LAST EMPERORS

第3回 平帝(前漢)・王莽(新)の巻

 の二世皇帝胡亥(こがい)が宦官趙高(ちょうこう)に死に追いやられ、そのあとを継いで秦王となった子嬰(しえい)は劉邦(りゅうほう)の軍に降伏した。ここに戦国七雄最強を誇った秦は滅亡したが、その後継者の座をめぐって、劉邦と(そ)の項羽(こうう)が5年ほどにわたって争い、最終的に劉邦が勝ち残って、帝国を創始した。
 漢民族、漢字、漢文などの語はみんなこの漢帝国に由来する。その漢という名前も、もともと現在の四川省の一部を指す地名の漢中(かんちゅう)からとられたものである。それが以後2千年以上、中国全体を表す言葉として使われるようになるとは、劉邦も項羽も思わなかっただろう。
 漢帝国の成立は紀元前202年。日本では弥生文化が隆盛に向かう時期である。これは私の想像なのだが、戦国末期から漢楚の争い頃の時代に、戦乱を避けて故郷を捨てた大陸の人々が、かなり大挙して日本列島に押し寄せてきたのではないか。弥生文化はそういった人々の手に担われていたような気がする。

 劉邦は漢の高祖として皇帝の位に就いたが、皇帝という存在がどのように偉いのか、あるいは皇帝という存在をどう敬えばよいのか、最初は誰も、劉邦自身でさえよくわからなかったようである。
 劉邦には、始皇帝のように明確な社会ヴィジョンがあったわけではない。
 彼の人物像は今に至るまでなんとも茫洋としてつかみどころがない。特に勇猛であったわけではなく、項羽にはしばしば負けていた。さして人徳があったようにも思われず、しょっちゅう部下を口汚く罵ったり、項羽の人質となった自分の父親を見捨てようとしたりした。ただ、自分よりすぐれた人間の才質に対して、素直な敬意を払える男であったらしい。このことは言うのは簡単だが、なかなかできるものではなく、ことに組織のトップにとって、有能な部下の能力を素直に認めて敬意を示すことは非常に難しい。劉邦はそれができる稀有な資質の持ち主であったようだ。誰もが、
 ──この人なら自分の働きをあるがままに認めてくれるはずだ。
 と信じて、必死になって働いたので、その勢いに乗って天下をとってしまったというのが劉邦こと漢の高祖の秘密であるらしい。
 そんな男であるから、別に卓越した政見があったとも思えない。皇帝になってはみたものの、その日から何かが変わるというものでもなかった。部下の将軍どもは相変わらず宮殿の中で高唱放吟し、酒をかっくらっては喧嘩沙汰を起こし、その騒がしさと言ったらなかった。さすがに高祖となった劉邦も、部下たちの柄の悪さにいやけがさした。

 叔孫通(しゅくそんとう)という儒者が、そんな高祖の様子を見て、
「儀式を作りましょう」
と提案した。高祖は儒者が嫌いで、ひどい時には儒者の烏帽子をむしりとってその中に小便を垂れたという話があるほどだが、当時、文字を自由に読み書きできたのは儒者くらいのものだったので、文書係のような形で側に置かざるを得なかった。叔孫通もそうした儒者のひとりである。
 叔孫通は高祖の儒者嫌いを知っていたから、しばらく余計なことは言わずに黙々と文書係の仕事をこなしていたが、機を見て、皇帝を神聖な存在とするための儀式を調えることを提案したのであった。
 高祖は儀式など嫌いだったが、部下たちの行儀の悪さに辟易していたので、
「おれにできる程度のにしてくれよ」
と釘を差した上で、叔孫通に儀式のプログラミングを任せた。
 叔孫通は仲間の儒者を集めて、慎重なリハーサルを重ね、いよいよその儀式が幕を開けた。
 すると見よ。文武の百官がことごとく皇帝の前にひれ伏し、すべてが皇帝の偉大さを際立たせるように、厳粛で荘重な空間がその場に現出したではないか。
 高祖はほとほと感心し、あとで叔孫通に言った。
「おれは今日、はじめて皇帝というものの尊さを知ったぞ」

