5.献呈について


 本を読むと、よく扉の見返しなどに、「いつも私を元気づけ励ましてくれた××さんに捧ぐ」などというような「献辞」がついているのを眼にする。こういうのがついていると、なかなか格好いい。捧げられた方は少々気恥ずかしいかもしれないが、しかし嬉しいものであろう。
 音楽の世界でも、献呈ということはよく行われる。演奏家が自分の演奏したCDを誰かに捧げるということもあるが、たいていは作曲家が、自分の作品を捧げることになる。相手の名前を、楽譜に書き込んでおくことが多いので、作曲家の交友関係などがわかって、後世の研究家には大いに役に立つ。
 献呈された相手の名前でその曲が記憶されるということもある。例えばベートーヴェン(1770-1827)で言うと、ピアノソナタ第21番「ヴァルトシュタイン」及び第24番「テレーゼ」はそれぞれ、F.フォン・ヴァルトシュタイン伯爵テレーゼ・ブルンスヴィック伯爵令嬢に捧げられたものであるし、ヴァイオリンソナタ「クロイツェル」も献呈されたヴァイオリニストの名前だ。弦楽四重奏曲第7番〜第9番も、3曲まとめて献呈された伯爵の名をとって「ラズモフスキー」と呼ばれる。いずれも、ベートーヴェンに曲を贈られなければ名前の残らない人々であったろう。
 この「献呈」ということに、私はずっと憧れていた。いつか、自分の書いたものを誰かに献呈したいものだと考えていたのである。
 その機会は、中学生の時に訪れた。その頃、リコーダー二重奏の組曲をふたつばかり書き、その中の曲を学校の音楽の試験で演奏したのだが、一緒に組んだ相棒に組曲を献呈してみた。相棒は一応礼を言ったが、それほど有難そうではなかった。
 それから、私はいろんな人に自分の作ったものを献呈した。しかしどういうわけか、相手はさほど感激してくれないような気がする。いやむしろ、変な風に考えられることが多いようである。
 学生時代にしばらく文通していた大阪の女の子がいる。彼女にはれっきとした恋人がいたし、その相手も私は知っていたから、誤解のしようはないものと思ったのだが、電子オルガンを習い始めたという彼女の誕生祝いに、1曲書いて贈ったら、なぜかそのあと全く手紙が来なくなってしまった。今彼女がどうしているのか、まるでわからない。
 フルート吹きの子に「パルティータ」という曲を、献辞をつけて渡したら、彼女はまじまじと私の顔を見つめ、「……なんと言えばいいか……」と言ったきり向こうへ行ってしまった。その曲は結局吹いてくれなかった。
 一時期恋していた女性がいた。ピアニストだった。彼女にも恋人はいたのだが、私は構わず、彼女の誕生日に、かなり長大なワルツを3曲書いてプレゼントした。その人は、その時非常に喜んでくれたのだが、彼女の親友から、彼女がそれを恋人に見せ
 ――どうしよう。
 と相談したという話を聞き、がっくりした。私は全く横恋慕の道化者ではないか。「Ave Maria」及び「Ave verum corpus」という2曲の合唱曲を書いて、その恋は諦めた。
 それほど熱烈な恋ではなかったが、ちょっといいなと思った女の子がいて、やはりピアニストだったから「間奏曲」というピアノ曲を書いて、これも誕生祝いに贈った。彼女はそれからあまり私の前に顔を出さなくなり、気がついたら20も年上の男と結婚してしまっていた。
 いつも誕生祝いとしてばかり贈っているようだが、ひとつには私はプレゼントのセンスがなく、何か買って贈るということが苦手なためかもしれない。それに、自分で作曲するなら事実上ただである。このケチぶりを見すかされてしまったという可能性もある。
 誕生祝いだけではなく、結婚祝いや卒業祝いに曲を贈ったということもある。皮肉にも、結婚祝いを贈ったカップルは、おおむねうまく行っているようだ。
 私が、この人はと思って献呈した相手は、その後あまり口を利いてくれなくなってしまう。
 下心が見え見えだからだという人がいる。そうかもしれない。曲を贈ったのが縁の切れ目、というケースがなぜか多いのである。だから当然、たいていひとりに1作(その中に何曲か含まれることはあるが)しか贈っていない。少しくらい心を動かしてくれてもいいと思うのだが。
 なんだか私はよほど不純な動機で作曲ばかりしているようだが、なに、史上の作曲家たちだって、そんなに崇高な動機ばかりで書いているわけではない。
 例えば、よくあるピアノ連弾曲。はっきりと教育用というのは別だが、たいていは作曲家が、きれいな女弟子あたりとデュエットするために書いているのである。連弾曲には1箇所か2箇所くらい、第1奏者(高音部)の左手と第2奏者(低音部)の右手が交叉するところがあることが多い。あれは、交叉するときに相手の腕や肩や胸に、軽く、そしてさりげなく、タッチすることができるようになっているのだ。本当ですよ。 
 


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