LAST EMPERORS

第5回 劉禅(蜀)の巻

 220年、後漢の献帝から帝位を譲り受けた曹丕(そうひ)は、王朝を創始し、その文帝となった。
 翌年、献帝が曹丕に弑されたという誤報を受けた劉備(りゅうび)は、漢王朝を受け継いだという名目のもと、みずから皇帝となった。昭烈帝とおくり名される。
 8年後の229年、それまで呉王を称していた孫権(そんけん)も、負けじと皇帝を称した。曹丕と劉備には、皇帝を称するそれなりの根拠があったが、孫権にはそういうものがなかった。ただ、ライバルたちが皇帝になったのに対抗しての挙としか思えない。
 ともあれ、これにより中国には3人の皇帝がいることになった。それゆえこの時代を三国時代と呼ぶが、上の事情を考えるならば三国時代は229年から始まると言うべきだろう。ぎりぎり拡大解釈して220年からである。

 ところが、世に知られた三国志の物語は、220年といえばもう後半もいいところである。劉備の忠実な臣下で義兄弟でもあった関羽(かんう)はすでに亡い。強大な敵役だった曹操(そうそう)もこの年に死んだ。周瑜(しゅうゆ)、魯粛(ろしゅく)、呂蒙(りょもう)といった呉の名物将軍たちも鬼籍の人となっている。
 221年には関羽と共に劉備の義兄弟であった張飛(ちょうひ)も部下に殺され、その翌々年には当の劉備も死んだ。いわば三国志の第一世代はことごとく死に絶え、彼らの次の代の登場人物が活躍し始めるのが、年代記的な三国時代の幕開けなのである。だから、「三国時代」と「三国志の時代」は、区別して考える必要があるかもしれない。
 これ以後の三国志物語は、諸葛孔明(しょかつこうめい)の独擅場となる。南に北に、奇略の限りを尽くして縦横無尽に大活躍することになっており、それはそれで面白いのだが、前半に見られたような生き生きとした人間群像の面白さは、もうない。
 おまけに、この大活躍する孔明像はもっぱら後世の講釈によって形作られたものであって、正史に見える諸葛孔明はもっとずっと地味な存在である。つまり、血湧き肉踊る英雄豪傑の時代は、「三国時代」の到来と共にほぼ過ぎ去ったと考えてよい。

 劉備のあとを継いだ劉禅(りゅうぜん)については、さまざまな逸話が伝えられている。
 そのいずれもが、劉禅の凡庸さ、暗愚さを嘲笑するような内容になっているのは、彼が亡国の君主であった以上やむを得ないだろう。
 後世の人々は、三国志の物語の中で劉備を愛し、劉備の建てた蜀漢をことさらにひいきにした。
 実際の蜀は、小国であった。現在の地名で言えば四川省の大半と雲南省・貴州省・陜西省のそれぞれごく一部を領したに過ぎない。華北地方をほぼ押さえてしまった魏にかなうはずはなかった。今で言うGDPを比較すれば、蜀は魏の7分の1程度だったろうと言われている。
 従って、いずれは亡ぼされざるを得ない宿命の国だったと言ってよい。それを曲がりなりにも263年まで保ったのは、むしろ劉禅の功績だったのではないか。
 しかし、人々はそうは見ない。劉備の遺徳と、孔明の知略をもってすれば、魏を覆すことができたかもしれないのに、それができなかったばかりか、あっさり亡ぼされてしまった。それはなぜか。トップがアホだったからだ。
 というわけで、劉禅は稀に見る暗愚な君主として、いろいろな逸話が作られてしまった。