 言い換えるならば、皇帝という地位を絢爛と装飾し、神聖にして侵すべからざる絶対者として演出することを始めたのは、この叔孫通であった。
 始皇帝は、そのような演出を伴わなくても、彼個人に強烈なカリスマ性があったため、大仰な儀式など必要とはしなかったが、逆に言えば、そういう演出を用意しておかなかったがゆえに、二世皇帝の代になると、誰も皇帝の威に服さなくなったのだとも考えられる。
 これ以後、皇帝その人が凡庸であれ、儀式の演出によって、その存在を神聖偉大なものに見せるということができるようになった。漢帝国が長続きしたのは、儀式の力が預かって余りあったのではないだろうか。

 もっとも高祖の在位中は、功臣の謀反などが相次ぎ、天下は到底定まったとは言えない状態だった。高祖の晩年から死後にかけて、彼の皇后であった呂后は、女ながら果敢に、謀反を起こしかねない功臣の粛正に努めた。呂后については、ライバルであった高祖の側室の手足を切断し、眼と耳を潰し、便所に放置して「人豚」と呼ばせた、というような、耳を覆いたくなるような残酷物語ばかりが伝えられているが、彼女なりに天下の安定に腐心したのであろう。
 呂后の大粛正で、臣下についてはまず安心ということになったが、次は皇族の叛乱が起こった。呉楚七国の乱(154B.C.)である。
 漢はその初期、秦の郡県制(全国を大きな郡と小さな県に分け、それぞれに知事を派遣して、中央の指示により統治させる)と、戦国以前の封建制(功臣・皇族などに土地を分け与え、自主運営させる)を折衷し、中央に近い土地には郡県制を、辺境には封建制を適用するいわゆる郡国制を採用した。しかし天下が平穏になるにつれ、辺境にも目が届くようになったので、それまで皇族を封じていた国々を取り潰しにかかったのである。その中の呉国の王と楚国の王が中心となって大規模な叛乱を起こしたのが呉楚七国の乱であった。第1回で触れたように、この「王」は格から言えば皇帝の下にあり、ヨーロッパの王(キング)とは違う。公(プリンス)くらいに考えればよい。
 この乱は、民衆の支持を得られなかったためすぐに鎮圧され、天下にはようやく平和が訪れたのである。

 このあとに現れたのが武帝であった。
 武帝の在位は紀元前140年〜紀元前87年、実に53年の長きにわたる。中華皇帝として破天荒な長さで、この記録が塗り替えられたのはなんと1800年後、康煕帝(こうきてい)によってである。
 武帝はよかれ悪しかれ「大皇帝」の名に恥じない男であった。国内での擾乱がなくなったと見るや、彼はすかさず国外への侵略行動を開始したのである。
 ──中華皇帝は、普天の下(ふてんのもと=あまねき空の下)、率土の浜(そつどのひん=海に囲まれたあらゆる土地)に至るまですべてを統べる。
 という建前は、始皇帝以来、というより三皇・五帝以来中国人のよって立つところであったが、現実問題としては、周囲には皇帝に従わない多くの異民族がいるわけで、本気で信じていたわけではない。高祖にしてからが、北方の騎馬民族・匈奴(きょうど)との戦争に負け、かなり屈辱的と言ってよい講和条約を結んでいた。実質としては、中華帝国もまた、数多くある国の中のひとつに過ぎなかったのだが、建前はあくまで、周辺の異民族の領域までは皇帝の直接支配が及ばないため、それぞれの民族の首長に代行支配させているということにしていたのである。
 しかし、武帝は建前を本気で信じていたふしがある。彼は繰り返し匈奴に派兵した。たまたま衛青(えいせい)や霍去病(かくきょへい)といった有能な将軍が輩出したのと、鉄製の武器が普及し始めたのとで、漢軍は大いに匈奴を破り、その本拠を壊滅させるに至った。中国人にとっては溜飲の下がることだったろうが、匈奴にとっては迷惑な話である。
 北辺を平らげた武帝は、西方や南方に向かっても軍事行動を繰り返した。全世界を支配するという建前を、現実のものにしたかったに違いない。

