をしている中国人学者もいるが、それらはすべて、この宋代に確立された領土観に発しているのである。

 宋が充分に強い王朝であれば、遼の勢力を燕雲16州から力ずくで追い出したことだろうが、宋という王朝は、軍事的にはあまり強くない。
 太祖趙匡胤(ちょうきょういん)はすぐれた軍人だったが、それだけに軍の恐ろしさをも知り尽くしていた。地方の実力者に兵力を与えるとろくなことにならないのを、五代期を通してまざまざと見据えてきたのである。そこで、本人は軍人出身にもかかわらず、徹底した文官優位の国家を築き上げたのだった。
 すなわち、地方においては、中央が任命した長官が統治することになる。これは秦の昔から中国の伝統的統治形態となっているが、宋ではこの長官になれるのは、科挙を通過した文官に限るということにしたのである。どんなに勇猛な将軍であっても、軍人には統治権は与えられない。軍事という専門職に携わる一官僚に過ぎないという扱いになったのである。
 中央においても似たような状況だった。高位に就けるのは、科挙を高得点で突破したエリート文官だけで、軍人はどんなに軍功を挙げても、出世は限られている。ほとんど究極的なシビリアンコントロールがおこなわれたのであった。
 それに抵抗しそうな、建国の元勲のような将軍たちに対しては、太祖は実に巧妙に牙を抜いてしまった。ある時太祖は将軍たちを招いて酒宴を張った。酒が進むにつれ、太祖は悲しげな顔になり、
「朕は卿らのおかげでこうして天下をとることができたわけだが、朕の死後はきっと卿らの誰かが簒奪することになるのだろうな」
と呟いた。
 ええ、そのつもりです、などと言う将軍がいるわけもなく、みな口々に否定した。
 「いや、卿らはそのつもりがなくとも、卿らの配下どもが富貴を欲するのはいかんともしがたい。彼らが卿らを擁立すれば、これはもう、卿らの望むと望まぬとにかかわらず、どうすることもできなかろう」
太祖が続けて言うと、太祖自身がそうやって彼らに擁立された身であるだけに、将軍たちにはひとこともなかった。彼らは頭を床に打ちつけて、
「愚かにもわれわれの考えの及ばぬところでございました。陛下、われわれはいかにすればよろしいのでしょうか?」
「人生は白い馬が壁の隙間を走りすぎてゆくほどに短い。人間が富貴を望むのは、つまりはつかの間の人生を楽しみ、子孫に財を遺したいということであろう。どうかな、卿らも兵権を解いて郷里に戻り、美田をあがなっては。そして酒と女を楽しんで天寿を全うするに越したことはないではないか。こうすれば、朕も卿らを疑うことなくして済む。卿らとて朕に討たれはすまいかという心配をしなくて済むというものだ」
 そして太祖は、彼らに莫大な金銭を与えたのであった。将軍たちは喜んで兵権を返上し、故郷へ帰って行った。
 太祖は言ってみれば、将軍たちの野心を金で買ったのである。