 彼が三国志の物語に最初に登場するのは、父劉備が、荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)のもとに身を寄せていた時代である。そのころ彼自身はまだ赤ん坊であった。
 劉表が死ぬと、その後継者はあっさり曹操(そうそう)に降伏してしまうのだが、それについては客将であった劉備になんの相談もなかった。劉備は曹操と確執があったため、劉備に相談すれば主戦論を唱えるに決まっているだろうという荊州上層部の判断によるものだった。
 劉備は狼狽して逃げ出した。この時荊州の首都襄陽(じょうよう)の人民約10万人が、劉備の徳を慕って同行したということになっているが、どうも怪しい。襄陽の住民には、劉備について行かなければならない理由は何ひとつなかったのである。むしろ、慢性的に人手不足だった劉備が、強制的に兵の予備軍として連れ出した可能性が高い。その家族が一緒にくっついてきたために10万という数になってしまったというところではなかろうか。もちろん10万という数自体も眉唾ではある。
 ともあれ、民間人を伴っているため行軍は遅く、ほどなく曹操が繰り出した軽騎兵に蹴散らされてしまう。もっとも何万という人間が逃げまどうのだから、あたりは収拾のつかない騒ぎになり、劉備軍の主立った将はその間に無事逃げ延びている。最初から煙幕にするつもりで民間人を連れていたのかもしれない。

 が、三国志演義によれば、この時劉備のふたりの夫人と生まれたばかりの長男が、乱戦の中に取り残されてしまうことになっている。主君の妻子が行方不明なのに気づいた劉備軍の勇将趙雲(ちょううん)は単騎敵中にとって返し、彼女らを発見するが、夫人のひとりはすでに事切れていた。もうひとりは足手まといになるのをおそれて自ら命を絶ち、赤子を趙雲に託した。
 趙雲は、赤子を懐に抱えると、群がる敵を蹴散らして劉備のもとに帰った。劉備はこの時、側近の者から、
「趙雲は単騎敵の方へ駈けて行きました。寝返ったに違いありませんぞ」
と報告を受けていたが、信じなかった。趙雲が帰ってくると大喜びしたが、赤ん坊を地面に投げ捨て、
「そなたのおかげで、忠勇の将をひとり失うところだったわい」
と叫んだ。諸将はこれを見て深く感動した。……
 この赤ん坊が、その時阿斗(あと)と呼ばれていた劉禅である。彼はのっけから、勇将趙雲を危機に陥れる役割を担わされ、おまけに父親から投げ捨てられるという憂き目を見ている。なんとも気の毒なお目見えと言わなければならない。
 もちろん、これは史実ではない。大体劉備夫人のひとりはすでにこれより前に死んでいるし、もうひとりはもっとあとまで生きている。趙雲の忠勇ぶりを際立たせるためのフィクションであるが、同時に、劉禅という男は最初からろくな奴ではないという印象を与えることにも成功している。

 本当は生きていた劉備夫人も、その後間もなく病死する。そのあとで、劉備は孫権の妹をめとる。政略結婚には違いなかったが、夫婦仲は悪くなかったようだ。
 この孫夫人は、しばらく劉備のもとで暮らすが、そのうち劉備と孫権の関係が悪くなった時に、呉へ帰っている。
 この時にも、劉禅は問題の存在として登場する。孫夫人が劉備のもとを去る時、劉禅を連れて行ったというのだ。そのまま連れ去られては、孫権の人質になってしまう。
 今度も、劉禅を奪還したのは趙雲であった。趙雲は孫夫人の乗った船に乗り込み、力ずくで劉禅を取り返したことになっている。
 この拉致事件も、本当にあったかどうかは大いに怪しいのだが、ともかく劉禅はまたしても厄介ごとの原因の役を割り振られているのである。