 武帝の前の、文帝景帝の時代は、君臣こぞって倹約に努めていたので、武帝が即位した頃には国庫には穀物が山積みになり、銭がうなっている状態であったが、こういう意欲的な「大皇帝」が半世紀以上も在位していたものだから、その末期にはさしもの漢王朝も財政赤字に転落していた。
 しかも、武帝の治世の後半は、次々とミソをつけている。江充(こうじゅう)なる妖人を寵愛し、それがもとで皇太子との間に争いが生じて、首都長安でおこなわれた市街戦では数万の兵民が死んだという。武帝は皇太子を誅殺させたが、その直後に江充の陰謀であったことが判明して、皇太子は無実とわかり、武帝は大いに後悔した。
 その後なかなか皇太子を決めずにまわりをハラハラさせた。晩年になって生まれた子(昭帝となった)をようやく皇太子としたが、自分の死後皇太子の母親の一族が跋扈するのではないかという被害妄想にかられ、罪もない皇太子の母親を殺してしまった。
 その他、敗軍の将を弁護した太史公司馬遷(しばせん)を罪に落とし、宮刑(男性のシンボルを切りとって宦官に落とす刑罰)に処したというのも失点のひとつである。まあ司馬遷はこの屈辱をバネにして発憤し、「史記」を書き上げたのだから、怪我の功名という面はあったけれど。
 武帝は太宗と並んで中国史上最高の君主であるとされているが、われわれ他国人の眼から見ると、どうも高い点は与えられない。

 その後、昭帝が若くして死んだため、皇位継承のごたごたが続いたが、紀元前73年に宣帝が即位して、ひとまず落ち着いた。この宣帝は武帝に誅殺された最初の皇太子の孫で、謀反人の一族として民間に落とされ、18歳まで市井で育った人物である。民間から出て王朝の正統な継承者となった、中国史上唯一の例であり、最高のシンデレラボーイであった。
 幸運であったばかりでなく、市井で育った彼は下情に通じていたので、民衆の立場に立った施政を次々とおこなった。漢王朝の名君と言えば、武帝よりはこの宣帝を第一に挙げるべきであろう。かの匈奴も、宣帝には心服してついに降ったのである。匈奴内部での勢力争いがあった結果でもあったが、とにかく彼らは武帝には敗れても心服はしなかったことを考えると、宣帝の器の大きさが偲ばれる。

 だが、結果的には、宣帝は掉尾の勇を振るったに過ぎなかった。
 彼の息子の元帝は人間としては情愛豊かな人柄であり、皇太子時代に愛した女が死んだ時には、食事ものどを通らないほどに嘆き悲しんだ。心配した母后が、新しい女をあてがおうとしたが、彼は一向に気乗りしないようだった。しかし親孝行な彼は、母のメンツを潰さぬよう、一応5人の候補の中からひとりを選んでおいた。
 確かに人柄はよいのだが、どうも帝王としてはひ弱に過ぎるようである。
 この時選ばれた女が王政君(おうせいくん)で、実に彼女が、このあと漢が亡びるまでのキーパーソンとなったのである。
 王政君は元帝の即位と共に皇后になったが、元帝に愛されていないのを知っていた。そのため元帝の生前は、ごく控えめに振る舞い、決して出過ぎないように心がけた。が、元帝が死んで我が子の成帝が即位すると、途端に一族の物を要職に就け、権勢を振るい始めた。