 かつて亡ぼした南唐の生産力、南平南漢の交易利潤などをそのまま引き継いだので、宋は前代未聞の経済大国となっていたのである。前回の最後で述べたが、交易が盛んになり、商業が隆盛したことは、人々のリアリスティックな眼を養い、それは科学技術と呼べるほどのものに発展しつつあった。
 私事で恐縮だが、筆者の父は石油探鉱の会社に勤め、しばらく中国に赴任していたことがある。父は滞在中、中国の石油利用の歴史を書いた研究書を見つけ、日本語訳して東方書店から「燃える水」という書名で出版した。それを読むと、中国において石油の探鉱、採掘、精製、利用などの各種技術がはっきりと現れたのはまさに宋代であることが歴然と書かれており、この時代の技術発展とはこれほどのものだったのかと驚愕した覚えがある。
 石油の話が出たついでに触れるが、メソポタミアエジプトといった古代大文明が滅亡したのは、みなエネルギー問題だったというのが最近の定説である。つまり燃料用の木を伐り尽くしてしまったのが滅亡の原因だというのだ。チグリス川ナイル川の流域は、かつては鬱蒼たる大森林地帯だったらしい。それが、人間の文明活動が進むにつれ、すっかり消滅してしまったのである。
 燃料と言っても、家庭で煮炊きする程度ならば、大森林が消失することはない。問題は、金属精錬だった。青銅、真鍮、そして鉄。鉄は硬くても加工しやすく、たいへん便利な金属だが、融点が高く、その精錬には高温が必要である。そのために、莫大な燃料が必要となった。1トンの鉄を作るのに、何トンの木が必要だったかいま失念したが、とにかく大変な量だ。
 中国もまた、古くから金属精錬のおこなわれた土地である。しかも、鉄の加工は、他の地域が原則として鍛鉄、つまり熱した鉄を叩いて不純物を除去しつつ形を整えるという方法だったのに、なぜか中国では最初から鋳鉄、つまり液状にした鉄を鋳型に流し込んで整形する方法を採っていた。言うまでもなく、鋳鉄の方が大量生産には適するものの、遙かに高温を必要とする。従って中国の木材消費量は他の地域よりさらに大きかった。
 周代にはあの広大な中国大陸も森林に覆われていたようだ。三国時代でさえ、何度か森の中の戦闘シーンが描かれている。馬超(ばちょう)に追われた曹操(そうそう)が森の中へ逃げ、あわや馬超の刃の餌食になるかと思われたところ、振り下ろした刀の狙いがそれて木の幹に食い込んでしまい、その間に曹操が逃げ去ったという三国志演義のシーンがあるが、この頃まだ森が多かったと見える。
 しかし、現在の中国大陸は、よく知られている通り、一面赤茶けた大地で、雲南とかチベットへ行かなければ森林地帯というほどのものを見ることはできない。やはり、伐り尽くされてしまったのである。
 中国の森林がほぼ現状になってしまったのは、10世紀頃だと言われている。つまりまさに、五代から宋にかけての時期である。中国文明は、本来ならこの頃に、エジプト文明と同じ命運をたどっていたはずだった。
 それが命脈を保ったのは、この時代に「エネルギー革命」があったからなのだ。木材より遙かにエネルギーの高い石炭の利用が軌道に乗ったのだ。木材燃料から化石燃料への転換が、文明が衰亡する前にかろうじて間に合ったことこそ──指摘する人が意外と少ないけれど──中国史の本当の奇蹟なのである。
 石炭や石油の利用は、それまでも全くなかったわけではないが、地上に露出しているものをわずかに採取していたに過ぎない。地層を調べたり、坑道を掘ったりして、本格的な採掘が始まったのは、宋代のことだった。もちろんそのためには、多くの資本と技術力が不可欠だったが、それらがこの時代に一斉に花開いていたのである。そして、一旦エネルギー革命が端緒につくと、それは急速に進み、より多くの富と技術をもたらすことになる。
 新しい富と技術は、新しい豊饒な文化を育む。宋の国都開封の殷賑ぶりは大したものだったらしい。24時間営業の飲食店や娯楽施設が軒を並べ、夜更けまで街角には人々がたむろしていた。家々では石炭で炊事をしているので、その煤煙で空が曇るほどであった。唐の都長安さえ、これほどの賑わいを見せてはいなかったという。宋代の中国は、他の地域に突出して、ほとんど近代と言えそうなほどの発展をなしとげていたのである。

