3.最古のコマーシャル


 テレビをつけていると、ひっきりなしにCMが流れてくる。1日に全国で放映されるCMの数はどのくらいになるのだろう。
 地方へ行って、宿のテレビを見たりすると、その土地ならではのCMがかかっていて面白い。静止画像で、いかにも低予算で作ったなと思われるのがあったりして、つい微笑を誘われる。
 今のCMは大体15秒、30秒という長さで作られているが、昔は5秒間という枠があったらしい。商品名を叫ぶだけで精一杯だったろう。これはこれでインパクトが強いかもしれない。
 資本力のある大企業になると、もちろんテレビCMも手が込んだものになる。美しい音楽が流れ、しゃれた映像が映され、何のCMであるか、すぐにはわからないものも多い。むしろ商品名をいかに押しつけがましくなく、さりげなく伝えるかというところに意を用いているようだ。
 日本のCMは、公平に言ってなかなか質が高いものであると言える。アメリカのCMなどは、商品名を連呼し、他社の製品に較べていかに優れているかを列挙し、まあ一言で言ってかなり押しつけがましい、野暮ったいものである由。それがCMの役割であると言えないことはないが、いわば最短の映像芸術としてのクオリティは、日本の方が高い気がする。これを俳句や短歌の伝統と結びつける人もいるだろう。
 これだけ高品質な宣伝技術をもっている筈の日本が、国際的な宣伝力において、情けないほどみすぼらしいのはどうしたことだろうと思う。国際宣伝力、情報発信力が極端に低いために、顔の見えない大国などと陰口を叩かれる羽目になってしまうのである。いっそのこと日本政府も、電通、博報堂などを駆使して、海外向けの日本のCMを作らせればよいのだ。民間活力というのはそういう風に使うべきものだと思うのだが。
 さて、宣伝のために映像や音楽を使うのは、なにも新しい考えではない。映像の方は新しい技術だけに伝統はないが、その代わり昔は踊りや芝居が使われた。最近あまり見なくなったが、チンドン屋というのはまさにその伝統の生き残りである。さまざまに扮装した人たちが、鉦や太鼓を叩きながら、商品名を連呼して練り歩く。彼らこそ、電通や博報堂の直系の祖先と言えるだろう。
 私の耽読した内田百間の随筆に、明治の薬売りの歌が出てくる。
   
   そのまた薬の効能は、オイチニ
   胆石、溜飲、腹下し、オイチニ、オイチニ
   産前産後や血の道に、オイチニ

 昔のCMソングである。
 では、日本最古のCMソングは何か?
 実は、宗教関係であったようだ。江戸時代、伊勢神宮が参詣客誘致のため、「お先師さん」と呼ばれるコマーシャル要員を全国に派遣して、歌や踊りをはやらせたらしい。戦国時代まではほとんど廃れかけていたお伊勢参りが、江戸時代の庶民の最大の娯楽となったのだから、お先師さんたちの宣伝努力は見事に報われたと言える。ただ、この時の歌がどういうものであったかはわからない。
 現存する最古のCMソングは、かの「金毘羅船々」であったろうと私は考えている。

   金毘羅船々 追い手に帆掛けて
   シュラシュシュシュ
   廻れば 四国は讃州 中野郡 象頭山
   金毘羅大権現 一度廻れば

 必要なことを、無駄なく歌っていて、現代に持ってきてもなかなかすぐれたCMソングと言える。
 四国は、今も昔も、やや地味な土地である。華々しい景勝地や名所旧跡にも、それほど恵まれない。その数少ない観光資源である金毘羅山を、なんとか全国的な名所にしようという、丸亀藩の役人だか金刀毘羅宮の宮司だかの苦衷が伝わってくるようである。丸亀藩は6万石くらいの小さな藩で、観光収入でだいぶ潤ったのではないだろうか。
 電通も博報堂もなかった当時、この歌をはやらせて参詣客を誘致しようとした彼らの努力は、血のにじむようなものであったにちがいない。彼らこそ、コマーシャル大国ニッポンの生みの親なのである。
 


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