 成帝は優柔不断としか言いようのない皇帝で、母の一族の専横を指をくわえて見ていたばかりか、自分の愛した趙飛燕(ちょうひえん)皇后にも頭が上がらなかった。なお趙皇后には子供が産まれなかったので、成帝の死と共に権勢を失い、王一族に拮抗するには至らなかった。
 そのあとを継いだ哀帝(成帝の甥)は王一族の専横に毅然と立ち向かったが、在位5年で謎の死をとげた。どうも毒殺されたらしい。哀帝は同性愛者で、菫賢(とうけん)という美少年を熱愛し、女に興味を示さなかったため、子供もできなかった。
 哀帝の死後、太皇太后となっていた王政君の甥の王莽(おうもう)は、元帝の孫にあたる少年を皇帝に擁立した。これが、今回のラストエンペラー、平帝である。

 平帝にたどりつくまで、前漢の歴史を駆け足で振り返ってみたため、登場が遅くなった。
 だが、今回はやむを得ざるところがある。平帝は紀元前1年に9歳で即位し、紀元4年に13歳で王莽に毒殺されたのである。幼すぎて、個性を発揮するには及ばないし、なんのエピソードも残していない。ただただ、王莽の都合で帝位に就けられ、王莽の傀儡として在位し、王莽の都合で殺されただけの気の毒な少年だったのだ。
 平帝の母である衛氏の一族が力を持つことをおそれた王莽は、平帝を即位させると共に彼らをことごとく追放してしまった。9歳の少年が母親をもぎとられてしまったのだから、事情がわかるにつれ王莽を激しく憎むようになったのは言うまでもない。それと察した王莽が、先手を打ってあっさり殺してしまったのである。

 王莽はすでに、自ら皇帝となることを考えていた。彼はそのためにありとあらゆる手練手管を使った。各地で瑞祥を演出させたり、人気取り政策を実施したりしたのである。その手管の中にはほとんど噴飯物の演出もあったが、彼はよほど演技がうまかったらしく、人々は王莽こそ仁徳にあふれた救世主のような人間だと信じたようだ。自らの公明正大さを示すために、ふたりの息子をも刑殺した。異常な振る舞いと言うべきだが、人々は眩惑された。
 「安漢公(王莽の称号)よ、皇帝たれ」
というような予言書や神託が次々と届けられた。むろん王莽自身の差し金である。
 平帝を殺害したあと、彼は劉嬰(りゅうえい=宣帝の玄孫)という2歳の赤ん坊をひっぱり出してこれを帝位に就け、5年後の紀元9年、この幼児から譲られたと称して、自ら皇帝となり、国号をとした。幼い劉嬰はのちに殺された。劉嬰は皇帝にはなっているので、本当は平帝ではなくこちらがラストエンペラーだが、その死後帝号も貰えなかった。
 茶番劇であって、心ある人々は最初からそっぽを向いていた。ただ、そっぽを向くこと自体が王莽に利したと言えなくもない。王莽のやり口があまりに子供っぽいので、正面きって批判する気にもなれないうちに、ずるずると既成事実が積み重ねられたような観がある。
 見えすいた、臆面もないやり口でも、そのうち阿諛迎合する輩が続々と現れて、取り返しのつかないことになってしまう……そういうことは現代でも起こりそうだ。見えすいていると思っても、批判すべきはきちんと批判しておかないと、厄介なことになりかねないという教訓である。

 王莽はほとんど一兵も動かさずして、前漢の天下を乗っ取ってしまった。この挙にもっとも激怒したのは、彼を引き立てた太皇太后王政君その人であった。伝国の玉璽(玉で作られた印鑑で、正統な皇帝であることの証となる)を要求された時、王太皇太后は怒り狂い、
「そんなに欲しければ、自分で作ればよいではないか。どうせ莽は、なんでも自分ででっち上げるのが得意なのだから」
と叫んだ。彼女は数々の瑞祥が王莽自身の演出であることなどとうに見通していたのである。
 使者に立った同族の男は、気の毒そうに、
「彼は必要とあらばなんでも手に入れるでしょう。おそれながら太皇太后陛下が玉璽をお渡しにならないと聞けば、陛下を亡き者としてでも奪うに違いありませぬ」
と告げた。
 太皇太后は、玉璽を取り出すと、床に叩きつけて立ち去った。この時伝国の玉璽の柄の一部が欠けてしまったようで、のちの三国時代、玉璽を手に入れた孫堅(そんけん)がそれを確認している。

