26.楽語という言葉


 まずは前回出しておいたクイズの答えを書いておきます。
 こういうメロディーをモティーフとした曲を宍戸睦郎(ししど・むつお)先生に捧げた学生がいたが、その心は? というものだった。
 音名を書けば、「シーシド、シーシド、シラソミ、シラソミ」で、前半は一目瞭然であろう。
 問題は後半で、この「シラソミ」をドイツ語音名で書くと「HAGE」となる。綴りがそうなるばかりでなく、この文字はドイツ語式に読むと「ハー・アー・ゲー・エー」と発音する。
 「シーシド、シーシド、ハアゲエ、ハアゲエ」……おつむの薄くなりかかった先生に捧げるのにふさわしいモティーフであった。

 さて、今回も音楽の中の言葉について。
 今度は少しまじめな話である。楽語について書きたいと思う。
 楽語というのは、楽譜の中に書かれる一種の術語で、いろんなタイプのものがある。
 曲の冒頭に、太字で印刷されているAllegroとかModeratoとかいう言葉。あるいは、そこかしこにイタリックで書き込まれているdolceとかcresc.とか。fpなども、省略されているが楽語である。
 冒頭に付けられているのはたいてい速度(テンポ)を表す標語である。テンポと同時に、曲全体の雰囲気(曲想)を指定することも多い。
 曲中にイタリックで書かれているのは、強弱記号発想標語、それに演奏記号である。このうち発想標語は、冒頭に速度と一緒に示されているものと同種だ。cantabile(歌うように)、brillante(輝いて)、agitato(煽って)などいろいろある。演奏記号の方は、楽器によって特有のものが多く、例えばピアノのペダル記号m.g.(左手で弾く)、弦楽器のpizz.(ピチカート──弦を指ではじく)やsul ponticello(弓を駒の上で動かす)などが挙げられる。

 一般的傾向として、時代が下がって現在に近づくほど、この種の書き込みが多くなるようだ。
 バロック時代の曲には、ほとんど楽語が書き込まれていない。ごく控えめに、冒頭の速度標語だけ付けられていることもあるが、なんにも書かれていないのが普通だ。この頃の曲というのは、自作自演が原則だったので、楽譜そのものが作曲者=演奏者の心覚えに過ぎず、とりあえず音符だけ書いてあれば充分だったのだろう。弟子に演奏させるような場合でも、どういう風に演奏すべきかは口で伝えれば済むことである。
 古典派の作曲家もそんなに細かく書きはしなかった。ベートーヴェンなどずいぶん指定した方だが、それでも第20番のピアノソナタなど、第2楽章に2回ppの指定がされているだけで、あとは速度標語しか書いてない。
 楽譜が出版されて広く配布され、作曲者の眼の届かないところで演奏される機会が増えてきてから、だんだん書き込みが多くなってきたと思われる。

 言うまでもなく、これらの楽語は基本的にイタリア語である。イタリアが西洋音楽の中心であった時代が長かったから、これは当然であった。医学用語が基本的にドイツ語であったり、料理用語がフランス語であったりするのと同様だろう。
 そのため、私なども
「音楽をやってらっしゃるんだからイタリア語はペラペラなんでしょうね」
と言われることがある。はっきり言っておくがこれは誤解である。術語としての単語を知っているだけで、会話などできはしない。もっとも、日本に来たイタリア人と、ほとんど楽語だけで話したことはあるけれど。当然ながら、医者もドイツ語がしゃべれるとは限らないし、料理人もフランス語なんかちんぷんかんぷんの人が少なくないはずだ。
 それはさておき、ともかく楽譜に書かれる言葉はほとんどがイタリア語であり、しかもほぼ固定化した意味が付加されている。
 民族意識からか、あるいはイタリア語の固定化した意味合いの言葉では不充分と思うのか、自国語で楽語を書く作曲家もいる。ベートーヴェンがある時期ドイツ語を使っていたのは民族意識からだったろう。シューベルトシューマンもよくドイツ語を使っている。
 20世紀になるとフランス人がフランス語で書くようになった。フランス語とイタリア語は同じラテン系だから近いはずなのだが、ドビュッシーの楽譜を見るとCedezなんて書いてあり、それがritardando(だんだん遅く)と同じ意味だというのだから面食らう。
 まあ、自国語で書いた方がニュアンスははっきりするだろうから、それはそれで仕方ないことかもしれない。私も日本語で発想標語を書いたことがある。
 ただ笑止千万なのは、日本人のくせにフランス語で書き込んだりする手合いが時々いることで、こんなのはただのスノビズムというものであろう。イタリア語か母国語で書き込むのが筋というものではあるまいか。

 主な楽語については、文部省で規定した訳語というのがある。音楽の教科書に載っているのがそれだ。
 速度標語を例にとって見てみよう。一応文部省規定によれば、これが遅い方から速い方へ並べたことになるらしい。なかなか笑える訳語もある。