 繰り返すが、太祖は徹底したシビリアンコントロールを導入した。そして、文官を思いきって優遇した。中国の官吏の給料が宋代ほど高かったことはないそうで、科挙に通れば文字通りひと財産もふた財産も作ることができたのだから、誰もが高級官僚をめざして受験勉強にいそしんだのは当然であろう。
 しかも、宋の朝廷には、
 ──士大夫をその言論の故をもって死罪に処してはならない。
 という不文律があって、発言の自由も確保されていた。
 これにより、にわかに文官の価値が高まり、軍人によるクーデターの芽は確かに摘みとられた。
 しかし、軍人の士気が低くなってしまったのは、これまたやむを得ない。
 宋の軍隊は、天下をとるまでは強かったが、その後急速に弱くなってしまった。
 一方の遼も、太宗耶律徳光の死後、ごたごたしていて、南方に眼を向ける余裕がなかったのだが、6代聖宗に及んで国内を立て直し、1004年、伐宋の軍を発した。というのは、遼のごたごたに乗じて、燕雲16州のうち一部を、後周の世宗に奪われたままになっていたので、それを取り戻すためであった。
 宋は3代真宗の治世だったが、宋軍は実に弱く、各所で撃ち破られた。やむを得ず皇帝自らが澶州(せんしゅう)に出馬して遼軍を迎え撃つはめになった。
 さすがに皇帝親征となれば宋軍の士気も上がり、遼軍としても完全に撃破する自信はなかったようで、全面対決には至らず、条約が結ばれた。世に言う澶淵(せんえん)の盟で、国境線は動かさないこと、宋は遼に対して毎年絹20万匹と銀10万両を贈ること、遼は宋を兄と称すること、などが決められた。この条約により、両国の間には100年以上に及ぶ平和が訪れたのである。
 平和な時代が続き、宋の軍事力はますます弱体化したが、経済力はますますアップした。遼への歳幣など、宋の経済力にとってみれば何ほどのこともなかったのである。太祖が将軍たちの野心を金で買い取ったのと同様、宋朝は平和を金であがなったのであった。
 軍事力が弱く、経済力が突出して強く、科学技術力にすぐれ、言論は言いたい放題で、官僚天国で……と、宋という王朝はどこか戦後日本とよく似ているようである。

 宋からの歳幣は、遼にとっては心強い収入となり、これによって国内整備や近隣への示威をおこなうことができた。ある意味ではこの歳幣は、現代で言う資本援助のようなものであったのである。なお遼はこの頃国号を契丹に戻していたが、その勢いは遠く西方まで聞こえていた。ロシア語で中国のことをキタイというがこれは契丹のことであり、航空会社キャセイ・パシフィックのキャセイというのも同様である。ついでながらチャイナ、チーナ、シナなどと呼ぶのは始皇帝の秦から来ている。春秋戦国期を通じて、中国の西の果ては秦国であったので、さらに西のオリエント世界やローマなどには、秦の名前のみ伝わっていたというわけである。
 遼は着々と国家としての威厳を高めて行った。燕雲16州のように、もともと漢族の居住する地域もあり、漢化は免れなかった。
 漢化ということは一面では、周辺の異民族を夷狄として見下す姿勢にもつながる。自らがかつては漢族に夷狄として蔑まれていたのを忘れ、契丹族は他の民族を圧迫し始めた。東北のあたりに、それをはね返す力が蓄えられつつあるのを、遼の朝廷はまだ気づいていない。

