22.白鳥の歌(その2)


 ヴェーバーシューベルトはいずれもドイツロマン主義の鼻祖と言われるが、ヴェーバーがベートーヴェンより16歳年下、シューベルトが同じく27歳年下と、ほぼ半世代〜一世代あとに生まれているにもかかわらず、ふたりともベートーヴェンと相前後して世を去っているというところが悲劇的と言える。ヴェーバーはベートーヴェンの死去の一年前の1826年に39歳で、シューベルトは一年後の1828年に31歳で死んでしまい、「ベートーヴェン以後」の音楽に触れることができなかったのだ。
 両者とも、現在の感覚で言えば夭折というに近い。にもかかわらず、不朽の業績を残しており、それはそれで実に充実した生涯だったのではないかと思わせるものがあるのは見事と言うほかない。彼らが長生きしていたら……と想像しても、あんまりイメージが湧かないのである。もしかしたらシューベルトは、あと10年生きていれば、ベートーヴェンと自分の資質がまったく異なっているということに気づき、ベートーヴェンに追随したようなソナタや交響曲を書くのをやめたかもしれないが、それではその代わりにどんな作品を産み出したかといえば想像もつかない。

 さて、ヴェーバーの最後の作品はオペラ「オベロン」である。
 33歳の時に「魔弾の射手」で一躍ドイツの国民的作曲家となったヴェーバーであるが、著作権が確立されていない当時のこととて、経済的な実入りは少なかったらしい。また、彼自身の経済観念も乏しく、かつてルートヴィヒ公の秘書役をしていた時にはその無能ぶりをさらけ出している。
 いつも貧乏で窮していたヴェーバーにとっては、英国のコヴェント・ガーデンから委嘱された「オベロン」は、何よりもそのギャラの大きさで魅力的だったらしい。
 英国の劇場からの委嘱であるから、当然ながらオペラの台本は英語である。「魔弾の射手」で、ドイツ語のオペラという様式を確立して、人々のナショナリズムを鼓舞したヴェーバーとしては意外な行動であるが、彼はこの「外国語」のオペラの作曲に没頭し、さらに初演を指揮するために、持病の肺結核が悪化する危険もものともせず、いそいそとロンドンへ旅立ったのであった。たぶん、ヴェーバー自身の意識としては、「ドイツ音楽における歴史的使命」なんてことはこれっぽっちも考えておらず、ただただ自分の食い扶持をどうしようかという一心だったのではないだろうか。
 しかし、寒冷で湿っぽいロンドンの気候は、やはりヴェーバーの病気を悪化させた。「オベロン」の初演から2ヶ月も経たないうちに、彼は英国の友人の家で客死したのである。
 「オベロン」は現在、序曲以外が演奏されることは稀であるが、その色彩的な音楽描写は「魔弾の射手」よりもさらに徹底していると言ってよい。これはこれでヴェーバーの完成形態と呼ぶべきだろうが、あるいは彼としては、これが最後の作品だという意識はなかったかもしれない。
 というのは、彼は「オベロン」の前のオペラ「オイリアンテ」で、地のセリフに近いレシタティーヴォを使わずすべてのテキストを作曲している。これはのちのヴァーグナー「無限旋律」の考え方に通じる。また、オペラのアリアは、それ自身の独立性を保ちつつも全体の中での構成要素という意味合いを持たせるべきだとも語っている。同じくヴァーグナーの「ライトモティーフ」に通じる考え方だ。
 こういう先駆者的なオペラ思想を、ヴェーバーは残念ながら「オイリアンテ」以外に実作で示すことができなかった。「オイリアンテ」は台本がお粗末で滅多に演奏されず、せっかくのヴェーバーの創意が人々に伝わったとは言い難い。彼はロンドンから帰ったら、自分の考えを実証するような新しいオペラにとりかかるつもりだったかもしれない。そしてそれが完成していれば、あるいはヴァーグナーの出番はなかったかもしれないが、そこまで想像するのは行き過ぎというものだろう。