 次に劉禅が登場するのは、父劉備の臨終の床である。すでに劉備は皇帝であり、その長男である劉禅は皇太子になっている。
 劉備は忠臣で義兄弟でもあった関羽を呉の呂蒙に討たれ、逆上して呉との戦争を開始したのであった。重臣の多くは反対したが、劉備は聞かなかった。もうひとりの義兄弟だった張飛が部下に寝首をかかれ、その犯人が呉に逃亡したという報も、劉備の呉に対する憎悪をかき立てたのであろう。
 劉備の侵攻を受けた呉では、若手の将軍陸遜(りくそん)を繰り出して防戦した。陸遜は半年近くの間、防戦一方に徹し、少しずつ後退しながら劉備を誘い込み、隙を見て総反撃に移った。世に言う夷陵(いりょう)の戦いである。劉備は敗走して、長江沿いの白帝城にこもった。陸遜が深追いしなかったので、壊滅は免れたが、「白眉」と謳われた有能な謀将馬良(ばりょう)、少数民族出身の勇猛な将軍沙摩可(さまか)など多くの将兵を失った。そのショックのせいか、劉備はほどなく病に伏した。
 成都にいた諸葛孔明はただちに駆けつけた。劉備は孔明の手を取り、有名な「託孤の遺勅」をおこなう。
 「卿の才は曹丕に十倍する。必ずや国を建てさせることであろう。もし皇太子が輔けるに価するものなら輔けて貰いたい。輔けるに価しないのであれば、卿自ら取って代わるべし
 孔明は平伏し、頭を床に叩きつけて答えた。
「臣はただ誠に従い、継ぐに死をもってご奉公つかまつります」
 ……三国志演義の後半のハイライトであり、多くの人を感動させた場面である。後継者が暗愚ならば、代わりに国の主となれ……かつて、これほどの信頼を受けた臣下がいただろうか。孔明ならずとも、発奮して国に尽くさざるを得ないではないか。
 だが、当の皇太子──劉禅にとってみれば、立場のない話ではある。修辞上のことに過ぎないとはいえ、臣下である孔明が、いつでも自分を引き下ろすことができる許可を得たようなものではないか。
 この遺勅が本当にあったのだとしたら、それを伝え聞いた劉禅の、孔明に対する感情がどのように屈折したか、多少の想像は許されてよい。

 首都成都にいた劉禅自身にも、父からの遺言があった。
「……気がかりなのはそなたら兄弟の行く末である。勉めよ、勉めよ。悪はどんなに小さくてもこれを為すなかれ。善はどんなに小さくともこれを為すべし。人は、賢と徳にのみ服するのだ。そなたらの父は徳薄く、真似てはならぬ。そなたは丞相(孔明)と共にまつりごとにあたり、丞相を父としてあがめよ。怠るなかれ、怠るなかれ。……」
 ──わしは、もう子供ではないぞ!
 劉禅はそう叫びたかったかもしれない。この時16歳。当時としては、すでに成人していると言ってよい。その息子に対し、このくどくどとした遺言は一体なんであろう。
 ──それほどまでに、わしは頼りないというのか。
 若い彼の心が傷ついたであろうことは想像できる。

 223年、劉禅は即位し、蜀漢の皇帝となった。皇后には、死んだ張飛の娘が選ばれた。張飛は芝居や映画、マンガなどにおいては、いかつい虎ヒゲを生やし、眼をギョロリとむいた肥大漢であることが多く、どう見ても美男子ではないが、娘は美しかったらしい。
 3年後の225年に、丞相の諸葛孔明は成都をあけて南方の平定に向かった。平定戦にはほぼ1年を費やし、戻ってくると間もなく、劉禅に「出師の表」を差し出して北伐を開始する。いよいよ亡き劉備の遺志を継いで、魏を打倒しようというのだ。魏の文帝(曹丕)はすでに亡く、その息子の明帝が跡を継いでいた。代替わりで混乱しているだろうから、そこを衝くというつもりだったのだろう。
 この時の「出師の表」は古今の名文と言われ、
 ──これを読んで泣かない者は人臣とは言えない。
 とまで評されたものだが、内容は劉禅にとってはあまり面白くなかった。

 ──……こんにち、天下は三分されて、わが益州は疲弊しております。まことに危急存亡の秋(とき)と申すべきでありましょう。ここにおいてなお、侍衛の臣が内朝にあってよく務め、忠義の士が外にあってよく戦うのは、ひとえに先帝のご恩を想い、陛下の上に返さんと欲するものであります。なにとぞ聞くべきことをよくお聞きになり、先帝の遺徳に光彩を添えられますように。また、心ある臣下どもにお親しみあそばしますように。
 お身を軽んじられ、臣下に忠諫の道を塞がれませぬよう。陛下と朝臣の間に、かりそめにも疎隔のことがあってはなりませぬ。……──

 衷心から劉禅を案じ、懇々と教え諭すに似た文章である。
 確かに孔明の忠信はまぎれもない。だが、これを受け取った劉禅の気持ちはどうであったか。
 ──いい加減にしてくれ。
 と言いたくなったのではあるまいか。
 ──先帝への恩を朕に返そうとしている、とは何事か。朕の恩は何もないというのか。朕はそれほどまでに無能なのか。
 大声で叫びたくなったとしても、無理はないような気がする。