 宋は遼との間には平和が保たれたものの、もうひとつ頭の痛い外交問題を抱えていた。西北の甘粛地方に、この頃チベット系のタングート族が割拠しており、宋に対して叛服常ない状態だったのである。もともとそう大きな力を持っていたわけではないので、時に宋と協力したり、時に遼にすり寄ったりしていたが、壇淵の盟が結ばれるとそうもしておられなくなった。タングートの首長李徳明(りとくめい)は、遼からは夏国王、宋からは西平王の称号を貰って、両属の構えとなったのである。
 が、李徳明の息子の李元昊(りげんこう)は、大国に服属している状態に飽きたらず、1038年、自ら大夏皇帝を称して自立したのである。彼の始めた国を史家は西夏と呼んでいる。李元昊はなかなか独創力に富んだ男で、「天授礼法延祚」などという前代未聞の6文字の元号をとなえたり、自ら命令して独自の文字を作らせたりした。彼の作らせた西夏文字は現代でも見ることができるが、おそろしく複雑で、読むのも書くのも難儀したのではないかと思われる。西夏については、井上靖の小説「敦煌」に詳しいので参照していただきたい。遼よりも宋よりも長持ちし、約190年続いてモンゴルオゴデイ・ハーンチンギス・ハーンの子)に亡ぼされた。
 西夏は遼とはことを構えず、宋との対立姿勢を打ち出した。さすがに宋は懲罰のための兵を送ってきたが、文弱に流れた宋の軍隊は、この辺境の小国にさえかなわず、各所で撃破されて、結局遼と結んだのと同様の条約(慶暦の盟)を結ばざるを得なかった。なお、この負け戦の最中、遼は宋の弱みにつけ込んで、歳幣を増額させている。

 遼と西夏に対し、合計で今までの3倍近い歳幣を払わなければならなくなって、さしもの宋の経済力にもかげりが見えてきた。ひとつには官僚の給料が高すぎたということもある。
 財政を立て直すために、王安石(おうあんせき)などが出現して辣腕を振るったものの、既得権を持つ連中からの抵抗が激しくて、たった4年で失脚している。時の皇帝である神宗は王安石を深く信頼していたが、その神宗といえども、司馬光(しばこう)らの反対を押し切って王安石の「新法」を押し進めることはできなかったのである。司馬光といえば歴史書「資治通鑑」を執筆したことで知られる碩学だが、思想的にはすこぶる保守的であった。
 保守的というより、宋代というのはむやみと大義名分やら朝廷の威信やらが重んじられた時期なのである。現場を知らずに受験勉強で勝ち残ってきたエリートが政権を担当すると、往々にしてそういうことになる。儒教の教条主義的な面がはっきり顕れてきた時代であり、「濮議(ぼくぎ)などという不毛な論議も発生した。
 濮議というのは、5代皇帝英宗の父親をなんと呼ぶかという、ただそれだけの議論である。4代目の仁宗には子がなく、従兄である濮王の息子を後継者としたのだが、英宗はその時点で仁宗の子となったのだから、実父はその従兄、従って礼に従えば「皇伯」と呼ぶべきであるという派と、誰の養子となろうが実父は実父なのだから当然皇帝の父親を呼ぶ「皇考」と呼ぶべきであるという派が、朝廷を二分して侃々諤々の大議論を繰り拡げたのであった。どっちでもいいだろうと言いたくなるが、当時の人々は真剣そのもので、多くの者が失脚したり流罪にされたりしたのだからばかばかしい。
 司馬光が王安石に反対したのも、王安石の新法の中に、国家が低利の融資をして貧困者を救済するという案があったのを、
 ──国家が金貸しをするなど、威信に関わる。
 と思ったからだったようだ。

 王安石は失脚したが、だからと言って財政問題はそのままであり、結局財政改革のためには王安石の新法を導入するしかないのではないかという者もいた。それに対し、あくまでも名分や威信にこだわって改革に反対する者もいて、朝廷は再びふたつに割れた。当初は政策論争であったが、そのうち単なる派閥抗争となって行ったようである。
 神宗期の後半、そしてそのあとの哲宗期も、旧法派と新法派の争いでいたずらに時が過ぎた。両者は拮抗しており、どちらかが少しでも優勢になると自分の派に都合のいい政令を発布するのだが、少し経つとまた逆転されてご破算にされる。朝令暮改以外の何物でもない状態に陥ったのである。
 この状態の中で1102年、問題の徽宗が即位する。
 徽宗も前半は政治改革、財政改革に意欲を燃やしたようだが、そのうち、ちっとも埒があかない政治に飽きてしまった。飽きてどうしたかというと、趣味に走ったのである。