  Largo(ラルゴ)……幅広くゆっくりと
  Lento(レント)……遅く
  Adagio(アダージオ)……ゆるやかに
  Andante(アンダンテ)……歩く速さで
  Moderato(モデラート)……中くらいの速さで
  Allegretto(アレグレット)……やや快速に
  Allegro(アレグロ)……快速に
  Allegro assai(アレグロ・アッサイ)……非常に快速に
  Vivace(ヴィヴァーチェ)……活発に速く
  Presto(プレスト)……急速に
  Prestissimo(プレスティッシモ)……非常に急速に

 Andanteなど、昔は「なみあし調で」なんて訳されていたこともあった。なんなんでしょうね。
 それぞれの言葉の意味合いを、なんとか汲もうとしているのはわかるが、一体「幅広くゆっくり」と「遅く」と「ゆるやか」はどう違うのか、「快速」と「急速」はどう違うのか、首を傾げたくなる点も多い。
 例えば、こんな実例を挙げてみよう。
 ベートーヴェンのソナタの中から、同じ4/4拍子の曲を選んでみた。ピアノソナタ第11番の第一楽章と、同第14番(「月光」)の終楽章である。前者にはAllegro con brioという速度標語が与えられている。後者はPresto agitatoである。con brioは「活気をもって」、agitatoは「煽って、せきこんで」という意味だから、さしあたって速度そのものには関係ない。要するに前者はアレグロ、後者はプレストという指定がされているのだ。
 ところが、実はこの2曲のMIDI、ほぼ同じ一拍160というテンポで作ってある。MIDIで作った場合完全にインテンポにすると寸足らずに聞こえる場合が多いので、途中で多少動かしてはあるが、基本は160にしてある。実際にピアノで演奏するときでも大体こんなテンポで弾くことになるはずだ。
 どちらも4/4で、4分音符160という同じテンポを持っているのに、一方はアレグロ、一方はプレストだということになる。
 つまるところ、速度標語と言っても、別に絶対的な速度を示しているわけではないということがわかる。アレグロにしろプレストにしろ、「速く」という意味合いがあるにせよ、どちらが速いという問題なのではなく、むしろ曲想の差によって使い分けられている場合が多いようだ。
 しかしこうなると、もとのイタリア語の意味を参照しないと、正確な使い分けをすることは難しくなる。

 楽語としてイタリア語が使われているとは言っても、その言葉がもともと「楽語として作られた」わけではなく、元来イタリアの普通の単語であるに過ぎない。
 例えばこのアレグロとプレストの差は、普通の単語としてのこれらの言葉の意味を探ってみれば、おのずから明らかになる。
 タクシーに乗って、渋滞に巻き込まれた。早く空港に行かないと飛行機に乗り遅れる。
 そういう時、いらいらしたお客が運転手に叫ぶ。
「プレスト!」
 Prestoの普通の単語としての意味は「急いで」なのだ。だから「急速に」という訳語を宛てたのだろう。
 アレグロの方は、辞書を見てもなんだかよくわからなかったので、イタリア在住の知人に訊ねてみた。「陽気に」というような意味だと教えてくれた。「快速に」の「快」の部分にその意味合いが込められていたのだった。こちらはもはや速度標語としての意味の方がポピュラーになってしまったふしがあり、明らかに陰気な曲にでもAllegroと指定されていることが少なくない。
 とはいえ、PrestoとあればAllegroとある曲に較べて、より「せき込んで、追い立てられる感じで」演奏すべきであるということはわかると思う。

 遅い方の3つの言葉にしても、原義を考えれば、テンポと言うよりは曲想の差であることがわかる。
 Largoというのは要するに英語のlargeである。このように書けば一目瞭然ですね。「大きな」ということ。ただしイタリア語のニュアンスとしては、むしろ英語のbroad「広い」に近いかもしれない。滔々と流れる大河のような悠然とした雰囲気がLargoなのである。この雰囲気を残しつつ、テンポ的にはそんなに極端に遅くしたくない場合はLarghettoという言葉を使う。
 このように最後に-ettoとか-inoとかの接尾辞がついた楽語も少なくない。これらは指小辞といい一般に「同じ意味合いを持ちつつスケールダウンする」ような働きがある。人名につけたりすると「○○ちゃん」というようなニュアンスになる。Giulia(ジュリア)という名前に指小辞をつけるとGiulietta(ジュリエッタ)となるわけだ。ソナタSonataに対するソナチネSonatine(イタリア語で正確に言うとソナティーナSonatina。ソナチネという発音をするのは日本だけで、これはドイツ語のゾナティーネを単純にローマ字読みしたのである)などもこの例だ。同様に、AllegrettoAllegroの「陽気」な部分を継承しながらAllegroほど速くないのである。
 Lentoは原義も「遅く」である。だからいちばん単純に、余計なニュアンスをつけない「遅さ」であることがわかる。これに対してAdagioは、「くつろいで」というニュアンスが加わる。adagiareという動詞は「居心地よく座につかせる、そっとその場に置く」というような意味だ。緊張感のあるAdagioというのは成立しないわけである。