 王莽の新王朝は、しかし15年で潰れてしまう。彼はファーストエンペラーであり、同時にラストエンペラーでもあったわけだ。
 彼が簒奪するにあたっては、上述の通りほとんど軍事力を用いず、もっぱら暗殺と陰謀によってのし上がったので、麾下に強大な軍隊を掌握することができなかったというのがひとつの理由であろう。
 また、宮廷工作と首都での人気取りに終始したため、首都以外の広大な地域においては、彼に心服する者がほとんどいなかったのがもうひとつ。
 さらに、彼の施政は机上の空論に過ぎないものがほとんどで、全く現実をわきまえていなかった。その上思いつきでころころ法令を変えたため、文字通りの朝令暮改になってしまった。
 外交も失敗した。せっかく恭順していた匈奴を降奴などと言い換え、あまつさえその単于(匈奴の首長)に王号を与えていたのを侯に格下げした。野蛮な夷(えびす)が王を名乗るなどおこがましいという建前をそのまま押し通したのだったが、当然ながら匈奴は怒って離反した。遼東に興っていた高句麗(こうくり)も下句麗と言い換えて怒らせた。
 王莽も武帝と同じく、中華皇帝としての建前を実質化させようとしたのだったが、いかんせん武帝とは異なり、それをごり押しに押し通すだけの武力も経済力も、そして現実認識力も持っていなかったのである。
 数年を経ずして王莽の政治は破綻し、あとは誰が王莽を打倒するかの競争となったのだった。

 王莽の打倒には、赤眉軍緑林軍など個性豊かな叛乱軍が立ち上がったが、最終的には、天下は漢の宗族のひとり劉秀(りゅうしゅう)の手に落ちた。劉秀というのは景帝の子孫であったが、彼が生まれた時、景帝没後すでに150年近く経っており、この程度の子孫であれば掃いて捨てるほどいたはずである。
 つまり劉秀は、漢王室を復興したというよりは、新たに王朝を作り出したと言うべきなのだが、慎み深く前の漢王朝を継承する形をとった。国号も漢をそのまま用いたので、王莽に簒奪されるまでを前漢もしくは西漢、劉秀が天下をとってからを後漢もしくは東漢と呼び分けている。西漢、東漢というのは首都の位置による呼称で、劉秀は長安でなく洛陽に都を置いた。前漢の首都長安より東にある。

 前漢ラストエンペラーの平帝、あるいは劉嬰は、佞臣の野望の前に、幼くして犠牲になった。いたましい話だが、中国史にはこのパターンもしばしば現れる。皇帝が絶対者であるがゆえに、皇帝さえ押さえておけば思い通りのことができると考える者がひきもきらなかったのだ。
 一方、新のただひとりの皇帝王莽は、ある意味では始皇帝にも似て、強烈なイデオロギーを持っていたが、それは現実離れした復古イデオロギーであったために、人々に受け容れられなかった。彼は晩年にはイデオロギーに自家中毒を起こしてしまったふしがある。叛乱軍が迫った時、古代の帝王は哭礼(泣いて天の救いを求める)によって難を避けたというので、都じゅうに布令を出し、泣き方のうまい者を募集して、入賞者をことごとく侯に封じたという愚行をやってのけた。ほとんど発狂していたのだろう。
 史上、簒奪者と非難される人にも、時折は弁護者が現れるものだが、王莽を弁護する論は寡聞にして知らない。弁護の余地がないと見える。
 だがそんな男が、どうして15年間とはいえ天下に君臨できたのか。ある意味、人々の無関心に支えられていたのではあるまいか。
 無関心や黙認は、ある場合には罪悪となる。王莽の簒奪よりも、それを許した人々の態度が責められるべきかもしれない。

(1999.5.24.)


前章「胡亥(秦)の巻」を読む 次章「献帝(後漢)の巻」お楽しみに!

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