 シューベルトの絶筆は前回書いた通り歌曲「鳩の便り」である。その前の「影法師」が非常に暗い歌で、まさにシューベルトが間近に迫った自分の死期を予感していたのではないかと思わせるような陰鬱な響きを持っているのに対し、「鳩の便り」は一転してすこぶる明るく、素朴な印象さえある快活な歌だ。
 ただ、これが絶筆だと知った耳で聴くと、なんだか「吹っ切れた」というか、「もはや現世を超越した透徹した明るさ」であるかのように聞こえるから奇妙なものである。「行っちゃってる」と言うべきか。
 本当にシューベルトが自分の死期を悟っていたかどうかはわからない。彼は安い娼婦と寝て梅毒をうつされたのだったが、夕食中に
「この魚は変な味がする」
と言って席を立ち、自室に戻ったところ、その晩のうちに死んでしまったと言われる。それを予知していたかどうかは微妙なところだ。
 ただ言えることは、「鳩の便り」を「影法師」のあとに添えて『白鳥の歌』と題して出版したハスリンガーの編集センスは抜群だったということである。「鳩の便り」が加わることによって、この歌曲集は実に深い感動の余韻を残して終わることになったのだ。「影法師」で終わっていたら、あまりに救いがなくて、どんよりした気分で演奏会場をあとにしなければならなかったろう。

 メンデルスゾーン卒中の発作で死んだので、あるいは自分としては意外なことだったかもしれない。死ぬ前年の1846年、37歳という若さでピアニストとしての活動中止を宣言しているから、多少の予感はあったのかもしれないが、表向きは指揮と作曲に専念したいからという理由であった。
 彼が必ずしも死期を予想していなかったらしいというのは、未完の作品がずいぶん遺されていることから推測される。完成された最後の作品は歌曲「古いドイツの春の歌」と見られるが、オペラ「ローレライ」、オラトリオ「キリスト」交響曲ふたつ(変ロ長調・ハ長調)、ピアノ協奏曲(ホ短調)などずいぶん多くの大規模な作品が未完成または断片状態で遺されているのである。
 メンデルスゾーンは他の作曲家に較べると、異常なほどに早熟だった。ゲーテが子供の頃のメンデルスゾーンを見て
「この子の才能はモーツァルトを超えている」
と感嘆したのはよく知られているが、10歳そこそこでほぼ自分のスタイルを確立してしまい、その後そんなに変化することがなかった。初期の作品も晩年の作品も、それほど差があるようには聞こえないのが珍しいところである。
 だからというのもなんだが、死の迫った時期の作品といっても、ことさらにそれを予感させるようなものは感じられない。38歳のメンデルスゾーンにとって、死ぬのは予想外のことでもあり、残念なことでもあったろうと想像される。多くの未完作品を遺してゆくのは心残りでもあったろう。

 ショパンの最後の作品はヘ短調のマズルカ(作品68の4)だった。彼は子供の時からこのポーランド土着の舞曲を好み、生涯にわたって書き続けている。同一種類の作品としてはもっとも数が多く、全54曲を数える。ワルツ19曲、ノクターン21曲、前奏曲28曲に較べてもいかにも多い。興が乗るたびにすらすらと一気呵成に書き上げていたのではないだろうか。遺された作品を見ても、いかにも即興的な感情の高まりをそのまま託したという印象の曲がほとんどである。
 それだけにまた、ショパンのより実験的な作品はマズルカに多く見出される。当時としては大胆な空虚五度の響き、各種の旋法の活用、エンドレスな曲、不協和音曖昧な調性など、斬新な手法が次々と編み出されているのだ。より大きな、構成力を必要とする曲では、さすがにそこまで大胆になれなかったものと見受けられる。
 こうしたさまざまな感情や実験を託したマズルカで生涯を閉じられたというのは、ショパンにとっては望むところであったかもしれない。
 さて最後の作品68の4だが、これに先立つ68の3(ヘ長調)はコラールのような重厚な響きと輝かしさを持つ、宗教的と言ってよいような作品である。それを受けてこの4番は、一転して内省的な、不安定な曲想を持っている。和音は限りなく半音進行しながら転変し、時にぎょっとするほど遠くの調性へと転調し、ほとんど落ち着くことなく悶え続けているような印象だ。
 全体としても2ページ足らずの小品だが、最後の小節には
 ──D.C.dal segno senza fine
 と書かれている。「最初の印の所へ戻り、終わることなく繰り返し続ける」という意味である。つまり、この曲はエンドレスなのである。
 生涯最後の作品をエンドレスにしたショパン。もっと生きたいという気持ちと、持病の結核が絶望的な病状となって到底生きられはすまいという諦念がないまぜになった絶筆であるように感じられる。
 しかも、高らかな祈りと呼ぶべき3番に引き続いてのこの最終作品である。
 「懺悔も済ませた、お祈りも済ませた、もう何も思い残すことはない
と虚勢を張りながら、ふと、
 ──そんなきれいごとじゃねえんだよ。
 と密かにひとりごちるショパンの姿が髣髴とするではないか。
 ショパンという作曲家は、天才であるとか脱俗的であるとかいろいろ言われつつ、その作品に時おりかいま見せる人間くささが非常に親しみを感じさせるあたりが、いつまでも人気の衰えない理由があるに違いない。