 その後の劉禅は、どんどんバカ殿ぶりを発揮することになる。三国志演義によれば、魏のスパイに抱き込まれた宦官の口車に乗って、勝ち戦を進めていた孔明を召喚したりしている。孔明が五丈原で危篤に陥った時、李福(りふく)を見舞いに差し向けたのはよいが、肝心の孔明の後任者を訊ねさせるのを忘れる。孔明の死後、姜維(きょうい)が北伐を続けるが、劉禅は宦官黄皓(こうこう)に籠絡され、忠実なる姜維の足をひっぱるような真似ばかりする。魏の将軍鄧艾(とうがい)が迫っていよいよ危機に陥ると、勇猛な息子劉諶(りゅうじん)の主戦論を退けてあっさり投降する。
 降参した劉禅は魏の首都洛陽に送られる。時の権力者司馬昭(しばしょう)が、ある時彼を宴席に招き、蜀の音楽を奏でた。蜀の遺臣たちはひとり残らず涙を流したが、劉禅はヘラヘラと笑っていた。
「蜀が恋しくはありませんかな?」
と司馬昭に訊ねられ、劉禅は平然と、
「いやいや、こちらの方がずっと楽しい日々でございます」
と答えた……
 どうしようもない暗愚ぶりである。
 彼の幼名の「阿斗」は、後世、無能な2代目の代名詞となったのだった。

 だが、少し待って貰いたい。
 劉禅は帝位にあること40年に及んでいる。これは歴代中華皇帝の中では相当に長い記録である。これを上回る長さの治世期間を持つ皇帝はそう何人もいない。蜀は地方政権に過ぎないとはいえ、これだけの間、一応は在位していられたというだけでも、ただの無能皇帝だったとは言い切れないのではあるまいか。
 しかも、安定した世の中で在位した皇帝ではない。魏・呉という、いつ攻め入ってくるかわからない剣呑な隣国がある中での40年は、相当なものである。
 それに、三国志演義では一種のトリックが使われている。孔明の死後、すぐに姜維があとを引き継いで北伐を始めたような印象を受けるのだが、実際には、蒋琬(しょうえん)、費禕(ひい)という、孔明が推薦したハト派の大臣がそれぞれ10年ずつ政務にあたっており、その間、北伐を唱えるタカ派の姜維は抑えられていたのである。つまり20年間、蜀は無用の戦争を起こさず、平和で安定した政権となっていたのであった。
 2代目にとって、先代に仕えた大番頭というのは、どれほど有能であっても、むしろ有能であればあるほど煙たいものだ。劉禅も何かと教師づらをする孔明が煙たくてならなかっただろう。だが、その孔明が推薦した蒋琬や費禕に、20年の間思いきって政務を任せていたというのは、父譲りの度量の大きさと見てもよいのではないだろうか。

 この平和の日々を、劉禅は楽しんだことであろう。
 そして、蜀の人民たちも、平穏な暮らしを送っていたであろう。
 蜀政権の内部は、決して一枚岩ではない。劉備に最初から付き従った徐州閥、途中から従った荊州閥、そして地生えの豪族たちである益州閥が、何かと反目していた。だが蒋琬と費禕は寛濶な人柄でよくこれらを統御した。20年間、さほどの事件も起こらず、蜀は繁栄した。
 ──これでよいではないか。
 劉禅は、そして蜀の人民たちは、そう思ったに違いない。
 今は亡き諸葛孔明は、やたらと魏を討ちたがったが、無理をして魏を討つ必要があるのか。確かに先帝劉備にはさまざまな思い入れがあったことだろう。だが、自分は別に魏に恨みがあるわけではない。魏が攻めて来るというのなら防ぎもしようが、国力も考えずにこちらから攻め入る意味がどこにある?
 百歩譲って魏を討伐するのが蜀の存在意義だとしても、そのためにはもっと国力をつけなければならないし、それが可能になるのはおそらく百年はあとのことだろう。財政を傾け、人民を損なう北伐など、当面考えない方がよい。
 劉禅はそう思っただろうし、臣下の多くもそう考えるようになっていたに違いないのである。
 これはこれで、帝王として立派な考え方だと私は思う。