 数多い中華皇帝の中で、疑いもなくもっとも「風流」だったのが徽宗である。曹操(そうそう──帝位には就かなかったが)とその子である文帝曹丕(そうひ)、南朝の後主陳叔宝(ちんしゅくほう)、南唐の後主李煜(りいく)など、すぐれた詩人であった文化人皇帝も少なくないが、徽宗の趣味人ぶりは度外れていた。書道の字体にまでその名(痩金体。徽宗体とも呼ばれる)を残す皇帝は彼だけである。多くの文化財を集めるだけではなくて自分でも創り上げた。ガーデニングなどにも先駆者的な貢献をしている。お忍びで街の遊郭を訪ね、粋な遊び人ぶりも発揮した。日本で言えば足利義政などと似ているようだが、スケールはまるで違う。義政はせっかく建てた銀閣寺に貼る銀箔さえ得られずに苦労したが、徽宗は湯水のように金を使って贅の限りを尽くしたのである。
 趣味に癡り始めると、金はいくらあっても足りない。しかし宋の国庫はすでに傾いている。当然ながら、財源は税金として民衆から吸い上げるしかなくなる。空前絶後の風流人皇帝の手足となって費用をかき集めたのが、「水滸伝」の悪役となった宦官童貫(どうかん)と宰相蔡京(さいけい)である。
 蔡京は童貫の引きによって出世したのだが、要領の良い男で、旧法派・新法派のいずれの世になっても、地方官としてかなりの業績を上げている。彼個人としてはノンポリだったのだろう。とにかく、上からの命令を忠実に、充分以上の腕を振るってやってのけるというのが彼の身上で、いま宰相となって徽宗の趣味のために金を集めなければならないとなると、これまたものすごく忠実に、従ってものすごく冷酷に税を吸い上げることに腐心したのである。

 すでに何度も触れてきている通り、中国の民衆は基本的には我慢強い人々である。だが、苛斂誅求が彼らの生存を脅かすレベルを超えると、突如として無数の叛乱軍が成立してしまう。
 実はこの頃、北方の遼もまたかつてない危機にさらされていた。東北の女真族の中に完顔阿骨打(かんがんあくた)なる英傑が誕生し、遼の圧制に対して決起したのである。完顔阿骨打は遼の天祚帝の遣わした軍隊を再三に渡って撃破し、ついにという国号を建ててその皇帝を称した。かつては剽悍を誇った契丹族も、この頃はすっかり漢化してだらしなくなっていたようで、天祚帝も日々遊興に身を投じていた。それはよいとしても、完顔阿骨打に負けて戻ってきた将軍を情実で許したりしたので、遼軍の士気は大いに下がった。
 宋の宦官童貫は、これを見て、燕雲16州を奪回するチャンスと考えた。すでに重税により、童貫と蔡京の評判は下落していたので、一発逆転を狙ったのである。今まで誰もなし得なかった失地回復ができれば、彼らの世評などはたちまち回復するに違いない。
 童貫は朝廷内の反対意見を押し切って金と盟約を結んだ。すなわち、金が北から、宋が南から遼を挟撃しようという企みであった。いよいよ失地回復の時きたるというわけで、童貫は大いに兵を募り、軍を調えたのであった。
 だが、状況は童貫のもくろみとは違った展開を見せた。宋にとってはまことに痛恨のタイミングと言うべきだが、江南地方で方臘(ほうろう)という男が大規模な叛乱を起こしたのである。なお水滸伝の108人の豪傑たちは、政府に帰順したのち、この方臘の乱の鎮圧に向かうことになっている。
 実のところ方臘にとっても時期が悪かった。遼を討つべく集められていた大軍がそのまま鎮圧に差し向けられ、3年の長い戦いののち方臘を亡ぼしてしまったのである。