 シューマンは晩年精神を病み、生涯の最後の2年を精神病院で過ごしている。妻のクララがはじめて病院で彼に面会したのは死の2日前だったそうで、それまで一体どうしていたのだろう。なんだか巷間伝えられる愛妻伝説にふさわしくないような話ではないか。
 そういうこともあって、彼の晩年の作品はいささか混乱している。1853年のヴァイオリン協奏曲あたりから、やや支離滅裂な観が見られ始めているが、これと「ファウスト」序曲あたりがほとんど最後の作品と言ってもよい。このあと書かれたヴァイオリンとピアノのための「F.A.E.ソナタ」ブラームスディートリヒとの合作で、いわば遊びのようなものだったし、本当の絶筆となった未完の変奏曲には、悲痛と言うべきてんまつがある。
 ある晩、シューマンは急に幻聴を感じ、それを急いで五線譜に書きとめた。彼はその旋律が、天使からもたらされた霊感によるものだと信じ、翌日からそれをテーマにした変奏曲を書き始めたのである。
 だが、実はそれは、彼がすでにヴァイオリン協奏曲の第二楽章で用いていた旋律に過ぎず、さらに言えば5年も前の『少年のための歌のアルバム』の中で、ほぼ同じ旋律が使われていたのだった。つまりシューマンは、何かの拍子に自作の旋律を思い出したが、それが自分の旧作であるということに気づかなかったのである。相当神経が衰弱していたことが窺われ、滑稽と言うよりむしろ暗澹とさせられるようなエピソードだ。
 この変奏曲は、ついに完成させられることがなかった。未完のまま、できたところまでを清書したシューマンは、その原稿を机に乗せたまま家を出て、ライン川に身を投げたのである。もしかするとその時点で、旋律が天使から与えられたのでもなんでもなく、自分の旧作に過ぎなかったことに気づいて、自分の耄碌ぶりに慄然として発作的に自殺を図ったのかもしれない。漁師に救われたシューマンはそのまま精神病院に入り、二度と出てくることはなかった。
 しかしこの主題は、のちにブラームスが引き継いで、ピアノ連弾のための「シューマンの主題による変奏曲」作品23を完成させている。あまり演奏されることもないが。