 ふたつの速度標語が併記されることもある。しばしば使われるのはModeratoだ。Allegro moderatoとかLento moderatoという具合に。Allegro moderatoを「アレグロとモデラートの間の速さで」と説明する先生が時々いるが、それならAllegrettoとどう違うのかわからないことになる。実はこの説明は誤りで、「速度はAllegro、曲想はModerato」と考えるのが正しい。Moderatoは速度に使えば「中くらいの速さ」でよいが、もともと「中庸な、穏やかな」というような意味合いであるから、Allegroであってもそんなに活発な雰囲気でなく穏やかさを出したい時にこう使うわけだ。この場合のModeratoは、速度的な意味を捨象されていると言ってよい。
 Allegro vivaceというのもよく見る。これも「ヴィヴァーチェはアレグロより速いことになっているから、アレグロよりも速いけどヴィヴァーチェほどではないという意味かな」と考えてしまってはいけない。Vivaceの本来の意味は「熱烈に、鮮烈に、強烈に」であり、Allegroというテンポにこれらのニュアンスを加えたものだと考えるべきである。Vivoという同系語もよく使われる。語形を若干変えて「Viva!」と叫ぶと「万歳!」という意味合いになるのだから、大体雰囲気もわかろうというものだ。

 速度標語の話だけでだいぶ長くなってしまったが、このように、同じような意味合いに思える言葉でも、微妙なニュアンスの差があるわけで、そのあたりを探ってゆくと面白い。
 交響曲などのCDの解説を見ると、楽章ごとに速度標語だけは記されていることが多いから、それを参考にしつつ聴いてみると、指揮者によって標語の解釈が微妙に異なることがわかったりして興味深いかもしれない。

 イタリックで書かれた発想標語の方は、速度標語と違って、部分的にニュアンスを表出したい時に使われる。楽譜を注意深く見てゆくと、作曲家によって好みの表現がいろいろあることがわかって面白い。私は「星がきらきらと輝くように」というニュアンスのluccicandoという表現が好きでよく使うのだが、他の作曲家の譜面では滅多に見たことがない。必要もないとばっちりはよした方がよいかもしれないが、小林秀雄センセイなんかは、イタリア語の辞書と首っ引きで書いているのではあるまいかと思うほど、こまごまと見馴れぬ単語を多用しておられる。
 dolceのようによく使われるものは、やはり文部省規定の訳語というのがあって、これは確か「やさしく」だったと思う。しかし、イタリア語でドルチェといえば、「甘味」に他ならない。ケーキとかジェラート、クッキー、チョコレートといったお菓子類がdolceなのであって、「甘ったるく」という訳の方が原義に近いだろう。

 音楽というのは、聴覚に訴える表現である。それを楽譜という、視覚的な表現に移し替えているわけなので、どうしても多少の無理が生じる。その無理を埋めるべく、作曲家はさまざまな楽語を用いて自分の意図を伝えようとするのだが、そこにはおのずから限界がある。楽譜を見てそれを実際の音に復元する立場である演奏者が、書かれた楽語を、作曲家の意図したニュアンス通りに理解してくれるかどうかは、甚だ心許ない。
 そういう意味では、作曲家は常に、自作自演の場合を除いては、ある程度の表現の「揺れ」を覚悟しなくてはならないであろう。むしろその「揺れ」を積極的に捉え、「揺れ」をあてにして作るというのもひとつの立場として考えられると思う。ジョン・ケージなどは、「揺れ」を曲想だけでなく音程や音の長さ、さらには使用楽器などにまで拡張していたのだと考えると理解しやすい。例えばニューヨーク内の地名を百数十個並べてタイプしただけの「楽譜」なんてのがあるが、この「楽譜」を演奏者がどう解釈するか、その「揺れ」の大きさをケージはニヤニヤしながら窺っていたのではなかろうか。
 一方演奏者としては、作曲者の意図を、できうる限り楽語などを手がかりにして探ってゆかなくてはならない。それを怠る演奏者は演奏者としての資格がないと言うべきだが、残念なことに往々にして、作曲者が頭をしぼって書き込んだ楽語にすこぶる無神経な演奏者にもしばしばお目にかかる。
 あるピアノ学習者向けの雑誌で、すでに一線で活躍しているピアニスト(誰とは言わないが)が、
 「楽譜をできる限り綿密に研究することの大切さを、私は最近になってはじめて悟った」
というような記事を書いているのを読み、がっかりしたことがある。
 芝居の台本で言えば、ト書きにあたるのが楽語である。ト書きを詳細に読まないで舞台に上がる役者がどこにいるだろうか。楽語は決して「参考程度」に済ませてよいシロモノではないのである。その辺を理解していない演奏家には、演奏家を名乗って貰いたくない。

(2001.5.16.)


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