 だが、遼を討つために集められた軍勢を叛乱鎮圧に振り向けなければならなかった宋のダメージの方が遙かに大きかった。方臘ともたもた戦っている3年の間に、金軍は破竹の進撃を続け、遼の中都(大定府)を陥落させて天祚帝を敗走させ、さらに西京(大同)まで攻め寄せていた。天祚帝はさらに西へ逃げ、西夏に身を寄せた。
 金は遼の版図の大半を制圧したが、完顔阿骨打は律儀な男で、宋との盟約があるからと、長城を越えようとはしなかった。おかげで遼は問題の燕雲16州の部分のみ保って一息つくことができた。天祚帝が国外脱出してしまったため、重臣の耶律大石燕京(現在の北京)において秦晋王耶律淳を擁立して天錫帝とした。
 ようやく方臘の乱を鎮圧した童貫は、遅ればせに遼を攻めたが、弱兵の宋軍は、この敗亡の遼にさえかなわず、耶律大石の率いる軍に蹴散らされてしまった。やむなく金に対し、長城を越えて援軍を要請せざるを得なかった。
 金は易々と燕京を陥し、ここに事実上遼は滅亡した。時に1123年。

 宋は自力で失地を回復できなかったわけで、金との関係が微妙なことになってしまった。金は盟約に従って、燕京とその附近の6州のみを宋に引き渡して退却をはじめたが、その時燕京の官吏・富民・財物・婦女子などを根こそぎ掠奪して行ったので、宋に残されたのは単なる廃城のようなものだった。また、燕京の東隣にある平州は返却されなかったので、宋としては剣呑でたまらない。よせばよいのに謀略を仕掛けて平州を奪取しようと企てた。
 北帰の途上で、金の太祖完顔阿骨打は病没し、弟の完顔呉乞買(かんがんごきつばい──というよりワンヤン・ウチマイと読むべきだろうか)が即位して太宗となった。太宗は太祖ほど甘い男ではなく、この宋の背信行為を激しく憎み、軍を返して宋を攻める姿勢を見せた。
 狼狽した宋は、あろうことか西夏に身を寄せていた天祚帝と結ぼうとしたが、この謀略もあっさり覆され、金軍は天祚帝を捕らえたばかりか、西夏を臣従させてしまった。燕京が陥ちた時に敗軍を率いて天祚帝のもとへ行っていた将軍耶律大石はさらに西へ逃げ、中央アジアに西遼という国を建てたが、これはもはや中国史の範囲を逸脱するためここでは詳述しない。

 この後も宋はあがくがごとくに金に対して謀略を仕掛けるが、ことごとく裏目に出て、金をますます怒らせる結果となったに過ぎなかった。この時期の宋の背信ぶりは眼を覆うばかりで、信義のかけらもないが、これも宋朝を通じて存在していたある種の書生論的な気分によるものだったかもしれない。自らの正義を布くためには、夷狄(この場合は金)なぞいくら騙しても構わないという感覚があったのではないか。
 1125年、金軍はついに宋の領域内に軍を進めた。恐慌に陥った徽宗は「己を罪する詔」を出し、自らは退位して息子の欽宗に帝位を譲ることで反省の意を示す一方、義軍を募った。この時意外と応募者があったというのは、歴代の遺徳というべきだろうか。
 金軍は案外な抵抗に驚いたのか一旦軍を引いたものの、翌年大軍勢をさしむけて一気に開封を陥としてしまった。上皇徽宗と皇帝欽宗はともどもに捕虜になり、ここに宋王朝も亡びた。
 ただし、欽宋の弟の趙構(ちょうこう)が南へ逃れて皇帝を称したので、このあとを南宋と呼ぶ。さしもの金も、華北を制圧したところで息切れしてしまい、さらに南へ攻め込むだけの余力はなかったため、南宋はなんとか存続することができた。
 なんのことはない、宋は遼を倒そうとして、より強力な金という北方政権を引き入れてしまっただけのことだったのである。
 のちに南宋は再び同じ愚を繰り返す。つまり、金を倒そうとしてさらに北方のモンゴルと結び、今度は完全に息の根を止められてしまうのだが、その話は次回に廻すことにしたい。

 (2000.4.17.)


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