 リストになるとややわかりづらい。彼の晩年の活動は、季節によってその内容が分かれていた。すなわち、1月から3月まではブダペストで後進の指導にあたり、4月から6月、それに12月はヴァイマールで同じく教授活動、作曲活動はローマで7月から9月までの夏季に集中しておこなっていたのである。
 いま彼の作品リストを見てみると、彼が75歳を迎えた1886年の作曲シーズンに書かれた曲がひとつだけ見つかった。ピアノ曲「2つのチャルダシュ」第2番である。おそらくこれが最後の作品であろう。チャルダシュというのは彼の有名な「ハンガリアン・ラプソディ」シリーズのもとになったハンガリー・ジプシーの舞曲である。ハンガリーの土着の民族音楽というわけではなかったが、生涯「ハンガリー人」であるという意識を持ち続けたリストとしては、最後にチャルダシュを手がけたのも奇しき縁と言うべきであったろうか。なおたびたび触れてきたが、リストにはハンガリー土着民たるマジャール民族の血は入っておらず、血統的には純粋なドイツ人である。
 それともうひとつ、未完の「第4メフィスト・ワルツ」が遺稿の中に遺されている。これは前年の1885年に、いちど「調性を持たないバガテル」として完成されているが、発展させてメフィスト・ワルツのシリーズに加えるつもりだったのだろう。86年のシーズンにも多少筆を加えたかもしれず、上記のチャルダシュと並んで絶筆と考えてよさそうである。「僧衣のメフィストフェレス」などと綽名されたリストとしては、これもまた最後の作品にふさわしいものだったかもしれない。「調性を持たない」と言っても、20世紀的な意味での「無調」ではなかったが、とにかくも無調性ということを指向した作品であり、現代につながる点がある。
 リストは自分の死期を悟っていたようだ。盟友で娘婿のヴァーグナーや、かつて愛したマリ・ダグー伯爵夫人などの訃報を相次いで受け取り、自分もそろそろ召される頃だという気がしていたのだろう。86年には告別旅行というべき旅をしている。まずローマで愛人カロリーネに別れを告げ、そのあとロンドンやパリへ赴いて旧知の人々と会ったり自分の生誕75周年記念演奏会に出席したりした。この年に上記のチャルダシュしか完成されていないのは、旅行中だったという事情もあるだろう。
 一旦バイロイトにいる娘コジマ(ヴァーグナー未亡人)の所へ帰り、それからまたルクセンブルグへ赴いたが、その帰途にひいた風邪をこじらせて、87年の夏に亡くなったのであった。老人性肺炎であったろうから、この時代としてはやむを得ないものがある。

 そのヴァーグナーの方はいかがかと言うと、彼はリストより2歳年下だったが、リストの4年前に70歳で死んだ。最後の作品は1882年の楽劇「パルジファル」とされる。畢生の大作「ニーベルングの指輪」完成から8年の沈黙(小品はいくつか書いているが)を経て書かれたこのオペラは、内容的にも技法的にも、より円熟度を増している……と言うより、ベートーヴェンの最晩年作品群同様に、何か突き抜けて彼岸の世界に行ってしまっているような印象を受ける。
 「指輪」などは、ゲルマン神話に取材した物語であって、言ってみれば反キリスト教のようなスタンスがなきにしもあらずであるが、「パルジファル」は「聖なる愚者」である主人公を通しての人々の救済という、素朴とも言うべきキリスト教的宗教観念に立ち戻っているのである。けれん味がなくなっていると言ってもよいかもしれない。
 ヴァーグナーの「白鳥の歌」として、妙に納得できる作品なのである。

 ヴァーグナーと同い年だったイタリアのヴェルディは、87歳という長寿を保ち、かろうじて20世紀を見ることができた。
 オペラ作家としての最後の作品は1893年の「ファルスタッフ」で、死の8年も前であるが、オペラの作曲という途方もなく体力の要る仕事は、80を越えた老人には酷なものがあるから、まあやむを得まい。
 彼は生涯に26曲のオペラを書いたが、16番目の「リゴレット」以前と以後とでは歴然と後世の評価が異なっている。15番目「スティッフェリオ」までのオペラはこんにちほとんど演奏されることもないのに、「リゴレット」以後の作品はほとんどがオペラのヒットナンバーとして盛んに上演されているのである(17番「イル・トロヴァトーレ」18番「椿姫」20番「シモン・ボッカネグラ」21番「仮面舞踏会」22番「運命の力」23番「ドン・カルロ」24番「アイーダ」25番「オテッロ」そして「ファルスタッフ」……ああ疲れた)。これは思うに、やはりヴァーグナーの影響を受けて、手の込んだ曲作りを始めたからではないだろうか。手の込んだ曲作りはやはり体力的にきついのである。
 もっとも、ヴェルディはオペラこそ書かなくなったが、その後も作曲を続けてはいる。1894年には、シチリア・カラブリア地方の大震災の被災者を悼む歌曲「主よ憐れみたまえ」を書き、さらに96年から98年にかけて、ぽつぽつと書いた合唱曲を、1889年の「謎の音階によるアヴェ・マリア」と共に『聖歌4編』として発表した。『聖歌4編』は中世音楽やポリフォニー音楽に対する深い理解が示されている。晩年に至ってポリフォニー音楽に回帰したモーツァルトやベートーヴェンの伝を思わせる。
 この第4曲、女声四部合唱のための「処女マリアへのラウダ」がヴェルディの最後の作品である。天上的な美しさであるとしか言いようがない。

(2000.7.27..)


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