 ところが、費禕が酒席で、魏から亡命してきたと称する男に刺されて死んでしまう。
 全く、事故としか言えない事件だった。だがこの「事故」は、深刻な影響を及ぼした。
 タカ派の姜維が、ついに政権のトップに躍り出たのである。
 姜維は今まで抑えられてきた鬱憤を一気に発散するかのように、連年のように北伐を開始した。
 劉禅が姜維の主戦論を不快に思ったことは想像に難くない。特に、上のような愛民主義に目覚めていたとしたら、やたらと戦争をしたがる姜維はけしからぬ男に思えたことだろう。
 宦官の黄皓は、せいぜいそういう皇帝の不快感に乗じて姜維を誹謗した程度だったのではないか。
 果たして、もともと大きくもない蜀の国力は疲弊した。姜維の責任問題が持ち上がっても不思議はない。
 姜維は首都を逃げ出し、漢中で屯田にあたった。かくして、姜維と劉禅の信頼関係はほぼ潰えた。

 蜀の疲弊に乗じて、魏がいよいよ侵攻を始めた。それを防ぐ手段は、もうなかった。
 成都を魏の兵に蹂躙されれば、多くの人民が死ぬ。それならば、忍びがたきを忍び、降参するべきだ。この豊かな土地を、戦争で不毛の荒地にしてしまうのは許されることではない。
 魏軍が成都に迫って、諸葛孔明の息子諸葛瞻(しょかつせん)が力戦して敗死した時、劉禅は決断を下した。

 なお、成都を無傷で占領した魏軍はたちまち内訌を起こした。別々の方面から攻め入った鍾会(しょうかい)と鄧艾とが反目し、鍾会が鄧艾を謀殺する。鍾会は蜀の地が豊かなのを見て、むらむらと野心を起こし、自立を図るが、不満を持った部下の将兵たちに殺されてしまう。三国志演義では姜維が鍾会をはめるために偽って投降し、自立をそそのかしたことになっているが、真偽のほどはわからない。
 成都を無血開城した劉禅は、この愚かしい騒ぎを知って溜飲を下げたかどうか。

 ともかくも、劉禅は蜀の人民をほとんど損なうことなく、その歴史に幕を下ろした。
 ある意味では見事と言えたかもしれない。
 彼は魏に降って、安楽公に封じられた。この名前には、人民の損傷をおそれて自ら帝位を下りた男への敬意が感じられないでもない。
 そのあとで、前述の司馬昭の宴席の話が来るが、これが事実であれば、劉禅はうまく保身を果たしたのだと思われる。
 「こちらの方がずっと楽しい日々でございます」……
そういう、みっともない答えを聞いて、司馬昭は劉禅への警戒を一気に解いたと言われている。
 「なんという愚かな男だ。諸葛孔明がついていても、あれでは補佐しきれなかっただろう。ましてや姜維ごときでは話にならん」
司馬昭は笑ってそう言ったという。劉禅はあとで舌を出したかもしれない。

 劉禅が蜀を失って2年後の265年。魏は司馬昭の息子の司馬炎(しばえん)に簒奪されて亡びる。安楽公劉禅はさらに6年を生きて、271年に64歳で死んだ。当時としては天寿を全うしたと言えよう。彼は自分の国を亡ぼした魏が簒奪されて亡びるのをその眼で見ていたはずである。
 蜀を亡ぼしたのは、魏と言うより事実上は司馬昭であった。司馬昭はこの功績によって、もはや誰も逆らえないほどの強権を手に入れたと考えられる。その上での簒奪ということになると、いわば蜀と魏は相討ちと言ってもよいかもしれない。春秋の筆法をもってすれば、劉禅は蜀を閉じることによって魏を亡ぼしたのだ。7倍もの国力を持つ相手と相討ちしたのなら、劉禅ももって瞑すべきであろう。
 ──父上、私は曹氏を葬りましたよ。
 劉備の位牌に向かって、彼はそんなことを言ったかもしれない。
 ──後世の人は、私を亡国の君主、暗愚な皇帝と呼ぶかもしれません。しかし私は、蜀の人民を守り、曹氏を葬ったのです。そのためにはこの方法しかありませんでした。父上ならわかって下さるでしょう?

 劉禅はやはり、仁徳厚い劉備の子であったと言えるのではないだろうか。私にはそんな気がしてならない。

(1999.6.3.)


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